私の履歴書 第三回 小学校へ

昭和28年(1953)鹿沼市立北小学校に入学。

当時はまだ食糧事情が悪く栄養が行き届かない時代だったので貧弱な子が多く体の大きい肥満児が健康優良児として表彰される時代だった。
私は体が小さいうえに早生まれなものだからクラスでも席はいつも前のほうだったが体は丈夫でほとんど学校を休んだことがなかった。

世の中はまだ衛生状態が悪くノミ、シラミがはやっていた。
低学年の頃だったと思うが全校児童が校庭に集められて一人づつ順番にDDTを頭と背中に吹きかけられて全身真っ白けになった記憶がある。

給食で出されたアメリカから配給の脱脂粉乳はそこそこの味だったが、あの独特の嫌な臭いの「虫下し」を鼻をつまんで飲んだのは今でも覚えている。
飲み切らないと先生が帰してくれないので泣きながら無理して飲んで吐いてしまった女の子もいた。

当時は人糞を農家の肥やしに使っていたので野菜についた寄生虫の卵から回虫などを体に持つ人が少なくなかった。
昭和20年代の農村に住む人の回虫保有率は50%を超えていたようだ。
汲み取り屋さんがいてタンクのついた車で定期的に一軒一軒各家庭の便所から大きなホースで汲み取りに来る。

当時まだこの辺りではガス、水道が引かれてなく水洗トイレができるのはずっと後のことだ。

家でお風呂を沸かすのは私の役目だったが薪に火をつけるまでが一苦労。
新聞紙に火をつけ煙にむせかえりながら真鍮でできた長い吹き矢みたいなもので息を吹き込むとさっと燃え上がった。

我が家の風呂は鉄釜だったがぬるい時には薪で追い炊きするので風呂の中でこの釜に触れると熱かった。
五右衛門風呂と言われた風呂桶の下に鉄窯がありそこに板を浮かせた風呂が母の実家(栃木県那須郡)にあって一度だけおそるおそる入った記憶がある。


小学低学年の頃は気が小さくて引っ込み思案だった。
父親がいなくて家が貧乏だったので子供心に引け目を感じていた。
そのうえ早生まれで同級生より一回りも体が小さいこともありまるで劣等感の塊だった。
学校の成績も2が多く下から数えた方が早い劣等生であった。

本人はぜんぜん成績を気にしていなかったが母は心配し兄たちに勉強を教えるように言っていた。

一方で運動神経はいい方だった。

小さい割に足は早い方で運動会ではだいたい背の順に分けて走るのでほとんど1着だった。
跳び箱や縄跳びも得意で全校生徒の縄跳び大会で最後まで残ったことがある。
体の割に腕の力があったので教わったわけでもないのに鉄棒が得意だった。
小五のころに一人校庭の鉄棒で見よう見まねでやった大振りが難なくできてしまった、
気をよくしてそのあと蹴上がりも何回かの挑戦でできるようになった。

しかし鉄棒の握り方も知らないで遊んでいるうちに手が離れ思い切り背中から落ちてしまったことがある。
息ができずに死ぬかと思ったがしばらくして元に戻った。

体育の授業で懸垂は小五の時に18回できたのを記憶している。
しかしそれを上回る23回というすごいのがいて私は全校で2番だった。

(ちなみに今は一回もできない)

そんな折、兄の中学の運動会でお昼の休憩時のアトラクションで体操の演技を見る機会があった。
鉄棒の車輪やマット上でのバック転を見てかっこいいと思い中学の体操部にあこがれた。
運動会では母のつくるノリでくるんだおにぎりやゆで栗、卵焼きが楽しみだった。

当時小学校では家庭科という授業があり男の子でも裁縫をやる時間があった。
毛糸を編んだり縫いものをやらされたりしたが学校で作ったものを家に持ち帰ると母が褒めてくれてケンジは器用だから裁縫師になれとまたいわれた。
母は昔の人なので着物を自分で作ることができた。


小学も高学年になったころはこれと言って勉強した記憶はないが成績はなんとなく上位の方になっていた。

世の中はようやく街頭テレビが普及し始めた時代。
鹿沼の市役所に大勢の人が集まって力道山のプロレスを見るのが人気だった。
白黒テレビだが色のついたガラスが掛けられて一見カラーテレビ風に見える。
100人ぐらいはいただろうか、大人が多く子供の背丈ではよく見えなかったが後ろの方から背伸びして見た記憶がある。
得意の空手チョップで外人レスラーを吹っ飛ばすとみんなの歓声が飛んだ。

このころの年表を見ると昭和28年(1953)にNHKが放送開始、昭和29年に防衛庁自衛隊が発足している。
昭和30年に東京通信工業(現ソニー)が世界初のトランジスタラジオ発売。
昭和31年(1956)にもはや戦後ではないと宣言され日本は高度成長に突入し家電製品がブームになるほど豊かになってきた。

しかしまだ世の中は無いものだらけで欲しいものだらけの時代。

当時三種の神器と呼ばれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及してきた時代である。
(それまでは電気を使わない洗濯機や冷蔵庫が普及していた)
昭和34年(1959)当時の大卒初任給15000円の時代に白黒テレビ14型が67500円とある。

この年、尺貫法が廃止されメートル法がスタート、貫からキログラムへ、匁(もんめ)からグラムへ店の表示が突然変更され小学生の自分も近くの駄菓子屋で飴を買うのに頭の中でグラムを匁に換算したものだ。(100匁=375グラム)


政治の世界では昭和30年(1955)に保守の自民、革新の社会という55年体制ができた。
昭和35年(1960)60年安保が成立し岸内閣から池田内閣にバトンタッチされ池田勇人所得倍増計画を打ち上げた。
たまたま鹿沼に来た岸信介首相の演説を子供の時に見た記憶がある。

池田首相の有名な”所得倍増”ほか”貧乏人は麦を食え““私はうそを申しません“などの数々の名言キャッチフレーズは世間を騒がせ流行語になったが堺屋太一はその著書「日本を創った12人」のなかで聖徳太子徳川家康マッカーサー松下幸之助などとともに戦後の日本を経済大国に導いた最大の功績者として唯一政治家として池田勇人を挙げている。

昭和20年代はまだ貧しさが残る時代だったが昭和30年代に入ると日本はまさに高度経済成長に突入した時代だった。


10歳のころ
母、次兄、4兄と