私の履歴書 第七回 写真家にあこがれる

話が少し遡るがこのころ写真に熱が入り本格的に突っ込んだのでこの項で触れておきたい。

入社2年が経過したころ社員福祉の一環として写友会(写真部)があることを知った。
ある時見学させてもらったら面白そうなのでそのまま入会させてもらった。

これがきっかけとなりその後写真にのめりこむことになる。

写友会では月一回の例会というのがあり写真家の秋山青磁先生が指導に来ていた。

秋山先生は当時コニカ(現コニカミノルタ)の顧問もされていてアマチュア写真クラブの世界では有名な人気講師でもあった。
話が上手でいつも冗談を交えながら写真の講評をしてくれていた。

例会では会員が持ち寄った四つ切サイズの作品(白黒)を教室の前面に貼り出し審査する。
先生が貼り出された写真を一つ一つじっくりとのぞき込んで審査が済むと一席から十席まで順位を張り付ける。
その間会員はドキドキしながら自分の作品の順位付けを見守る。

写友会には写真好きの先輩がいて山、祭りをそれぞれ専門に撮る二人がいつも上位を独占していた。
彼らは一つのテーマを集中的に撮っているのでその分野でいい写真を撮る。

私も一席を取りたい一心で土日はほぼカメラを持って街に出るようになる。
カメラ目線で街に出ると被写体はその辺にごろごろとある。
新宿や渋谷などの都会や浅草、下谷などの下町もよく撮り歩いた。

フィルム写真の時代だが撮影に出ると白黒36枚撮りで2、3本は撮った。
それを自分でフィルム現像し密着プリントした中からルーペを使って自選したものを4,5枚四つ切に焼き付けて出品した。

このころ新小岩のアパートに住んでいたが写真の引き伸ばし機などを部屋に揃えて自分で暗室作業をやっていた。
作品の出来栄えの半分はこの引き伸ばしの出来にも左右される。
写真の周りを黒くする被い焼きのテクニックもこのころ覚えた。

当初はなかなか上位に入れなかったが例会に通い先生の講評を聞いているうちに次第に写真の良し悪しや評価のポイントが分かるようになってきた。

しばらくしたころ当時大学紛争がエスカレート、それが全学連などの闘争になる。

ある日の休日だったが御茶ノ水駅付近でも騒動が起こり私はチャンスと思い現場に行った。
学生と機動隊が激しくぶつかり催涙弾も打たれあたりは騒然としていた。

興奮した学生は道路のアスファルトをめくりあげてその破片を機動隊めがけて投げつける。。
私はそれを上から撮るために電柱によじ登って夢中でシャッターを切った。

その中の一枚、全学連の学生が石を投げる瞬間を撮った写真が例会で一席になった。

実はこの時興奮しているその学生とちょっとしたいざこざがあった。

近づいて撮ると迫力のある広角レンズだったがその瞬間、学生と目が合い「こんな時に写真なんか撮ってんじゃねーよ」と言いがかりがきた。
夢中だったので「こっちも真剣なんだ」とつい口から出てしまった。

近くにいた人がやめといたほうがいいよと心配してくれたが相手は怒って私に近づいて来た。

いい写真を撮りたい一心だったのだが相手にしてみればただの興味本位と映っただろう。
間一髪だったが向こうもカメラマンを相手にしている状況でもなかったのだろう。
周囲の視線を気にしてか途中で引き返した。

そんな危険を冒して撮った一枚が一席になった。
苦労して撮った本人はその背景を知っているがその写真の迫力を読み取る写真家もすごいと思った。

写真というのはそういうことかと気がついた。

大事なのはテクニックではない。

そこに撮る人の意志が明確にあるときにいい写真が撮れるんだと知った。
逆に言えば意志のない写真は見る人にも感動はない。

報道写真の世界ではピューリッツア賞が有名だが戦場での死を賭けて撮った写真は迫力があり人の心をとらえる。
1966年にこの賞を取った沢田教一ベトナム戦争の写真「安全への逃避」が有名だが子供を抱えた家族が戦を逃れ必死で川を渡る姿に強く心を打たれる。

そんなこともあってかその後さらに写真に夢中になり東京の都会、下町のみならず旅先の風景、ポートレート撮影会など手当たり次第に被写体を求めて撮ったものから自選し持ち込むと写友会では一席をほぼ独占するようになった。

この頃、頭の中は写真のことばかりで何を見ても被写体に見えた。

私はなかなかエンジンがかかりにくいがいったんやりたいことにはまると脇目も振らずに突き進む性格なので時にはリスクもある。

一会社の写真クラブという小さなアマチュア世界では一番になったがそのうちそれでは物足らなくなった。

このころ写真の道に本気で入っていきたいという気持ちがむくむくと出てきた。
写真こそ自分に向いた天性の仕事ではないかと。

それから試行錯誤したが写真家の弟子になるのが早道だと思った。

当時,篠山紀信立木義浩など雑誌でも人気の若手写真家がいたがとても弟子にはなれそうもない。
他の写真家もいたがコネは全くないし仮にうまく弟子になれても給料はほとんど出ない。
経済的に余裕のない自分には難しいとあきらめた。

そこで写真を職業にできる出版社を狙いいくつかの出版社に手紙を書いた。

一社面接を取り付けて当日訪問したら今日は担当が休みなのでまた来てくれという。
馬鹿にされたと思ったがそんな会社に未練はない。そこは二度と行かなかった。

若気の至りでずっとそんな夢を抱えていたがあるとき思い立って三兄に打ち明けてみた。

案の定というか予想通り猛烈に反対された。
せっかく安定した会社にいるのに辞めるとは何事かと。

困ったときにはいつも父親代わりで手を差し伸べてくれる一方で何事にも慎重で冒険嫌いの兄には写真で飯を食うなどという自分の夢を理解してもらえるはずもなく真っ向からの大反対だった。

そこまで言われて強行するのもまずいのでしかたなく手を変えた。
とりあえずこのまま会社を続けながら次のチャンスを狙えばいいと写真学校に通うことにした。

都内には当時お茶の水にある東京写真専門学校が会社から近かったが学校案内を見るとテクニカル中心のコマーシャル写真が専門の様子で自分のめざすものとは違うと思った。

一方で横浜の日吉にあった東京綜合写真専門学校は会社からかなり遠いが写真教育の歴史があり本気でプロの写真家を目指す写真学校だった。

ここは写真評論家の重森弘淹校長(作庭家を父に持つ)が創立した学校でバウハウスをお手本として、報道とかコマーシャルというコースの細分化をしないで表現力を持った写真家を育てることを教育の目標としていた。

創立以来、「土田ヒロミ」「篠山紀信」や「操上和美」など多くの著名写真家を輩出していた。

ここの写真芸術科を受験し入学したのが日大を卒業して間もないころだった。
面接官に真っ黒だねと言われたのを覚えているがこの頃はいつも冬が明けるころはスキーで日焼けしていた。

会社が終わり亀戸から日吉まで新宿経由渋谷まで行き東横線に乗り換え2時間かけて日吉の学校に行くとそこは写真のプロを目指す二十歳前後の若者たちの集まりだった。
私はすでに年上の部類だったがなかには30を過ぎたものもいた。

昼間はアルバイトで生活をつないでいる学生が多いが彼らの意図はあくまで写真の世界に入ることだ。
私はここでも会社と写真の二足のわらじを履く生活だったがそれでも写真で生きていこうとする夢は彼らと共有していた。


学校での指導はそれまでのアマチュアの世界とは全く異質だった。
どの世界もそうだがプロを目指す世界は甘くない。

それを目指すぐらいだから生徒の資質も高く写真のレベルも高いが講師もまた手厳しかった。
褒めることはほとんどなく、君は何を撮りたいのかと初めから問われた。
撮る動機が大切だという事だ。

学校ではシュール(レアリズム)な写真を教えられた。
写真は引き算といわれるが余計なものを削っていけば本当に表現したいものだけが残る。
しかしそれを突き詰めていくとまるで抽象的な写真となる。
写真批評家を育てるような方針もあってかどちらかというと技術よりも理屈が多かったが写真の奥の深さを学んだ。

2年間の写真学校を通して有意義だったのは「創造」の世界を垣間見たことだ。

「無から有を創る」…この創造(クリエイティブ)の意味を肌で理解した。

0から1を生み出すのが「創造」でアートの世界では何よりもこれを評価する。
(どこかで見たことがある)人のまねはここでは馬鹿にされる。

誰もやったことのないものを純粋に創り出し世に問うたものが高く評価される世界だ。

写真も例外ではない。

しかしそれは想像以上に難しく誰でもできることではない。
生みの苦しみというが芸術家は日夜「創造」に苦しんでいるのが現実だと思う。

技術面は何年かやるうちにうまくなるがその上に行くにはもって生まれた資質の問題が出てくる。

本当のプロというのはこの資質を持った人にしか到達できない世界であることがある程度突き詰めると分かるようになる。

続けているうちに自分もこの壁がうっすら見えたような気がした。

奇人天才は紙一重というが自分にそうした突き抜けた創造性、才能があるかというと自信はなかった。

同じ教室で学ぶ者の中にはその資質のありそうな生徒もいた。
この世界で飯を食うことはできるだろう、しかし突出した写真家になれる自信はない。


プロを目指す学校で学んだことでむしろ自分の写真家としての資質もそれなりに知ることができた。

すでにアマチュアの領域は超えた(と自画自賛する)自分はむしろ写真を生活の糧としてではなくそれを生涯の友として生きるのがいいのではないかという気持ちに変化してきた。

安定した会社にいたためか土壇場でその先の一歩を超えられない自分がいたのかもしれない。

しかし真摯に取り組んだ上での結果なので悔いはなかった。



この2年間は同じ目標を持った彼らと酒を飲みながら写真談義することが楽しかったし自分の中にある創造という魂を磨く訓練が出来たのはその後の人生に大きな影響を与えることになった。

クリエイティブという試練を経験したことで自分もその道の人に共感できるものがあるし経営者となった後もデザイナーたちと同じ目線で話が出来るようになった。


昭和45年頃(1970) 写真に燃えていた写真学校の仲間たち 右から二番目が私



毎年5月と夏休みにはカメラを担いで旅と写真をセットに日本全国を撮り歩いた