私の履歴書 第九回 学ぶ愉しさ 好奇心旺盛だった20代

私の履歴書 第九回

20代は旅とカメラが私のメインテーマだったがそのころ何事にも好奇心旺盛だったので写真以外にもいろんなことに興味を持った。

この項では仕事から離れたところで自分のやってきたことを思い出してみたい。

振り返れば10代は何も分からないまま学校生活を過ごしたが20代になり東京という都会生活の中に浸ると新しいものが目に飛び込み,触れる機会が増えてきた。
そんな中で自分の興味ある世界に足を踏み入れ首を突っ込んできた。

今にして思えばそれらが私の後半の人生のための血や肉になっているような気がする。

いったん写真の道をあきらめ趣味としてやることに決めるともともと旅が好きだったので旅とカメラをセットに日本全国を周るのが楽しみとなった。
毎年5月と夏に約一週間の休みがあったのでここを利用して日本全国を遠出した。

撮影メインで自由に行動するためにほとんど一人旅が多かった。
時には気の合う進藤君と出かけることもあったがその時はカメラに集中することはできないが友人と気ままな旅をするのもまた楽しかった。

写真家をめざした者としていつかは写真集を出したいという夢もひそかに持っていた。
旅と写真をメインに写真紀行を出す夢を見たもののそこまでの金もなく現実には至らなかった。

会社が終わってから片道2時間近くかけた写真学校通いもなくなり写真から距離を置くと生活も徐々に会社中心で回るようになってきた。

就業後の時間もたっぷりあるのでおのずと会社の同僚と酒を呑む機会が増える。
会社近くの亀戸や上野で呑むことが多かったが時には新橋、新宿、銀座などへ繰り出して夜の街を飲み歩くのもそれはそれで楽しかったが次第に物足りなさを感じてきた。

20代後半のころ何か新しいことをやってみたくなり新宿にあった「ヒコみずのジュエリー学校」のペーパーデザイン科に通うことにした。
もともとデザインに関心があったが仕事でも金無垢のケース(クレドール)を扱っていたこともありジュエリーの世界にも一時期興味を持っていた。
ジュエリーの世界に入ろうかと思ったこともある。

ここで一年間ジュエリーデザインの勉強をした。
といっても、一年ではスケッチやレンダリングのテクニックをかじった程度である。
当時はパソコンでなく全て手描きだがコース終了のころ小筆を使って細密に描いた絵を友人に見せたら写真かと勘違いされたことがあるのでその程度のテクニックは身につけたのだろう。

その後さらに銀座にあるアクセサリースクールで一年間彫金教室に通った。

ほとんど女性ばかりの教室だったがここではガスバーナーやヤスリなどの工具を使ってシルバーの指輪やペンダントを造る彫金細工をやった。
会社でやっていた仕事に近い内容だったのでその延長線上で学ぶことが出来た。

その都度興味のあることをやってきたが体で覚えた感覚はその後自分で会社を興してから自分のイメージをスケッチで表現することにも大いに役立っている。

東京には様々な教室があり何かを学ぼうとする人にとって便利で懐の深い街である。


このころ話し方教室にも通った。

会社が亀戸なので新小岩のアパートに住んでいたがある日JR総武線の車内で「江川ひろしの話し方教室」という広告を見かけた。

栃木県の片田舎から出てきた私はまだ鹿沼弁が抜けきらず人前で話すことに自信がなかった。
“500人の前でも話せます“という見出しに惹かれて行ってみた。

何百人も詰めかけた大きな会場で聞いた江川ひろし本人(故人)の話にいたく感動し聞いている途中で体が震えてきたことを覚えている。

その自信と迫力に満ちた、人の心をぐいぐいつかむ話にまさに引き込まれた。
それはかつて出会ったことのない衝撃の体験だった。
迷うことなくその話し方教室の3か月コースを受講した。

江川ひろしはもともと郵政省の若手キャリアだったが自分のすぐれた話の才能を武器にこれからは話し方が大事ということに着目しキャリアを捨て1953年に日本話し方センターを創立した。
当時、時代がそれを必要とし多くの経営者や会社員が受講するようになったという。
実際私が受講したクラスには若い弁護士さんもいた。


少しでも話がうまくなればという程度の動機だったがそこで学んだことは予想を超えるものだった。

「話し方」のテクニックはもちろんだがそれ以外にもっと大事なこと、生きていくうえで大切な人間関係を学ぶカリキュラムだった。

自分から挨拶をしなさいということから始まり、話し方を通して誠実さや感謝の心を説き何より自分自身が変わること、
そして「プラス思考」で「積極性」のある考え方に変えていくものだった。

一部話し方センターから引用し要約すると

「ことばの前に心あり ことばの後に行動あり」

【言葉=話し方を中心に、言葉の前の”心のあり方”、言葉の後の”行動のあり方”、と言葉の前後を含めて一体に学んでいきます。
それは、単なる「話し方」のテクニックにとどまらず、人としての生き方を根本からよりよい方向に変えていくことです。】

まさにその通りだった。

その時まで話がうまいというのはすらすらと流暢に話すことだと勘違いしていた。
しかしそれよりも人に伝えようとする中身がもっと大事なのだということを知った。

正直この教室を受けてから自分の人生が変わった気がする。

そしてその後出会う世界的名著「人を動かす」(デールカーネギー著)を読んでその思いが自分の信念につながっていく。

この本の中で多くの例を挙げて繰り返し記している人間の心理や人間関係の重要で基本的な事がまさにこの話し方教室で学んだことと相通じるものだった。

この時以来私の中でストンと落ちるものがあり自身のものとして定着していった。


20代の時にこの教室に通いこの本に出会ったことは私にとって幸運だった。

今でもベストセラーに名を連ねる“人を動かす“は人間の機微や本質をついておりいつの時代でも通用する本なので私は今でも若い人にこの本を読むことを勧めている。


余談になるが話し方教室の受講で“笑いを取る”という授業があり講座の後はそれを実際に試すよう指導されていたので早速外装開発課時代の持ち回り朝礼でやったことがあった。

高校時代に利き手の右手をけがししかたなく左手でお尻を拭くはめになったときがあったのだがそれ以来ずっと左手の習慣になってしまった話をやったところ課員に大うけした。
まではよかったがお堅い課長には渋い顔をされてしまった。

教室ではその後さらに自分自身をコントロールする訓練の自己催眠コースを続けて受けた。

これは後に脳のα波を出すイメージトレーニングで自己の潜在能力や願望達成する手法の勉強へとつながった。

能力開発研究所の志賀一雄(工学博士)の調査でひらめきの天才や音楽家、超能力者などの脳の状態を調べると彼らが集中して能力を発揮しているときは意識と潜在意識が統合された
集中状態でアルファ優勢になっていることをつきとめた。

人の脳はリラックスした状態でアルファ波になるがそれを自分でコントロールし理想のイメージを自在に描けるように訓練してそれを仕事や生活に役立てようとする理論がありこれを学んだ。


アルファ波を測定するマシンがありそれを買って意識的にアルファ波を出す訓練をやった。

イメージトレーニングと言って自己の願望をメンタルスクリーンに描いてそれを潜在脳に働きかけ伝達することでその願望を達成させようとするものだ。


これは“マーフィの成功の法則”と同じ理屈で強い願望を自身に強く働きかけ(続け)ることでいったん潜在脳に叩き込まれると人は無意識のうちに実現に向かって行動し
いつの日かそれが実現されるというものだ。
その思いが強ければ強いほど実現の可能性が高くなる。

実際私はこれで自分の将来をイメージし実現させる努力をした。


また20代は毎年冬になるとスキーで明け暮れた時代だが冬が終わると出来なくなるのでシーズンオフにできるテニス(硬式)を始めたのもこのころだ。

結構夢中になり例の進藤君とスキーが明けるとテニスを二人でやるようになった。
テニス教室にも通いながら競い合ったがスキーもテニスもお互い同じようなレベルでウマが合った。


そして20代の終わりのころに出会いもあった。

会社の連休を利用して南は与論島から北は青森まで日本中をずいぶんあちこち周ったが1975年の夏、それまで行ったことのない北海道に行くことにした。

私の旅はほとんど一人旅だったがさすがに北海道はやたら広くて交通不便なのでこの時ばかりは団体ツアーに参加した。

28歳の夏、ここで運命の人に出会うことになる。

ツアー客はほとんど女性ばかりでガイドを除くと男性客が二人しかいなかった。

一週間ぐらいのバスツアーなので行く先々でお互い記念写真を撮りあったりしているうちに徐々に同乗客と仲良くなった。

そのうちの二人組で参加していた一人に気になる人がいた。

小柄だが清楚で可憐。
自分が描いていたイメージに近かった。
徐々に近づき後半は一緒に行動するようになり写真もたくさん撮った。

その後東京で逢い、何度かデイトするうちに冬になるころには結婚を意識するようになった。

そして翌年昭和51年(1976)5月、日本がロッキード事件で揺れていた時にゴールインした。
彼女はその時事件の渦中にあった商社丸紅に勤めていた。

後で聞かされたが私はツアー期間中ずっと同じシャツを着ていたので不潔な人だなと思っていたらしい。

写真学校時代、黒いTシャツを毎日着続けるのが写真学生の間で流行っていてそれを私は撮影旅行でカッコよく踏襲していたつもりだった。


ちょうどその頃だったが会社の勤労課から社内報の表紙を撮ってほしいという依頼があり昭和51年(1976)4月から翌年3月までの12回、表紙を担当した。

会社では11月に年一回の文化展というのがあって絵や写真、生け花など文化部所属の腕に覚えのある人が作品を出展する機会があり私は毎年写真を出品していて写真で名が知られていた。


ここぞ腕の見せ所とばかり(写真学校で撮る映像とは異なり)一般の人に受けそうな癖のない分かりやすい写真を季節ごとに撮り、毎回短い文章をつけて12回載せた。

これがなかなか好評だったのでその後は全社内的に「写真の橋本さん」として一躍知られる存在になった。


ちなみに4月号に桜の背景のアクセントとして赤い色の傘をさした彼女をこっそりエキストラとして登場させた。


4月 「桜咲く」東京上野

5月 「五月の風」新宿御苑

6月 堀切菖蒲園

7月「夏開く華」中尊寺の蓮

8月 佐渡の夕日

9月 「新しい息吹き」新宿西口中央公園

10月 白川郷の秋

11月 京都天竜寺の紅葉

12月 師走の銀座


1月 東京の夜明け

2月 「ガラスの中のメルヘン」表参道で

3月 ファンタジー