私の履歴書 第五回 高校時代、体操と写真

昭和37年(1962)入学試験に合格し宇都宮工業高校 精密機械科に入学した。
機械科や電気科が当時の花形だったが自分としてはカメラに興味があったので精密機械に惹かれた。
鹿沼から国鉄(JR)で一駅乗りそこからバスで通学した。

高校では家に負担をかけたくないので育英奨学金を申請した。
月々1000円を受け取り就業後に返済を開始する。

現在の価値でいくらなのか消費者物価指数を調べてみると4.5倍、約4500円になる。
(ちなみにこの指数をみると日本は2016年時点でいまだにデフレ状態から脱却していないことが分かる)

お金は大事に使ったが自分の小遣いとして使えるのでずいぶん助かった。

高校でも体操部に入った。

入学早々のある日、たまたま新入生全員が参加する校庭逆立ち歩き大会があった。
一歩も歩けない新入生も多かったが私にとっては楽勝である。
20mぐらい余裕で逆立ち歩きして誰もついて来なくなったところで笑顔を見せた。それを体操部の先輩が見ていて後で勧誘に来た。

入部した後はやはり練習漬けの日が続いた。
中学時代の体操とは数段レベルが違い競技種目も増えそれぞれ難度が高い。
跳馬と鉄棒、それに(12m四方の)床運動までは中学の延長で行けたが高校になると鞍馬、吊り輪、平行棒が加わる。

初めての吊り輪はぶら下がったきり何もできない、中学との違いを思い知らされた。
鞍馬も難しく二つある取っ手をつかみ体を浮かせて互い違いに動かすのは想像以上に難しい。

それでも練習するうちにだんだん技ができるようになってきた。
何事も初めは難しく感じるのだが続けているうちにできるようになるものだ。

私はそのころ背が伸びた分、がりがりに痩せていたが次第に体操の筋肉がついてきた。
体操競技は体のばねが必要だが上半身の筋肉がないと何もできない。
体操で鍛えた筋肉はボディビルで作るそれとはまったく異質で弾力がある。

一年生の時に栃木県大会で団体準優勝し水戸市で行われた関東大会に出場した。
たまたま三年生が一人で二年生が中心だったので私は一年生で正選手となった。

だが年が明けた頃には退部を考えるようになった。
先輩風をふかした二年生がいて一年生に言いたい放題、乱暴できつく当たっていた。
今にして思えば男子校や体育会系によくある未熟な男子のいじめのようなものだがその風潮になじめず次第に練習が嫌になってきた。

高校1年の時につけていた日記に体操部顧問の川俣先生と話をしたことを記している。
先生は私を次期ホープとして期待してくれていたのでいろいろと面倒を見て説得をしてくれたのだがこのころ私は写真に興味を持ち始めていて写真部へ移るかどうか迷っていた。
3月の他校での強化合宿までは参加したが体操部を続ける気持ちが薄くなっていた。

4月、2年生になり体操部に退部届を出し写真部に入った。

その直前に以前から欲しかったカメラを(すでに就職した)兄たちからもらったお年玉をもとに月賦で購入した。
コニカEEマチック13100円、10か月の月賦で月々1100円(とたまたま日記にあった)
カメラを買うためにお金を上げたんじゃないと後で兄から叱られたがその頃何よりもカメラが欲しかった。
早速念願のカメラで近くの御殿山公園で撮影し学校の暗室でクラスの友人に教わりながら初めてのフィルム現像をした。
その後はネガ(現像したフィルム)から印画紙に焼く(プリントする)作業も徐々に覚えていった。

自分で撮った写真を自ら現像し印画紙に焼き付けする暗室作業がとても新鮮で面白かった。
ネガフィルムを引伸ばし機で印画紙に露光した後、現像液に付けると数秒後に画像がスーツと浮かび上がってくる…その瞬間に素直に感動し理屈抜きで興奮した。

単純に自分の写真(映像)が作れることが面白くどんどん興味が湧いてきた。
購入したカメラであちこちカメラ小僧よろしく撮るようになった。
当時はまだ写真の内容云々までは及ばなかったが後日映像に興味を持つきっかけになった。


昭和38年(1963)2年生の10月に4泊5日の修学旅行があった。
宇都宮から東京に出て岡山、四国高松を経て神戸、京都、奈良と周った。
楽しい思い出だったがその時に撮った写真があろうことかフィルム現像で失敗してしまった苦い思い出がある。
フィルム現像の失敗は取り返しがつかない。

その後も現像ムラを出したり冬に現像液の温度が低く画像が出なかったりと時折失敗も繰り返しながら徐々に技術が上がっていった。
学校ではD76やD72などの現像液も薬品を混ぜて自作するようになった。

2年生の12月には日本商工会議所計算尺2級検定試験を受けた。
工業高校では技術者を目標としているので三角関数や乗除などの技術計算を屋外で素早く概算(頭三けたを知る)する方法として計算尺の練習があった。
受験者は県下で500人弱、合格率は2割と聞いていたがなんとか合格した。


このころ学校の図書館から本を借りる機会が増え積極的に読んだ。
吉川英治森鴎外三島由紀夫松本清張川端康成本田宗一郎獅子文六など
特に吉川英治宮本武蔵は読み始めると面白く止まらない、寝床で遅くまで読んでいた記憶がある。

60年代前半、好景気に沸く日本列島では大黒柱が都会に出稼ぎに出て農村では三ちゃん農業に。
坂本九のスキヤキ(上を向いて歩こう)が全米一位になり、キング牧師が人種差別を訴えアメリカで演説。
1963年には初の日米宇宙中継が登場したがその時ケネディ大統領の暗殺がニュースとして日本中に流れた
大鵬が6場所連続優勝し巨人大鵬卵焼きという言葉が流行った。

1964年10月に東海道新幹線が開通し東京五輪開催、日本中が沸き返った。
女子バレーボールの視聴率が67%、私もテレビにかじりついて応援したのを覚えている。
東洋の魔女”を金メダルに導いた大松監督の著書“俺についてこい“は映画にもなった。

私は宇都宮を通過した聖火リレーを見て盛り上がり、入場券もないのにオリンピックの生の雰囲気を少しでも味わいたくて東京国立競技場まで行った。

高校3年になりいよいよ就職試験を受ける時期になった。

写真に興味があったのでカメラメーカーに入りたかった。
キャノンの募集案内が先生からあったがこれは成績上位者のみに限られるという話だった。
しかもかなり確率は難しいという。
なんとか学校推薦で試験を受けさせてもらったが確かに難しい試験で結局落ちてしまった。

そのあと今度は第二精工舎という会社があるという。
当時の日本ではSEIKO掛時計が有名で精工舎の名前は轟いていて母も家にある古い掛け時計を指して“セイコーの時計はいいんだー”
とよく言っていた。

だが第二精工舎って?聞いたこともない。
どうやら精工舎の兄弟会社で腕時計を造っている会社らしいと分かった。
しかし腕時計はまだそれほど一般に普及しておらず時計といえば掛時計が常識の時代だった。

カメラに比べて腕時計にあまり関心はなかったが調べたらカメラのシャッターも造っているようなのでそれに惹かれて受けてみた。
こちらは試験問題も比較的易しく私と森田君が精密機械科から受験し二人とも内定をもらった。

母に報告すると“セイコーに受かったんけー”と鹿沼弁で喜んでくれた。
これで母を安心させることが出来た。
それからは卒業するまで憧れの東京に行くのが待ち遠しかった。


余談だがこの項の最後に内緒話をちょっと。

同じ中学のクラスから宇都宮女子高という県下一の名門女子高に入った女子がいた。
小柄で知性的な顔立ちの子だったが学年で断トツな成績で雲の上的存在だった。
同じ通学路となり日々顔を合わせる機会が多く次第に意識するようになった。
そのくせ顔をみるとなぜかドキドキしてしまい知らん顔をする。
結局三年間ほとんど口をきく機会がなかった。

上京する前に一度だけ話をしたくて思い切って手紙を書いた。
家で会ってくれるというので訪問すると書籍棚のある書斎風の部屋に案内されお母さんがお茶を入れてくれた。
お父さんは学校の先生で先祖に本居宣長がいるとのことだった。
結局告白もせずに時間を過ごしたが相手は察してくれたかと思う。
その人の名は渡辺澪子(みよこ)さん。

その後は一度も会う機会がなかったが私の中ではいつまでもマドンナである。
もし今も健在ならば今一度会ってその時のことを語りたい。

完全一方通行だった私のほろ苦い初恋の思い出である。


体操競技関東大会で 前列右  後列右が川俣先生

写真部 前列右から三番目

卒業を前に校庭で  左から三番目