私の履歴書 第十五回 香港で創業、悪戦苦闘のすえ業績を出す

 

平成元年(1989)5月19日 再び香港に戻り陳君と二人だけの会社を起動した。

 

荃湾(チェンワン)駅に直結した南豊中心の小さなオフィスはいくつかの机と電話、FAXがあるだけ。

6年前のセイコーの赴任時とは180度転換、会社のバックアップもなければ仕事もなく得意先もない、その上資金に余裕もない背水の陣だ。

文字通りゼロからのスタートであった。

今思えば世間知らず、怖いもの知らずの発進だったがその時は夢と情熱が不安を上回っていた。

 

私の着任前から陳君が知り合いのケースメーカー相手に日本製の刃具や治工具などを細々と販売し始めていた。

着任後は日本の知り合いで不要になった時計用の機械などの仲介をしたり、二光光学からサファイヤクリスタルを仕入れ香港に販売、売り上げの糧にしたが時計の商売はまだ先の話になる。

 

20日は朝からシグナル8の強い台風に見舞われた。

ちょうど万世工業社長一行がアジア視察で台湾から入り翌日マレーシアに発つ予定だったが台風で一日延長したためその夜は尖沙咀(チムサチュイ)の日航ホテルで社長と食事を共にする機会を得た。

万世工業は香港での私の活動に強い期待感を持ってくれていた。

 

22日には当時日本のバブルに乗って時計の販売を伸ばしていた三友舎の須藤社長が日本から来社、25日には藤沼ガラスの専務が来社し夕食を共にした。

 少しずつコンタクト先が増えていたが目前の現実はまだ売り上げも乏しく収入がほとんどない中で毎月の固定費だけが無常に出ていく。

しだいに手持ち金が減っていく不安な日々が続いた。

 いざ会社が始まると現実の厳しさを前にさすがにいつまでも楽観的ではいられなくなった。

オフィスに一人遅くまで残りこれからの方策を考える日々を過ごした。

 

さまざまな不安が頭をよぎり眠れない夜もあったがそういう時は“何とかなるさ”と自分に言い聞かせるようにした。

しばらくはそんな繰り返しが続いた。

 

幸い宿泊は精美の李さん宅にお世話になり当面の住居費は浮いたがいつまでも居候しているわけにもいかない。

早く売り上げを作らないことにはいずれ行き詰る。

 

出費も減らさなければならないが減らす余地はどこにもない。

サラリーマン時代にはたいして気にもとめていなかったが会社を始めたとたんコストを切り詰める大事さも身に染みた。

収入(売上)と経費(コスト)という経営の基本がいやが上にも叩き込まれた。

 

6月に入り日本に出張、万世工業への訪問で時計ビジネスの商談が具体的に進展、ようやく時計のOEM製作がスタートできる道筋が見えてきた。

 

その矢先、6月4日、私が日本に戻っている時に北京での天安門事件のニュースがテレビで流れた。

軍による制圧で多くの死者が出たらしい。

 

その少し前の5月には香港でも連日のように学生たちの集会がニュースになっていた。

それがさらにエスカレートしついに中国共産党(鄧小平)がしびれを切らして軍による力の行使に出たのだ。

 

少し本題からそれるがこの天安門事件はちょうど今の香港での民主化運動と重なるので若干説明を加えたい。

 

「1989年、中国の改革を進めていた胡耀邦総書記が4月になくなり学生らの追悼集会が開かれたがこれがしだいにヒートアップし中国独裁体制を否定し民主化への移行を求めるデモへと発展していった。

これは胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味合いも含んでいた。

この動きは北京だけでなく西安や南京にも広がったが中国共産党は、戒厳令を布き、デモの鎮圧のために軍隊を動員、無差別に発砲し、強引に鎮圧した。

天安門事件の死者数は中国共産党の発表では学生や軍を合わせて319人だが実際には3000人を超えると言われている。

天安門事件というと民主化デモの弾圧に目が行きがちだが、中国共産党内の政権闘争という側面もあった。

事件当時、中国共産党内で趙紫陽は総書記だったが、実権を握っていたのは鄧小平だった。

当時の共産党内には、共産主義保守の鄧小平率いる長老派の存在があり、天安門事件を利用して改革派趙紫陽の排除を狙ったものともいわれる。

共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立て、若者から人気のあった趙は、伝統的な共産主義を維持したい長老派からは厄介な存在に見られていたようだ。

天安門事件の発端となるデモが起こった時も、趙は平和的な解決を模索し、積極的な話し合いをしていたが学生のなかには過激な意見を持つものもいて、話し合いは決裂していた。

鄧はこのデモを反社会的行動(動乱)と決めつけ、軍隊によるデモの強制解散を指示。

趙は武力弾圧に反対したが、鄧は趙の役職をすべて解任して軟禁状態にし、弾圧が実行された。

以降、中国共産党はこの天安門事件を完全に密封、正当化し30年たった今も民主化の兆候は見られない。」

(以上要約)

 

当時その陣頭指揮をとったのが先日(2019.7.22)亡くなった李鵬元首相だった。くしくもあれから30年たった今年2019年、香港で再び民主化の動きがエスカレートしその様相があのときに似てきている。

返還後22年が過ぎ香港政府の急速な中国接近に若者が一国両制の不満と香港の将来に不安を生んでいることが根にある。イギリス植民地下で自由を謳歌してきた多くの香港市民にとっても同じ思いがある。

中国中央(共産党)がますます過激になっている香港の運動をいつまで傍観しているか。

しびれを切らし香港駐留の中国軍を動かして香港の国際的信用を大きく失うことにならないよう祈るばかりである。

 

話を戻そう。

89年の天安門事件直後の6月9日、私は香港に戻った。

空港には李さんと陳君が迎えに来てくれておりその足で李さんの自宅まで車で送ってもらったが香港はいつも通りで特に変わった様子はなかった。

私はその後李さんの家のテレビで戦車が学生のバリケードを強行突破するあのシーンを何度も見た。

 

事件後の6月16日、李さんの中国開平(カイピン)ケース工場に赴いたが中国の入国審査は特に普段と変わらず開平の工場もいつもと変わらぬ様子で動いていた。

 

6月24日、荃湾のオフィスに向かう李さんの車(ベンツ)の中で日本の美空ひばり死亡のニュースを聞いた。

その2年前に石原裕次郎が逝き、昭和を代表するスターが相次いで亡くなった。小さいころからテレビやラジオで聞いていたので懐かしい旋律が今も残っている。

この年は鉄腕アトム火の鳥など数々の名作を残し日本の漫画界をリードした手塚治虫パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げ経営の神様と言われた松下幸之助が亡くなっている。

 

7月に入ると5,6月の取引の収入が入りだしようやくオフィス代と陳君のサラリーが出せるようになってきた。 ‥が自分のサラリーまではまだ回らない。

 

一つの会社を起こすと役所がらみほか何かと事務処理が多い。

そうした事務処理から雑用まで二人でこなしていたがどうにも時間が足りなくなってきた。

さすがにクラーク一人採用が必要なので自分の給料も当分お預けになる。

 

7月17日、日本から大口時計社長とLトレーディング林氏が来港しオフィスを見学、創業のお祝い金までいただいた。

19日に中国深圳のASINO組立工場を案内、20日からは林氏と台湾に出張し時計ビジネス開始に向けて日系の台湾昭工初め遠東、亜州、中興、東方など当時の台湾の名だたるケースとダイアルのメーカーを訪問してきた。

そのころはまだ台湾にも時計部品を造るメーカーが残っていた。

 

深圳にあるASINO組立工場はもとEPH(EPSON HK)の時計組立技術を担当していた現地のベテラン社員数人が独立し労務費の安い中国深圳(経済第一特区)に始めた時計の組立工場でEPHの下請け仕事などで100人ほどのワーカーを抱えていた。

我々はこのASINOへ時計の外装組み立てを後日依頼するようになる。

 

8月に入ると李さんの息子さんがアメリカ留学から一時帰国することになり部屋を開けることになった。

ちょうどPEL時代の同僚だった友人のレイモンド林が新界地区の沙田第一城に小さなフラットを持っていたのでそこの間借りを頼み8月5日、手ぶらで引っ越した。

 

李さん宅にしばらくお世話になりお互い気を使うところもあったので精神的に少し解放されたが部屋にはエアコンだけで冷蔵庫もテレビもなくベッドもなかった。

さしあたり寝るために必要な簡易ベッドだけ購入し何にもない生活が始まった。

(会社も個人も金の出どころは同じなので)出費を抑えるために自身の生活を切り詰めた。

 

引き続き日本からの来客がひっきりなしに入ってくる忙しい日々が続いた。

日本に戻っても客先をあちこち動き回り夜も遅く家に帰るので子供たちとの時間も取れなかった。

オーバーワーク気味で気持ちに余裕がなかったがこのころ妻とのFAXのやり取りが気分を和らげてくれた。

 

三か月が過ぎ仕事が順調に増えてきていた矢先、パートナーとしてスタートした陳君が突然辞めたいと言ってきた。

「このまま続けても先が見えない」と彼はいつしか弱気になっていた。

 

この先この香港で自分一人ではどうにもならない。

何とかしなければと私はその日彼を尖沙咀日本食に誘い、軽く酒を飲みながら顔を突き合わせて必死に説得を試みた。

「会社は順調に来ており今の流れで行けばもうすぐ結果が出てくる、将来必ずいい会社にする自信があるから信用して就いてきてくれ」と真剣に説明した。

実のところ先は読めなかったが「何としてでもモノにする」気迫はあった。

 

幸い彼の気持ちは収まり引き続き頑張る約束をしてくれた。

そのころの陳君は若さもありまだ雇われの身から経営者への意識転換には至っていなかった。

 

その年9月10日から香港インターナショナルウォッチフェアが始まった。

日本から二光光学の押野社長やLトレの林氏、万世工業千倉部長らが来港、私は通訳兼ねて香港ブースを廻りその足で中国のケースメーカーやASINO組立工場も案内した。

フェア後も林時計の林社長(現会長)ら一行、EPSON系の時計針メーカーみくに工業の古田部長と藤森氏らが続きASINOに案内した。

 

中国は1980年代から始めた改革開放政策で外資に対して税を優遇した経済特区をいくつかの都市で試験的に始めたがなかでも香港と隣接している深圳特区には香港の会社が続々と工場を移していた。

このころは深圳(第一経済特区)からさらにその裏の東莞(トンクン)、恵州(ワイジャウ)などの第二経済特区へと工業地区が急ピッチで拡大、大規模な工業地帯へと発展していた。

当時は高速道路も整備されておらずでこぼこ道ばかりで至る所工事中、日本のおさがりで床に穴が開いて地面が見えるタクシーで2時間以上もかけて現地までたどり着くような状況だったが邱さんがかつて予言していた“中国は世界の工場になる”が急速に現実化していた。

 

世界の注目を浴びていたこの経済特区の実態を視察するのが日本のビジネスマンの定番コースになっていたので来客のたびに私は陳君を同行して案内することが日常になっていた。

 

手帳を見ると10月になってようやく冷蔵庫を購入した記録が残っている。

このころフラットは寝に帰るだけ、家でくつろぐこともほとんどなかった。

ある朝目覚めたときに「あれ?何でこんなところに一人でいるんだろう」と不思議な感覚になったことがある。

セイコーの赴任時代とはあまりにも打って変わった生活に自分の現実を疑ったりもした。

 

香港には私よりも一足早く時計会社を経営していた日本人がいた。

10月27日、そのScatの町野氏から声を掛けられて夕食に誘われた。

どこから聞きつけたのか私の香港での起業を知り時計の技術者が欲しいと入社を誘われた。

自分はまだ会社を始めたばかりでこの先まだ続けたいのでとお断りした。

 

このころになると万世工業の時計ビジネスが順調に増え会社の数字が伸びてきていたが10月28日の妻へのFAXでこう記している。

「売り上げは伸びてきたがまだ予断を許さない状況。

先の見通しが立たない中で精神的にきつい。創業の一年はいかにサバイバルするかの戦いだ。

金がないとつい弱気になるが長期戦覚悟でケチケチ生活を続けている」

 

11月に入りHOL(Hattori Overseas)小針氏が来社、初めてALBAビジネスの商談が動き出す。

11月8日、万世工業後藤社長一行が台湾から来港、ホリデイインホテルで待ち合わせ、時計バンドの仕事を香港でやられていた池田氏を交えて夕食、翌9日は日帰りで深圳ASINOに行きかつての日本でやっていたようなライン(流れ作業)での時計組立風景を見てもらった。

 

このころ香港のケースメーカーから集めたサンプルをロールに巻きそれを数巻入れた重い荷物をキャリーで持ち歩き日本の客先を廻っていた。

当時は香港のケースメーカーが保有する在型モデル(ケース)でも時計が売れる時代でまだオリジナルデザインを起こす必要性もうすかった。

 

半年が過ぎ12月になると万世向け時計売り上げ寄与で11月締めP/Lでの数字が大きく伸びやっと安堵の気持ちが出てきた。

ようやく自分の給料が取れるかと思うとうれしかった。

24年前、第二精工舎で初めて給料をもらう時の気持ちがよみがえった。

 

このころ李さんに中国ケース工場(精美)のマネージメントの仕事を期待されていたのでお世話になったお礼と、自身の安定した収入を得ることがケンテックスの発展にもつながると思い引き受けた。

ますます香港、中国の仕事にどっぷりつかることになるが邱さんの“野心家の時間割”という本にあった「収入は時間活用の密度に比例する、野心家なら多忙であれ」という言葉にも影響された。

 

このころ妻とのFAXのやり取りが頻繁にあったが時折Goodニュースを届けてくれた。

 

次男(直樹8歳)が消防のポスターで鎌ヶ谷市長賞をもらったり、千葉県の縄跳び大会(小2以下の部)で2位になったこと、また長男(心哉)の作文が毎日新聞に載ったことなどこまめに報告してくれて私の疲れた心を癒してくれた。

 

この年89年は東欧の民主化が進み11月には東ドイツベルリンの壁が崩壊。

任天堂ゲームボーイが発売され、千代の富士国民栄誉賞を受賞した。

 戦争みたいだった89年も終わり、暮れに帰国し日本で正月を迎えた。

 

 1990年早々、日本の家でも金欠状態になっていた。

退社後の収入はなく香港からの送金もままならないなかで住民税を払い続けなければならずこの時期が一番きつかったらしい。

帰港後わずかばかりを送金、入金確認後ストーブを買ったので今夜から温かいですというFAXが入った。

 

90年1月、このころ邱永漢“アジアの風“を読んで香港の未来に強い自信を持った。自分の行動が裏付けられたようでうれしかった。

このときさらに地に足をつけるつもりで自分の住む拠点(フラット)を借金してでも買うべきだと考えるようになった。

 

2月16日、日本に住民票を置いたままだと税金が重いので香港に移すことにした。

妻が89年の5月19日にバックデイトして香港への転出届を提出、受理された。

以降、海外の所得については日本の税務署の管轄外となる。

 

このころ三友舎のケース注文が殺到、うれしい悲鳴だが仕事が急増しどうにも回らなくなる。

その間にも入れ替わり立ち代わり日本からの客が後を絶たずアテンドをしながら仕事を消化する日々が続き二人で10人分ぐらい走り回ったか。

 

前年(89)末に東証株価が史上最高値を記録し日本ではまだバブルの勢いが続いていた。

国内での時計販売は絶好調、作れば売れる時代で一回の注文数が1000個から3000個と仕事の流れが波に乗ってきた。

 

2月に新人女性一名が入ったがあまりの忙しさに恐れをなしたのか翌日から来なかった。

 2月23日 忙しさが極に達して集中力が大幅ダウン。

いつ倒れるか分からない状況だと妻に伝えようと思ったら妻が38度の熱で先を越していた。

 

2月26日にようやく女性1名(キャロル)、3月1日から男性1名(ビリー)を採用。

キャロルはアカウンティングとシッピングを、ビリーは主に生産納期のフォローを担当。

この二人は忙しさにも負けず、良く働き戦力になり創業期の基礎を作ってくれた。

我々4人はオフィスの中を文字通り走りながら仕事をこなした。

会社の売り上げは急上昇し採算が目に見えて良くなってきた。

 

ようやく余裕が出てきたと思ったとき陳君が前から夢だった車が欲しいと言って来た。

まだそれを言う時期ではないだろうと思ったがこの忙しさの中でよく頑張ってきたご褒美とこれから先の期待も考慮して援助することにした。

頭金と、ガソリン代、パーキング代を会社で出しあとは彼自身でローン負担。

彼はうれしくなり私に感謝してくれたがまたも自分への見返りは後回しになった。

 

仕事はますます忙しくなってきた。

3月中も林時計一行、万世工業本川氏、二光光学社長夫妻、さらに天野、西沢氏と続けて来客。

22日にはセイコー電子時代の先輩、三田村さん、尾島製作所の畑山氏が来港、23日に精美を訪問した後、ちょうど同日に来港した家族と合流し陳君の車で屯門近くの海鮮料理へ行った。

 

久しぶりの飲茶、太空館、沙田のハト料理などを廻り子供たちも大喜び、つかぬ間のリラックスした日を過ごした。

家族は28日に帰国、子供たちはもっと香港にいたかったようだ。

 

このころ妻が派遣の仕事をスタート、12年ぶりの商社での仕事が面白いそうだ。

3月16日妻が熱を出してから3週間が過ぎたがよくならず、慶応病院へ行くとのこと。

 

4月2日 この日、林時計の山田さんが香港赴任した。

 当社オフィス内に机一つを置き林時計の香港支社として「KORIN」が産声を上げた。

山田さんはいつも明るい性格でオフィス内がにぎやかになった。

たまに日本人どうしでカラオケに行く相手ができ心の疲れが癒された。

 

5月2日、4兄(洋)への手紙でこの頃の気持ちをこう書いている。

「起業して1年、人生の10年を圧縮したような1年だった。

背水の陣にて全力を集中した結果、一番難しい最初の一年を通過出来た。

難題ばかりで並の神経では難しいことを身をもって感じている。

現在スタッフ含めて4名、売り上げは月1000万円を超えたが固定費も100万円を超えた。

車のエンジン同様会社も強くふかさないと動き出さないが加速がつくまでにはさらに時間がかかりそう。

会社が水車のように回るにはあと一年はかかるだろうがそうなれば左右のハンドルさばきで行けると思う。」

 

だが、一年が過ぎたころにはさすがにエネルギー放出の連続で心身ともに疲れていた。

6月14日、帰国前日の妻へのFAXで弱音を吐いている。

「業績はスタート時よりはるかに良くなっているのにストレスはむしろ大きくなっている。

休みの日は疲れて一日中家にいるのでストレスの解放が出来ていない。

この状態が続くと少し危険、気分転換をしたいのでどこか子供たちと車で一泊旅行に行きたい。」

 

6月15日に帰国、家で少しリラックスしたが、結局は相変わらず客を回るスケジュールに終始して香港に戻った。

 

7月 妻が銀座の新しい就職口に派遣社員として勤務。

三井物産の社員が退職独立して水産物の輸入販売を手掛けている会社で、経理のほかにサーモンの輸入やいわしの輸出を担当し気持ちよくできていることのこと。早くケンテックスの仕事をしたいと言ってくれたのでいずれ日本にKENTEXの支社を作るのでそこでやってもらう約束をした。

 

7月11日、再び日本から「金送れ」のSOSが来た。

まだ送金が十分でなく、車検、自動車保険、子供の塾、国民年金、生活費で支出が収入を上回る状況が続いていた。

 

会社は順調に伸びていた。

香港服部セイコーとのALBAビジネスも始まりこの時期数字上はすでに1000万円近い利益が出ていた。

しかし急増した三友舎の売り上げ約5000万円が(変則的に国内向け)手形ビジネスでやっていたので回収が極めて遅くキャッシュフローがかなりきつくなっていた。

日本ではまだ手形が流通していたがその怖さもよく知らずに仕事を引き受けていた。

 

8月8日帰国し久しぶりに家族で伊豆へドライブ旅行。

この時は子供たちとペンションの露天風呂につかりおいしい料理を食べ一緒に時間を過ごしてずいぶん気分転換することが出来た。

 

9月19日、都南金属の加藤氏が赴任。

林時計同様、当社オフィスに机一台を置きマルマングループの香港拠点としてスタートした。

小さいオフィスに日本人が3名になった。

以前ケースメーカーのセールスで旧知の哈(ハー)さんが加藤さんのところに加わりいっそうにぎやかになった。

 

1990年10月になると邱さんの教えでもある“不動産は借金してでも買え”を実践に移した。

 香港のフラット購入を進めるために日本の東海銀行と相談し金利8%で500万円の融資可能を取り付けた。

自己資金約400万円、4兄(洋)から200万円を借金、残り500万を香港の銀行担保ローンで黄哺の小さなフラットを香港80万ドルで購入した。(当時のレートで約1500万円)

香港の銀行金利は12%だったがフラット購入後も香港のインフレは続きこの決断は後々大いに正解だった。

簡単な改装工事をして翌年1月早々に引っ越した。

 

90年末になると前年末に付けた東京市場の最高値39000円が2万円を割り込みそろそろバブルの終焉が予感された。

11月8日オリエント時計の久江氏来社 このころからオリエントとのコンタクトが始まる。

 

91年になりさらに仕事は増えていたが相変わらず三友舎の長い手形に泣かされていた。

この手形は地域限定の信用組合発行のため大手銀行での割引ができず結局満期日まで待った。

400万や500万円の手形の満期日が来るまで気が気ではなかった。

小さい会社と取引する危うさをこの時学んだ。

 

3月15日にKORIN山田さんがスタッフの採用に合わせ自前のオフィスに移っていった。

 前年(90年)2月に入社し活躍してくれたキャロルが出産で退社することになりこの時点でスタッフを二名募集することにした。

91年4月に6人のインタビューをしてそのなかから2人を採用した。

アカウンティングにはケースメーカー泰興で経理を3年経験し大人しいが聡明な感じのジョイス王(ウォン), もう一人は英語が達者でアクティブな雰囲気のタニーをシッピングとして採用。ジョイスはとても丁寧できれいな字を書くので感心したのを覚えている。

二人とも期待に応えてくれたがタニーは数年後に退社、ジョイスは仕事に前向きで責任感も強くその後も長く会社に留まり中核人材として大きく貢献してくれることになる。

 

91年4月末、南豊中心のオフィス契約が切れるのでMTR荔枝角(ライチ―コク)駅すぐ近くの億利工業中心6階のオフィスを2年契約した。

月約22000ドルと経費も増えるが仕事も荷物もだいぶ増えていた。

ネットで約120㎡(35坪程度)とずいぶん広くなり倉庫スペースも取れる。

主なレイアウトを自分で設計しマレーシア出身の工務屋さんに内装工事を依頼した。

 

 起業してちょうど2年が経過し会社の業績はめざましく伸びていた。

小ぶりながら会社の体制もできいよいよ次のステップに入ろうとする段階にきた。

 

だがそれに反比例するかのように私自身の疲労と精神的ストレスも蓄積していた。

3月22日から学校の休みで家族が来港、帰国するまでの2週間近くの間久しぶりに4人一緒の香港生活をしてあらためて家族の大事さありがたみに気づいた。

 

1991年4月、妻への長い手紙で当時の思いを綴っている

 「今日、体調を崩し仕事に集中できないので半日で家に戻ってきた。

香港でスタートして2年、長い道のりだったがあっという間だった。

会社は順調だが相変わらず気は許せない。

3月度は万世だけで3000万円もの売り上げを記録、同時に経費も大きくなっている。

会社経営は社長にとって緊張の連続、社長は楽観的でなければ務まらないといわれる理由がよくわかる。

やっと軌道に乗ってきた今、自分のなかで何かが欠けている気がしている。

それがどうやら心の安らぎを得る家族がいないことだと先日みんなと過ごして気がついた。

これまで情熱と意地っ張りが自分を何とか支えてきたが今自分はいったい何のために戦っているのかという気分だ。

妻が言うように今は4人で生活するのが一番自然でベストと思う。

今のこの生活はどこかに無理がありいずれ限界が来る。

日本に会社をつくり半分を日本の生活にしたいが今は無理。

そこで家族を香港に呼び自分の精神的安定を得ながらさらに基盤づくりをしてその後に次の日本展開を考えるのがいいのではないか。」

 

独身時代とは違い一度家族を持った者が家族と離れて生活するのは経験した者にしか分からないつらさがある。しかも海外で働くとなると想像以上にきつい。

 普段は仕事に追われて感じないが休日一人になると話し相手もなく心の隙間にぽっかりと穴が空いていたのだと思う。

 

まだ40代で体力はあったが目まぐるしい日々の連続と精神的な疲労で体の免疫力が相当落ちていたに違いない。

 6月に入りいよいよ体の不調が限界にきた。

後頭部の偏頭痛、首筋の凝りに始まり関節の痛み、さらには目の色が黄色いと言われ尿の色まで茶色になってきていた。

さすがに驚いて香港サイドにいる日本語の話せるドクターに駆けこんだ。

 

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1989年 南豊中心オフィスで

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90年 精美の李さん(一番左)来客との食事

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90年3月に家族が来港、海鮮料理へ

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90年夏 家族で伊豆旅行 露天風呂で

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90年11月 ケンテックススタッフと都南が揃ってバーベキュー

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加藤さん(中央)赴任後に山田さん(左から二番目)ハーさん、陳君(後ろ)揃ってパーティ

 

ただいま一休み、次の展開の準備中です。

皆さまこんにちは。

かなりスローペースの展開ですがこれまで私のプライベートにおつきあいいただきありがとうございます。

 

 

私の履歴書も14回を終了しようやく香港での起業となりました。

これからケンテックスのストーリーが始まります。

会社スタート時は誰でもすんなりとはいかないケースが多いと思いますがご多分にもれず私も創業時のドタバタ(あえて苦労とは言いません)を経験しました。

なぜ苦労とは言わないか。

それは夢中になっていると人は苦労とは思わないんですね。

 

平成元年の創業からもう30年以上が経ちました。

 

その平成も終わり時代は今、令和に入りました。

 

過ぎてみれば時の経つのは本当に早いですね。

これからその30年間の歴史を一つ一つ振り返りながら書いていこうと思いますがその前にたくさんたまっている資料や写真等を今、整理しているところです。

時計のOEMビジネスを始められるまでの動き出しの時期、ようやく時計ビジネスがスタートできたころ、香港時計フェアへの出展、バーゼルフェアへの初めての出展、自分の作りたい時計への思い、そしてKENTEXブランドのスタートなど思い起こせばいろいろ出てきます。

 

これからまたケンテックスの歴史の一コマ一コマを綴ってまいります。

どうぞご興味のある方は引き続きおつきあいいただければ光栄です。

 

皆様のご健康とご多幸をお祈りしております。

 

橋本憲治

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の履歴書 第十四回 課長昇任も退社、香港会社を設立

 

1988年(昭和63年)5月に帰任。

久しぶりに千葉県鎌ヶ谷の我が家に戻り5年ぶりの日本の生活が始まった。

不在の間、親戚の甥に住んでもらっていたが庭もだいぶ荒れていたので趣味の庭いじりをまた始めた。

 

少々笑い話になるが帰国早々子供たちが親を驚かすことがあった。

長男が一人でお風呂に入った後風呂の湯をすっかり抜いてしまった事件。

次男が公園の鳩をみて“ハトが食べたい”と漏らした事。

 

香港は気温が高いのでお風呂の文化はなくシャワーがメインだが我が家では日本式にバスタブに湯をためて体を洗った後、湯を流していた。

鳩は日本では平和のシンボルだが香港では養殖した小鳩(乳鴿)料理があり美味しく次男は大好物だった。

 

子供たちは5年の間にすっかり香港の文化が身についていたようだ。

 

 

会社では時計外装部外装調達課に配属された。

 

私は5年にわたる香港勤務を総括するレポートを作成し社内で帰国報告会を行った。

 

香港の一般動向から時計業界と外装メーカーの動向、そして時計外装調達の現状と将来予測について価格、技術要素、デザイン面に渡って5枚のレポートにまとめ“最近の香港事情“として外装部内で説明会を行った。

 

このレポートで私は今後数年以内に香港のケースは技術、品質面で日本と同等レベルになると予測し、今後の外装調達戦略として“海外調達の拡大を加速させる”ことを提案した。

 

一方で今後拡大が期待される反面、需要の伸びに供給能力が追い付かず需給ギャップの問題がいづれ表面化するのでその解決が課題であることを指摘した。

 

そして安定した供給ソースを確保するためにはセイコーグループとして自前のケース工場を中国に設立することを提言した。

そのうえで国内のメーカーについてはその性格付けをはっきりさせると共に整理を進める必要があると付け加えた。

 

当時、円高の進行によって製造の海外シフトの流れはすでに世の中の趨勢となっていたが実際に現地にいた赴任者が作成したレポートは説得力があったようで社内の反響があった。

ちなみに私が退社して数年後にセイコー自前のケース工場が中国広州にあった黄哺工場内にスタートした。

 

数か月して外装部内の組織変更があり以前外装開発課時代に一緒だった鎌田さんが外装部の部長となり私は新設された外装生産技術課の課長に任命された。

 

国内での時計外装生産技術を高めるという使命で15名ほどのスタッフが用意された。

さらに金無垢の高級品クレドールの外装ケースを製造している60名ほどからなる製造職場が私の組織下に置かれた。

 

円高下で生産の海外シフトを推進した人間に国内回帰とも言える生産技術開発の使命である。

私自身はこの円高の潮の流れに乗って香港の労務費が日本の十分の一以下(中国は十五分の一ぐらいだったか)というコストの安い生産拠点を活用するのが会社にとって得策という認識だったのでこの使命に少々矛盾を感じた。

 

自身の計画では帰国して数か月後には退社し10月ごろには香港でのスタートを考えていたのだが任命された以上すぐに無責任に辞めるわけにもいかなくなった。

考えた結果まず自分ができるところまでやり、課員の教育と方向づけをしたうえで後任の人にバトンタッチしようと考えた。

 

課内のメンバーは外装製造の工場から上がってきた人間や技術員で生産技術開発のプロではなかった。

新設なのでまだルーチンもなくまず課題を作る所から始めなければならなかったがとりあえず課員の再教育から始めた。

 

一方で昇進したからと言って起業の夢を諦めることはなかった。

 

6月ごろから徐々に自身の計画を親しい友人や一部の関連メーカーの人にも徐々に打ち明け始めた。

日本の外装メーカーにとっても当時海外に出ることは生き残るための選択肢でもあったので彼ら自身が香港進出を検討しており私の計画に強い関心を示す所も出てきた。

 

セイコー系列のケースメーカーだった尾島製作所は私に香港でのコーディネーターとしての役割を期待していたが何度か会ううちに私の計画する香港新会社への出資も希望された。

 

また国内のケースブランク(プレス上がりのケース素材)製作では日本でもトップレベルだった東新精工とはすでに香港で何度かお会いしていたが彼ら自身も中国に自前の工場を作る計画を進めていた。

両角社長(現会長)は私の計画に賛同しその後香港でスタートしてからも経営面や心理面でも味方になってくれた。

 

同じころエプソン系列のサファイアガラスメーカーだった二光光学の社長が東京に来られ香港進出を考えているがぜひ協力をお願いしたいという話も出てきた。

 

そんな感じで私の計画は国内ビジネスが縮小し香港とのビジネスを模索している日本の会社にとっては香港にいる日本人が日本とのコーディネーター役を担ってくれることは願ってもない事だった。

香港に拠点を持ちたい会社は多かったが小さい会社ではなかなか赴任する人材がいないのが現実だった。

 当時日本語のできる香港人が日本とのコーディネートをしている人はいたが現地に根を下ろしていた日本人は時計関連ではほとんどいなかったと思う。

 

 

この年、私の組織下にあった外装職場の一部を福島県にある須賀川工場へ移管するプロジェクトが持ち上がり一連の仕事を年末にかけて行い、一段落した後で鎌田部長に退社の意志表示をした。

鎌田さんは東北出身の温厚篤実な信頼できる上司で一緒に仕事をしたい人だったが自分のやりたいことを実行に移したいと計画を打ち明け了解をいただいた。

 

辞表を提出した後で鎌田部長からある提案があった。

 

“会社(セイコー電子)の資本で新会社をやってみないか“という話だった。

“ありがたいがそれでは自分が独立することにならないし自分の考えで自由にやってみたい” とお断りした。

 

仮に受け入れたらどうなっていただろうか。

収入も担保されその後の立ち上げではずいぶん精神的に楽だったかなと思う。

が、おそらくいつまでもサラリーマン根性が抜けない自分がいたに違いない。

 

たとえ苦しくても自分の力でやってみたいという気持ちが強かった。

 

 

 

時間が少し戻るが88年前半、香港から帰任する前に現地に設立する会社の名前やパートナー選びをできるだけ具体化しておきたかった。

 

知り合いの香港人の中から営業経験を重視して選んだ数名と何度か話し合いを進め、並行して日本のケースメーカーとも話をした。

起業に興味を示す者が全部で5パーティぐらいありそれぞれが10%~20%前後のシェアを持つような具合で話を進めていたがそのうち「シェアは持ちたいが汗は流したくない」という本音が次第に透けて見えてきた。

 

彼らの営業の経験がその面での私の経験不足を補ってくれるだろうという読みだったのだがもともと人の案に乗っかる相手に汗水流せと要求する方が間違っていたのだろう。

 

一方、ある先輩からはパートナーはできるだけ少ないほうがいいというアドバイスももらっていた。

 

その後3者に絞り話を続けたが、最後は自分が中心となり補佐の人材一人がいればいいという考えに落ち着きそれまで全く想定もしていなかったPEL当時の部下だった陳志強君に声をかけてみた。

 

彼は私と同じ技術系でビジネスパートナーとしての不安はあったがPELの若手の中でも優秀で仕事に前向きに行動するタイプだった。

日本で半年間の研修を経験していて日本語もかなりうまくなっていた。

 当時まだ30歳前、妻子がいて戸惑いがあったがPELにいてもトップは日本人で固められ将来の夢が見えないとの思いから私の起業計画に掛けることを決断してくれた。

サラリーは今より上回ることを私は約束した。

 

この時点で新会社は私と現地香港人の二人でスタートすることが決まった。

その後は具体的な計画を私が練り日本から指示を出しながら前に進めた。

 

社名については自分の名前からKENを取り技術出身であることからTecnique(テクニック)をもじってTEXを加えてKENTEXとした。

日本語でも英語でも発音し易いことを意識し、最後にXとしたのは音感と響きの安定感を感じたからだ。

 

その頃はそれが将来ブランド名になるとは予想もしなかった。

 

正式社名をKentex Time Co.Ltd.として香港での会社登録を香港の李さんにお願いした。

Co.Ltd. は日本でいう株式会社にあたる。

香港では漢字名での登録が合わせて必要なので李さんにお願いし広東語の発音に近い「景徳(キンダッツ)錶業有限公司」とつけてくれた。

資本金は10万香港ドル、当時のレートでわずか170万円程度だ。

陳君は余裕がないと当初出資に消極的だったが私は彼にこれからは経営者の一人としてやってほしいと資金援助して20%のシェアを持ってもらった。

 

ここで初めてKentex Time Co.Ltd.が香港で設立された。

 

明けて昭和64年(1989)私は厄年となり正月は川崎大師の厄除けと鎌ヶ谷八幡宮に自身と家族の健康と起業の成功を合わせて祈願した。

身が引き締まる思いがあった。

 

この年1月7日に昭和天皇が87歳で崩御された。

史上最長62年の在位もすごいが大正天皇が病弱だったため若い時から摂政もしている。

在位中に二回の大戦を経験し戦後は一転して象徴として国民に寄り添われた。

日本全国を廻り特に沖縄など戦争の被害の大きかったところに度々慰問されていた。

私が子供の頃の昭和天皇生物学者としての顔がよくテレビで紹介されていた。

 

昭和が終わりを告げ平成元年となる。

 

 

正式退社は4月だが休暇を消化するため会社にいるのは3月半ばごろまでとなる。

本格的に起業の準備に動き出した。

 

手元にある1989年の手帳を見るとこの時期目まぐるしく多くの人と会っている。

少しでもビジネスの種になるチャンスを探ろうと必死だった。

 

人生を振り返ってみるとこの年は人生のターニングポイントであり最も密度が濃かったように思う。

 

体が熱く燃えていたような感じだった。

ある朝、武者震いらしきものを初めて経験した。

 

ベッドから起きたときにブルブルっと震えが来た。

風邪をひいたときのそれとは違うこれまで経験したことのないものだった。

体から湧き上がる一瞬の感覚。

この感覚を武者震いと言うのだろうかとあとで思った。

 

89年の手帳にはその頃の行動を例年になく細かくメモしている。

振り返ってみると一つ一つ当時の記憶が蘇ってくる。

 

出発までの数か月間、退職と香港起業の挨拶回りであちこち回る。

 

当時クロックビジネスを立ち上げて成功していたノア精密を訪問、ビジネスの先輩である庄司社長から“セイコーの看板を捨てて裸でぶつかれ、それと自分に厳しくすること、これができないと成功はない“とアドバイスをいただく。

 

2月15日~23日に香港出張 

前半はホテルに、後半はケース工場の社長李さん宅に4泊させてもらいこれからのビジネスについて話し合った。

李さんは自分のケース工場の技術品質管理の指導や日本とのコーディネイトを私に期待。

3月13日は先輩でもあり私の後任を引き受けてくださった三田村課長に業務の引き継ぎ。

14日に二光光学の社長と会いサファイヤガラスの香港販売に向けて橋本のオフィスに彼らのHK拠点をスタートすることを決める。

 

3月後半には当時マルマン時計の製造を担当していた万世工業を訪問。

万世工業は香港調達を拡大しようとする計画の中でちょうど時計ケース技術者のプロを探していた最中とのことで私の香港起業に強い関心を示した。

これがのちの時計OEMビジネスの拡大につながる。

 

3月下旬、家族帯同での香港出張

家族はホテル泊の後二泊ほど荃湾から車で10分ほどのところにあった李さん宅にステイし先に帰国した。

李さん宅はケースビジネスで成功したのか香港ではめずらしく庭のある一軒家だった。

この時次男は7歳だったが李さんの大きな家に大型犬がいたのを覚えているという。

 

 

3月30日 TM(タイムモジュール)のGMジェネラルマネージャー)汪(ウオン)さんと夕食。 

SEIKOムーブ購入についてサポートの約束を得る。

汪さんはもともとEPH(EPSONセイコーの香港現地会社)のローカルのトップをしていた人で日本語はほとんどネイティブ、英語も北京語も流暢な人だった。

諏訪精工(当時)に技術研修のおり知り合ったという日本人の奥さんで日本の文化にも精通していた。私の起業後も応援してくれた一人だった。

この時汪さんからは香港のオフィスはこの先ずっと上がるから毎月の賃料を払うよりできるだけ買ったほうがいいとアドバイスを受ける。

その時は頭金もなくただ話を聞くだけだったがこの教えは後になって実感することになる。

 

4月1日オフィス探し。

5,6件の物件を見て荃湾(チェンワン)駅から直結しているオフィスビル「南豊中心」に決める。

広さは600sf. (GROSS)だが実質40㎡もない。

机4つか5つ置けばいっぱいになる広さで月8700HK(当時のレートで15万円弱)。

 

この日夕方ハイヤットホテルロビーで林時計社長(現会長)と会う。

林時計はセイコー電子の協力時計組み立てメーカーであったが香港拠点をスタートしたいので私の香港オフィスを間借りしたいとの話があり私は快諾した。

 

その後はオフィスの契約で家賃二か月分とデポジットを払い、新会社のキャピタルの払い込みさらに中古のコピー機やファックスを購入。

さらに陳君のサラリーとして遡って五か月分を渡した後同日の午後の便で帰国した。

 

 

 まだスタート前で一銭の収入もないのにどんどん金が先に出ていく。

すべて私一人の出金だ。

 

この先どうなるのか…

心の片隅に不安が覗く。

 

 

4月20日付けでセイコー電子を正式退社した。

 

あと一年で25年勤続の100%満額となるところ一年足りずに85%となり約1000万円弱の退職金を得た。

住宅借入金が約500万円強残っていたので実質入金は500万円に満たなかった。

 

私は十分な資金を持っていたわけでもないので少しでも助かればとの思いから職業安定所(現ハローワーク)に足を延ばした。

申請はしたものの支給スタートまで何か月間も毎月一回以上の出頭が義務付けられることを初めて知る。

 

さあどうするか。

支給されるまでこのまま半年以上日本で時間を無駄にするわけにいかない。

 

私は雇用保険をあきらめ一刻も早く香港で動き出すことを優先した。

 

5月に入りこれからお世話になりそうな会社に出国前最後の挨拶回りを行う。

 

 

1989年(平成元年)5月19日。

いよいよ家族三人に見送られ再び香港に向けて成田を飛び立った。

 

ここからKentexTimeの本格活動が始まる。

そして香港での一人暮らしが始まることになる。

 

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レポート’最近の香港事情”(1988帰国報告会資料)

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香港新会社設立の挨拶状


 

 

2019 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
今年は亥年、そして平成最後の年となります。

私が子供の頃は母も含めてまだ明治生まれの方も珍しくなかったのでその頃よく「明治は遠くなりにけり」という言葉を耳にした記憶があります。

その元号も大正、昭和、平成と移り今年新しい元号が始まります。

5月に新天皇が即位される1か月前の4月に新元号が発表されるそうですが何という元号になるのか日本人は興味津々ですね。

昭和の最後(1989)に生まれた人でもなんと今年30歳です。
そのうち「昭和も遠くなりにけり」とうたわれる時代が来るのかもしれませんね。


さて今年はどんな年になるのか。

過去の亥年を振り返ると

1995(平成7)年は、急激な円高が起こり一時1ドル80円割れを記録、阪神淡路大震災も起こりました。

前回の2007(平成19)年にはアメリカのサブプライムローン問題が表面化し翌年に100年に一度の世界金融危機と言われたリーマン・ショック(2008)に繋がりました。


今、世界にはいろいろな不安材料があります。

米中の貿易関税問題,中国の減速、米景気後退の予兆、3月には英国のEU離脱

アメリカをはじめとする各国政治のポピュリズム化。

世界経済は怪しげな雰囲気が漂ってきました。

2019年はどうやら世界の景気後退局面に入りそうです。
国内では10月に消費税率が10%へ引き上げられることになっています。

厳しくなりそうなこの年を迎えて皆さん、公私共に気を引き締めていきましょう。


さて一昨年暮れから始めたブログ「私の履歴書」も第13回を数えました。

月一レベルのスローなペースですが私の生い立ちから始まりようやく香港で起業する段階までたどり着きました。

子供の頃からの自分の人生を振り返りながら書き出すといろんな思い出がよみがえってきます。

あれもこれも書き出すときりがないのでその中から強く自分の印象に残っているものがこの文章として書き残されています。

当時を思い出すとその頃ともに時を過ごした人たちに無性に会いたいと思う気持ちになることがあります。

しかしずいぶん時が経ってしまいどうにも手掛かりをつかめず連絡を取ることもできない人が多いのが現実です。

誰でも人は皆それぞれの人生がありいつまでも同じところにとどまっている人は少ないですから。
100人いれば100のドラマが生まれます。

ここまで私の個人的なドラマにお付き合いいただいた方にあらためてお礼申し上げます。

これから後半の私の脱サラ人生を続けて記していきたいと思います。

七転び八起きという言葉もありますがいろんな障害にぶつかりなかなか思うようにならないのが人生ですがそれでも苦もあれば楽があるのが人生です。

どんなことがあったか一つ一つ思い起こしながらまた書いていきます。

今しばらくお付き合いいただければ光栄です。


またこの履歴書が一段落したらそのあとは
生意気ですが人の生き方や考え方などについて多少なりとも長い人生を経験した人間として自分の視点で書いていければと考えています。

世に名著と言われる本や名言は多々あります。

自分が読み砕いたものをベースに、そこに自らの経験に基づく私の視点と解釈を加えながら“人生をどう生きるべきか“について若い人向けに少しでも参考になるようなことを書いていければいいなと考えています。

これは同時に“人の生き方“についての自分自身の考えを整理、まとめるいい機会でもあると思っています。

最後になりましたが新しい年が皆様にとって良い年でありますよう心からお祈り申し上げます。

私の履歴書 第十三回 ビジネスに目覚め独立を決意

赴任して2年が過ぎたころから仕事にも脂がのってきた。
3年目から帰任するまでの3年間は大いに会社に貢献したように思う。


自身の経験から海外赴任を振り返ると初めの一年ぐらいは新しい環境に馴染むまで時間がかかり二年目あたりからやっと自分の生活パターンができ仕事にも身が入る。
3年目になると会社全体の業務が見渡せるようになり自分の役割も自覚しスタッフや取引先とのつながりも強くなるので目に見える形で仕事の実績が出せるようになってきた。

当時は3年が一般的な海外赴任期間であったが私は自分の経験から5年という赴任期間が適切だと思う。

先にも述べたが1980年代は円高香港ドル安が急激に進行した時代だった。

統計を見ると80年から88年までの8年間に香港ドルは46円前後から16円台へと三分の一近くまで下落している。

82年の香港返還決定後に将来の失望感から香港ドルは大量に売り浴びせられ香港政庁は香港ドルの防衛と安定化を図るために83年10月にドルペッグ制(1USD=7.8HKD)を採用した。

80年代はアメリカが膨大な経常赤字(財政赤字貿易赤字双子の赤字)を抱え、日本は輸出が急伸、日本の一人勝ち状態だった。

このためドル高是正を狙った85年のプラザ合意後、急激な円高USドル安が進行し88年までの3年間でUSドルは235円から130円付近まで急落、ペッグ制を取った香港ドルは対円で大幅に下落した。

私が赴任した83年ころからは円高の連続で香港の物価がとても安く感じられた。
日本にいては感じられないが海外にいると強くなった円を身近に感じた。
このころ日本ではバブルが始まりアメリカの不動産買いや海外旅行ブームが起こった。

一方、一気に進んだ円高によって日本の製造業は競争力を失いコストの安い香港、台湾へと製造のアジアシフトが急激に進み始めた。
それにともない香港、台湾などに赴任する日本人が増えた。

時計業界では国内で製造していた時計ケースなどの時計部品の海外移転が加速、香港を筆頭に台湾、タイなどへのシフトが進んだ。

香港工場の位置づけはより重要となり私の任務もますます責任が重くなってきた。


当時香港PELでは主に中近東やアジア市場向けの70系自動巻きモデルのケース調達が主体だったが円高の進行とともに徐々に国内モデルもシフトが始まり香港でのケース調達数が一気に増えてきた。

80年代前半、時計バンドの製造は一足先に中国深圳への生産シフトが始まっていたが時計ケースはまだかなりの数のケースメーカーが香港に残っていた。

ケースの生産キャパの拡大が必要となり私はそれまでのケースメーカーに加え香港での新たな調達ソースを探す動きを始めた。

当時のケースメーカーを分類すると大きく3種類に分けられた。

最もメーカー数の多かったドレス系BS(真鍮)ケース、まだ比較的少なかった防水機能系ステンレスケース、そして主にアメリカ低価格市場向けのZn(亜鉛)合金ケースの三種類のメーカー群があったが当時はそのどれもが必要で私は新規メーカー開拓のため香港スタッフと一緒にメーカー探しを始めた。

香港のケースメーカーには20年以上の歴史を持つ会社も少なくなかったが調べていくとピンからキリまで4段階程度のグレードに分けられピン(Aクラス)の方はすでに名の知られたスイスブランドのお手付き(傘下)になっているメーカーが意外に多いことも分かった。
我々は主にBクラスを中心に新しいメーカーを訪問した。

その動きが香港のケースメーカーの間で噂となりセイコーは既存メーカーの見直し選別を始めていると誤解もされたが結果的には既存メーカーの生産量を拡大する中で新規メーカーも導入した。


話は変わるが1985年頃だったか、香港に進出している日本の時計業界が組織する香港精密機械部会が企画した中国の西安、四川、重慶の三都市の視察旅行がありPELを代表して参加する機会を得た。

香港で働く時計産業関連会社の日本人総勢20名ほどの団体が当時まだ改革開放が動き出したばかりの中国各都市を見て回った。

改革開放が始まったといっても実態はまだ共産主義体制の下で人民公社なども残っていた時代だ。

まだ改革の掛け声ばかりが先行した頃で国有企業の工場では手持ち無沙汰にしているやる気のない従業員も多く目につき、動いていない新品のNCマシンなどが無造作に置いてあった。

まだ経済が活性化するずっと前のころで、街で見かける人々の生活は貧しさが目に付き、服装も粗末で、人民服姿も見かけられた。

機会の平等でなく、ある意味”みんなで貧乏しよう“という結果の平等を求めた共産主義社会の実態を垣間見た気がした。

2018年の今、鄧小平が始めた改革開放政策がこれほど進展しGDPが日本を抜き世界で二番目になるとは想像もできない一昔前の共産主義中国の世界がそこにあった。

あれから30年以上が過ぎ中国は大きく変貌した。

鄧小平が今の中国を見たら何というだろうか。
鄧小平自身も自らが始めた改革開放政策によってこれほど国が豊かになるとは想像もしなかったに違いない。


いつだったか赴任中にたまたま香港在住の日本人を対象にした日本領事館主催の初の写真コンテスがあった。
私は香港で撮影した自身のストックの中から10枚ほど自選し応募したところその中の一枚がトップの総領事賞に選ばれた。

何の用事だったか中国広州市から香港戻りの船中で一泊し、翌早朝香港の港に着いたところで朝日を逆光に香港島のビル群を船上から一望した写真でタイトルは”香港の夜明け”とした。
日本人クラブでの表彰式で当時の松浦総領事から直接賞状を頂いた。



赴任中にはPELとしては初めてとなる時計のOEM生産の立ち上げも担当した。

それまで香港PELの役割はSEIKOなど自社ブランドの生産のみだったが(SANYOブランドでの)時計OEM生産のプロジェクトがスタートし香港で対応することになった。

それまで時計のデザインはすべて日本で行われていたが香港でのデザイン作業を進めるために香港会社としては始めて時計デザイナー(新卒)を採用した。

この頃が香港でのOEMビジネスの草創期となり企画やデザインの芽を植えたことで後に香港会社でのOEMビジネスが大きく伸びることにつながる。

当時は景気も良く時計が良く売れたのでSANYOロゴの時計は短期間で相当数を生産、面白いように売り上げが伸びたのでこのOEMビジネスで大いに会社に貢献することができた。

この時のOEM業務の成功体験はのちに私がビジネスに目覚める一つのきっかけにもなった。


急激な円高進行で製造業の香港シフトが進むにつれて香港詣が増えたのもこのころだった。

本社からはもちろん関連メーカーの人たち、さらには時計以外の人も含めて香港の現地事情に詳しい赴任者から情報を得ようと多くの来訪を受けた。

当時の製造業に関わる人たちにとって“海外生産シフト”は死活にかかわる真剣なテーマだったので多くの人が香港を訪れるようになり赴任者は半ばアテンド業ではないかと思うぐらいに人と会う機会が増えた。

結果的にはそれが自分自身の勉強となり、多くの人と話しをするうちに人を観察する目が備わり、モノを見る視野が広がった。

人の違いが短時間で掴めるようになり30分も話すとその人の考えている事が大体分かるようになってきた。


香港PELは日本から近いせいもあって本社からの出張者が多かったが役員も定期的に来られることが多かった。

日本ではなかなか接することが出来ない役員でも香港ではミーティングや香港のアテンドなどで直接話をする機会も多くなる。

海外に出ると気持ちも解放されるのかなぜかざっくばらんになり本音も出てくる。

さすがに役員になる人は違うなと思う人もいれば、意外に世間が狭く見識に乏しいなと感じる人もいた。

こうした香港での数々の経験は私の視野を広め、伴い自分も変わっていった。

数年が過ぎた頃には一介の技術屋から商売感覚が根付きビジネスに目覚めて海外ビジネスに興味を持つようになってきた。

香港で生活するうちに香港の風に吹かれた影響もあるだろう。


香港には根っからの商売人気質の文化が息づいている。
日本に比べ多くの人が自分の小さな商売を持ち一生懸命に精を出している。

総じてお金に敏感で人々は金儲け話に余念がない。

香港には円卓を囲んで乾杯をするときに“賺多的”(ジャントーディ)という言葉がある。
“たくさん稼ごう“とお互いに元気づける意味で使われるが、俗に言われる大阪商人の“儲かりまっか“と相通じるものがある。



そんな香港のお金儲け第一主義的な文化に染まった事実も拭えないがこの気持ちの変化は実は邱さんの本による影響が大きい。

香港に赴任する前に邱さんのファンになり赴任中も新しい本が出るたびにずっと追っかけて読んでいた。

前にも書いたが邱さんは1950年半ばごろから作家活動に入り小説『香港』で直木賞受賞後はどちらかというと自分の体験をもとに身近なお金(経済学)の話題を中心にした多くの本を出しているが私自身は邱さんの本を読むことで生きる上での知恵を授かり、世の中を見る目がついてきたように思う。

大きな潮の流れを見てそれに乗ることが大事であること。

それに逆らってはたとえ倍の力で頑張っても成功は難しいこと。

世の中が動くときは変化でありそこに隙間ができてチャンスが生まれること。

これらの邱さんの教えは今も忘れていない。

80年代に深圳の経済特区が始まったころにすでに邱さんは「中国が世界の工場になる」と予言していた。

当時は円高によって世の中が大きく動き香港への生産シフトという大きな変化があったのでそこにビジネスチャンスが生まれた。

図らずも邱さんの教えで私はそこに気がついた。



ちなみに赴任前後の1980年代に読んだ邱さんのいくつかの本は以下のものだった。(出版年は順不同)

「金銭読本」
「成功の法則」
「変化こそチャンス」
「金銭処世学」
「香港の挑戦」
「私の金儲け自伝」
「奔放なる発想、時代を読む」
「人生後半のための経済設計」
「株の目、事業の目」
「世界で稼ぐ」
「野心家の時間割」
「変わる世の中変わらぬ鉄則」
など。

なかでも赴任中に読んだ「人生後半のための経済設計」(1986年10刷)が私の独立心に火をつけた。

この本の第三章に“40歳からの生き方考え方“と題した文章がある。

少し長くなるがとても示唆に富んだ内容なのでその一部を原文のまま紹介したい。
(1996年刊行の「生きざまの探究」にも同様の内容が書かれている)



『人生80年時代になると今の定年制度が人生の波長と合わなくなってきている。
(★ 橋本注;2018年現在では人生100年時代と言われている)

60歳の定年が65歳になろうとその先15年も20年も残っているからもう一度褌を締めなおして第二の人生を歩まなければならない。

60歳を過ぎて定年になってから頭の切り替えをし、新しい挑戦をするのはほとんど償却の終わった機械に違う作業をこなせというものである。
第二の人生も大事だと思うなら60歳で区切るのは明らかに不合理である。

その意味で80年の人生を60歳で区切るよりも1歳から40歳、41歳から80歳までと区切るほうがあらゆる点で都合が良い。

1歳から20歳までは成長期で、社会人としての経験を積むのは20歳からとしてその時点で自分の性格に合った仕事は何なのか分かろうと思うのは無理がある。

入社後いろいろな部署を回り対外的な経験を積んでどれが本当に自分の天職であるかを悟るのを20年がかりでやる。

残りの人生をかけてやる仕事を見定めるのが40歳というわけである。

その時点でそれまでと同じ仕事を選ぶか転職転業して新しい人生に挑戦するのもその人の幸いである。

どちらにしても60歳になってからでは遅すぎるので60歳になって会社に首を切られるより40歳で自分の首を切るべきである。

40歳なら過去20年の経験を活かし独立自営をすることもできるしそれだけの活力もある。
途中で一回や二回の挫折をしても立ち直る時間の余裕がある。

しかし十中八九の人が自分の首を切るようなことをまずやらない。
会社にそれを強要されるわけではないのでついそのままになる。

辞めても辞めなくとも一向に差し支えないが40歳の節目のところで20年後の自分に思いをいたしてここはどうしたらよいかを考える。』

そしてこうも書いている。

『学校を出て40歳までは西も東も分からない世間知らずがだんだん体験を積んで一人前になっていく過程。
しかし40歳を過ぎると体力も次第に衰え初め能力にも格差が目立ってくる。
40歳は人生の先が見えてくる時期で「人生の一つの曲がり角」である。

山登りに例えれば峠に差し掛かったところでそこでお金をもらいながら勉強する形の就職は40歳を一つの区切りにするのが適当ではないかと思う。

本人も今までの仕事が自分に向いた仕事なのか自覚し、自分の能力の限界について見極めのつく年齢でもある。
40歳前後が男の人生の一区切りで「40歳は脱サラのラストチャンス」

それまでに独立を考えたことのない人は会社勤めが性に合っていると思って定年までの道を突っ走るのが良い。

この年のころにいっぺん自分の将来の生き方について方針を定めておくかおかないかが熟年以降に大きく影響する。

死ぬまで現役でいられる(定年のない)仕事を見つける。
定年後に職から離れ、責任を逃れて年を取ったと意識すると人間は途端に老けてしまう。
平均寿命は延びているのに頭脳の方が退化してしまっては自らボケ人間になるようなものだ。

そうならないために定年後にやるべき仕事を見つけておくことが必要になる。
定年後に職を失うことを防ぐには小さくても自営業をやるしか方法はない。

ただ一定のスケールの事業規模を築こうと思えば定年になってからでは間に合わないので40歳前後に始めることである。

この年齢は人生経験を積んで知識もありまだ体力もあるので失敗の可能性が小さくちょうど良い年齢なのである。

自分の人生は自分で切り開いていく以外に道はない。
失敗を恐れずに体験する「冒険家の発想」を勧める。』



私は邱さんのこの“人生を40歳で区切る”考え方に強く同意し反応した。

自分の年齢、仕事の環境、やりたいこと、そしてその可能性、それらがすべて今の自分に一致している。


もともと一回きりの人生を一生サラリーマンだけで終わるのは何か物足りないなという気持ちがどこかにあったし、いつか自分の商売というものを小さくてもいいから一度はやって見たかった。

やりたいことをやらずに後悔するよりもやってみる事に生きがいを見つける。

赴任終了と同時に独立すれば人生前半をサラリーマン、そして後半をビジネス人生とするのも悪くないなと思った。

三年やってダメならまたサラリーマンに戻ればいい。
どんな会社に入っても自分なりに貢献できる自負はあった。

香港での独立を強く意識するようになり決心するまでにさほどの時間がかからなかった。

邱さん曰く、

『経済的発展をもたらした日本人の特質をサムライの精神を受け継ぐものとしそれが「個人の利益より集団の利益を優先する」日本社会の特質を作り出している。

香港はその逆で個の利益を優先する社会といってもよく、また世間もそれを認めていて力のあるものがどんどん伸びていく世界と言ってよい。』

私自身、香港に来て感じたことは

日本の社会が大企業という集団中心の社会になっているのに対して香港は小さな個人企業が集合した社会になっている。

財閥といえる大きな会社でも日本のようにメイン株主の比率が小さく社長と言ってもサラリーマンと変わらないような社長なのに対し、香港は個人(もしくはファミリー)で持っているケースが多く、そのため経営の決断が断然早い。

香港にも累進税制度はあるが所得税の最高が15%なので税率は低い。
レッセフェールと言われる自由放任主義政治で規制が少なく起業の魅力がある。

かつて香港ドリームと言われて久しいが香港は誰でもやる気のある者が自由に挑戦し、そしてその実を個人が受け取れる懐の深さもある。

たいしたことはできないが挑戦する魅力がある。

この決心は妻以外の誰にも伝えず自分の中に暖め、残りの赴任期間は仕事の手を抜かず全力で成果を出しながら一方で起業のための準備を進めることにした。

日本の通信教育を利用して経営実務や経理マーケティングなど経営に必要な勉強も始めた。
並行して香港で起業する際の信頼できるパートナーを探す動きも始めた。


ちょうど赴任後4年経ったこのころ仕事の実績も認められ主任から副主査へと(課長級への)昇格が認められた。
昭和63年(1988)、赴任して5年、任期を全うしていよいよ帰国の時期が来た。
お世話になった香港の人たちに挨拶を済ませ家族ともども帰国の途に就いた。

休暇を取り日本経由でハワイまで飛び家族で何泊か滞在した後に帰国した。

初めて訪れた常夏の島ハワイは美しく素晴らしい所だった。

真っ青な空とどこまでも澄んだ海、色鮮やかに咲く美しい花に囲まれて私は未来の挑戦への興奮を抑えながらなぜかすがすがしい気持ちだった。


80年代とその後に読んだ邱永漢の著作


独立のきっかけとなる「人生後半のための経済設計」

私の履歴書 第十二回 香港生活をエンジョイ

100万ドルの夜景と言われた香港島の山頂から見る夜景は現在ではさらに高層ビルとネオンが増えていっそう煌びやかになっている。

1997年の返還後からすでに20年が過ぎた今(2018)、街も人も当時とは大きく変わったが返還前の香港を懐かしむ人は多い。

赴任した1983年、香港はまだイギリス植民地の時代である。

植民地時代の香港政庁の幹部は香港総督(26代総督サー・エドワード・ユード)が指名する権限を持っていて政府の上層部にはイギリス人が多数占めていた。

街には貿易、金融ビジネスに関わる欧米人のほかに小さな店舗を経営しているインド人やアマとして働くフィリピン人などの外国人が多く目についた。

中環(セントラル)を中心とする香港島側には50階を超える高層ビルが林立し国際金融、商業の中心として先進的な街だった。
その一角にある蘭桂坊(ランカイフォン)は香港の欧米式ナイトライフを開拓した草分け的存在で欧米人が集まるカフェ&バーが並んでいた。

九龍側は当時市街に空港のあった関係でビルの高さ制限があり(1998年の空港移転後に廃止)どちらかというと工業ビルが多く製造関係の会社が多かった。

空港に近い觀塘(クントン)やPELのあった葵涌(クワイチュン)などは代表的な工業地区で繊維関係や時計、玩具、日用品など軽工業を中心とした種々の会社が雑居する20階建てほどの工業ビルが折り重なるように並んでいた。

九龍半島の先端にある尖沙咀(チムサーチョイ)は当時から九龍の中心地として数多くのレストラン、商店街、ブランドショップがあり海外からの観光客が集まる街だった。
そのころ香港の物価は安く世界中から人が集まる買い物天国でもあった。

インターナショナルなホテルも多くペニンシュラやリージェントなどの高級ホテルの豪華なロビーでゆったりとお茶をするのもリッチな気分になれるひと時だった。

香港の生活に家族も慣れてきたころ、上の子は九龍塘(ガウロントン)にあるインターナショナル幼稚園に通うことになった。
入園には親の英語での面接があったが無事入園することが出来た。

下の子は2歳のころ、幼稚園に入る前の子供たちを集めたプレイグループに行くことにした。
初めての日は母親から離れられず、預けて去ろうとすると大泣きしたという。
それでも翌日からは普通に通うようになった。

両方ともインターなので地元のほかに西洋人、インド人、日本人の子供たちが混じっていて先生も英語でのコミュニケーションだった。

私自身も英会話に磨きをかけようと尖沙咀にあった英会話教室にしばらく通った。
その後、British Counsel (英国文化協会)が開講している英語クラスにも入りレベルアップに努めた。

そのせいもあってか、PELと長く付き合いのあるケースメーカーの人からこれまでの赴任者で一番うまいとお世辞を言われたこともあった。

アメリカ人に教わったのでそのころは米式発音に近い英語をしゃべっていたように思う。
普通の香港人は香港独特の英語をしゃべる人が多いがTVで見る政府の高官などはクイーンズイングリッシュの格調の高い英語をしゃべる人が多かった。

一方で広東語はあまり好きになれずまじめに勉強しようとする気持ちが湧かなかった。
濁音が多く、大声で話す人が多いので初めに耳障りな印象を受けた。
言葉の末尾にガーとかゲーがつくことが多く、日本人にはどことなく品悪く聞こえる。
ところが英語に変わるととたんに丁寧に感じるのがおかしかった。

香港人の母国語である広東語をもっと勉強しないといけないと思うのだが、どちらかというと英語での会話の方が気分がいいので、今でも広東語は日常会話程度の域を出ない。

地下鉄車両の中で端の方にいる人たちの話し声が大きくて隣で話している日本人の声が聞こえないことが一度ならずあった。

最近は以前に比べると香港人の話す声が小さくなったように感じるが、代わりに中国からの観光客の声が大きく騒がしいので香港人たちからあいつらは品がないと嫌われている。

「声の大きさは文化(教養)のレベルと反比例している」ように感じる。
ヨーロッパに行くと車内で、大声でしゃべる人はほとんど見かけない。


赴任後まもなく、たまたま私の部下に梁君というテニスのうまいスタッフがいた。
私は赴任前、日本で毎週のように地元のクラブに通っていたので香港でもテニスをしたくて休みの日に彼とよくプレイした。

PELの日本人の中には生活レベルが違うのであまりローカルと近づき過ぎるのはよくないと忠告する人もいたが、私はむしろ他のローカルスタッフとも食事に行ったりして地元の人たちとのコミュニケーションをとるように心掛けた。

立場や文化が違っても触れ合うことでお互いの気脈も通じるし仕事にもいい影響が出るというのが私の信条だった。

当時香港に出ていたセイコーグループ三社(EPSON,、服部セイコー、第二精工舎)が年一回、合同で行うゴルフコンペがあったが、たまたまその年はテニス親睦大会となり私ともう一名が組んだPELのペアがダブルスで優勝したことがあった。


PELの伊藤GMはお酒好きな人で就業時間中に時々お誘いの電話が来た。
会社も安定して、いい時代だったので大きなGM室にひとりポツンといるのが寂しかったのか。

「今日行く?」「行きますか」、私も嫌いじゃないのですぐにまとまる。

そのころ香港には日本の居酒屋風な店は皆無だったが食事をしてホテルのBARで飲んだり、たまにカラオケにも行った。
当時はまだ今のようなカラオケはなく客に合わせて生伴奏をするところが多かった。
自分のキーに合わせてくれるので気分よく歌えた。


話は変わるが

香港は狭い所に多くの人間が住んでいるので住居費はかなり高く、一般庶民にとって居住環境は悪い。

2000平方フィート(約186平方米)以上の豪華マンションに住む金持ちもたくさんいるが、300平方フィート(約28平方米)に家族5人で暮らす家族も多い。

日本から派遣されている一般的な日本人家族の場合、香港では中の上レベルのフラットに住むケースが多い。
私が赴任した当時でも家族帯同の場合でだいたい30万円以上はした。
日本なら豪華マンションだが香港では普通の広さでもこのくらいは覚悟しなければならない。

現在ではさらに高騰し赴任者の住居費では香港が世界一となり、家族で住む広さを確保するのがますます難しくなってきている。

派遣する会社にとっても厳しいがそれだけビジネスチャンスの多い都市ともいえるのだろう。
さすがに近年では香港を飛ばして中国深圳に赴任するケースが増えている。



香港には「鴛鴦(インヨン)」という飲み物がある。

昔からの軽食店である茶餐廳(チャーチャンティン)に行くと紅茶とコーヒーを混ぜた飲み物に出会える。
これこそが東西が混じりあい、何でもありの香港文化を象徴するように思えてならない。

香港は100年以上にわたるイギリス植民地のもとで中国(華南)の文化に西洋の文化が程よく入り交じった独特の文化が育っている。

東京の半分(札幌市と同じ面積)にビジネス街、ショッピング街そして至る所にある便利店、数々の食いもの屋まで、何から何までが凝縮している。
チョットした買い物もすぐ近くで用が済み便利さこの上ない。

一歩郊外に出ると小一時間程度でけっこう山や海の自然もある。
新界の西貢(サイクン)や香港島の南側に抜けるとレパレス湾などの海水浴のできる海岸もある。

ハイキングやサイクリングコースもあり休みの日は郊外に出て楽しむ人も多い。
釣り人にとっては香港にも名所があるらしい。
私も小舟に乗って小ぶりのガルーパ(日本のはた)を釣ったことがある。

先に声の大きさは文化に反比例していると記したがマナーも同様で、経済が発展し豊かになり、それに合わせて文化レベルも上がるとマナーもよくなる。

昔に比べると香港人のマナーは格段に良くなった。

赴任したころ目撃したが、地下鉄の車両から降りようとする西洋人が、我先に乗りこもうとする人たちに出口をふさがれ真っ赤になって怒っているシーンを目撃したことがある。

人口密度が高いと、生存競争の中で人を押しのけでも生き残る、そんな強さも身につけなければならない。

日本人から見ると香港の人はせわしなくせっかちに見えるが、裏返してみれば「スピードと効率を優先する」文化なのだということに気がつく。

街が騒がしく雑然としている面もあるのでいっぺん嫌いになるとどうにも居られなくなるような所だが、良い所に目を向ければ、これほど自由でそして人間的な街はない。

一方で優秀な人も多く香港は世界の学生数学コンテストで世界一を取っている。
教育レベルも高くなり、香港のいくつかの大学は世界大学ランキングでも上の方で香港大学は東大より上位に位置している。


香港人の健康意識はかなり高い。

ここでは中国の医食同源の考え方が根付いており総じて飲食に気を遣う人が多い。

一日に飲む水の量も多く自分用の保温機能のある大きいポットをもってこまめに水を飲む。
水はぬるま湯で飲むことが多く日本のように氷水を飲む習慣はない。
体を冷やさないという考えが徹底している。

香港の医療費は高いがおそらく世界でも日本についで高い医療レベルにある。
ロイヤル(英国王室)認定の西洋医もいれば中医東洋医学)も多い。

日本と比べて飲酒、喫煙者が少なく、また伝統的な漢方系の健康食品も数多い。

中国茶をはじめ亀ゼリーや、暑い夏に「熱さまし」として飲む「涼茶〈りょんちゃ〉」を売っている店が至る所にある。
薬草を煎じたものでいくつかの種類がありその人の体質や症状に合わせて飲む。

これらの伝統的食文化が功を奏しているのか香港はすでに日本を抜いて男女とも世界一の長寿国である。

日本がある意味、先進医療技術で生かされている事実を考えると香港の実力は本物といえるのではないだろうか。



日本にいると遠いアジアだが香港ではアジアの国が身近に感じる。

台湾は一時間、バンコクやマレーシアでも数時間圏内にある。

香港赴任中は深圳でのライチ狩りのほか、中国、台湾、バンコクシンガポール、マレーシアなどアジアの観光地にも足を延ばした。

狭い香港に住んでいる人にとって海外旅行は息抜きであり、しょっちゅう外に出ている人が多い。
香港はおそらく世界でも海外旅行の比率が一番高いに違いない。


香港自体も外に開かれており海外からの人の出入りも多い。

フィリピン人はじめインドネシア人などすでに20万人以上のアマ(amah)が働いている。
結果として共働きのできる家庭が増え、女性の社会進出がかなり進んでいる。

日本も高齢化社会が現実になり海外から人を入れる規制を緩くする動きが出てきているがまだ動きが遅く規模が小さすぎる。

このままいけば日本全体が老人国になり(すでにそうだが)、仮にお金があっても介護する人がいない現実が来ている。

一刻も早く規制を軽くして香港のように海外からアマさんや若い人材を入れるべきだろう。
特にフィリピン人は英語も話し、明るくて介護に向いている。

国全体のエネルギーも活性化し、内からの国際化も進む。

治安や文化の問題など理由をつけて壁を作っていては世界の時代の流れに取り残される。
日本も思い切った開国をする時期に来ている。


最後にまた蛇足をひとつ。

地元の英会話教室に通っていた時の失敗談がある。

テキストなしで一時間だべるだけという気軽な個人レッスンで教師は世界を旅しながら周っている外国人が多かった。
その日はたまたま英国から来た女性だった。

話の流れで馬の話題になったついでに日本では馬を食べる習慣があると説明した。
そこまでは良かったが、余計なことに馬の刺身がおいしいなどと言ったものだから途端にその女性の顔が固くなりその目が軽蔑のまなざしに変わった。
まずいと思ったが、時すでに遅し。

あとで知ったがイギリス人にとって馬は特別な存在で日本以上に社会に溶け込み大切にする文化がある。
一緒に仕事をする仲間であり友達であってそれを食べるなどとはなんと野蛮な、さぞかし日本人が猫を食べるように思われたのだろう。

その後、その先生から個人レッスンを受ける機会はなかった。

日本人の当たり前が決して外国人にも当たり前ではない。

理屈では分かる…が、

これは私が海外にいて体験し学んだ教訓の一つだ。


九龍と香港島をつなぐフェリー

ネイザンロードの看板

茶店

1985年 シンガポール旅行

1986年 香港九龍公園にて

私の履歴書 第十一回 香港赴任と家族での生活

昭和58年(1983)5月末、すでに盛夏となっている香港に到着した。

啓徳空港で待ち受けてくれていた前任者と車に乗り込み会社に向かう車窓から見る景色は日本とは全く違うものだった。
日本では見かけないような細長いノッポビルが折り重なるように並んでいる。

香港は世界でも最も人口密度の高い都市だ。
狭い所に当時500万以上の人口(2018年は730万人)を抱えているので自ずと建物は上へ上へと縦に伸びている。

旧市街に入ると唐楼と呼ばれる5階建てほどの古い建物が並び、その一階には豚の内臓や鶏の丸焼きなどが吊るされた焼味店や中国漢方薬の店が多く見られそれらが混ざった独特の匂いが伝わって来る。

上半身裸で荷物を運ぶ男達やせわしなく動き回る人々を見るとそこに上品さは欠けるがたくましく生きるエネルギー溢れた人々の生活が垣間見える。

日本では見られないそんな風景が私には新鮮だった。

香港は写真になる。

それが私の最初の印象だった。
その頃はまだ写真を撮る眼で風景を見ていたところがあった。


PEL(Seiko Precision Engineering Ltd)に着任し伊藤GMに挨拶を済ませしばらく雑談をした後その日は九龍半島の最南端にあるリージェントホテルのラウンジに連れていただき前任者を交えてあれこれ香港の話題を聞かせていただいた。

ラウンジから海超えに見える香港島に林立する高層ビルを眺めているといよいよこの国際都市香港で働くことになるのだと憧れと共に緊張感がこみあげてきた。

その時生まれて初めて飲んだあの塩をまぶしたカクテル“マルガリータ”が私のお気に入りとなり今でも来客で食事の後ホテルバーに行けば必ずこのマルガリータを注文する。

6月に入るとさらに蒸し暑さが加わり日本の感覚でネクタイに夏用ブレザーを着ていたらあせもが出来てしまった。
やはりここは地元の人たちのスタイルであるジーンズにTシャツが理にかなっている。

一か月後に家族が合流。

当時は日本人家族が赴任または帰国時にはPELの日本人家族が空港で送迎する習わしがあり妻と4歳、1歳の子供たちを総出で出迎えてくれた。

1980年代は円高が激しく進行、金融、証券以外にも日本の製造会社が香港に製造拠点を移す一大ブームとなっていた。
日本では絶好調の景気が続いていてちょうどバブルが始まるころだった。

当時日系企業はみな飛ぶ鳥を落とす勢いだったのでローカルや韓国の駐在者に日本人は金持ちだとうらやましがられる(実際はそうではなかったが)一方で成り金的な目立つ日本人を白い目で見る人たちもいた。

勢いのある日系企業の赴任者や帰任者が増え、大勢の日本人が啓徳空港の送迎に集まりゲート前で一斉に‘バンザーイ“とやって見送っていたものだからそのうちひんしゅくを買ったのか日本領事館から”ほどほどに自粛してね”という通達が出たことがある。

多くの日本人観光客が香港に訪れ九龍ペニンシュラホテルにあるルイビトンショップで日本人が行列をしていたのもこのころだ。

一か月近く尖沙咀(チムサーチュイ)のホテル住まいをしたのち家族が住むフラット(香港ではマンションをイギリス式に呼ぶ)は前任者が住んでいた九龍城近くの家具付きの部屋を居ぬきで使うことになった。
前任者が雇っていた香港人のアマ(お手伝いさん)もそのまま継続し掃除や子供の面倒を見てもらっていたが半年後には妻が自分でやると言って辞めてもらった。


当時の啓徳空港は市街からほど近くにあり交通便利な空港だったがこのフラットからも近い距離にあった。

飛行機がライオンロック(山)直前で右旋回しながら降下着陸するというパイロットにとっては世界で一番難しい魔の空港として知られていた。

しかもちょうどその下に位置する九龍城付近には多くの雑居ビルが立ち並んでいる。

私たちは赴任当時、近くの九龍城市場に野菜などを買いに行くたびに経験しているが飛行機が降りてくる直下にいるとほんの10メートル上を飛んでいるかのようなすれすれの高さで機体が見えた。

その迫力と騒音の高さは想像を絶するほどでその間会話ができないのだが住人は慣れたものでその一瞬当然のように沈黙する。

一方飛行機に乗っている側から見ると右旋回降下してまもなく、眼下にすれすれのビルが見えるので操縦を誤っているのではないかと内心穏やかでない。

そんな空港はおそらく世界のどこにもないので初めて香港に降り立った人は肝を冷やす人が多かった。

スリル満点の何ともすさまじい空港ではあったが一方で航空ファンにとってはこんな面白い空港はなく、写真愛好家にとっては絶好の被写体であった。

ライオンロックをバックに飛行機が旋回して着陸するまでの様が眺められる小高い岩山が私たちの住んでいたフラットの近くにあったのでたまに子供たちとそこに上り眺めたこともある。

何かと話題の多い空港だったが乗降客の伸びに空港の処理能力が追い付かず返還後の1998年にランタオ島の新空港に移った。

今でも返還以前の香港を懐かしむ人が多いが当時の啓徳空港はいかにも何でもありの香港を象徴しているようで私自身とても懐かしい。


着任早々猛烈な台風も経験した。

香港には台風の強さに応じて弱いものからシグナル1、3,5(今はない),8,9,10という段階で表し、3以上になると幼稚園や小学校が休みになる。

フラットに入居して間もないころ台風に遭遇、猛烈な風雨の中でフラットの古い窓枠の隙間から激しく水漏れし床がジャブ濡れになるのを一晩中タオルで防ぎながら悪戦苦闘した思い出がある。

後で聞いたらシグナル10(ハリケーン)になったそうでなんと10年に一回あるかないかの台風を着任早々経験した。
今ではほぼアルミサッシになっていると思うがその頃の古いビルはまだ鉄の窓だった。


PELは第二精工舎の香港現地法人で新界地区の葵涌(クワイチュン)という工業地区にあった。
10階建ての工業ビルを5フロアほど(1フロア1000㎡位だったか)間借りした大きなスペースを持つ工場だった。

当時は自動巻き時計(Cal.70)の販売が好調で月産20万個ぐらいの組立をしていた。
それに伴う時計技術や製品検査部門、外装部品の現地調達、検査部門そして社内にはメッキ工場も保有していた。

時計はHOL(旧服部セイコーの香港販社)経由で中東など海外に輸出していた。

多角化として進めていた電子部品の海外販売チームも含めると総勢400名ぐらいの規模だったと思う。

日本人赴任者はトップの伊藤GM(General Manager)以下13名ぐらいでそれぞれ各部署の責任者として配置されていた。

私の前任者は外装設計担当だったが数か月後には外装技術担当の赴任者が帰任し私が兼任することになった。

面白いことにPEL内の日本人とローカルスタッフとの言語はムーブ、組立部門は代々広東語で、それ以外の総務や外装関係は英語での会話が主だった。
もともとPELは時計組立から始まっているので当初はワーカーとの英語が通じず広東語での指導になったのだろう。そのせいかムーブ担当の赴任者は代々広東語のうまい人が多かった。

ローカルのリーダークラスはほぼ英語ができるので意思の疎通に問題はなかった。
社内には時計専門用語を網羅した日本語、広東語、英語での一覧表がありそれを使って説明することもあった。

外装設計と外装技術のローカルスタッフが合わせて10名ほど、それと外装部品検査工場を含めて総勢80名ほどが私の管轄であった。

日本にいた時よりも仕事のスパンが広がり部下が増え権限と責任が大きくなる。
一技術者としての立場から管理者としての役割も要求された。

外装部では香港内の10を超えるケースメーカーから購買をしていたが外装技術の責任者として品質管理の責任とQCD評価によるケースメーカー選定にも目を配る必要があった。


当時は急激な円高の進行で国内での時計製造が困難になり製造の香港シフトが加速していた。
私が赴任したころは1香港ドルが35円程度だったがその後も継続して円高が進行した。

その頃はまだ香港の労働コストが(日本と比較して)相対的に安くまた時計の販売も好調だったので香港法人は利益を生んでいた。

その多くを本社に還元しながらも赴任者の待遇にも余裕があったようだ。

住居費は当然としても幼稚園や日本人学校など子弟の教育費や保険、所得税も会社持ちで日本人クラブのほかにスポーツクラブの会員も一部の赴任者に供与された。

当時はまだ泥棒や強盗など香港の治安に不安もあり安全面の事情も考慮して会社にはドライバー付き専用車が5台ほどあり行き帰りとも1台で数人の日本人を拾って通勤していた。

その頃日本人一人にかかる総費用はローカル従業員100人分と言われていた時代でまだローカルとの差が大きかったがそれでもまだ日本人を必要としていた時代だった。


私が赴任した1983年は香港返還を決めた中英共同声明が発表される前年にあたるのでちょうどそのころはイギリスのマーガレットサッチャー首相と中国の鄧小平がギリギリの交渉を続けていたころだ。


ここで、香港というところはどんな歴史と背景があるのか。
さらに深く理解するためにその歴史を簡単に振り返ってみたい。


香港はもともと中国華南にある広東省の小さな一漁村だったがその成り立ちは清朝時代に始まる。

香港島と九龍(大陸側)を隔てている海峡は大きな船が往来できる天然の良港だった。
イギリスはアヘンを中国に輸出する貿易基地として利用していたが1839年イギリスと清朝アヘン戦争によってイギリスが香港島を占領。

その後1842年の南京条約でイギリスに永久割譲された。
(狭義での香港はこの香港島を指す)

アロー戦争後、1860年の北京条約で九龍半島の界限街(ガイハンガイ)以南も割譲される。

さらにその後の清朝の弱体化(1884年清仏戦争、1898年日清戦争)の中でイギリスは1898年7月九龍 界限街以北から深圳(シェンチェン)河以南の新界地域の租借に成功した。

租借期限は99年間とされ1997年7月1日が返還日となった。

その後イギリス植民地(イギリス下の政庁)として19世紀から20世紀にかけ華南貿易基地として発展する。

1865年にはイギリス資本の香港上海銀行が創設、1877年香港西医書院〈のちの香港大学〉が創立されここで学んだ孫文らが決起、何度も清朝の軍に負けながらもついに革命に成功(辛亥革命)、1912年に清朝が滅亡し国民政府(中華民国)が樹立される。

戦前の香港はイギリス植民地下のもとで中国大陸と諸外国の中継貿易基地として発展、香港政庁はレッセフェール(自由放任政策)に徹していた。


1941年の太平洋戦争で日本陸軍が侵攻を開始しイギリス軍が降伏。

1945年終戦までの3年8か月間、日本(軍)が統治した時期がある。
この時期には貿易も止まり経済が悪化し160万の人口が60万人まで減少、
この時日本軍が乱発した軍票は敗戦で無価値になり今もその補償要求があるという。

その後中国の国共内戦により中国共産党中華人民共和国を成立(1949年)すると共産主義に反発する多くの中国人が香港に逃れた。

上海にあるイギリス資本(スワイヤー、ジャーディンマセソンなど)が香港に拠点を移し香港の経済発展に大きく寄与した。

中國の一党独裁を嫌った難民が大量に香港に流入、それが安価な労働力となり繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が大きく発展し後に香港最大の財閥となる李嘉誠のような起業家が出てくる。

その後旅客機の大型化で輸送量が増え香港は東南アジアにおける流通のハブとなりシンガポール、台湾、韓国と並ぶアジアの4小龍と呼ばれるようになった。

1970年代に入ると香港返還問題で中英のやり取りが活発化、イギリスのサッチャー首相は強硬に引き続き植民地支配を求めていたが中国は「港人治港」を要求、鄧小平は一歩も引かなかった。

私が赴任した1983年はほぼ返還が決まるころであったと思うが毎日この返還に関わるニュースがテレビに流れ、世界中がこの成り行きに注目を集めていた。


1984年12月中英共同声明発表、1997年7月1日に中国に主権委譲し「特別行政区」となることが正式に決まった。

鄧小平が提案した「一国両制」政策〈のちの香港基本法のベースとなる〉をもとに50年間は現状を維持し社会主義政策を実施しないことを約束した。

しかしこの発表後、中国共産党を嫌う多くの香港人がカナダ、オーストラリアへの一大移住ブームとなる。

1980年代は鄧小平による中国の改革開放政策が加速し香港の製造業は国境を越えて中国側に進出、香港はしだいに金融、商業、観光都市化していく。


こうした歴史的背景もあって香港に住む人たちは返還後の今でも中国に根強い疑心暗鬼を持っている人が多い。

私は歴史に翻弄される香港で長い間イギリスの植民地として経済発展してきた時代から共産主義の中国に返還されるという世界に例のない歴史的な大事件の渦中に香港にいたことになる。

ついでだが

返還が決まったころ日本でも返還後の香港がどうなるのかしきりに話題になった。

もう香港は終わりだという説が多かったと記憶しているが中でも経済評論家の長谷川慶太郎は”香港はゴーストタウン化する”とその著書に書いていた。しかもこの人はいつも”間違いない”と付け加える。

それに対して邱永漢は”返還後の香港は中国の窓口として栄える”と主張した。

”香港が中国化するのでなく中国が香港化する”のだと。

邱さんの見方はこうだった。

第一に
1997年までは10年以上の時間がありその間に指導者が変わるので毛沢東時代の再来は考えられない。どんな指導者でも新しい時代の風潮には勝てない。

第二に
香港を傘下に収めた中国の指導者に「12億人の生活を改善しなければそもそも自分たち(共産党)の地位を守れない」という認識があれば限りなく資本主義に近い形で経済の発展をせざるを得なくなる。
そのためには香港をお手本にして経済の発展を進めることになるからむしろ「中国大陸の香港化」が大きな流れになる可能性が大きい。

と1980年代当時の著書に書いている。

次の時代がアジアになるとして香港はそのおへその位置にあるからアジアに置かれた香港は他の追随を許さないものがあると付け加えている。

当時まだ改革開放前で何やら得体の知れない中国の将来の変化を予測できる人が何人いただろうか。


多くの情報を集め、分析予測する長谷川慶太郎に対し自分の足で現場を知り中国語で多くの人と交流しビジネスをしている邱永漢との違いがはっきり出た。

私はその後、それまで同じく先を見る意味で興味をもって読んでいた長谷川氏の著書”次(の時代)はこうなる”シリーズをいっさい読まなくなった。


ちなみに邱さんは1992年に目黒区の住民を辞めてアジアが見え世界の動きがよく良く分かるという理由で香港に居を移した。




返還後20年が過ぎた今も香港の活力と経済的発展は変わらずに続いてはいるがここ2〜3年の動きを見ると中国の政治的圧力はますます強くなり植民地時代に比べると自由な発言がかなり規制されてきた感は歪めない。




次回は赴任中の仕事や香港での生活の中で感じたことを記してみたい。



1980年代の香港


ライオンロックを背に降下する飛行機



九龍城付近の雑居ビル上をすれすれで降下する機体