私の履歴書 第六回 上京し第二精工舎入社、大学二部へ
昭和40年(1965)第二精工舎(現セイコーインスツル)に入社。
故郷を離れ親元からも離れていよいよあこがれの東京に住むことになる。
当時、東京江東区亀戸に本社工場があった。
大卒以外は地方出身の採用が原則なかったこともあり会社の寮には入れなかったのでその頃大田区蒲田にいた長兄の勉(当時独身)のアパートに数か月居候させてもらった。
その後同期入社の地方出身組(6名ほど)の板橋君と駒込の4畳半のアパートをルームシェアしその半年後には独立した生活が始まった。
同期入社は中卒が約300名、高卒が約80名、大卒が30名程度だったと記憶している。
好景気を反映しての大量採用だが当時はまだ中卒が主要な人材の時代だった。
亀戸の本社工場には3000人以上の従業員がいた。
本社機能(経営、間接部門)のほかに時計の中枢(企画、デザイン、時計研究、時計設計、技術開発、品質管理などの各部門)さらに大勢の女子工員がいて大奥と呼ばれていた時計組立工場、そして検査工場やメッキなどの現場が亀戸にありそれぞれが大人数を擁する大きな組織だった。
地板をはじめテンプ、歯車などの主要精密部品は主に千葉県内にある数か所の工場で製造していた。
市川市大野にあったミクロン単位の精密部品を造る金型製造部門にはスイス製の精密工作機械がたくさんありこの金型工場は世界でもトップクラスの技術と言われていた。
従業員は国内海外含めグループ全体で1万人を超える大会社だった。
入社してすぐに人事の面接があり同じ高校から入社した二人のうち一人は千葉県習志野にあるセイコー精機(工作機械部門)に行ってほしいといわれた。
えっ!?と思ったが幸い森田君が手を挙げてくれたので私は亀戸に入社することになった。
入社前の希望欄に「外装の現場」と書いていたためか私は当時新設されたばかりの側工場(時計ケース製造)に配属された。
配属された20名ほどは全員中学卒でなぜか私一人だけが高卒だった。
ちなみにカメラのシャッターを造っていたのは精工舎関連の他社で第二精工舎ではなかった。
当時第二精工舎の(時計製造会社としての)中核はムーブ部門であり設計、技術、開発などに関わる多くの技術者はムーブに関わるスタッフがメインであった。
そこには東大、東工大はじめ早稲田、慶応などの名門大学出の専門技術者も数多くいてまさに技術集団というにふさわしかった。
一方で時計外装は国内に10社ほどあった外注メーカーからの調達が主体だった。
社内には外装部門(デザイン、設計、技術、検査等)があったが実際の外装製造は行っておらず私が配属された職場は初の自社外装工場だった。
時計理論や技術を追求するムーブ部門に比べどちらかというとノウハウで積み上げられた感覚の外装部という感があった。
またデザインは時計において重要性を占めるがその所属は外装技術、製造に近い外装部の中にあった。
現場を希望した理由はいずれ外装のデザインを手がけたいという思いが自分にあったので製造現場の経験が将来役に立つのではないかと自分なりに漠然と考えてのことだった。
当時はレディス向けの小さくフェミニンなケースが市場で人気だったがこれを内作するのが職場のテーマだった。
真鍮のケースにキャスティング(遠心鋳造)製作の銀のオーナメントをロウ付けする作業やバフ盤での下磨きや仕上げ磨き、洗浄、検査などの一連の作業を経験した。
その後2年ほどして当該工場を管理する技術課から指名されて技術スタッフへと移籍したのだが自らの手でケースづくりに携わった経験は今でも生きておりその時の感覚が体に残っている。
この頃、ベビーブーマー(団塊の世代)が10代後半になり消費市場が急拡大していた。
オリンピック後の不況から抜け出した好景気と共にエレキギター、レコード、カメラ、漫画雑誌、任侠映画、ファッション、腕時計などが若者中心に流行し拡大し始めていた。
毎年4月の入学、就職の時期になると時計の購入やプレゼント需要が一気に増えフレッシュマンセールと銘打ったテレビ広告もあって時計が大いに売れ会社の業績は絶好調だった。
“セイコーッでスタート♪”というテレビ広告のキャッチフレーズは今でも覚えているが当時は国内でのセイコーのネームバリューが圧倒的に強かった。
販売は親会社である服部時計店(現セイコーホールディングス)が担当していたが製造を請け負う第二精工舎の生産も伸びまさに大量生産の幕開けだった。
まだクオーツが出現する以前の機械式の時代で当時は比較的高価だった。
入社した年の冬のボーナスが4か月も出てびっくりしたのを覚えている。
母親にもいくばくかのお金を渡した。
会社の労働組合が所属していた全金同盟(全国金属産業労働組合同盟)には多くの大手企業が所属していたがその中でも第二精工舎はトップレベルだった。
当時江東区近辺ではお嫁さんの成り手が一番人気といわれていた。
世の中はまさに高度成長の真っ最中でインフレ率は2ケタの時代で給与も二ケタでアップした。
物価も上がるが給料もそれ以上に上がる時代で今の中国のように人々は未来の発展と繁栄を予感できる社会だった。
余談ながらデフレは物価も上がらないので消費者にとって一見よさそうに見えてもすべてが縮小するデフレ経済では会社を苦しめ、結果そこに働いている人をも苦しめる。
(適度な)インフレのほうが明るい未来を感じられよほど人々をハッピーにする。
昭和41年(1966)入社二年目になり東京の生活にも慣れてきたころ御茶ノ水にある日本大学理工学部(機械工学科二部)を受験した
4月に入学したらたまたま同じクラスに同期入社の馬場君がいた。
彼は時計設計部に所属していたがその後大学時代の友人として長い付き合いになる。
会社が終わってから大学の講義室に行くと前の方はすでに大勢の学生が席についており後ろの方だけ空いている。
そのあたりでいつも気持ちよさそうに居眠りをしている学生がいた。
机の上にはいつも自衛隊の帽子だけが置いてあった。
自衛隊からも夜間大学に来る人が居るのかと感心した。
のちに親友になる山梨県出身の進藤君だった。
日中はみんな仕事を持っているので夕方になると疲れも出てくる。
私も含めて先生の講義がちょうど心地よい子守唄になってしまう。
一般教養課程では哲学や国文学など興味ある講義もあった。
高校から工学系を専門としていたので一般教養の講義が私には新鮮だった。
専門課程に入ると物理、化学のほかに機械工学系では機械要素、材料力学、金属材料などの専門が入ってくる。
中でも実験という課程があり工学系の実習があったがレポート提出の負担が昼の仕事を持つ二部の生徒にはけっこうつらかった。
エンジン設計というのもあり理屈もわからずにエンジンの設計もした。
大学の勉強というのは浅く広くなるが後に自分の専門分野に入っていくときにその入口としての基礎ができ調べるノウハウが身につくことが役に立つ。
試験の時期になるとさすがに昼夜掛け持ちはきつかった。
先輩から試験問題を聞きうまく切り抜ける連中もいたが私は要領が悪く勉強しないと点が取れずに単位ももらえないので試験の時だけはまじめに勉強した。
ある時3日続けて徹夜をして会社に行かなかったら無断欠勤となり大目玉をくらったことがあった。
大学に行き腹が減ると隣の明治大学にあった安い学食をよく食べた。
そのうち気の合う仲間ができると抜け出して御茶ノ水界隈の喫茶店ルノアールでよくだべったりした。
抜け出すときには代返を頼むことがあった。
出席が足りないと単位ももらえないので先生が出席を取るときにハイッと答える役だが一人二役で器用に声を変える者もいた。
先生も承知で、二部の学生には大目に見てくれていたのだと思う。
外に出ても金はないからお金のかからないところで時間をつぶすのだがそれでも若いころは仲間といるだけで楽しい。
中でもジャズの好きな林田君がいて彼とは当時新宿や渋谷などにあったジャズ喫茶に通った。
当時はジャズが好きな若者もけっこういて都内には小さなジャズ喫茶があちこちにあった。
どういうわけか地下の店が多かったが薄暗い部屋の壁一面にLPレコードが置かれ大きなスピーカーと大音量の中で若者が何時間も聴き入っている。
私もそんな一人でモダンジャズが好きだった。
小さい頃はマーチが好きだったが高校ではグレンミラーなどのビッグバンドのジャズが好きで寝床でよく聞いていた。
あるとき駒込のジャズ喫茶に行くと渡辺貞夫(サックス)が演奏していてサインをもらったことがある。彼は宇都宮工業高校の先輩にあたる。
新宿ピットインではすでに有名になっていた20代後半の日野皓正(トランペット)がほっぺたを目いっぱい膨らませて吹くあの奏法で目の前で演奏したのを覚えている。
山下洋輔(ピアノ)トリオの超ハイテンポで情熱的な演奏を聞いたときは自分の中の何かが叫びだしたいような勇気をもらったのを覚えている。
ベースは坂本明だった。
今ではみんなジャズ界の超大御所になっている。
このころスキーにも夢中だった。
大学の体育課程で単位不足の生徒を対象にスキー合宿に参加すれば単位が取れるというので
ろくにやったこともない連中が単位目的で志賀高原のスキー合宿をした。
これがほんとうに楽しかった。
下手なりに青い空と澄み渡る空気の中で滑るスキーの醍醐味が病み付きになりそれ以降スキーの虜になった。
冬になると土日の休みを利用して気の合う進藤君と1シーズン10回以上はスキー場通いをするようになった。
重いスキー板と靴をかつぎスキー場に行くのが当時の若者のファッションでもあった。
毎年12月になると雪が待ち遠しくなる。
金曜夜発のバスに乗り込み翌朝スキー場に着くと休む間もなくそのままスキー場へ。
夕方まで滑り続け夕食をたらふく食ってからぐっすり一泊、翌朝早くから滑り出し午後のバスで夜東京着という過酷なスケジュールだったがそれでも翌日の勤務に影響はなく次の週末が待ち遠しかった。
1969年大学3年のころに東大学生の安田講堂占拠で機動隊が出動した紛争がありその後学生運動が全国に広がり過激になってきた。
日大でも校舎がバリケード封鎖され学生のアジが始まり授業ができない状態がしばらく続いた。
大学教授たちもまったく手が出せない。
私自身はノンポリだったが同じクラスからは運動に参加する者もいた。
そのため後半はまともに勉強できる状況ではなく同期の馬場君は途中で学校に来るのを諦めた。
私は一応学校を続けたのだが4年の卒業時期になると学校の都合で押し出された感じで昭和45年(1970)卒業証書を受領した。
そんなわけで日大に通っていたころは会社半分、学校半分という二足のわらじの日々で仕事もそこそこだったがどちらかというと安定した収入をもらえる中で自分が好きなことを純粋に追っかけた時代でもあった。
振り返れば大学時代の楽しかった思い出が鮮明に蘇ってくる。
このころはまだ自分が本当にやりたいことが何なのかつかめていなかったしこれからの人生を模索していた時期だったかと思う。
人生で20代はまだ自分自身が見えていないことが多く自分の目標がまだ掴めない自分探しの時期ではないだろうか。
だからこそその時期はできるだけいろんな経験をして世の中を知ることが大事だと思う。
このころの世相を見ると
1966年ビートルズが来日しファンが熱狂、武道館での公演。
米軍のベトナム北爆が開始され世界各地で反戦運動がおこり日本でも活発化。
ミニスカートが爆発的に流行しオフィスでも駅でも車内でもみんなミニだった。
1967オールナイトニッポンという深夜放送が始まる。
フォーククルセダーズのおらは死んじまっただ♪(帰ってきた酔っ払い)はここから爆発した。
エレキギターが流行、ベンチャーズ、ゴーゴー、モンキーダンスが流行した。
1968年GNP(現GDP)が西ドイツを抜き世界2位に
エコノミックアニマル、モーレツ社員
1968川端康成がノーベル文学賞受賞
1968年3億円強奪事件
などが自分の記憶とつながっている。
1966第二精工舎側工場職場旅行
一番左が私
日大二年のころ 右が私、中央が林田君
日大志賀高原スキー合宿 右から二番目が私、左から二番目が進藤君