私の履歴書 第十六回 人生初の入院、そして復活

 

平成3年(1991) 6月5日朝、ついに体の不調が限界になり香港島セントラルにある日本語を話す医者Dr.William Chaoに駆け込んだ。

ドクターは私の目を覗き込み二、三話した後、ほぼ肝炎に間違いないとすぐに血液を採り検査に廻した。

結果が出るまで近くの店で時間を過ごしたがこの大事な時に肝炎かよと心は大きく揺れた。

健康には自信があったのでまさか自分がなるとは想像もしてなかった。

 

午後になりGPT値がなんと1880(標準値は37以下)と出て即刻入院を促された。

とっさに日本での入院も考えたがこの値では飛行機に乗るのも怪しい。

すぐにGPTを下げるのが大事と言われ香港での入院を決断した。

 

オフィスに戻り妻とメイン顧客の二社に電話を入れてからマンションに戻り大急ぎで部屋を整理して入院の準備をした。

Dr. Chaoから指定された香港島にある私立養和病院(Sanatorium Hospital)へ陳君に同行してもらい入院手続きを済ませたのが午後8時、9時にはもう点滴が始まっていた。

 

ちなみに香港では医者を選ぶ場合公立と私立があって公立(Government)病院は圧倒的に治療費は安いがいつも混んでいて待ち時間が長く、入院となると何か月も待たされる。

結果、多くの人は医療費が高いが信頼できる(と言われている)個人の医者に診てもらうケースが多く入院となると医師が病院を指定するのが通例になっている。

 

 戦争みたいな一日が終わり誰もいなくなった部屋で心が落ち着くとしだいに覚悟が出来てきた。

なってしまったものは仕方ない、あとは前向きに治すだけだ。

そう思うと少し気が楽になった。

 

人生初のそしてこれまでにも一度きりの入院生活が始まった。

 

以下はその時の病棟日記だ。

 

入院一夜明けた6月6日、早朝6時に目が覚める。

昨夜はTVでテニスのフレンチオープンを見て気がまぎれた。

9時に点滴交換、5%ブドウ糖と0.9%の食塩水1000mlが12時間で体内に注入される。

10時半Dr. Chao来診, 日本の大学を卒業した医師で日本語がとてもうまく日本人医師と話している感覚で安心できた。

 

Dr.からのアドバイスで仕事は1時間以内に限定し休養を取るように。

食事は何でも好きなものOK、ただし油の強いものは控え肉魚など高蛋白のものを、特に牛肉がいいと。

肝炎の治療はとにかく「食って寝て、よく眠る」、それしかないと言われてちょっと拍子抜けしたがそれが肝臓を休ませる一番の方法なのだ。

 

部屋は一人ではもったいない程の広い個室で空調完備、大きなソファのほかにTV, 小型冷蔵庫、トイレ、シャワー付きで今のわが身には贅沢過ぎるがすべてDr.の手配だ。

 

窓側に寄るとハッピーバレー競馬場の一角が見えた。

「ここで2年分の疲れを一気に洗濯するか…」

ようやく気分が前向きになってきた。

 

気持ちを整理し妻に手紙を書く。

 

病院も部屋もドクターも出来過ぎで心配はない。

この2年間飛ばし過ぎたので神様が休みをくれたのだろう。

しばらく静養に努めた後は自分のペースで日々楽観的に過ごすよう自省する。

そしていずれ時が解決すると。

 

 

7日朝Dr.来診

いいニュースと悪いニュースがあるという。

GoodはGPTが1200まで下がったこと。

BadはB型肝炎と判明したこと。

A型は放っておいても完治するがB型は処置が悪いと慢性肝炎に移行しやすく体内の抗原をゼロにし抗体ができるまでしっかり治療に専念する必要があること。

治療期間は3週間入院し退院後は2週間づつ徐々に仕事を増やしていく。

6か月間はアルコールを控える。

 

今思うと適切で分かりやすい説明だったと思う。

 

もしかして自分のチャレンジはここまでかと一瞬頭をよぎったが

まだまだ人生やりたいことがたくさんある。

 ここで慢性肝炎になるわけにはいかない。

 

何としても完治しなければ。

その日からGPTに一喜一憂する日々が始まった。

 

 

10日、午前7時採血、7時半ベッドシーツ交換

ナースとは下手な広東語での会話になるがなんとかなる。

9時半Dr.来診 GPTが1240と3日前と変化なくがっかり。

 とにかく安静にしてよく寝る事。この二三日身体が痒くよく眠れなかった。

軽い睡眠薬を1錠もらったが先生は薬をできるだけ使いたくないという。

 

12日、6時半採血 8時Dr.来診 なんとGPT1400と上がってしまった。

初めの一週間は上がったり下がったりでいったん下がり始めるとウィルスもどんどん減っていくらしい。

 

14日、6時半採血 8時半Dr.来診 体の調子は良くなってきている。

とにかく昼もよく眠ること。夜眠れなかったら薬で寝ても良い。

 

夕方6時半 Dr.来診「おめでとうございます、下がりました」

”GPT 1180 黄疸指数8.3 これも最低とのこと。

夕食はお祝いにビーフステーキを注文する。

病院食はなくレストランのように毎日メニューから好きなものを注文する。

肝炎は何でも好きなものを食べていいというのがありがたい。

 

16日、昨夜は1時になっても眠くならなかったので睡眠薬で眠りについた。

TVでは日本の雲仙岳の爆発とフィリピンの火山爆発のニュースしきり。

香港の西貢で人がサメに襲われたとのニュース、何年かおきにあるらしい。

 

17日(月)、6時半採血 10時半Dr. 来診

なんとGPT490まで下がった。黄疸指数3.8

三日前から一気に700も下がったので次回上がる可能性を指摘される。

尿はほとんど普通の色に戻ってきており、驚くほど白かった便も黄色みを帯びてきた。

 

3時過ぎ、日本から来てくれた妻が病室に到着。久しぶりなので気持ちが落ち着く。

病状も悪くなく顔色もまあまあなので妻はひとまず安心。

あれこれ気を利かせて身の回りの世話をしてくれる妻がこの上なくありがたい。

 

18日、6時に目が覚める。血圧脈拍体温異常なし。

昨夜妻は病室のソファで仮眠を取り昼食後に私のマンションの清掃、消毒、洗濯を済ませ夕食を用意してくれた。

 

夜11時過ぎた頃、大泣きする老婆らしい声が病室のドア越しに延々と聞こえた。

病院という場所は近親者の死亡という悲しい場面が日常的にあるのだろう。

結局1時過ぎに睡眠薬を要求することになった。

 

19日、妻の作ったおにぎり、肉じゃがで朝食を一緒に取る。

午後6時半回診でGPTが316まで下がった。入院からちょうど2週間。

ここまでくればもう上がることはないとのこと。この調子でいけば回復は早そう、ただし慢性肝炎になりたくなかったら6か月間はアルコール厳禁。

 

 20日,6時半起床7時点滴注射交換。

7時半に妻が作ったおにぎりとスープをとる。

妻がスーパーに買い物に行っている間に点滴を外しシャワーを浴びる。

早めの昼食を二人でとり妻は帰国の途に就いた。

 

来てくれて本当にありがたかった。

手作りの美味いものも食べられ気持ちも休まった。心から感謝の気持ちが湧く。

2年間の単身生活で無理をしていたがやはり妻や家族と暮らすのが一番なのだと感じた。

 

この日、夜の点滴で注射針がうまく血管に入らない。

両腕から両足と点滴の場所を8か所移動したが2週間もすると静脈でなく皮下毛細血管に入って腫れてしまい打つ場所がなくなってきた。

 

 21日6時半採血、10時Dr.回診。

また“おめでとう”が出た。GPTがなんと216まで下がった。

昨日から点滴をやめ今日から3種類の飲み薬に切り替える。

この一週間の下がり方が早かったのでDr.もびっくり。

あと一週間以内に退院できそうだと言ってくれた。

 

22日、11時前にDr.回診、一週間以内に正常値に戻ると判断。

慢性化を予防するために正常値に戻ってからの退院を勧められる。

抗原がゼロになりその後抗体ができるまでは2,3か月かかるとのこと。

ここまでくれば一安心、あとは焦らずゆったりと充電のチャンスとしよう。

 

23日、この日はセイコー電子時代の同僚が香港出張の折りに見舞いに来てくれた。

一時間雑談、仕事抜きで話せる仲だ。

入院期間中は多くの香港の人が見舞いに来てくれた。

 

24日、6時採血。10時半DR.回診、GPT146、黄疸指数2.4

飲み薬の効果も出ているようで順調に下がっている。

今週末退院しようかとDr.の口から出た。

60台まで下がれば退院してもOKとのこと。ただしその後の生活は慎重に。

 

26日,10時Dr.回診 GPT129 思ったより下がらずがっかり。

また点滴をしてもらうよう医師に頼んだ。

27日,精美の李夫妻がポットに入れた特製人参スープを持って見舞いに来てくれた。

今月はずっと中国工場にかかりきりとのこと。

 

28日(金)6時採血 7時点滴投入

10時半Dr.回診 GPT93 やっと100を切った。

このまま点滴続ければ金曜には平常値に下がるだろうと予測。

7月3日を退院予定日とする。

 

この日、日本の林時計社長(現会長)から見舞いの電話がある。

はやる気持ちは分かるが焦らず無理をしないよう一年間はのんびりやりなさいと温かいアドバイスをいただいた。

林社長も40代に急性肝炎をやったとのこと。

 

7月1日,  6時採血11時回診。GPT90.

 またも予想に反して横ばいでがっかり。

午後3時、東京海上火災保険の青木氏が来院。

香港での起業後、日本人向けの海外傷害保険に加入していたが180日間(6か月)の治療費が保障されると聞きほっとする。

診断書を発行してもらえば日本での通院費も補償される。

健康に自信があったので保険嫌いだったがあらためて保険の有難さを知った。

 

 

7月3日(水) ようやく退院の日が来た。入院からちょうど4週間。

6時半採血10時半回診 退院の日にGPT80まで下がった。

 

1か月ぶりでベッドから出たのでどことなく足がふらついた。

取引していたバンドメーカーWinlandの譚(Tam)さんが車を用意してくれ陳君とマンションまで送ってくれた。

一か月、部屋に閉じ込められていたので車中から見える街の景色が新鮮でまぶしかった。

「娑婆に出る」とはこんな気持ちなのかなあとふと思った。

 

 

人生初のしかも香港での入院生活を終えて日本に戻った。

その後は鎌ヶ谷の自宅近くの病院に通院し2週間後にはGPTがほぼ正常値に近い40まで下がりHBS抗原がマイナスになった。

その時の医師によればB型の場合普通はこれほど早く陰性化しないので本当にB型だったのかどうも怪しいということでA型とC型の再検査をした。

結果はそれぞれ陰性、あらためてB型肝炎の完治と診断された。

 

これで慢性化の心配もなくなり再発の可能性もなくなった。

私は香港でのDr. Chaoの治療に感謝し自分の運の良さを感謝した。

 

ほぼ2か月間にわたる療養で心身ともに元気を回復して7月28日再び香港に戻った。

直後の30日に私のケアもあって家族が香港に入り3週間ほど一緒に過ごした。

その後も定期的な検査を続け10月にはGPT20を切る完全な健康体に戻ることができた。

 

 

この体験は私に健康の大事さを痛いほど教えてくれた。

そして「普通でいられること」のありがたさを知った。

 

世の中には体の不自由な人も大勢いる。

「ものを見る、音を聞く、手足が自由に使える」

 

これまで当たり前と思っていたことがどれだけありがたいことなのか、

病気をして初めて気づいた。

 

その後は自分の健康に対する意識が変わったように思う。

無理をすることを避け自分のペースを守るようになった。

 

この年以降、毎年一回人間ドックを受けるようにした。

またそのころ出会った本で免疫力を高めるというニンジン(+リンゴ)ジュースは私の健康法として今も続けている。

 

 

仕事に復帰した91年8月にアメリカを本部とする時計会社FossilのHKオフィスとコンタクトしOEM製作の商談を進めた。

当時のFossilはまだ創業間もなく急成長してすでに知名度は高かったがまだ世界を制覇するメジャーレベルではなかった。

そのころはまだBsケース中心、100%皮ベルトモデルで平均価格帯はUS12ドルと安く80%がアメリカ市場での販売だった。

 

Fossilといえばちょっとした思い出がある。

 91年9月香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアで当社は初めて小さなブースを持った。

期間中のある日、背の高い若者が突然数人の若い女性を引き連れてブースに入ってきた。

彼女たちのバッグを一人で担いでいた彼はいきなり「あー疲れた」とゴロッと床に寝転んでみんなを笑わせていたひょうきんな若者だった。

あとになって創業者のTom本人だと知ったがたぶん香港でのヴェンダー(取引先)を一つ一つ回っていたのだろう。

その時一緒にいた女性の一人が商品開発担当で後に奥さんになる人だった。

その後香港Fossilオフィスでのスケッチ提案会議に参加する機会があった。

各vendor(時計OEMメーカー)が決められた時間内でスケッチの提案をするのだがその場でスケッチの評価と採用を決める責任者が彼女だった。

当社もある期間Fossil時計をOEM製作していたがその頃はStyle(見た目)重視でメッキの耐久性など品質や技術にはけっこう無頓着だった。

 

 

健康を取り戻し再び香港での仕事に復帰してしばらくするとやはり家族のいない単身生活ではオンとオフの切り替えが難しく心身共に疲れやすいことが分かった。

 

この際、家族を香港に呼んで一緒に暮らすのが自分にも、また子供たちにとっても父親が身近にいることが大事と考え91年10月妻に手紙を書いた。

 

今後の香港でのさらなるビジネス展開にはやはり家族が身近にいて心身共に拠点となることで仕事へのエネルギーも湧いてくる。

起業時は無理だったが今は会社に余裕が出て来てきているので経済的に障害はないこと。

父親として(KEN塾を作り)身近に子供たちにいろんなことを教えたい。

長男が高校に入るまで、次男が中学に入るまでの2年間、香港生活をみんなで有意義に過ごそうと提案した。

 

しかし妻によると次男は香港行きを望んでいるが中一になった長男がかたくなに拒んでいる。

何とか納得してもらいたいと思い切々と10枚にわたる手紙を長男に書いた。

 

長男が生まれた時から始まり次男が生まれ家族が四人になったこと。

父親がもともと海外に興味を持ち、そのチャンスがあって海外赴任したこと。

香港赴任で幼稚園に馴染んでくれるか心配したがそれも稀有に終わったこと。

赴任中に起業の決意をし、帰国後思い切って行動に出たこと。

その間は家族に迷惑をかけたので必ず成功させようと心に決めたこと。

起業後は必至で事業を発展させたが単身生活での無理が続き2年経ったところで過労とストレスで大病をしてしまったこと。

今の父親には精神面で支えとなる家族が必要であること。

子供たちが成長し親から離れる前に今一度同じ屋根で生活したいこと。

香港にはまだビジネスチャンスがあり会社を強化するのにあと2年かかること。

父親がとった行動は何だったのか父親の生きざまを身近で見ておいてもらいたいこと。

香港は活気があり魅力的な国際都市でいろいろ未知の体験ができること。

 

など、要約すると以上のような内容で高校に入るまでの2年間香港で一緒に生活しようと呼びかけた。

 

だが返事がなく、残念ながら理解してもらえず彼の気持ちを変えることはできなかった。

しかたなく妻に説得を頼んでいたがようやく長男の手紙一枚が同封された妻の手紙が届いた。

しぶしぶ香港行きに同意するもので「11枚の手紙を見ていくしかないと思った。お父さんのために行くんだから学校の近くに住みたい、毎朝バスに揺られて何時間もバスに乗るのは2度といやだ」とあった。

 

以前の5年間の香港赴任中に子供なりにいろんな事情があり思いがあったのだろう。

私はこれからの香港での家族生活をみんながハッピーで有意義なものにしたいと思った。

 

11月に入り家族VISAの申請など家族の香港居住のための準備を始める。

 

92.1妻から次男(直樹)が発熱と咳で肺炎か気管支炎の疑いありとのFAXが入った。

ただ、直樹(小4)の鉛筆書きで

「僕は死にそうです。いま、めしを食ってます。ぼくは病気です」

とあり

マントと得意のウンコの絵がついていたのでこれは大丈夫だなと思った。

病院の結果では肺に異常はなくアレルギー性の喘息だった。

 

92年2月1日東京で大雪となり20cmまで積もる

2月8日 香港行きの前に直樹が楽しみにしていた家族での日光霧降高原スキーに行く。

あとで知ったがこの時の父親のスキーがカッコよかったらしく後に大学でスキークラブに入るきっかけになったらしい。

 

 2月ごろ、香港島側にあるマンション彩天閣を賃貸契約。

長男の希望通り日本人学校の通学に便利で日本人家族が多く住む香港島の太古城(タイクーシン)に決めた。3ベッドルーム60平米ぐらいで家族4人が済むには十分な広さだ。

 

92.2香港日本人学校に転入の確認。

3月、日本から船便を発送。25日に荷物の搬入

 

こうして準備が整い92年4月、家族四人での生活が香港で復活した。

心身ともに充実したところで本格的なビジネス活動を再開することになる。

 

 

このころの世相を見ると

91(平成3年)日本では長崎の雲仙普賢岳火砕流が発生、横綱千代の富士が引退し若貴、曙の時代へ。

ディスコジュリアナが東京にオープン、お立ち台で踊る姿がバブル末期の象徴となった。

牛肉とオレンジの輸入自由化

12月にソ連が消滅、ゴルバチョフ大統領が辞任しロシアやウクライナなどの共和国に分かれた。

 

92(平成4年)には株価低迷と地価下落の複合不況が起こる。

もつ鍋ブーム。若者のカリスマ尾崎豊が急死。 

毛利衛が日本人として初めてスペースシャトルで宇宙へ。

国公立の小中高で週5日制が始まったのもこの年だ。

 

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入院(1991.6.5)からのGPT値をグラフ化した。