第二回 出生、父の面影なし

昭和22年(1947年)3月、私は栃木県鹿沼市で父清作、母フキの五男として生まれた。

五人兄弟は当時としてはめずらしくないが男子ばかりというのは少ないだろう。
昭和22年5月に今の新憲法が施行されたので憲治という名前の由来となったようだ。

戦争というと今の平和な日本では遠い昔の話に感じられるが太平洋戦争の終結が昭和20年8月だから私が生まれる直前まで戦争のさなかであった。

戦争が終わり昭和22年から24年にかけてベビーブームが起こり、後の団塊の世代堺屋太一氏小説)と呼ばれる子供たちがいっせいに生まれた。
私はその団塊の走りだ。

戦争で日本は消耗し徹底的に破壊されたのでとにかく日本中全体が貧しかった時代だ。

私が生まれた頃はまだ戦後の混乱期で食料が足りずに国から米、砂糖などの配給があったが人々は配給だけでは生きていけずに闇市ヤミ米を買って空腹をしのいだ。
昭和22年の史実を見ると配給だけの生活を守った山口という東京の判事が栄養失調で亡くなったという記録がある。
裁判官として死んでもルールを守った正義感の強い人だったのだろう。

今の飽食の時代には想像もつかないがたとえ違法でもヤミ米を買わない限り生きられなかったという当時の現実が伺える事件である。
私自身はまだ小さすぎて何も分からなかったが人々は生きるだけで精いっぱいの時代だったのだろう。

子供のころには兄たちから毎日芋ばっかり食わされたとか学校に行っても農作物を作るため毎日畑仕事をやらされた話など戦争中の体験談もよく耳にした。

鹿沼という田舎町にもまだ白い服を着た傷痍軍人アコーディオンを弾き、物乞いに立つ姿をかすかに記憶している。

昭和20年代後半になるとずいぶん状況もよくなってきたのだろうがまだ復興期で食べ物も充分でなく家も貧しかったので小さいころは腹を空かすことが多かった。
小さい頃は米粒一つも残さずに食べるよう教えられた。

ごはんも麦飯が多かったがサンマは安くてよく食べた。
豚肉はたまに食えたが牛肉はほとんど口にした記憶はない。
当時は卵が高くて一個15円(今の価値で300円ぐらいか)もするごちそうだった。
たまに入ると卵一個で三杯のご飯が食べられた。

そんな昔の記憶があるので私は今でも食べ物を無駄にして捨てることに抵抗がある。



両親は共に明治の生まれで母は明治のほぼ最後に生まれている。
今となってははるか遠い時代であるが当時はまだ明治生まれが普通にいた。

昭和のいつだったか最後の江戸時代生まれの人が亡くなったというニュースを聞いたのを覚えている。
(後述;文久3年(1863)生まれの河本にわさんが昭和51年(1976)に没,113歳)

子供のころには関東大震災(大正)や戦争の話も母から聞かされた。

鹿沼市はこれといった特徴のない街であるが山に囲まれた盆地で鹿沼土や皐月、松などの盆栽が昔から知られている。
近所にも盆栽好きのおじいさんが結構いてたくさんの盆栽を育てていた。
近くの山で鹿沼土が取れるので子供のころにバケツとシャベルを持ってよく取りに行った。
山肌を削ると鹿沼土が出てくるのでバケツ一杯自転車で持ち帰った。


父は私が二歳の時に亡くなってしまったので父の面影や思い出は残念ながら全くない。
残された数少ない父の写真だけが私の唯一の父の手がかりである。

父は体が丈夫でなかったらしく乙種合格とかで戦争に出る機会は免れたが若い時に背中を打ったのが原因の病気で亡くなったと母から聞かされた。
ちゃんとした病名は分からずおそらく今なら治っただろう病で44歳という若さで逝ってしまった。
5人の子供を残し病の床でさぞや心残りであったろう。
一方、母は90歳まで長生きし天寿を全うしてくれた。


父は栃木県の林産物(林業)に関わった地方の公務員だった。

仕事の中身については分からないが会社の中でも字がたいへん上手だったということをよく母から聞いた。

さいころ家にはまだ分厚い本が書棚に残っていたのを覚えている。
写真をやり、バイオリンを弾くこともあったと聞いている。
私が小さい時に箪笥の引き出しから昔のガラス製の写真乾板を見つけた事がある。
昔としては趣味人だったところがある。

もう少し生きていてくれればいろいろと教えてもらえたこともあっただろう。
私の人生も少しは違っていたに違いない。
小さい時にはなぜ父親がいないのかと子供心に寂しい思いもした時もあったが物心ついた時にはもういなかったので逆に別れのつらい思いもしていない。


鹿沼は昔から材木と木工の街でもあった。

地名にも上材木町、下材木町などが残っていて大工や建具師も多い。

鹿沼からほど近い日光東照宮にある木彫りの「眠り猫」や「見ざる言わざる聞かざる」は有名だが江戸の昔に東照宮の大工たちの子孫が鹿沼に留まり木工が盛んになったといういわれがある。

毎年秋に催される鹿沼の彫刻屋台祭りが有名になっているが豪華な木彫りで覆われた何台もの屋台がそれぞれの町内の蔵から引き出され市中を子供たちが曳き回す。
私も子供のころ母親に化粧してもらい、はっぴを着て上田町(かみたまち)の屋台を曳いた思い出がある。

昔は地方のこじんまりした祭りだったように思うが、今では国指定重要無形文化財、最近ではユネスコ無形文化遺産登録決定となったこともあって有名になり派手になってきている様子である。


ちなみに私の祖父寅蔵は大工だった。

私が生まれるずっと前に亡くなっているが家の縁側の片隅にまだ大工道具が残っていた。
小学生のころどういうわけかこの大工道具に興味がありノコギリだけでなくカンナやノミまで使って木工(いじり)をやるのが好きだった。

市中には材木屋さんが結構あり小学生のころ学校の行き来で大工さんがカンナを使っている作業をよく目にした。
3mはあろう材木を上から下までするすると動かし薄っぺらいカンナくずが小気味よく舞い上がるさまを見て子供心にかっこいいなと思い自分もやってみたくなった。

私が大工のまねごとをしているのを見て母から”ケンジは器用だから大工になったらいい”と言われたのを覚えている。



少し遡るが
母親は父の死後、女手一つで子供たちを食わせなければならないので日中ずっと働きとおしだった。
当然末っ子の私の面倒を見るゆとりはない。
そのため私は保育所に行かされたのだがなじめずに近所の友達と遊ぶ方が楽しく兄の自転車で保育所まで送られるとその足ですぐに戻ってきてしまう日々を過ごした。

保育所にいた記憶はあまりないのだが昭和28年のお別れ会の写真にはちゃんと納まっている。

近所の子らは同じ(団塊の)年頃の子がぞくぞくといたものだから遊び相手には事欠かない。
外に出れば必ず誰かがいてビー玉やベーゴマをはじめメンコ、缶蹴りなどいろんな遊びがあった。

みんな貧しかったが毎日遊びに熱中して楽しかった。


夏になると近くの川で水浴び(まだ泳ぎになってない)やちょっと遠出して田んぼの畦での魚とりもよくやった。
竹で作った籠を畔の下の方に置き30mぐらい上から足で追っていくと籠にいろんな生き物が入っている。
鮒が獲れると持ち帰ったがドジョウやメダカは当時たくさんいたのでその場で捨てた。

夏も終わりの頃か夕方までランニングひとつで遊びほうけていたら家に帰ってきた母にこっぴどく叱られたことがある。
風邪をひくのを心配したのだろう。

市外にある岩山(今ではロッククライミングの場所)にのぼり、秋になると山のアケビや栗取り、木を削ってトンボや木刀を作りチャンバラごっこもした。

まだテレビもなくおもちゃも買ってもらえなかったので遊び道具も自分で作り、外で遊ぶのが当たり前の時代だった。

ものは不足していたがその分自然と親しむことができた。

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父方の祖父母


生前の父 昭和20年頃


 保育所の卒園 昭和28年 前列の一番右側


6歳のころか 母、すぐ上の兄と