私の履歴書 第四回 中学時代

昭和34年(1959)、皇太子(今上天皇)と美智子様のご成婚の年に鹿沼市立東中学校に入学、あこがれの体操部に入部した。

放課後になると校内にある体育館でほぼ毎日のように練習した。

入部してしばらくは体の柔軟訓練をやらされた。
マットの上で開脚し先輩から思い切り背中を押されると新人はみんな痛くて悲鳴を上げる。
翌日は体があちこち痛いうちにまた放課後同じことをやるような日々が続く。

三か月もすると体が徐々に慣れてきて開脚でマットに腹をつけられるまで柔らくなった。
毎日体操ができるのが楽しく休みの日も学校で練習する日々が続いた。
毎日へとへとになるまで練習しても翌日になると疲れが残っていない。
10代の体はまさしくエネルギーの塊だ。

当時中学での男子体操競技は団体徒手体操と個人競技で行うマット運動、跳馬、鉄棒の三種目だった。

もともと小さい方で身が軽い割には腕の力が強かったので上達は早かった。
2年生になると部内のエース級になったが同級生に野々宮君という選手がいてここでも一番にはなれなかった。

彼は成績も優秀、文武両面でかなわなかったが三年になると父親の転勤で宇都宮へ転校した。
その後何年か後に東京教育大(現筑波大)の体操部に入ったという話を聞いた。
オリンピックで金メダルを何度も取った加藤沢男選手(元筑波大教授)とは大学時代の同期で一緒に練習したらしい。
世の中には上には上がいるものでさすがの野々宮君も加藤選手にはかなわなかっただろう。

野々宮君が転向した後に学級委員の補欠選挙があり私が僅差で選ばれた。
挨拶をということで「自分が級長になっても特に何も変わらないと思う」と本音を言ったらみんなに大笑いされた。

当時体操部を指導する女性の先生が熱心で生徒も練習をまじめにやったこともあり中学2年の時に地区(郡)で団体優勝し栃木県大会に出場した思い出がある。

日頃は体操に夢中になっていたが中学に入ってからは成績も気にするようになり期末試験の時期になるとまじめに勉強するようになった。

ほぼ一夜漬けに近いがそれでも試験の一週間ぐらい前から集中して勉強し成績は上位10%に入るようになっていた。
体操部に所属していたので体育だけはいつも5をもらえた。

ある日中学の美術の曽我先生(女性)から職員室に呼ばれた。
当時の鹿沼市内では絵の世界で名の知られた先生だった。

何事かと思って恐る恐る先生の前に行くと嬉しそうに「100点満点を取ったのは全学年で君だけだ」と褒められた。

団塊の世代で当時7クラスぐらいあったので同学年が300人以上はいたと思う。
どんなテスト内容だったかは覚えていないが美術史の問題の他に自分の手をデッサンする課題があったと記憶している。

なぜ一人だけ満点をくれたのか。
絵を描くのは嫌いではなかったが特別絵がうまかったわけでもないし絵で表彰された覚えもない。

その時はそれで終わってしまったがその頃はまだ普通の中学生でアートという観念すら知らなかったし自分に芸術的探究やクリエイティブの芽があることすら自分でも気が付かなかった。

振り返ってみれば、今の自分も美術品や工芸品などのアートに興味があるし、暇ができたので水彩画も始めている。
今にして思えば自分は美術の道に進むのが向いていたのではないかと思うことがある。


思い起こせば中学時代からカメラに関心があった。
こんなエピソードもあった。

兄たちからもらった小遣いをためてある日市内の写真屋さんで安いカメラを買って近所の風景を何枚か撮影した。
その後、カメラの中がどうなっているのか好奇心いっぱいになり家に帰ってカメラの蓋をあけて中を覗いてみた。
中にはコマ送りされたフィルムがあったが見たところ何の変化もない。
写真屋に持ち込み数日後に期待いっぱいで取りに行ったら「お客さん全部真っ黒ですよ、光が入っている」
フィルムを開けたら露光でダメになることをその時まで知らなかった。

これが私の写真の始まりだ。




中学時代にはテレビの民放局も増えて面白い番組がどんどん出てきた。

NHKの「夢で逢いましょう」「若い季節」、民放の「ザヒットパレード」「シャボン玉ホリデイ」「七人の刑事」「ローハイド」「ララミー牧場」など。

若い頃のクレージーキャッツが演じるショートコント「大人の漫画」は学校でも話題になった。
ちなみにあの脚本を手掛けたのは後に東京都知事を務めた青島幸男だ。

特に思い出のあるテレビ番組の一つに「兼高かおる世界の旅」があり毎週日曜日朝の放映を見るのが楽しみだった。

放送開始が昭和34年(1959)なのでちょうど中学に入った年だ。
テーマ曲は「80日間世界一周」。
知的な美人ジャーナリストの兼高かおるが世界各地を取材する番組でアメリカやヨーロッパのありきたりの観光地ではなく普通の人が行かないようなところにも行き現地の人と交流していた。

その姿がまだ海外どころか日本すらよく知らない世間知らずの自分をとても刺激した。
それまでそんな番組はなかった。

当時は日本人の海外渡航自体に制限があり一般人にとって海外はなじみが薄くまだ夢の世界だった。
(海外旅行が自由化されたのは1964年)

この番組で知る海外という未知の世界がとても新鮮で魅力的、私の中でいつしか海外に往ってみたいと思う気持ちが少しずつ育っていった。



中学三年生となり高校受験の時期になる。
このころは成績も各科目とも5が並ぶようになっていたので担任の先生から栃木県の有名校の受験を勧められた。

当時は公立校が優位で、一部のお金持ちか公立に入れない成績の悪い生徒が私立校に流れる時代だった。

鹿沼市には普通高校と実業高校の二つの公立高校があり市内の高校に進学するのが普通のコースだった。

すぐ上の兄たち二人は私と違っていつも机に向かっているタイプで優秀な成績だった。
中学時代は全校で3番だとか4番とか言いあっていたがそれぞれ市内の鹿沼農商高校商業科を出ている。

三兄(英男)はすでに日本電電公社(現NTT)に就職し、四兄(洋)は高三で野村證券への内定が出ていて母は喜んでいた。
母は私にも安定した大企業に入ることを望んでいた。

私は商業コースに行くことに何となく違和感があり工業コースのほうが自分にあっているような気がしていた。

隣の宇都宮市(県庁所在地)に男子校として県下の有名公立高校が二つあった。
県下一の宇都宮高校とそれに次ぐ宇都宮工業高校だが前者は大学に行くのが前提の進学校

母親はすでに50台の半ばとなり当時は次兄(徹)の電気工事店での収入が家を支えていた。
(その頃長男は東京や宇都宮の洋品店の住み込みで働いていてほとんど家にはいなかった)
高校を出てさらにその先4年間も次兄の世話になるわけにはいかない。

母親を早く安心させたい気持ちもあり自分の中に大学という選択肢はなかった。
迷わず就職に有利な工業高校の道を選んだ。

その時、次兄が「大学に行きたければ行ってもいいぞ」と言ってくれたことを今でも覚えている。
兄弟で一人ぐらいは大学に行ってもいいと思ったようだ。
ただし家から通える宇都宮大学(国立)が条件となる。

私はそのころテレビなどで知る文化の発信地、東京にあこがれがあった。
早く東京に出て都会の生活をしたいという思いも後押しして県立宇都宮工業高校を受験した。


中学二年の時、団体地区優勝
二列目左から野々宮君、私。 全列右から三人目が指導の先生


昭和37年(1962)中学卒業の謝恩会で
2列目一番右私 、前列中央 川田順先生