私の履歴書 第十回 家族、登用試験、邱永漢先生との出会い

結婚後は江戸川区小岩にあった社宅の入寮申請が通り、そこに移り住むことになった。
18歳で親元を離れてから都内のアパートを転々とした一人暮らしが長かったので二人での新生活にとても幸福感を感じた。
家に帰れば話し相手がいるし食事も作ってくれる。

当分この生活を満喫したいと思っていたが昭和53年(1978)7月に長男を授かった。

と同時に生活は一変。
この年は何年ぶりかの猛暑だったが社宅にはあいにくクーラーがなく夕方になるとこらえきれずに生まれたばかりの赤ん坊を外でずっと抱えていたと家に帰った私に彼女はこぼしていた。
当時の社宅には風呂もなかったので私も時おり慣れない手つきで近くの銭湯に連れていった。

命名の本を買っていろいろ考えたが迷った末にその著者に手紙を書いたところいくつかの候補を書いた丁寧な返事をいただいた。
その中にあった「心哉」という名前が話し方教室で学んだ“心”と私の中で結びつきそれを選ばせてもらった。

この年私には第二精工舎(現セイコーインスツル)の主任登用試験の挑戦があった。

第二精工舎には二段階の登用試験制度がある。

一つ目は高卒入社後5年で受けられる係補試験(大卒入社はこの試験を免除)
これを通過すると7年後に上級幹部職への登竜門である「主任試験」を受ける資格ができる。

将来会社の幹部に行くためには必須の門だがかなり狭き門であった。
大卒であってもこの主任試験を通るのは簡単ではなかった。
(ちなみに弁護士や公認会計士の資格を持っている人は免除されていた)

私は昭和45年(1970)23歳の時に係補試験を一回でパスしていたので1977に主任試験の資格ができ受験したが通らずこの年(1978)は二度目の挑戦だった。

試験内容は一次試験が一般常識(社内常識含む)、専門知識それに論文と実務評価点が加わる。
それぞれ60点以上が条件でその一つでもクリアできないと失格となる。
二次試験は専門論文で70点以上取らなければならない。

会社にいる以上ここは重要な局面となる。
当然ながらこの先もらえる給与も大きく変わってくるのでこの時ばかりは真剣に勉強した。
普段はボーっとしているがここぞというときは集中力を発揮するタイプだ。

寒い時期となり暖房のない部屋で生後間もない長男を膝にあんか代わりに勉強したこともある。

専門知識と論文は事前の準備で何とかなる自信はあったが一般常識は何が出るか予測がつかず的の絞り込みが難しかった。
前年の経験から合否の境目はこの常識だった。

大学入試よろしく国語から社会、政治経済まで幅広くやり直した。
新聞を読む習慣はこのころからできた。

論文は自分の専門領域を中心に自分がどう会社に貢献していくべきかを主眼に書いたものを上司の野沢課長や一足先に主任試験を通っていた鎌田さん(後に社長)に見てもらい
ダメ出しをもらいながら何度も書き直しを繰り返した。

この年11月の試験を受け運よく難関を突破することが出来た。
受験者総数287名で一次合格者は48名。


さらに翌年2月に二次試験の専門論文(その場で与えられたテーマを3時間内に仕上げる)も無事通過し最終的には部長級3名の面接を経て私は合格となった。

この年時計外装部で主任試験を通ったのは4名。

大卒,院卒の多い中で高卒もちらほら混ざっていた。
高卒の同期入社が全社で約80人いたがこの年の合格者は私を含めて二人だけだった。

この時私は31歳、これで会社の登竜門をくぐれたと思うとこみあげるものがあった。

大卒者にとっても厳しいこの試験を通ったことで私はこのころ自信がついたように思う。

いったん会社に入れば実務面ではあまり学歴の違いは分からない。
むしろその人の知識レベルや仕事の姿勢で差は出てくるもので私自身大卒者と比べて仕事上で引け目を感じることはほとんどなかった。

ただそうはいってもやはり見えない学歴の差別が人事に出てくることは実際にありえる。
私は自力で大学(二部)は卒業したが会社では高卒入社の資格のままだった。

しかしこの試験を通過すればそこから先は同じスタートラインから進むことになる。
このあたりから自分はできるという思いを持つようになりその自信がさらにプラス思考で上をめざす原動力になった。

思えばこの時期広く勉強したことはその後大きく役立っている。

知識の幅を広げることで飛躍できる土台(ジャンプ台)ができるのだと思う。
知識を身につけることは生きるための武器を持つことにつながる。
逆に十分な知識を持たないと社会の底辺に甘んずることになりかねない。



私の人生の師といえる邱永漢先生(故人)の本に出会ったのはこの頃だった。

結婚し子供も出来たのでそろそろ家が欲しいと不動産に関する本を探していたころ
本屋で立ち読みをしていたらたまたま邱さんの本が目に留まった。


その時の本のタイトルまでは記憶していないが軽く立ち読みをしたら中味が面白く引き込まれた。
これまで読んでいた本とは何かが違っていた。
平易で読みやすい文章だが内容は示唆に富んでいてすぐにでも役立つような知恵が詰まっていた。
書かれていることにいちいち納得し感心する。

こんな人がいたのかとそれ以降何冊か邱さんの本を続けて読んでいるうちにすっかりファンになった。

邱さんは世の中の観察が鋭く発想や考え方が普通の日本人と少し違っていた。
台湾出の秀才で東大を卒業、もともとずば抜けた頭の持ち主だが普通の人と違うのは世の中の動きを感知する天才ではないかと思うその能力と同時に先見力の優れた稀有な人だ。

生前300冊ぐらいの本を書いているのでそのすべてを読破してはいないが本と出会った1980年頃以降からはその多くを読んでいる。

私は邱さんの本から商売の考え方や金銭哲学、さらに処世術まで含めて多くの知識と知恵を得てその影響を大きく受けた。

結果として邱さんは私が起業家として独立する芽(きっかけ)を作ってくれた人であり自分の生き方にも指針を与えてくれた私の師と仰いでいる。

今後もこのブログで時折登場していただくことになると思うのでその人となりを今少し紹介しておきたい。

邱永漢は1924年、日本統治下時代の台湾(台南)生まれ。
台湾人の父と日本人の母を持ち台湾随一の秀才校である台北高校から東大経済学部に入り卒業して台湾に戻った後、中国から入ってきた国民党政府の悪政に反旗を翻して香港に亡命。
香港に6年ほど住んで香港の女性と結婚したのち作家をめざし東京に戻った。
1955年直木賞(このとき石原慎太郎芥川賞)を取り作家としての活動を始めたが本来の持ち味である経済や金銭感覚の鋭さを活かして書いた本が多くのファンを得るようになった。(私もその一人)

作家でありながら実業家でもある。
始めてわずか一年の株で大成功、金儲けの神様ともいわれた。
先見の明がありいつも人よりも一歩どころかずっと先10年、20年先を見る人だったので私はいつも邱さんの新刊が出るたびに追っかけて読んでいた。

私のような凡人には逆さになってもそんな先が見えないので邱さんが今世の中をどう見て、これから時代がどう変化すると見ているのかそれを知りたかった。

邱さんはアイデアを思いつくと自分が真っ先にビジネスをやってみるのだが失敗してしまうことも多くその何年か後に他の人が成功すると書いていた。

先を見過ぎて先走りしてしまう傾向があって時代が後からついてくると自戒していた。
日本でビジネスホテルを始めたのも、コインランドリーも邱さんが最初に始めている。


当時1980年代から「これからはアジアの時代」といくつもの本に持説を論じていた。

日本人の感覚と同時に華人の商売感覚を持ち合わせた人で中国や台湾、香港の事情に詳しく日本を外から客観的な視点で見られる人だった。

2012年に88歳で亡くなられる直前まで筆まめな方で邱さんのブログ「もしもしQさんQさんよ」(もともとは日刊イトイ新聞内にあった)に毎日書いておられた。
私は最後まで邱さんの世の中の観察を参考にさせていただいた。



話は戻るが昭和56年、34歳の時に私は初めての自分の家を持った。

船橋駅から東武野田線で三つ目の馬込沢駅鎌ヶ谷市道野辺)というところに小さな庭付きの中古で1800万円ぐらいだったか、3割の頭金、残りは会社の住宅ローン制度を利用、
金利は5%だったが当時の銀行ローンと比べると低利で借りられた。

木造のベランダがかなり痛んでいたのでそこは業者に依頼して新しくしてもらったがそれ以外は初めてのマイホームということではりきって屋根のペンキ塗りから玄関前のタイル張替え、部屋の塗り替えなど(進藤君の手も借りながら)すべて自分たちでやった。
また小さな一坪ぐらいのスペースに畑を作り野菜も作ったりした。

家の前のおばあさんがそれを見ていて「若いのによくやるねえ」と声をかけてくれた。
自分の息子は何もしないでいつもごろごろしているとこぼしていた。
このおばあさんは家ではめっぽう口うるさい人でよくヒステリックな声が聞こえてきたが近くの畑を借りて毎日自分の野菜づくりに精を出している人でなぜか私には優しく話してくれた。

引っ越しをして間もなく昭和57年(1982)2月、家内が臨月となりもうそろそろというところで3歳の長男と妻の実家で控えていたら「無事男の子が生まれましたよ」と妻のお母さんから伝えられた。

正直次は女子がいいなと期待を込めていたこともあって女子の名前ばかりいろいろと考えていたのだが、実は男子の名前はもともと以前から密かに暖めていた名前があった。
そのころから学者や役者の中にも時折見かける”直樹“という名前が自分なりに気に入っていた。
そのため長男に比べると意外にあっさり決めることが出来た。
私は画数などあまり気にしないほうでどちらかというと語感と響きを大事にした。

数日後だったか無事生まれてほっとしていた矢先に病院にいる妻から会社に電話があった。
先生(女医さん)から「もしかしてダウン症の疑いがあります」と宣告されたという。
「念のためDNA検査で確認します」ということだった。
結果が出るまでに一か月かかるという。

理由は手相であった。

普通は知能線(頭脳線)と感情線はくっついてないで離れているが“ますかけ線”と呼ばれる横一文字のまっすぐ伸びる線になっていて顔も確かにそれっぽい顔をしていると先生に言われたらしい。

「お父さんは普通の生活をしていますか?」と聞かれて「普通だと思いますが」と答えたそうである。

医者というのはこういうセンシティブな内容を事もなげにしゃべれるのだなと思った。


実は私自身が両手とも“ますかけ線”の手相でこれは“猿手”ともいわれ片手でもめずらしいそうだが両手共はめったになく一万人に一人の手相だそうだ。

改めてネットで調べてみたら実際ダウン症によく見られるようだが一方でこの線を持つ人は強運に恵まれ大成功を収める手相といわれるらしい。
性格は頑固で意地っ張り、こうと決めたら自分の意見はめったに変えない芯の強い人とも書いてある。
(うん、確かにそうかも)

歴史上では織田信長豊臣秀吉徳川家康の三人ともますかけ線だったという。
近年では石原慎太郎小泉純一郎松下幸之助手塚治虫小沢征爾とそうそうたる人たち。
そして福山雅治志村けん明石家さんまさんたちも名を連ねている。

しかしそれらの人に比べると私の成功はかなり小粒だが。

いや、確かに自分の人生を振り返ると私は運に恵まれていたとつくづく思う。
幼いうちに父親には逝かれてしまったが母や兄たちに守られ、就職した会社では先輩に恵まれ起業してからもスタッフに恵まれた。

しかし私自身この年になるまでほとんど手相というのを見てもらった記憶がない。

そんなに特別な手相ならどんな未来があったのか若い時に見てもらうべきだったとも思うが私は「自分の未来は自分が決める」という考えだったのであえて他人に自分の未来を言われることが好きでなかった。

もしこの年になって今、手相師に見てもらったら何と言ってくれるのだろう。

70を超えた人間に「あなたは将来出世しますよ」と言ってくれる人もいないだろうからどんな答えが返ってくるのかそれはそれで興味がある。
逆に「この手相ならもっと出世していいはずですけどね」と言われても困るが、手相見に年齢制限はあるのだろうか。


いづれにしてもダウン症か天下を取るかの違いは天と地の違いなので結果が出るまでの一か月は長かった。

多少のマイナスは受け入れるのでとにかく普通の人であってほしいと私は心から神様にお願いした。
(私には都合の悪い時だけ神様にお願いする都合のいい癖があった)

心配になり会社の図書室にこもってダウン症について調べたものだがようやく結果が出てそうではなかったと聞いて目の前がパッと明るくなったのを覚えている。



その年(1982)の10月、外装設計二課時代に当時の野沢課長から香港出張の指示があった。
第二精工舎の香港工場PEL(Precision Engineering Ltd.)の設計者との情報交換だという。

JAL成田発、5泊6日でちょうど香港ウォッチ&クロックフェアと合わせてPEL内部や当時はまだ香港内にあった時計ケース工場を視察する機会を得た。
初日にはアバディーンタイガーバーム、ビクトリアピークなど定番の観光地を会社の車で案内してもらった。

後で分かったのだが実は私の香港赴任を前提に計画されたもので香港に赴任していた外装設計者の後任として私が指名されていたのだった。

そうとは知らず食事をごちそうになったりいろいろと香港内を案内してもらっていい気分になり「香港っていい所だね」などと言っていたものだからその後難なく私に赴任の話が回ってきた。

事実、私にとって香港の印象は良かった。

中華料理のレベルは高くおいしいしイギリスの植民地下で英語を公用語とした国際都市香港は東洋の真珠ともいわれていた。
同じアジア圏で欧米と比べても日本との文化のギャップも小さく生活がしやすい。


私には初めての海外旅行であったがこの時いい意味でカルチャーショックがあった。

それは英語が生活で使われている現場を初めて体感したこと。

香港は広東語が母国語だがイギリスの植民地だったのでかなり英語も使われていた。

多少の英会話を趣味程度でやっていたがその世界を見て本当に英語って使えるんだというのが(当たり前の話だが)その時の正直な感想だった。
遅ればせながら30過ぎてそれ(活きた英語)を実感したのだった。

そしてある韓国料理店に入ったらそこの女主人が韓国人なのに広東語はもちろん英語も日本語も話す。さらに京都弁まで使い分けられると聞いてびっくりした。
後になって分かるのだが香港にはそういう人が特別めずらしくもなく普通にいることを知る。

世の中にはこんな人もいるのかとショックを受けた。
それに比べ自分も含めて日本人はいかに言葉の武器を持っていないか身をもって実感した。

これがきっかけとなって私は英語ぐらいしっかりやろうとその時決心したのである。


私自身は前から海外赴任にあこがれていた方で、以前にも先輩たちから香港の話を聞き海外生活という未知の世界に興味を持っていた。

妻も大手商社にいて身近に海外勤務を見ていたので何の抵抗もなかった。
子供たちもまだ小さくこれと言って支障はなくすんなりと了承した。

12月には正式に赴任が決まりその後は英会話の勉強に集中した。

会社指定で市ヶ谷にあるバークレーハウスランゲージセンターというところで個人授業を受けた。
アメリカ人教師で2時間レッスンを週4回、赴任までの期間が比較的あったので130時間を超えるレッスンでずいぶん話せるレベルになった。

「もう香港に行っても全然問題ないよ」と言ってくれた私の担当教師であったアメリカ人の若い先生とも仲良くなり彼のガールフレンド(同じ英語教師)と一緒に鎌ヶ谷の家まで招待したことがあった。

その時のちょっとした思い出がある。

二人が玄関に用意しておいたスリッパを履かないで入ってきたのでどうぞと言って履いてもらったら今度はそのまま畳の部屋に上がってきた。
ここはスリッパを脱いでと言ったので今度はあわてて脱いだのだがあとで考えてみるとこんな狭い家でスリッパを履かせたり脱がせたりさせるほうが間違いだったことに気がついた。
とんだ迷惑だったに違いない。

ついでにこれも余談だがスリッパを脱いだ靴下に大きな穴が開いていた。
英語教師も実態は厳しいんだなと思った。

その日は家内の手作りの日本料理を慣れない箸を使いながら「ディリーシャス!」と言って喜んで食べて帰ってくれた。
二人にとっても思い出に残るささやかな日本の家庭体験だったかと思う。



香港行きが決まり私の兄弟やその家族が集まって私の歓送会をやってくれた。
確かその席だったと思うのだが三兄がなんとにわか覚えの広東語の歌を唄ってくれたことにびっくりした。

昭和58年(1983)5月いよいよ赴任の日が来た。

家族を置いて私一人が先行で成田を飛び立った。
36歳の旅立ちだった。



●このころの世相を見ると

昭和52年(1977)円高不況で企業倒産件数が過去最高に。
       大卒男子の初任給が10万円を突破。

巨人の王貞治が756号の世界新記録を達成し国民栄誉賞第一号に。
カラオケが盛り場に登場、一曲ごとの料金制が多かった。

昭和53年(1978)キャンディーズが解散、ピンクレディが人気絶頂。
新宿や六本木でディスコフィーバー、昼はホコ天竹の子族出現。
     この年成田空港が開港した。

昭和54年(1979)ウォークマンソニーから登場
このころ日本には勢いがあった。自信を失ったアメリカ人に「日本に学べ」と伝えた“ジャパンアズナンバーワン“が日本でベストセラーに。
 インベーダーゲームが流行

昭和55年(1980)ジョンレノンがニューヨークの自宅前で射殺される。
山口百恵が芸能界引退 黒澤明監督の影武者がカンヌ映画祭でグランプリ獲得

昭和56年(1981)チャールズ皇太子がダイアナと結婚
          千代の富士横綱昇進

NHK朝の連ドラ「おしん」が60%を超える視聴率となりおシンドロームと言われた。
      任天堂ファミコンが新発売。

昭和58年(1983)東京ディズニーランド浦安市に開園




昭和54年(1979)主任登用試験合格


邱永漢先生


私の手相
両手とも”ますかけ線”といわれる横につながった一直線になっている。

私の履歴書 第九回 学ぶ愉しさ 好奇心旺盛だった20代

私の履歴書 第九回

20代は旅とカメラが私のメインテーマだったがそのころ何事にも好奇心旺盛だったので写真以外にもいろんなことに興味を持った。

この項では仕事から離れたところで自分のやってきたことを思い出してみたい。

振り返れば10代は何も分からないまま学校生活を過ごしたが20代になり東京という都会生活の中に浸ると新しいものが目に飛び込み,触れる機会が増えてきた。
そんな中で自分の興味ある世界に足を踏み入れ首を突っ込んできた。

今にして思えばそれらが私の後半の人生のための血や肉になっているような気がする。

いったん写真の道をあきらめ趣味としてやることに決めるともともと旅が好きだったので旅とカメラをセットに日本全国を周るのが楽しみとなった。
毎年5月と夏に約一週間の休みがあったのでここを利用して日本全国を遠出した。

撮影メインで自由に行動するためにほとんど一人旅が多かった。
時には気の合う進藤君と出かけることもあったがその時はカメラに集中することはできないが友人と気ままな旅をするのもまた楽しかった。

写真家をめざした者としていつかは写真集を出したいという夢もひそかに持っていた。
旅と写真をメインに写真紀行を出す夢を見たもののそこまでの金もなく現実には至らなかった。

会社が終わってから片道2時間近くかけた写真学校通いもなくなり写真から距離を置くと生活も徐々に会社中心で回るようになってきた。

就業後の時間もたっぷりあるのでおのずと会社の同僚と酒を呑む機会が増える。
会社近くの亀戸や上野で呑むことが多かったが時には新橋、新宿、銀座などへ繰り出して夜の街を飲み歩くのもそれはそれで楽しかったが次第に物足りなさを感じてきた。

20代後半のころ何か新しいことをやってみたくなり新宿にあった「ヒコみずのジュエリー学校」のペーパーデザイン科に通うことにした。
もともとデザインに関心があったが仕事でも金無垢のケース(クレドール)を扱っていたこともありジュエリーの世界にも一時期興味を持っていた。
ジュエリーの世界に入ろうかと思ったこともある。

ここで一年間ジュエリーデザインの勉強をした。
といっても、一年ではスケッチやレンダリングのテクニックをかじった程度である。
当時はパソコンでなく全て手描きだがコース終了のころ小筆を使って細密に描いた絵を友人に見せたら写真かと勘違いされたことがあるのでその程度のテクニックは身につけたのだろう。

その後さらに銀座にあるアクセサリースクールで一年間彫金教室に通った。

ほとんど女性ばかりの教室だったがここではガスバーナーやヤスリなどの工具を使ってシルバーの指輪やペンダントを造る彫金細工をやった。
会社でやっていた仕事に近い内容だったのでその延長線上で学ぶことが出来た。

その都度興味のあることをやってきたが体で覚えた感覚はその後自分で会社を興してから自分のイメージをスケッチで表現することにも大いに役立っている。

東京には様々な教室があり何かを学ぼうとする人にとって便利で懐の深い街である。


このころ話し方教室にも通った。

会社が亀戸なので新小岩のアパートに住んでいたがある日JR総武線の車内で「江川ひろしの話し方教室」という広告を見かけた。

栃木県の片田舎から出てきた私はまだ鹿沼弁が抜けきらず人前で話すことに自信がなかった。
“500人の前でも話せます“という見出しに惹かれて行ってみた。

何百人も詰めかけた大きな会場で聞いた江川ひろし本人(故人)の話にいたく感動し聞いている途中で体が震えてきたことを覚えている。

その自信と迫力に満ちた、人の心をぐいぐいつかむ話にまさに引き込まれた。
それはかつて出会ったことのない衝撃の体験だった。
迷うことなくその話し方教室の3か月コースを受講した。

江川ひろしはもともと郵政省の若手キャリアだったが自分のすぐれた話の才能を武器にこれからは話し方が大事ということに着目しキャリアを捨て1953年に日本話し方センターを創立した。
当時、時代がそれを必要とし多くの経営者や会社員が受講するようになったという。
実際私が受講したクラスには若い弁護士さんもいた。


少しでも話がうまくなればという程度の動機だったがそこで学んだことは予想を超えるものだった。

「話し方」のテクニックはもちろんだがそれ以外にもっと大事なこと、生きていくうえで大切な人間関係を学ぶカリキュラムだった。

自分から挨拶をしなさいということから始まり、話し方を通して誠実さや感謝の心を説き何より自分自身が変わること、
そして「プラス思考」で「積極性」のある考え方に変えていくものだった。

一部話し方センターから引用し要約すると

「ことばの前に心あり ことばの後に行動あり」

【言葉=話し方を中心に、言葉の前の”心のあり方”、言葉の後の”行動のあり方”、と言葉の前後を含めて一体に学んでいきます。
それは、単なる「話し方」のテクニックにとどまらず、人としての生き方を根本からよりよい方向に変えていくことです。】

まさにその通りだった。

その時まで話がうまいというのはすらすらと流暢に話すことだと勘違いしていた。
しかしそれよりも人に伝えようとする中身がもっと大事なのだということを知った。

正直この教室を受けてから自分の人生が変わった気がする。

そしてその後出会う世界的名著「人を動かす」(デールカーネギー著)を読んでその思いが自分の信念につながっていく。

この本の中で多くの例を挙げて繰り返し記している人間の心理や人間関係の重要で基本的な事がまさにこの話し方教室で学んだことと相通じるものだった。

この時以来私の中でストンと落ちるものがあり自身のものとして定着していった。


20代の時にこの教室に通いこの本に出会ったことは私にとって幸運だった。

今でもベストセラーに名を連ねる“人を動かす“は人間の機微や本質をついておりいつの時代でも通用する本なので私は今でも若い人にこの本を読むことを勧めている。


余談になるが話し方教室の受講で“笑いを取る”という授業があり講座の後はそれを実際に試すよう指導されていたので早速外装開発課時代の持ち回り朝礼でやったことがあった。

高校時代に利き手の右手をけがししかたなく左手でお尻を拭くはめになったときがあったのだがそれ以来ずっと左手の習慣になってしまった話をやったところ課員に大うけした。
まではよかったがお堅い課長には渋い顔をされてしまった。

教室ではその後さらに自分自身をコントロールする訓練の自己催眠コースを続けて受けた。

これは後に脳のα波を出すイメージトレーニングで自己の潜在能力や願望達成する手法の勉強へとつながった。

能力開発研究所の志賀一雄(工学博士)の調査でひらめきの天才や音楽家、超能力者などの脳の状態を調べると彼らが集中して能力を発揮しているときは意識と潜在意識が統合された
集中状態でアルファ優勢になっていることをつきとめた。

人の脳はリラックスした状態でアルファ波になるがそれを自分でコントロールし理想のイメージを自在に描けるように訓練してそれを仕事や生活に役立てようとする理論がありこれを学んだ。


アルファ波を測定するマシンがありそれを買って意識的にアルファ波を出す訓練をやった。

イメージトレーニングと言って自己の願望をメンタルスクリーンに描いてそれを潜在脳に働きかけ伝達することでその願望を達成させようとするものだ。


これは“マーフィの成功の法則”と同じ理屈で強い願望を自身に強く働きかけ(続け)ることでいったん潜在脳に叩き込まれると人は無意識のうちに実現に向かって行動し
いつの日かそれが実現されるというものだ。
その思いが強ければ強いほど実現の可能性が高くなる。

実際私はこれで自分の将来をイメージし実現させる努力をした。


また20代は毎年冬になるとスキーで明け暮れた時代だが冬が終わると出来なくなるのでシーズンオフにできるテニス(硬式)を始めたのもこのころだ。

結構夢中になり例の進藤君とスキーが明けるとテニスを二人でやるようになった。
テニス教室にも通いながら競い合ったがスキーもテニスもお互い同じようなレベルでウマが合った。


そして20代の終わりのころに出会いもあった。

会社の連休を利用して南は与論島から北は青森まで日本中をずいぶんあちこち周ったが1975年の夏、それまで行ったことのない北海道に行くことにした。

私の旅はほとんど一人旅だったがさすがに北海道はやたら広くて交通不便なのでこの時ばかりは団体ツアーに参加した。

28歳の夏、ここで運命の人に出会うことになる。

ツアー客はほとんど女性ばかりでガイドを除くと男性客が二人しかいなかった。

一週間ぐらいのバスツアーなので行く先々でお互い記念写真を撮りあったりしているうちに徐々に同乗客と仲良くなった。

そのうちの二人組で参加していた一人に気になる人がいた。

小柄だが清楚で可憐。
自分が描いていたイメージに近かった。
徐々に近づき後半は一緒に行動するようになり写真もたくさん撮った。

その後東京で逢い、何度かデイトするうちに冬になるころには結婚を意識するようになった。

そして翌年昭和51年(1976)5月、日本がロッキード事件で揺れていた時にゴールインした。
彼女はその時事件の渦中にあった商社丸紅に勤めていた。

後で聞かされたが私はツアー期間中ずっと同じシャツを着ていたので不潔な人だなと思っていたらしい。

写真学校時代、黒いTシャツを毎日着続けるのが写真学生の間で流行っていてそれを私は撮影旅行でカッコよく踏襲していたつもりだった。


ちょうどその頃だったが会社の勤労課から社内報の表紙を撮ってほしいという依頼があり昭和51年(1976)4月から翌年3月までの12回、表紙を担当した。

会社では11月に年一回の文化展というのがあって絵や写真、生け花など文化部所属の腕に覚えのある人が作品を出展する機会があり私は毎年写真を出品していて写真で名が知られていた。


ここぞ腕の見せ所とばかり(写真学校で撮る映像とは異なり)一般の人に受けそうな癖のない分かりやすい写真を季節ごとに撮り、毎回短い文章をつけて12回載せた。

これがなかなか好評だったのでその後は全社内的に「写真の橋本さん」として一躍知られる存在になった。


ちなみに4月号に桜の背景のアクセントとして赤い色の傘をさした彼女をこっそりエキストラとして登場させた。


4月 「桜咲く」東京上野

5月 「五月の風」新宿御苑

6月 堀切菖蒲園

7月「夏開く華」中尊寺の蓮

8月 佐渡の夕日

9月 「新しい息吹き」新宿西口中央公園

10月 白川郷の秋

11月 京都天竜寺の紅葉

12月 師走の銀座


1月 東京の夜明け

2月 「ガラスの中のメルヘン」表参道で

3月 ファンタジー

私の履歴書 第八回 時計外装部で技術を研鑽

昭和45年(1970)大学を卒業した年に大阪万博が開催され大阪まで見に行った。
どちらかというと写真を撮るのが目的だった。
が、その時見たはずのパビリオンの記憶がなぜかほとんどない。
たぶん行列が長くて実際あまり見てなかったのではないかと思う。
芸術家、岡本太郎がデザインした太陽の塔だけが印象に残っている。

このころ世の中は高度成長の結果みんな豊かになりモーレツからビューティフルへ時代は移り9割以上が「自分の生活程度は中流」と答えた。
一億総中流時代と言われた。

女性の解放を求めるウーマンリブ運動も盛んになりこのころから女性の社会進出が叫ばれキャリアウーマンも増えてきた。
もともと男女の能力に差はないはずだが男子優先の封建的な日本固有の社会制度が男社会を造ってきた。
今も女性の活用、社会進出という点でこの国はまだ世界に遅れている。

この年には三島由紀夫楯の会メンバー4人と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み自衛隊員に演説後、割腹自殺を図るという衝撃的な事件があった。

当時三島は楯の会を立ち上げ週刊誌やマスコミにもよく登場し目立っていた。
作家でありながら剣道で鍛えた筋骨たくましい体だった。

11月25日午後、会社で仕事をしているときにこのニュースが飛び込んできた。
号外が出て日本中が大騒ぎになった。

三島といえば川端康成ノーベル文学賞を競い合った国際的にも知名度が高い作家である。
その知性ある人間が自衛隊基地に乗り込み当時のトップ益田総監を縛り上げバルコニーに出て大勢の自衛官を前に憲法改正の決起を促す演説をぶちあげたのち切腹するという事件を起こした。
三島の介錯をした楯の会の幹部森田(学生)もその場で他のメンバーに自分の介錯を指示し切腹した。

三島の武士道の精神、美学は私のような凡人には及ばないものがあるが明治維新もとうに過ぎ、大戦後25年がたった平和な世の中でこのような事件が起き人々は驚いた。

三島の演説は戦後の平和な中でサラリーマン化した自衛隊員には受け入れられずその場はヤジと怒号で非難されたが後になってみると三島の命を懸けた行動に徐々に傾倒するものが多くなってきたという。
いま憲法改正論議が起こっているが三島は50年近く前に体を張ってこの議論を投げかけた。
この時の衝撃は私の中に今も残っている。


話を会社に戻したい。

この年以降から香港に赴任する昭和58年(1983)までの約13年間、私は時計外装部内でケース製造金型、外装技術、外装開発そして外装設計と移動する中で周辺の技術知識を習得することができた。

ここから先はやや専門的になるが自分のキャリアとして記しておきたい。


昭和45年(23歳)から三年間は側製造課という時計ケースを製造する工場(自分がもといた職場)の管理統括部門に所属した。

製造現場はケースの金型からプレス、切削、研磨、ロー付けなどの工程があったが外装試作部門が途中で合流して総勢100名近い規模だった。

ここで18K金無垢のケース(クレドール)も作っていたので金無垢材についても詳しくなった。

金の検定マークを取るためにケースの半完成品を当時巣鴨にある大蔵省(現財務省造幣局まで持ち込む仕事もした。
造幣局ではそれを抜き取りで検査し問題なければすべての裏蓋に日本の国旗の入った検定マークが打刻される。

金無垢の加工をする場所では加工で出る切粉や研磨カスなどをすべて回収するようにしていた。

工場の管理なのでさまざまな仕事をしたがケース原型を作るプレス成形金型や工具の設計がメインの仕事だった。

同じ課にいた早稲田の理工学部出身で大野工場の型工具部門から外装部に移ってきた三田村さんに指導を受けた。
大学時代はコーラス部所属、優しく紳士的な人でいまでも時々カラオケなどお付き合いをいただいている。


ステンレスの冷間鍛造(常温での塑性加工)はケース原型を作る主流といえるが一発ではケース形状にならない。
スムースな肉(材料)の流れを考慮した段階的に形状(と寸法)を変えながら成形する金型の設計が必要となる。
工数が多ければ時間と費用がかさむがを型数を減らして無理な塑性加工をすれば型の割れや製品のクラックが発生するのでそのへんの兼ね合いが型設計のノウハウとなる。

冷間鍛造は精度と精細なカーブ曲面を出すこともできるので型製作に手間はかかるがデザインの自由度も高く高級ケースの生産に向いている。

その分高い金型技術が必要となるがそこは日本のお家芸だ。
その後香港にケース製作がシフト後もこの技術がそのまま移行することはなかった。

現在ではケース製造が香港から中国にシフトしているが日本に近い精密鍛造ブランク(香港では精杯(チェンプイ)と呼ぶ)と荒削りな祖杯(チョープイ)との中間的なブランクをプレス成形しその後二次加工して完成するのが一般的となっている。


当時大野工場内にあったプラスチック成形部門で研修する機会も得てプラスチック成形金型の設計も経験した。

当時まだ出始めのNC(数値制御)ミーリングのプログラミングを先輩に教わりながら卓上計算器で座標計算しテープ(プログラム)出しも担当した。
作業者が休みのときには自分でNCミーリングを操作したこともある。
このころはどちらかというと金型技術屋に近かった。

昭和48年(1973)に石油ショックが発生。

第四次中東戦争の影響で原油が高騰し物価が急上昇、狂乱物価となる。
スーパーではトイレットペーパーの買いだめパニックが起こり品切れが続出した。

1974年に入ると、石油危機によるモノ不足と異常なインフレが消費者を直撃した。
戦後初のマイナス成長となり日本は厳しい状況のなかで省エネ対策が急務となり合理化と技術革新を進めるようになる。

会社ではこの時期節電の通達が出され人がいないところは電気を消すようになった。
銀座のネオンも一時期消された。

この年長嶋茂雄が現役を引退し「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残した。
堀江謙一が小型ヨットで単独無寄港世界一周を達成したのもこの年だ。


このころから時計外装部内の外装技術職に移動し本来の時計外装技術の核心に携わることになる。

第二精工舎は時計製造の歴史もあり大会社なので優秀な先輩技術者がたくさんいた。

先にも述べたように外装はムーブ理論とは違い経験値から来るノウハウが貴重だがそれらをまとめた各種の技術標準書が整備されており後輩がそれを現状のレベルに合わせて逐次改訂していく。

技術標準というのはメーカー(人)によって違ったやり方、結果にならないように過去の蓄積された正しい知識、ノウハウを統一化し標準化したものである。

初心者であっても分からない時にはこれを調べることで手短に知識を得ることが出来た。
会社にとっての技術的財産である。

一例をあげれば時計用ステンレス材料の種類と使用規則、ガラスの種類別特質と硬化処理、メッキ(表面処理)の種類と規則など技術要素別に技術解説と使用範囲などを細かく網羅規定していた。

時計ケースほか外装部品は外注なので実際の製造は外部のメーカー(国内)になるが第二精工舎(購入者側)としてこれらの技術標準や品質基準を規定しておくことでバラツキを抑えた安定した品質のケース、外装部品を生産することが出来る。

製造ノウハウはメーカーが持っていても製品の体系的品質基準は第二精工舎が持つ。
外装の技術者としては当然これらの知識を持たなければならない。

外装部品検査工場という部門がありすべての受け入れ部品を検査していたがここでは各部品の検査基準と検査規格に則って検査員が抜き取り検査を実施する。

その検査にも検査作業標準というのが決められていて検査環境、器具、検査のステップ等が具体的に細かく規定されている。


同じく外装設計課には種類別の外装構造基準や各部品の設計標準があり強度を確保するための材質別最低肉厚、裏蓋防水性確保の設計、ガラス固定の設計基準など、
さらには時計の針の一時モーメント、二次モーメントの計算法など各種の外装部品設計のための基準が設定されていた。

これらは長く時計を作ってきて来た会社のノウハウで先輩から受け継がれてきた。

昭和50年(1975)、ベトナム戦争終結エリザベス女王夫妻が来日、昭和天皇が戦後初めてアメリカ訪問で話題になった。
翌年はロッキード事件に日本が揺れた。
ロッキード社の航空機売り込み事件に絡む戦後最大の疑獄事件で元首相の田中角栄が逮捕された。


このころ業務二課という新部門が出来そこに配属された。

それまで第二精工舎はSEIKOブランドの生産が主体だったが下位価格帯の新ブランドの立ち上げでアメリカや国内での二次マーケットを開拓するのが目的だった。

商品企画、デザイン、技術、設計部門から選ばれたスタッフが集まった寄り合い所帯で当初は総勢20名ほどの課だったが一つの独立した小さな会社のような存在だった。

ここでアメリカとイギリス市場を狙ったPULSAR、LORUS、国内の二次市場を狙ったALBAが新ブランドとしてスタートした。

売り上げが大いに伸びのちに課が部に昇格した。

この当時設計業務が集中し夜遅くまで残業を続けることが増え終電で帰ることも度々あった。
50時間以上の残業をすると組合の方から注意勧告の名簿が出されたが多い時で70時間ぐらいだったか、中には100時間を超えるものもいた。

ここで私はSEIKOとの品質基準の違いを明確にするために第二ブランドの外装品質基準を立案作成した。
SEIKOとの差別化をするための第二ブランドだったが時計ショップではSEIKO ALBAと書かれて売られた。
セイコーにとっては計算外だったがALBAの売り上げは成功した。

その後外装開発課という部門が新設されそこに配属される。

ここでは外装の新要素(新技術)を開発することが課題で総勢20名ほどの技術屋集団だった。

新しいデザインを起こすには新しい技術要素が必要になることが多い。
逆に新技術要素が開発されればそれまでにない斬新な顔を持つデザインを市場に出すことができる。

イデアを出すために本社から離れた保養所に一日こもり電話のないところで缶詰めになりブレインストーミングでアイデア会議をやった。
会議と言っても自由にアイデアを出し合うのだがルールにのっとり「そんなのできないよ」という否定はご法度。
自由な発想で誰かがヒントを出すとそれに乗っかり次々とアイデアが出てくる。

思いつきやひらめきが大事で「こんなのあったらいいな」から始まるとよい。

イデアが出てきたら次はそれを文章化して(こじつけを加えながら)実用新案(構造、デザイン)や特許(製法含む)の申請書に自分で記入していく。
初めは簡単には書けなかったがパターンがあり要領を覚えると書けるようになった。

その時の私のアイデアがいくつか会社の実用新案や特許となっている。

頭を柔らくしないといいアイデアは生まれないと(上司の了解のもとに)アルコールを入れてやったこともある。
実際、少し酒が入ると発想が自由になり頭の奥の潜在脳(右脳?)が活発になる。


私はコンピューターに強い担当者と組んでケース設計からケース製造までをつなげる自動化のテーマに取り組んだ。
CAD/CAM(Computer Aided Design and Manufacturing)の走りだ。

これを社内外装部の技術発表会で服部一郎社長(故人)の目の前で発表したことがあった。

この時期は生産に関わる納期や品質問題とは無縁だったので時間に余裕があり研究開発者のような境遇で関連技術知識を学ぶ機会に恵まれた。

当時は会社の業績も良かったので今考えれば恵まれた環境だった。
会社にとって開発投資は常に重要で必要だが今の厳しい時計ビジネス環境の中ではなかなかそこまでの余裕がない。

当時同じ課に第二精工舎独自の新型バンド開発を担当した鎌田さんがいた。
鎌田さんは東北生まれ東北大出身の温厚な人で後にセイコーインスツルの社長となった。
私が香港で独立した後もたびたびバーゼルフェアのブースに立ち寄ってくれた。

昭和55年(33歳)だったか外装設計課に移ったころ世界一薄いデジタル(クオーツ)時計を造るプロジェクトが上がりこの外装設計を担当した。

総厚2ミリを切るデジタル時計が至上命令で外装構造はいたってシンプルだが各部品の厚みを極限まで薄くしなければならない。

構想設計をするとガラス部分の厚みは0.3ミリしか取れない。
そこで当時サファイアを製造していた関連工場の栃木硬石に0.25ミリ厚から試作品を作り強度を調べたところ想像以上に強く0.3ミリ厚サンプルの1m落下テストで問題なく、手でも簡単に折れない強さがあることが分かった。
結果1.98ミリという厚さの時計が完成したがもともと世界一が目的で数量も少なく市場でのクレームはなかった。

その後香港赴任するまでの3年間は外装設計に籍を置いた。

外装設計の仕事は決定したモデルのスケッチを裏づけのある構造設計とする作業になる。

搭載キャリバー(ムーブメント)を想定した外装組立図を作成し、それを展開した各部品図を作り部品仕様一覧表をつけてモデルごとの一式外装図面とする。
部品メーカーはこれをもとに製造する。
私の時代はドラフターでの手書き図面だったが次第にAuto Cad(コンピューター)で描くようになった。

また新キャリバー(ムーブメント)を立ち上げる時には外装部がそのプロジェクトに参加し外装の構造設計をしてそのキャリバーの構想図(標準寸法図)を作成する。
この構想図を基にデザインすれば寸度的に裏付けのあるスケッチとなる。

新キャリバー立ち上げは何年かに一回の大きなプロジェクトだが全社総力を挙げてこれを推進した。

外装設計という仕事は企画デザインとケース製造の橋渡しだがここでミスすると製造段階でとんでもないことになりかねない重要な仕事である。

品質は設計で決まるとよく言われるが高いレベルのノウハウを設計に落とし込むことでよりいいものができるがここでのミスは致命的になる。

設計課には検図というルールがあった。

設計者本人が事前に自己検図するのはもちろんだが作成した本人では実際ミスに気がつかないことが多い。第三者がチェックすることでミスは見つかりやすい。
そこで同僚どうしで検図をすることが義務付けられていた。

検図は集中して一点一点間違いがないかすべて丁寧にマークチェックし間違いは赤字で指摘して設計者に戻す。

人間がやることなのでほとんどといっていいくらいミスは見つかる。
訂正後に再度チェックしたうえで検図者のハンコを押してから上長に提出する。
新たなミスが見つかればまた差し戻す。

いったんハンコを押したらその責任は検図者になると言われていた。
だから検図者も真剣になる。

そのくらいしてやっとミスは最小限にできるがそれでもたくさんのモデルを作っていたころは製造現場でやばいことになった例は少なからずある。
設計者にとっては「あーやってしまった!」となる。
責任は重い。

だから検図で間違いを指摘してくれると「見つけてくれてありがとう」だ。
検図という行為は極めて重要だということを知った。

ものを造るということはなかなか大変で簡単ではない。

いいものをきちんと作るには一つ一つ丁寧に確認しながら進めていくことが大事だという日本的QC(品質管理)の考え方を叩き込んだ。


側製造課時代 昭和46年(1971)ごろ
右から二番目の三田村さんに型技術を教えていただいた。


業務二課時代 昭和50年(1975)ごろ
企画、デザイン、技術、設計の寄り合い所帯だったが自由な雰囲気で仕事ができた。
愉しい宴会のあと。



外装開発課時代 昭和52年(1977)ごろ
左端が課長、私(後列右から4番目)の左が鎌田さん
みんな自分の得意分野を持った技術者だった。


外装設計二課時代 昭和昭和56年(1981)ごろ
設計品質について外注協力メーカーとのパネル討論会
右から二番目の上司野沢課長にはいろいろ指導いただいた。

私の履歴書 第七回 写真家にあこがれる

話が少し遡るがこのころ写真に熱が入り本格的に突っ込んだのでこの項で触れておきたい。

入社2年が経過したころ社員福祉の一環として写友会(写真部)があることを知った。
ある時見学させてもらったら面白そうなのでそのまま入会させてもらった。

これがきっかけとなりその後写真にのめりこむことになる。

写友会では月一回の例会というのがあり写真家の秋山青磁先生が指導に来ていた。

秋山先生は当時コニカ(現コニカミノルタ)の顧問もされていてアマチュア写真クラブの世界では有名な人気講師でもあった。
話が上手でいつも冗談を交えながら写真の講評をしてくれていた。

例会では会員が持ち寄った四つ切サイズの作品(白黒)を教室の前面に貼り出し審査する。
先生が貼り出された写真を一つ一つじっくりとのぞき込んで審査が済むと一席から十席まで順位を張り付ける。
その間会員はドキドキしながら自分の作品の順位付けを見守る。

写友会には写真好きの先輩がいて山、祭りをそれぞれ専門に撮る二人がいつも上位を独占していた。
彼らは一つのテーマを集中的に撮っているのでその分野でいい写真を撮る。

私も一席を取りたい一心で土日はほぼカメラを持って街に出るようになる。
カメラ目線で街に出ると被写体はその辺にごろごろとある。
新宿や渋谷などの都会や浅草、下谷などの下町もよく撮り歩いた。

フィルム写真の時代だが撮影に出ると白黒36枚撮りで2、3本は撮った。
それを自分でフィルム現像し密着プリントした中からルーペを使って自選したものを4,5枚四つ切に焼き付けて出品した。

このころ新小岩のアパートに住んでいたが写真の引き伸ばし機などを部屋に揃えて自分で暗室作業をやっていた。
作品の出来栄えの半分はこの引き伸ばしの出来にも左右される。
写真の周りを黒くする被い焼きのテクニックもこのころ覚えた。

当初はなかなか上位に入れなかったが例会に通い先生の講評を聞いているうちに次第に写真の良し悪しや評価のポイントが分かるようになってきた。

しばらくしたころ当時大学紛争がエスカレート、それが全学連などの闘争になる。

ある日の休日だったが御茶ノ水駅付近でも騒動が起こり私はチャンスと思い現場に行った。
学生と機動隊が激しくぶつかり催涙弾も打たれあたりは騒然としていた。

興奮した学生は道路のアスファルトをめくりあげてその破片を機動隊めがけて投げつける。。
私はそれを上から撮るために電柱によじ登って夢中でシャッターを切った。

その中の一枚、全学連の学生が石を投げる瞬間を撮った写真が例会で一席になった。

実はこの時興奮しているその学生とちょっとしたいざこざがあった。

近づいて撮ると迫力のある広角レンズだったがその瞬間、学生と目が合い「こんな時に写真なんか撮ってんじゃねーよ」と言いがかりがきた。
夢中だったので「こっちも真剣なんだ」とつい口から出てしまった。

近くにいた人がやめといたほうがいいよと心配してくれたが相手は怒って私に近づいて来た。

いい写真を撮りたい一心だったのだが相手にしてみればただの興味本位と映っただろう。
間一髪だったが向こうもカメラマンを相手にしている状況でもなかったのだろう。
周囲の視線を気にしてか途中で引き返した。

そんな危険を冒して撮った一枚が一席になった。
苦労して撮った本人はその背景を知っているがその写真の迫力を読み取る写真家もすごいと思った。

写真というのはそういうことかと気がついた。

大事なのはテクニックではない。

そこに撮る人の意志が明確にあるときにいい写真が撮れるんだと知った。
逆に言えば意志のない写真は見る人にも感動はない。

報道写真の世界ではピューリッツア賞が有名だが戦場での死を賭けて撮った写真は迫力があり人の心をとらえる。
1966年にこの賞を取った沢田教一ベトナム戦争の写真「安全への逃避」が有名だが子供を抱えた家族が戦を逃れ必死で川を渡る姿に強く心を打たれる。

そんなこともあってかその後さらに写真に夢中になり東京の都会、下町のみならず旅先の風景、ポートレート撮影会など手当たり次第に被写体を求めて撮ったものから自選し持ち込むと写友会では一席をほぼ独占するようになった。

この頃、頭の中は写真のことばかりで何を見ても被写体に見えた。

私はなかなかエンジンがかかりにくいがいったんやりたいことにはまると脇目も振らずに突き進む性格なので時にはリスクもある。

一会社の写真クラブという小さなアマチュア世界では一番になったがそのうちそれでは物足らなくなった。

このころ写真の道に本気で入っていきたいという気持ちがむくむくと出てきた。
写真こそ自分に向いた天性の仕事ではないかと。

それから試行錯誤したが写真家の弟子になるのが早道だと思った。

当時,篠山紀信立木義浩など雑誌でも人気の若手写真家がいたがとても弟子にはなれそうもない。
他の写真家もいたがコネは全くないし仮にうまく弟子になれても給料はほとんど出ない。
経済的に余裕のない自分には難しいとあきらめた。

そこで写真を職業にできる出版社を狙いいくつかの出版社に手紙を書いた。

一社面接を取り付けて当日訪問したら今日は担当が休みなのでまた来てくれという。
馬鹿にされたと思ったがそんな会社に未練はない。そこは二度と行かなかった。

若気の至りでずっとそんな夢を抱えていたがあるとき思い立って三兄に打ち明けてみた。

案の定というか予想通り猛烈に反対された。
せっかく安定した会社にいるのに辞めるとは何事かと。

困ったときにはいつも父親代わりで手を差し伸べてくれる一方で何事にも慎重で冒険嫌いの兄には写真で飯を食うなどという自分の夢を理解してもらえるはずもなく真っ向からの大反対だった。

そこまで言われて強行するのもまずいのでしかたなく手を変えた。
とりあえずこのまま会社を続けながら次のチャンスを狙えばいいと写真学校に通うことにした。

都内には当時お茶の水にある東京写真専門学校が会社から近かったが学校案内を見るとテクニカル中心のコマーシャル写真が専門の様子で自分のめざすものとは違うと思った。

一方で横浜の日吉にあった東京綜合写真専門学校は会社からかなり遠いが写真教育の歴史があり本気でプロの写真家を目指す写真学校だった。

ここは写真評論家の重森弘淹校長(作庭家を父に持つ)が創立した学校でバウハウスをお手本として、報道とかコマーシャルというコースの細分化をしないで表現力を持った写真家を育てることを教育の目標としていた。

創立以来、「土田ヒロミ」「篠山紀信」や「操上和美」など多くの著名写真家を輩出していた。

ここの写真芸術科を受験し入学したのが日大を卒業して間もないころだった。
面接官に真っ黒だねと言われたのを覚えているがこの頃はいつも冬が明けるころはスキーで日焼けしていた。

会社が終わり亀戸から日吉まで新宿経由渋谷まで行き東横線に乗り換え2時間かけて日吉の学校に行くとそこは写真のプロを目指す二十歳前後の若者たちの集まりだった。
私はすでに年上の部類だったがなかには30を過ぎたものもいた。

昼間はアルバイトで生活をつないでいる学生が多いが彼らの意図はあくまで写真の世界に入ることだ。
私はここでも会社と写真の二足のわらじを履く生活だったがそれでも写真で生きていこうとする夢は彼らと共有していた。


学校での指導はそれまでのアマチュアの世界とは全く異質だった。
どの世界もそうだがプロを目指す世界は甘くない。

それを目指すぐらいだから生徒の資質も高く写真のレベルも高いが講師もまた手厳しかった。
褒めることはほとんどなく、君は何を撮りたいのかと初めから問われた。
撮る動機が大切だという事だ。

学校ではシュール(レアリズム)な写真を教えられた。
写真は引き算といわれるが余計なものを削っていけば本当に表現したいものだけが残る。
しかしそれを突き詰めていくとまるで抽象的な写真となる。
写真批評家を育てるような方針もあってかどちらかというと技術よりも理屈が多かったが写真の奥の深さを学んだ。

2年間の写真学校を通して有意義だったのは「創造」の世界を垣間見たことだ。

「無から有を創る」…この創造(クリエイティブ)の意味を肌で理解した。

0から1を生み出すのが「創造」でアートの世界では何よりもこれを評価する。
(どこかで見たことがある)人のまねはここでは馬鹿にされる。

誰もやったことのないものを純粋に創り出し世に問うたものが高く評価される世界だ。

写真も例外ではない。

しかしそれは想像以上に難しく誰でもできることではない。
生みの苦しみというが芸術家は日夜「創造」に苦しんでいるのが現実だと思う。

技術面は何年かやるうちにうまくなるがその上に行くにはもって生まれた資質の問題が出てくる。

本当のプロというのはこの資質を持った人にしか到達できない世界であることがある程度突き詰めると分かるようになる。

続けているうちに自分もこの壁がうっすら見えたような気がした。

奇人天才は紙一重というが自分にそうした突き抜けた創造性、才能があるかというと自信はなかった。

同じ教室で学ぶ者の中にはその資質のありそうな生徒もいた。
この世界で飯を食うことはできるだろう、しかし突出した写真家になれる自信はない。


プロを目指す学校で学んだことでむしろ自分の写真家としての資質もそれなりに知ることができた。

すでにアマチュアの領域は超えた(と自画自賛する)自分はむしろ写真を生活の糧としてではなくそれを生涯の友として生きるのがいいのではないかという気持ちに変化してきた。

安定した会社にいたためか土壇場でその先の一歩を超えられない自分がいたのかもしれない。

しかし真摯に取り組んだ上での結果なので悔いはなかった。



この2年間は同じ目標を持った彼らと酒を飲みながら写真談義することが楽しかったし自分の中にある創造という魂を磨く訓練が出来たのはその後の人生に大きな影響を与えることになった。

クリエイティブという試練を経験したことで自分もその道の人に共感できるものがあるし経営者となった後もデザイナーたちと同じ目線で話が出来るようになった。


昭和45年頃(1970) 写真に燃えていた写真学校の仲間たち 右から二番目が私



毎年5月と夏休みにはカメラを担いで旅と写真をセットに日本全国を撮り歩いた

私の履歴書 第六回 上京し第二精工舎入社、大学二部へ

昭和40年(1965)第二精工舎(現セイコーインスツル)に入社。

故郷を離れ親元からも離れていよいよあこがれの東京に住むことになる。
当時、東京江東区亀戸に本社工場があった。

大卒以外は地方出身の採用が原則なかったこともあり会社の寮には入れなかったのでその頃大田区蒲田にいた長兄の勉(当時独身)のアパートに数か月居候させてもらった。
その後同期入社の地方出身組(6名ほど)の板橋君と駒込の4畳半のアパートをルームシェアしその半年後には独立した生活が始まった。

同期入社は中卒が約300名、高卒が約80名、大卒が30名程度だったと記憶している。
好景気を反映しての大量採用だが当時はまだ中卒が主要な人材の時代だった。

亀戸の本社工場には3000人以上の従業員がいた。

本社機能(経営、間接部門)のほかに時計の中枢(企画、デザイン、時計研究、時計設計、技術開発、品質管理などの各部門)さらに大勢の女子工員がいて大奥と呼ばれていた時計組立工場、そして検査工場やメッキなどの現場が亀戸にありそれぞれが大人数を擁する大きな組織だった。

地板をはじめテンプ、歯車などの主要精密部品は主に千葉県内にある数か所の工場で製造していた。
市川市大野にあったミクロン単位の精密部品を造る金型製造部門にはスイス製の精密工作機械がたくさんありこの金型工場は世界でもトップクラスの技術と言われていた。

従業員は国内海外含めグループ全体で1万人を超える大会社だった。

入社してすぐに人事の面接があり同じ高校から入社した二人のうち一人は千葉県習志野にあるセイコー精機(工作機械部門)に行ってほしいといわれた。
えっ!?と思ったが幸い森田君が手を挙げてくれたので私は亀戸に入社することになった。

入社前の希望欄に「外装の現場」と書いていたためか私は当時新設されたばかりの側工場(時計ケース製造)に配属された。
配属された20名ほどは全員中学卒でなぜか私一人だけが高卒だった。
ちなみにカメラのシャッターを造っていたのは精工舎関連の他社で第二精工舎ではなかった。

当時第二精工舎の(時計製造会社としての)中核はムーブ部門であり設計、技術、開発などに関わる多くの技術者はムーブに関わるスタッフがメインであった。

そこには東大、東工大はじめ早稲田、慶応などの名門大学出の専門技術者も数多くいてまさに技術集団というにふさわしかった。

一方で時計外装は国内に10社ほどあった外注メーカーからの調達が主体だった。

社内には外装部門(デザイン、設計、技術、検査等)があったが実際の外装製造は行っておらず私が配属された職場は初の自社外装工場だった。

時計理論や技術を追求するムーブ部門に比べどちらかというとノウハウで積み上げられた感覚の外装部という感があった。

またデザインは時計において重要性を占めるがその所属は外装技術、製造に近い外装部の中にあった。

現場を希望した理由はいずれ外装のデザインを手がけたいという思いが自分にあったので製造現場の経験が将来役に立つのではないかと自分なりに漠然と考えてのことだった。

当時はレディス向けの小さくフェミニンなケースが市場で人気だったがこれを内作するのが職場のテーマだった。

真鍮のケースにキャスティング(遠心鋳造)製作の銀のオーナメントをロウ付けする作業やバフ盤での下磨きや仕上げ磨き、洗浄、検査などの一連の作業を経験した。

その後2年ほどして当該工場を管理する技術課から指名されて技術スタッフへと移籍したのだが自らの手でケースづくりに携わった経験は今でも生きておりその時の感覚が体に残っている。


この頃、ベビーブーマー団塊の世代)が10代後半になり消費市場が急拡大していた。

オリンピック後の不況から抜け出した好景気と共にエレキギター、レコード、カメラ、漫画雑誌、任侠映画、ファッション、腕時計などが若者中心に流行し拡大し始めていた。

毎年4月の入学、就職の時期になると時計の購入やプレゼント需要が一気に増えフレッシュマンセールと銘打ったテレビ広告もあって時計が大いに売れ会社の業績は絶好調だった。

セイコーッでスタート♪”というテレビ広告のキャッチフレーズは今でも覚えているが当時は国内でのセイコーのネームバリューが圧倒的に強かった。

販売は親会社である服部時計店(現セイコーホールディングス)が担当していたが製造を請け負う第二精工舎の生産も伸びまさに大量生産の幕開けだった。

まだクオーツが出現する以前の機械式の時代で当時は比較的高価だった。

入社した年の冬のボーナスが4か月も出てびっくりしたのを覚えている。
母親にもいくばくかのお金を渡した。

会社の労働組合が所属していた全金同盟(全国金属産業労働組合同盟)には多くの大手企業が所属していたがその中でも第二精工舎はトップレベルだった。
当時江東区近辺ではお嫁さんの成り手が一番人気といわれていた。

世の中はまさに高度成長の真っ最中でインフレ率は2ケタの時代で給与も二ケタでアップした。

物価も上がるが給料もそれ以上に上がる時代で今の中国のように人々は未来の発展と繁栄を予感できる社会だった。

余談ながらデフレは物価も上がらないので消費者にとって一見よさそうに見えてもすべてが縮小するデフレ経済では会社を苦しめ、結果そこに働いている人をも苦しめる。
(適度な)インフレのほうが明るい未来を感じられよほど人々をハッピーにする。


昭和41年(1966)入社二年目になり東京の生活にも慣れてきたころ御茶ノ水にある日本大学理工学部(機械工学科二部)を受験した

4月に入学したらたまたま同じクラスに同期入社の馬場君がいた。
彼は時計設計部に所属していたがその後大学時代の友人として長い付き合いになる。

会社が終わってから大学の講義室に行くと前の方はすでに大勢の学生が席についており後ろの方だけ空いている。

そのあたりでいつも気持ちよさそうに居眠りをしている学生がいた。
机の上にはいつも自衛隊の帽子だけが置いてあった。
自衛隊からも夜間大学に来る人が居るのかと感心した。
のちに親友になる山梨県出身の進藤君だった。

日中はみんな仕事を持っているので夕方になると疲れも出てくる。
私も含めて先生の講義がちょうど心地よい子守唄になってしまう。

一般教養課程では哲学や国文学など興味ある講義もあった。
高校から工学系を専門としていたので一般教養の講義が私には新鮮だった。


専門課程に入ると物理、化学のほかに機械工学系では機械要素、材料力学、金属材料などの専門が入ってくる。

中でも実験という課程があり工学系の実習があったがレポート提出の負担が昼の仕事を持つ二部の生徒にはけっこうつらかった。
エンジン設計というのもあり理屈もわからずにエンジンの設計もした。

大学の勉強というのは浅く広くなるが後に自分の専門分野に入っていくときにその入口としての基礎ができ調べるノウハウが身につくことが役に立つ。

試験の時期になるとさすがに昼夜掛け持ちはきつかった。

先輩から試験問題を聞きうまく切り抜ける連中もいたが私は要領が悪く勉強しないと点が取れずに単位ももらえないので試験の時だけはまじめに勉強した。


ある時3日続けて徹夜をして会社に行かなかったら無断欠勤となり大目玉をくらったことがあった。

大学に行き腹が減ると隣の明治大学にあった安い学食をよく食べた。

そのうち気の合う仲間ができると抜け出して御茶ノ水界隈の喫茶店ルノアールでよくだべったりした。

抜け出すときには代返を頼むことがあった。
出席が足りないと単位ももらえないので先生が出席を取るときにハイッと答える役だが一人二役で器用に声を変える者もいた。

先生も承知で、二部の学生には大目に見てくれていたのだと思う。

外に出ても金はないからお金のかからないところで時間をつぶすのだがそれでも若いころは仲間といるだけで楽しい。

中でもジャズの好きな林田君がいて彼とは当時新宿や渋谷などにあったジャズ喫茶に通った。
当時はジャズが好きな若者もけっこういて都内には小さなジャズ喫茶があちこちにあった。

どういうわけか地下の店が多かったが薄暗い部屋の壁一面にLPレコードが置かれ大きなスピーカーと大音量の中で若者が何時間も聴き入っている。
私もそんな一人でモダンジャズが好きだった。

小さい頃はマーチが好きだったが高校ではグレンミラーなどのビッグバンドのジャズが好きで寝床でよく聞いていた。

あるとき駒込のジャズ喫茶に行くと渡辺貞夫(サックス)が演奏していてサインをもらったことがある。彼は宇都宮工業高校の先輩にあたる。

新宿ピットインではすでに有名になっていた20代後半の日野皓正(トランペット)がほっぺたを目いっぱい膨らませて吹くあの奏法で目の前で演奏したのを覚えている。
山下洋輔(ピアノ)トリオの超ハイテンポで情熱的な演奏を聞いたときは自分の中の何かが叫びだしたいような勇気をもらったのを覚えている。
ベースは坂本明だった。

今ではみんなジャズ界の超大御所になっている。


このころスキーにも夢中だった。

大学の体育課程で単位不足の生徒を対象にスキー合宿に参加すれば単位が取れるというので
ろくにやったこともない連中が単位目的で志賀高原のスキー合宿をした。
これがほんとうに楽しかった。

下手なりに青い空と澄み渡る空気の中で滑るスキーの醍醐味が病み付きになりそれ以降スキーの虜になった。

冬になると土日の休みを利用して気の合う進藤君と1シーズン10回以上はスキー場通いをするようになった。
重いスキー板と靴をかつぎスキー場に行くのが当時の若者のファッションでもあった。

毎年12月になると雪が待ち遠しくなる。
金曜夜発のバスに乗り込み翌朝スキー場に着くと休む間もなくそのままスキー場へ。
夕方まで滑り続け夕食をたらふく食ってからぐっすり一泊、翌朝早くから滑り出し午後のバスで夜東京着という過酷なスケジュールだったがそれでも翌日の勤務に影響はなく次の週末が待ち遠しかった。



1969年大学3年のころに東大学生の安田講堂占拠で機動隊が出動した紛争がありその後学生運動が全国に広がり過激になってきた。

日大でも校舎がバリケード封鎖され学生のアジが始まり授業ができない状態がしばらく続いた。
大学教授たちもまったく手が出せない。

私自身はノンポリだったが同じクラスからは運動に参加する者もいた。

そのため後半はまともに勉強できる状況ではなく同期の馬場君は途中で学校に来るのを諦めた。

私は一応学校を続けたのだが4年の卒業時期になると学校の都合で押し出された感じで昭和45年(1970)卒業証書を受領した。


そんなわけで日大に通っていたころは会社半分、学校半分という二足のわらじの日々で仕事もそこそこだったがどちらかというと安定した収入をもらえる中で自分が好きなことを純粋に追っかけた時代でもあった。

振り返れば大学時代の楽しかった思い出が鮮明に蘇ってくる。


このころはまだ自分が本当にやりたいことが何なのかつかめていなかったしこれからの人生を模索していた時期だったかと思う。

人生で20代はまだ自分自身が見えていないことが多く自分の目標がまだ掴めない自分探しの時期ではないだろうか。

だからこそその時期はできるだけいろんな経験をして世の中を知ることが大事だと思う。


このころの世相を見ると

1966年ビートルズが来日しファンが熱狂、武道館での公演。
米軍のベトナム北爆が開始され世界各地で反戦運動がおこり日本でも活発化。

ミニスカートが爆発的に流行しオフィスでも駅でも車内でもみんなミニだった。

1967オールナイトニッポンという深夜放送が始まる。
フォーククルセダーズのおらは死んじまっただ♪(帰ってきた酔っ払い)はここから爆発した。

エレキギターが流行、ベンチャーズ、ゴーゴー、モンキーダンスが流行した。

1968年GNP(現GDP)が西ドイツを抜き世界2位に
エコノミックアニマル、モーレツ社員

1968川端康成ノーベル文学賞受賞
1968年3億円強奪事件

などが自分の記憶とつながっている。


1966第二精工舎側工場職場旅行
一番左が私


日大二年のころ 右が私、中央が林田君


日大志賀高原スキー合宿 右から二番目が私、左から二番目が進藤君

私の履歴書 第五回 高校時代、体操と写真

昭和37年(1962)入学試験に合格し宇都宮工業高校 精密機械科に入学した。
機械科や電気科が当時の花形だったが自分としてはカメラに興味があったので精密機械に惹かれた。
鹿沼から国鉄(JR)で一駅乗りそこからバスで通学した。

高校では家に負担をかけたくないので育英奨学金を申請した。
月々1000円を受け取り就業後に返済を開始する。

現在の価値でいくらなのか消費者物価指数を調べてみると4.5倍、約4500円になる。
(ちなみにこの指数をみると日本は2016年時点でいまだにデフレ状態から脱却していないことが分かる)

お金は大事に使ったが自分の小遣いとして使えるのでずいぶん助かった。

高校でも体操部に入った。

入学早々のある日、たまたま新入生全員が参加する校庭逆立ち歩き大会があった。
一歩も歩けない新入生も多かったが私にとっては楽勝である。
20mぐらい余裕で逆立ち歩きして誰もついて来なくなったところで笑顔を見せた。それを体操部の先輩が見ていて後で勧誘に来た。

入部した後はやはり練習漬けの日が続いた。
中学時代の体操とは数段レベルが違い競技種目も増えそれぞれ難度が高い。
跳馬と鉄棒、それに(12m四方の)床運動までは中学の延長で行けたが高校になると鞍馬、吊り輪、平行棒が加わる。

初めての吊り輪はぶら下がったきり何もできない、中学との違いを思い知らされた。
鞍馬も難しく二つある取っ手をつかみ体を浮かせて互い違いに動かすのは想像以上に難しい。

それでも練習するうちにだんだん技ができるようになってきた。
何事も初めは難しく感じるのだが続けているうちにできるようになるものだ。

私はそのころ背が伸びた分、がりがりに痩せていたが次第に体操の筋肉がついてきた。
体操競技は体のばねが必要だが上半身の筋肉がないと何もできない。
体操で鍛えた筋肉はボディビルで作るそれとはまったく異質で弾力がある。

一年生の時に栃木県大会で団体準優勝し水戸市で行われた関東大会に出場した。
たまたま三年生が一人で二年生が中心だったので私は一年生で正選手となった。

だが年が明けた頃には退部を考えるようになった。
先輩風をふかした二年生がいて一年生に言いたい放題、乱暴できつく当たっていた。
今にして思えば男子校や体育会系によくある未熟な男子のいじめのようなものだがその風潮になじめず次第に練習が嫌になってきた。

高校1年の時につけていた日記に体操部顧問の川俣先生と話をしたことを記している。
先生は私を次期ホープとして期待してくれていたのでいろいろと面倒を見て説得をしてくれたのだがこのころ私は写真に興味を持ち始めていて写真部へ移るかどうか迷っていた。
3月の他校での強化合宿までは参加したが体操部を続ける気持ちが薄くなっていた。

4月、2年生になり体操部に退部届を出し写真部に入った。

その直前に以前から欲しかったカメラを(すでに就職した)兄たちからもらったお年玉をもとに月賦で購入した。
コニカEEマチック13100円、10か月の月賦で月々1100円(とたまたま日記にあった)
カメラを買うためにお金を上げたんじゃないと後で兄から叱られたがその頃何よりもカメラが欲しかった。
早速念願のカメラで近くの御殿山公園で撮影し学校の暗室でクラスの友人に教わりながら初めてのフィルム現像をした。
その後はネガ(現像したフィルム)から印画紙に焼く(プリントする)作業も徐々に覚えていった。

自分で撮った写真を自ら現像し印画紙に焼き付けする暗室作業がとても新鮮で面白かった。
ネガフィルムを引伸ばし機で印画紙に露光した後、現像液に付けると数秒後に画像がスーツと浮かび上がってくる…その瞬間に素直に感動し理屈抜きで興奮した。

単純に自分の写真(映像)が作れることが面白くどんどん興味が湧いてきた。
購入したカメラであちこちカメラ小僧よろしく撮るようになった。
当時はまだ写真の内容云々までは及ばなかったが後日映像に興味を持つきっかけになった。


昭和38年(1963)2年生の10月に4泊5日の修学旅行があった。
宇都宮から東京に出て岡山、四国高松を経て神戸、京都、奈良と周った。
楽しい思い出だったがその時に撮った写真があろうことかフィルム現像で失敗してしまった苦い思い出がある。
フィルム現像の失敗は取り返しがつかない。

その後も現像ムラを出したり冬に現像液の温度が低く画像が出なかったりと時折失敗も繰り返しながら徐々に技術が上がっていった。
学校ではD76やD72などの現像液も薬品を混ぜて自作するようになった。

2年生の12月には日本商工会議所計算尺2級検定試験を受けた。
工業高校では技術者を目標としているので三角関数や乗除などの技術計算を屋外で素早く概算(頭三けたを知る)する方法として計算尺の練習があった。
受験者は県下で500人弱、合格率は2割と聞いていたがなんとか合格した。


このころ学校の図書館から本を借りる機会が増え積極的に読んだ。
吉川英治森鴎外三島由紀夫松本清張川端康成本田宗一郎獅子文六など
特に吉川英治宮本武蔵は読み始めると面白く止まらない、寝床で遅くまで読んでいた記憶がある。

60年代前半、好景気に沸く日本列島では大黒柱が都会に出稼ぎに出て農村では三ちゃん農業に。
坂本九のスキヤキ(上を向いて歩こう)が全米一位になり、キング牧師が人種差別を訴えアメリカで演説。
1963年には初の日米宇宙中継が登場したがその時ケネディ大統領の暗殺がニュースとして日本中に流れた
大鵬が6場所連続優勝し巨人大鵬卵焼きという言葉が流行った。

1964年10月に東海道新幹線が開通し東京五輪開催、日本中が沸き返った。
女子バレーボールの視聴率が67%、私もテレビにかじりついて応援したのを覚えている。
東洋の魔女”を金メダルに導いた大松監督の著書“俺についてこい“は映画にもなった。

私は宇都宮を通過した聖火リレーを見て盛り上がり、入場券もないのにオリンピックの生の雰囲気を少しでも味わいたくて東京国立競技場まで行った。

高校3年になりいよいよ就職試験を受ける時期になった。

写真に興味があったのでカメラメーカーに入りたかった。
キャノンの募集案内が先生からあったがこれは成績上位者のみに限られるという話だった。
しかもかなり確率は難しいという。
なんとか学校推薦で試験を受けさせてもらったが確かに難しい試験で結局落ちてしまった。

そのあと今度は第二精工舎という会社があるという。
当時の日本ではSEIKO掛時計が有名で精工舎の名前は轟いていて母も家にある古い掛け時計を指して“セイコーの時計はいいんだー”
とよく言っていた。

だが第二精工舎って?聞いたこともない。
どうやら精工舎の兄弟会社で腕時計を造っている会社らしいと分かった。
しかし腕時計はまだそれほど一般に普及しておらず時計といえば掛時計が常識の時代だった。

カメラに比べて腕時計にあまり関心はなかったが調べたらカメラのシャッターも造っているようなのでそれに惹かれて受けてみた。
こちらは試験問題も比較的易しく私と森田君が精密機械科から受験し二人とも内定をもらった。

母に報告すると“セイコーに受かったんけー”と鹿沼弁で喜んでくれた。
これで母を安心させることが出来た。
それからは卒業するまで憧れの東京に行くのが待ち遠しかった。


余談だがこの項の最後に内緒話をちょっと。

同じ中学のクラスから宇都宮女子高という県下一の名門女子高に入った女子がいた。
小柄で知性的な顔立ちの子だったが学年で断トツな成績で雲の上的存在だった。
同じ通学路となり日々顔を合わせる機会が多く次第に意識するようになった。
そのくせ顔をみるとなぜかドキドキしてしまい知らん顔をする。
結局三年間ほとんど口をきく機会がなかった。

上京する前に一度だけ話をしたくて思い切って手紙を書いた。
家で会ってくれるというので訪問すると書籍棚のある書斎風の部屋に案内されお母さんがお茶を入れてくれた。
お父さんは学校の先生で先祖に本居宣長がいるとのことだった。
結局告白もせずに時間を過ごしたが相手は察してくれたかと思う。
その人の名は渡辺澪子(みよこ)さん。

その後は一度も会う機会がなかったが私の中ではいつまでもマドンナである。
もし今も健在ならば今一度会ってその時のことを語りたい。

完全一方通行だった私のほろ苦い初恋の思い出である。


体操競技関東大会で 前列右  後列右が川俣先生

写真部 前列右から三番目

卒業を前に校庭で  左から三番目

私の履歴書 第四回 中学時代

昭和34年(1959)、皇太子(今上天皇)と美智子様のご成婚の年に鹿沼市立東中学校に入学、あこがれの体操部に入部した。

放課後になると校内にある体育館でほぼ毎日のように練習した。

入部してしばらくは体の柔軟訓練をやらされた。
マットの上で開脚し先輩から思い切り背中を押されると新人はみんな痛くて悲鳴を上げる。
翌日は体があちこち痛いうちにまた放課後同じことをやるような日々が続く。

三か月もすると体が徐々に慣れてきて開脚でマットに腹をつけられるまで柔らくなった。
毎日体操ができるのが楽しく休みの日も学校で練習する日々が続いた。
毎日へとへとになるまで練習しても翌日になると疲れが残っていない。
10代の体はまさしくエネルギーの塊だ。

当時中学での男子体操競技は団体徒手体操と個人競技で行うマット運動、跳馬、鉄棒の三種目だった。

もともと小さい方で身が軽い割には腕の力が強かったので上達は早かった。
2年生になると部内のエース級になったが同級生に野々宮君という選手がいてここでも一番にはなれなかった。

彼は成績も優秀、文武両面でかなわなかったが三年になると父親の転勤で宇都宮へ転校した。
その後何年か後に東京教育大(現筑波大)の体操部に入ったという話を聞いた。
オリンピックで金メダルを何度も取った加藤沢男選手(元筑波大教授)とは大学時代の同期で一緒に練習したらしい。
世の中には上には上がいるものでさすがの野々宮君も加藤選手にはかなわなかっただろう。

野々宮君が転向した後に学級委員の補欠選挙があり私が僅差で選ばれた。
挨拶をということで「自分が級長になっても特に何も変わらないと思う」と本音を言ったらみんなに大笑いされた。

当時体操部を指導する女性の先生が熱心で生徒も練習をまじめにやったこともあり中学2年の時に地区(郡)で団体優勝し栃木県大会に出場した思い出がある。

日頃は体操に夢中になっていたが中学に入ってからは成績も気にするようになり期末試験の時期になるとまじめに勉強するようになった。

ほぼ一夜漬けに近いがそれでも試験の一週間ぐらい前から集中して勉強し成績は上位10%に入るようになっていた。
体操部に所属していたので体育だけはいつも5をもらえた。

ある日中学の美術の曽我先生(女性)から職員室に呼ばれた。
当時の鹿沼市内では絵の世界で名の知られた先生だった。

何事かと思って恐る恐る先生の前に行くと嬉しそうに「100点満点を取ったのは全学年で君だけだ」と褒められた。

団塊の世代で当時7クラスぐらいあったので同学年が300人以上はいたと思う。
どんなテスト内容だったかは覚えていないが美術史の問題の他に自分の手をデッサンする課題があったと記憶している。

なぜ一人だけ満点をくれたのか。
絵を描くのは嫌いではなかったが特別絵がうまかったわけでもないし絵で表彰された覚えもない。

その時はそれで終わってしまったがその頃はまだ普通の中学生でアートという観念すら知らなかったし自分に芸術的探究やクリエイティブの芽があることすら自分でも気が付かなかった。

振り返ってみれば、今の自分も美術品や工芸品などのアートに興味があるし、暇ができたので水彩画も始めている。
今にして思えば自分は美術の道に進むのが向いていたのではないかと思うことがある。


思い起こせば中学時代からカメラに関心があった。
こんなエピソードもあった。

兄たちからもらった小遣いをためてある日市内の写真屋さんで安いカメラを買って近所の風景を何枚か撮影した。
その後、カメラの中がどうなっているのか好奇心いっぱいになり家に帰ってカメラの蓋をあけて中を覗いてみた。
中にはコマ送りされたフィルムがあったが見たところ何の変化もない。
写真屋に持ち込み数日後に期待いっぱいで取りに行ったら「お客さん全部真っ黒ですよ、光が入っている」
フィルムを開けたら露光でダメになることをその時まで知らなかった。

これが私の写真の始まりだ。




中学時代にはテレビの民放局も増えて面白い番組がどんどん出てきた。

NHKの「夢で逢いましょう」「若い季節」、民放の「ザヒットパレード」「シャボン玉ホリデイ」「七人の刑事」「ローハイド」「ララミー牧場」など。

若い頃のクレージーキャッツが演じるショートコント「大人の漫画」は学校でも話題になった。
ちなみにあの脚本を手掛けたのは後に東京都知事を務めた青島幸男だ。

特に思い出のあるテレビ番組の一つに「兼高かおる世界の旅」があり毎週日曜日朝の放映を見るのが楽しみだった。

放送開始が昭和34年(1959)なのでちょうど中学に入った年だ。
テーマ曲は「80日間世界一周」。
知的な美人ジャーナリストの兼高かおるが世界各地を取材する番組でアメリカやヨーロッパのありきたりの観光地ではなく普通の人が行かないようなところにも行き現地の人と交流していた。

その姿がまだ海外どころか日本すらよく知らない世間知らずの自分をとても刺激した。
それまでそんな番組はなかった。

当時は日本人の海外渡航自体に制限があり一般人にとって海外はなじみが薄くまだ夢の世界だった。
(海外旅行が自由化されたのは1964年)

この番組で知る海外という未知の世界がとても新鮮で魅力的、私の中でいつしか海外に往ってみたいと思う気持ちが少しずつ育っていった。



中学三年生となり高校受験の時期になる。
このころは成績も各科目とも5が並ぶようになっていたので担任の先生から栃木県の有名校の受験を勧められた。

当時は公立校が優位で、一部のお金持ちか公立に入れない成績の悪い生徒が私立校に流れる時代だった。

鹿沼市には普通高校と実業高校の二つの公立高校があり市内の高校に進学するのが普通のコースだった。

すぐ上の兄たち二人は私と違っていつも机に向かっているタイプで優秀な成績だった。
中学時代は全校で3番だとか4番とか言いあっていたがそれぞれ市内の鹿沼農商高校商業科を出ている。

三兄(英男)はすでに日本電電公社(現NTT)に就職し、四兄(洋)は高三で野村證券への内定が出ていて母は喜んでいた。
母は私にも安定した大企業に入ることを望んでいた。

私は商業コースに行くことに何となく違和感があり工業コースのほうが自分にあっているような気がしていた。

隣の宇都宮市(県庁所在地)に男子校として県下の有名公立高校が二つあった。
県下一の宇都宮高校とそれに次ぐ宇都宮工業高校だが前者は大学に行くのが前提の進学校

母親はすでに50台の半ばとなり当時は次兄(徹)の電気工事店での収入が家を支えていた。
(その頃長男は東京や宇都宮の洋品店の住み込みで働いていてほとんど家にはいなかった)
高校を出てさらにその先4年間も次兄の世話になるわけにはいかない。

母親を早く安心させたい気持ちもあり自分の中に大学という選択肢はなかった。
迷わず就職に有利な工業高校の道を選んだ。

その時、次兄が「大学に行きたければ行ってもいいぞ」と言ってくれたことを今でも覚えている。
兄弟で一人ぐらいは大学に行ってもいいと思ったようだ。
ただし家から通える宇都宮大学(国立)が条件となる。

私はそのころテレビなどで知る文化の発信地、東京にあこがれがあった。
早く東京に出て都会の生活をしたいという思いも後押しして県立宇都宮工業高校を受験した。


中学二年の時、団体地区優勝
二列目左から野々宮君、私。 全列右から三人目が指導の先生


昭和37年(1962)中学卒業の謝恩会で
2列目一番右私 、前列中央 川田順先生