私の履歴書 第十八回 海外ビジネス展開、バーゼルフェア出展とKENTEXブランドの始動

 



 

平成7年(1995)、日本を揺るがす大きな事件が起こった。

1月17日観測史上初の震度7を記録した神戸を中心とする阪神淡路大震災が発生。

多くの家屋が倒壊、死者は6400人を超えるすさまじい地震だった。

 

3月には東京霞が関を通る地下鉄で猛毒が撒かれるオウム真理教事件が発生。

神経ガスサリンが散布され、乗客乗務員ほか被害者の救助にあたった人々も含む多数の死者や被害者が出た。

 

ケンテックスジャパンの山田さんは事件のおきたこの日も同路線で通勤したが時間帯の違いで幸いにも免れることが出来た。

 

90年代半ば、香港K.T.(Kentex Time Co.Ltd.)は小規模ながらも時計メーカーとしての組織が出来上がってきた。

 

時計の生産数は月産約3万から4万個近くになり 仕事の急増と共にスタッフも増えた。

94年末には経理、シッピングのスタッフにマーケティング、技術、品質, 検査、出荷、デザイナーなどが加わり総勢20名程になった。

業務が複雑化してきたので業務分担の明確化と効率化を目的に組織を編成した。

 

本来小さい会社に組織はいらない、意識の高い精鋭が揃っていればそれぞれがおのずと結果を出していくというのが私の考えだ。

しかし現実はそうもいかない、人が増えれば8:2の法則といわれるように何をしているのか分からないスタッフも出てくる。

会社のベクトルを合わせるために最低限の組織も必要になる。

 

私は組織を編成する三つの目的、

1)責任分担の明確化(組織表)

2)権限の委譲

3)目標管理

 を説明したうえで私自身が大事だと思う9つの行動指針を社員に伝えた。

 

1.行動の重視、結果の評価(実践重視、言い訳は不要)

2.お客様優先(C.S.顧客満足⇒マーケット第一)

3.品質重視(当社の基本理念)

4.チームワークの精神(壁を作らず協力、上下左右の風通しを良くする)

5.問題意識を持ち、考える習慣を身につける

6.創造性の重視(慣習に捕らわれず柔軟な発想)

7.開発を重視(新商品開発は会社存続の条件)

8.自己啓発(自分を磨く心)

9.仕事に生きがいを持つ(一日の大半は会社にいる⇒挑戦する心を持つ)

 

OEMの増大に伴い、私はR&D(デザイン開発)の強化による顧客への提案力が重要と考えデザイナーの層を厚くした。

私自身がデザインに関心を持っていたことも背景にある。

 

94年にデザイナー三名( Lam, Alex, Eunice(女性))を採用、デザイン開発が強化され顧客の要望に迅速にレスポンスする体制ができた。

96年にEuniceがChingに代わりチームワーク良くそれぞれがドレス系、スポーツ系、レディスファッション系と各人の得意分野が発揮され、時計デザインの幅と質の高さがセイコーはじめ内外の顧客に評価されるようになった。

 

香港デザイナーの多くは日本人の感性とは一味違うところがある。

私はミーティングを通じて日本の文化や日本人好みのテイストを伝えた。

 

繰り返し説明したのが日本人の好きなシック(Chic)という言葉。

日本人なら上品なイメージがすぐに思い浮かぶが、どちらかというとカジュアルで原色を好む香港の文化ではそれを掴みにくかったが次第に上品な味も出るようになった。

 

中でもAlexはスポーツ系デザインが得意でデザイン力も高く市場のトレンドを把握した顧客に歓迎される多くのモデルを生み出した。

私の感性や好みとも近く、後にKENTEXブランドの数々のスポーツモデルを生み出し私の力強いパートナーとして多くの実績を残すことになる。

またLamはエレガンス系が得意だったがデザインのみならず技術にも詳しく有名時計ブランドの世界にも通じていた。

私自身が得ることもありR&Dのリーダーとして長らくチームを引っ張ってくれた。

私の補佐としてKENTEXブランドの立ち上げ、進展に大きく貢献した一人だ。

 

94年に設立したケンテックスジャパンはこの香港での生産力を背景に日本市場におけるニーズの開拓を行い、お客様に喜ばれる企画と満足できるコストで、そして信頼される品質を提供することに力を注いだ。

 

世界の時計生産地としての香港(中国)と大きな市場を持つ日本をつなぐケンテックスグループの製販一貫体制がこのころ始まった。

小さいながらも自らの製造基地と販売拠点をもつ当社の強みとなった。

 

当時、日本国内の主なOEM客は万世工業(マルマン)、ドウシシャリコーエレメックス、オリエント、クレファ、(98年からシチズンが始まる)などで日本顧客は主に私が営業活動した。

 

一方、香港地元を含めて海外顧客はEddie陳をリーダーにYip、Angela、Jake, Terence、Grace, Barry, Sacky、Joviなど、時代とともにセールススタッフは流動的だったがその時々のSales担当がOEMの営業窓口として対応した。

 

91年から参加した香港インターナショナルウォッチフェアに毎年継続出展し90年代半ばにはドイツ、イギリス、フランス、トルコなど海外の仕事が増えていった。

 

94年3月に家族が帰国した後、私は独りになったので同じ香港島のビクトリア公園に近い天后(ティンハウ)という所に小さめのフラットを借りそこに移った。

その後、毎月高い家賃を払い続けるよりも買った方が長い目でメリットがあるという邱さんの教えを忘れず96年に九龍側の黄哺にフラットを会社で(ローンを組み)購入、3月に引っ越した。

香港の日系会社はメチャ高い家賃を永年払い続けているところが多いが香港のようなインフレの続く都市では買うことが合理的な決断であることがやはり後に明確になる。

 

マレーシア進出、失敗と教訓

 

当時アジアはまだ開発途上で低所得層が多く時計市場はまだ、未熟だった。

一部の高所得者層向けの有名ブランドを除けば二流もしくは無名の安物時計がメインだった。

 

94年にHKTDC(香港貿易発展局)が主催したマレーシアのクアラルンプールでのHK時計メーカーフェアが企画され私はアジア進出のチャンスと思い参加した。

香港の時計メーカー約20社が出展。

翌95年のフェアにも出展し現地の時計ディーラーともコネが出来た。

96年はこのコネをベースに陳、Lamと私の三名でマレーシアの時計商数社を訪問した。

 

G.S.M( Gold Stone Marketing)の社長はマレーシア時計協会の会長も兼務、Playboy,  Givency,  NinaRicciなどのディーラーもしており、当社のデザイン、品質を評価してくれた。

 

95年のフェアで知己となりコーディネーターとして動いてくれたマレーシアの華人Mr.Weeと組み96年6月にKT出資でMIYAKO Time社を設立、K.Tのマレーシアオフィスとしてスタート、直後の7月に出張し2社と具体的に商談、仕事が始まる。

 

WataTimeはクアラルンプール市内にショップ数店を持ち自社ブランドを保有、当社の

OEM人気モデルS82Mを気に入りJaguarブランドで生産した。

 

もう1社のTime Galerieは小さな会社ながら強気の計画で大量の数を注文、出荷後のT/T後払いでリスクがあったが私は相手を信用し生産を請け負った。

Louis DeLong9000個(全11モデル×800個)とBabanino、Okuraあわせて17000個。いずれもにわかに立ち上げたPBでブランド力はない。

 

翌97年3月に再訪問した時点で当初予定したほど数が伸びずに計画の三分の一程度の出荷にとどまっていた。

キャンペーンを打ってもらったがその後もスピードは上がらず最終的には大量の生産在庫を持つ羽目に。

私にとってはOEMビジネススタート以来、最大の黒星となった。

 

考えてみればこれだけの仕事を何の担保もなしに受ける方が甘い。

先方のいい加減な読みとどん欲な商売根性に振り回されてしまった。

アジアで商売をしている人たちは中華系(華僑)が多いが自分の利益には執着するが相手の不利益には全く無頓着で関心が及ばない。

 以降、大きな話ほど落とし穴があると思い注意するようになった。

 

中国人の世界では「騙した人間よりも騙された人間が悪い」のが常識だ。

騙しあいが普通に横行している世界で「騙されないよう賢くなれ」という教えなのだ。

 

私は日本人のプライドとして相手を信用することは今も大事だと考えている。

しかし、ビジネスの世界を甘く見てはいけない。

相手の話を鵜呑みにせず常にリスクとその対応を考えることが必須であることを学んだ。

 

とは言え、OEMビジネスを長く続けていると注意しながらも避けられないこともある。

見込みより売れないと分かると途中で引き取りを止める客は少なくない。

生産の一部が在庫になるケースがどうしても起こる。

 

 ある意味、モノを造る会社にとってこれは宿命的なものがある。

相手先ブランドでものを作るOEMビジネスは初めに(見込み)利益が確定できる反面、想定外の在庫で利益が飛ぶ事もままある。

 

ならば自社ブランドでやる、という考えも浮かんでくる。

それはそれで別のリスクがあるが

OEMは顧客の意向に沿って作るのに対し自社ブランドは自分のアイデアや計画で作れる。

 

 

鈴木さんとの縁

 

KJ(ケンテックスジャパン)は94年の設立スタート後、妻と山田さんにパートさんが加わり三人で切り盛りしていたが売り上げが伸びず一年が過ぎても赤字から脱出できていなかった。

 

山田さんは設立時、直前でシェアを入れることを躊躇されたので発起人に加わらず社員として定収を得ていた。

どちらかというと指示待ちでいまひとつ仕事への積極性が感じられなかった。

 

車がエンジンをふかして動き出すようにスタート時には多くのエネルギーが要る。

創業時に七転八倒した私にはいささか物足りなさを感じていた。

 

妻からも不満の声が出たので95年10月に山田さんと話し合い、目標を決めて頑張ってもらうようにうながしたが結局翌年に退社することになった。

 

そのニュースが入ったのかタイミングよく96年3月、日本の時計組立会社、田村時計の社長から連絡が入った。

不景気で国内組立の仕事が減り、人員削減の折り鈴木さんを業務兼営業として出向させてもらえないかという提案だった。

 

鈴木さんは田村時計勤務10年ほどでオリエント特販との窓口などもやっており衣料品の営業の経験もあった。

年を聞いたら「ウーン、43ぐらいだったかなあ」。

ちょうどいい年齢と思い私は鈴木さんを面接、5歳ほどサバ読んでくれたことを後で知ったが人が良さそうで正式に入社してもらうことにした。

 

これも神様がくれた縁と感謝している。

鈴木さんの入社は大正解だった。

 

当初は仕事の違いに戸惑いも見られたが徐々に自分のスタイルでエネルギッシュな本来の馬力を発揮してくれるようになった。

一人でOEMの営業から出荷作業、果ては修理作業まで仕事の幅を広げていき私の番頭役としても大いに助けてくれた。

理屈は得意でないが行動力は抜群。

天性的な明るさと人の好さで誰とでもすぐに親しくなれる性格は顧客からも好かれた。

声が大きくいつも元気、時折下ネタを飛ばしては女性陣を困らせることもあったが私と同じ団塊世代、早くに父を亡くした境遇も似ていてウマが合った。

 

私は香港と日本を行き来する生活だったが日本に戻るたびに鈴木さんと一杯やることが多くなり何でも話し合える仲となった。

 

世界経済の悪化と日本の戦後最悪デフレ不況

 

90年代後半になると世界は不況に向かっていた。

1997年、タイを中心に始まったアジア通貨危機はアジア各国の急激な通貨下落と金融危機が起こりインドネシア・韓国経済が大きな打撃を受けマレーシアや香港もダメージを受けた。

アジアにとどまらず98年からのロシア通貨危機、99年のブラジル通貨危機につながり世界経済は悪化、世界同時株安がおこりデフレが進行した。

当時、世界では唯一中国だけが猛烈な勢いで伸びていた。

 

日本はバブル後の91年以降、長く不況が続いていたが97年4月の5%消費税が追い打ちをかけマーケットはさらに縮小、販売不振と企業の倒産が増え深刻な状態が続いた。

 

97年に山一證券の自主廃業、北海道拓殖銀行倒産などの金融破綻がおこった。

GDPがマイナス3.5%と戦後最悪となり本格的なデフレ経済に突入。

銀行、会社、個人の信用収縮が起こり、デフレがデフレを呼ぶデフレスパイラルに。

 

98年には戦後最悪の不況と言われるようになり雇用が収縮、就職氷河期でフリーターや派遣社員の道を選ぶ大卒者が増えた。

 

為替は95年の円高80円をピークに急激に円安方向に転換、3年後の98年8月には148円の円安で当社香港の日本向けの商売はいっそう厳しくなっていた。

 

海外にまたがるビジネスはいつも為替に振り回される。

それまでの右肩上がりで伸びる図式は様変わりし会社を取り巻く環境は激変した。

 

時計産業が成熟化し低価格化によるビジネスの付加価値が下がる。

世界的なモノ余り現象と市場の冷却化で物が売れない時代に。

 

会社として生き残るために不況と数量減に対応できる体質づくりが急務となった。

 

98年4月、私は会社の置かれた現況と今後の課題を整理したうえで危機意識を社員に共有してもらうためにスタッフ全員を集めた。

 

英語を理解しないスタッフもいるのであらかじめ用意した文章をEddie陳に広東語に翻訳してもらい英語で説明した。

 

その時の要旨は以下の点だ。

  • 滞留在庫の削減(マレーシアOEMデッドストックの整理、減少)
  • 経費人件費の削減(香港の労働コストが高く生産関連業務の中国シフト)
  • 品質異常による損失コストの低減(設計から製造出荷までのミスをなくす)
  • 購入部品の原価低減
  • 日程短縮(競争力アップと在庫減につながる)
  • ドルベースの売り上げを増やす。
  • アメリカ、ヨーロッパなど比較的好景気なマーケットの開拓
  • セールスパワーアップ(売り上げを作るスタッフの強化)

 

香港の労働コストはインフレで毎年上昇、日本と比べてもすでに割安感はなかった。

物を作る多くの会社は香港のスタッフを極力減らし中国にシフトする動きが加速していた。

 

 

中国組立工場の引き取り、自社工場へ

 

KentexTimeはOEM時計の最終組み立てを当時中国内に工場を持つAsino(安沙)という組立会社(本社香港)に委託していた。

 

Asino中国工場は当時170名ほどの人員でHerald Electronics(興利)という香港の顧客をメインに月産20万個を超える組立作業を請け負っていた。

Asinoの組立ラインはアメリカ向けの安物が主体なため当社製品との品質レベルの違いがあり作業の質の違い悩まされていた。

96年半ば、当社KTの生産数が月4万個近くになったころ品質向上を目的にAsinoと話をして空いていた3階スペースにKT専用の検査、組立ラインを設けた。

 

KTが採用した中国人スタッフの意識と質を上げるために香港のEddie陳, 矢野、 Rico,  Mimi(もとセイコー香港の検査員)らが頻繁に工場に出入りし、教育、検査などの技術指導、工場の管理強化でレベルを上げる努力をした。

 

それまで外装設計、技術、生産管理など香港で行っていた業務の中国シフトが進み香港人数名が常駐するようになった。

当時、中国人ワーカーの給与は500HKD(寮費含む)程だった。

 

陳が責任者となりセイコー時代に培った検査知識やノウハウを導入、日本的QC(品質管理)を取り入れたレベルの高い工場を目指した。

 

97年5月にKJの鈴木さんが香港出張の際にKT中国工場を視察した際、きれいに管理された組み立てラインを見て感心していた。

 

 ところが98年3月、突然そのAsino本体がクローズするという話が出てきた。

彼らは安い単価で組み立てを請け負う付加価値の低い賃仕事で経営が行き詰っていた。

 

本来はメイン顧客であるHeraldがどう支援するのが筋だが買い取る意思はないとのことでKTが後を請け負うかどうかになった。

 数字を調べていくと売り上げ25万HKD程度に対し工場の経費が35万HKDで毎月赤字を累積、負債は香港が300万HKD、中国工場は家賃滞納等で40万HKD程あることが分かった。

 

その後、Asino香港本社は負債含めて先方で片づけてもらい、中国工場をKTが肩代わりする方向で検討に入った。

10万個を維持する設備と必要な人員を検討、工程別に人員を割り出しワーカー

が100名、間接スタッフが20名、合計120名で経費はかなり切り詰めても24万HKDとなった。

 

工場のメイン組立依頼客であるHeraldはアメリカ向け安物主体でこれ以上の組立費アップを了解できないという。

リスクは高いと判断、ビジネス環境は最悪のタイミングでどう生き残るかを優先しなければならない状況だったのでここで火中の栗を拾うことは避ける結論とした。

 

しかし数日後、Eddie陳と黄謄達(Herald担当のAsinoのDirector)の二人が揃って私に何とか継続してもらえないかと改めて懇願に来た。

 

私としてもできることならここまで努力して育てた体制を無為にはしたくない。

私は組立数を10万個体制、工場経費を20万HKDまで削減するよう条件を出して了解した。

 その後彼らの努力で9月の時点で147名まで人員削減、経費は30万HKDを切るようになりその後も状況は改善されてきた。

 しかしさらなる景気の悪化でHeraldの仕事は減り続け収支のマイナスが長く続いた。

98年8月から99年7月までの1年分のデータを見ると組立数が平均約10万個で累積収支は48万HKドル近くのマイナス、月平均で約4万HKドルのKTの持ち出しが続く状況だった。

 

私は中国工場をこの先どうするか迷った。

果たして独自の中国工場を持つのが本当に正解なのか?

 中国工場を持つ意味をあらためて整理してみた。

 

メリットは;

・KT独自の品質管理体制が構築でき高い品質を確保、維持できる。

労務費が安くワーカーや大卒スタッフの採用が簡単(当時)

OEM顧客に対し自社工場としての信頼性、宣伝効果がある。

・スペースに余裕がありいざというときの拡張も可能。

・同じ大陸内で外装部品の調達フォローを強化できる。

・将来の中国拡大の拠点としての可能性がある。

 

デメリットもある。

・中国工場のオペレーションは複雑で困難が伴う。

・管理役人との交渉調整など面倒さが伴う(袖の下など)

・香港スタッフのパワーが二分される。

・中国人ワーカースタッフの能率モチベーションの低さ(労務管理の問題)

・香港と中国工場の2社で経費が増大(通信、交通ほか)

 

99年8月に陳、矢野、私、それにEddy梁(外部会計士)の4名で中国工場LandTimeをどうするか善後策を話し合った。

 

いくつかの代替案もあったが最終的には現工場を何とか継続する動きに再度取り組むことになった。

 

 その後中国管理区(役所)との家賃交渉でそれまでの2フロア分の家賃が1フロア分の家賃となり(アンダーテーブル?)、Heraldからは組立費値上げの代わりに工場の固定費を補うカバーチャージ設定を了解してもらった。

 

しかしその後もHeraldの数量が落ち込みカバーチャージの額も当初の18万HKDから段階的に8万まで落ちいよいよ継続運営が困難になった。

 このころになると工場全体の組立仕事が減る一方で当社KTの比率が大きくなっていた。

結局、中国工場はKTビジネスの安定した品質を維持供給するための自社工場であるとの観点から香港との連結で採算を見ればいいという判断に頭を切り替えた。

 

2002年5月、Heraldに代わり工場のすべてのカバーチャージを持つことにし

この時点で中国工場は実質KTの傘下になった。

 8月、KTが新たに出資設立した香港の会社LandTimeを中国特区来料加工LandTimeの100%ホルダーとして正式にKT所有とした。

 

以降、当社は香港本社と中国工場を含めた大きな経費を抱えることになったがその後LandTime中国工場はEddie陳をはじめ香港スタッフ、中国スタッフの努力でさらに高品質の時計を作る工場へとレベルアップしていく。

99年にはCNCマシンを購入して職人を養成、Bs素材で新デザインのサンプルを作るダミーサンプルチームを結成し新デザイン開発力を強化している。

 

香港返還

 

話は変わるが97年は香港が中国に返還される節目の年だった。

この年、返還を前に香港は世界中から注目された。

1997年6月30日、チャールズ皇太子江沢民国家主席、ブレア首相と李鵬首相が出席し盛大な返還式典が行われた。

私はテレビ中継を見ながら歴史的なその模様をビデオ録画した。

 

返還後に香港特別行政区政府が成立し、歴代最後の香港提督パッテンが香港を去り董建華が初代行政長官に就任した。

駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍が駐屯することになった。

香港の「高度の自治」を明記した1984年の中英共同声明は1997年の返還から50年間適用されるとしていたが、その後中国の管理統制がじわじわと強まっている。

2014年の雨傘運動、2019年の逃亡犯条例改正案をめぐる反政府デモなど中国に抗議する民主化の動きは今も続いており香港の自治がいっそう怪しくなってきている。

 

香港の国際的なビジネスの魅力、そして言論、宗教の自由が今後も保たれるのか。

世界の都市ランキングで香港は常にトップレベルにいるがこの先どうなっていくのか。

 

永く香港に関わってきた私としては気がかりであるがおそらく形は変えても金融都市としての機能、中国の窓口としての役割は今後も続くと私は考える。

なぜなら中国共産党の幹部にとってもそれを維持することが彼らのメリットであり、必要でもあるからである。

邱永漢先生が存命であればどう見るだろうか。天国の先生に聞いてみたい。

 

スイスバーゼルフェア出展とケンテックスブランドの始動

 

さて、“私の履歴書”も回を重ねいよいよ本丸のKENTEXブランドの話にたどり着くことが出来た。

 

私のノートと過去の資料を眺めていると過去の記憶が時系列で蘇ってくる。

私の精力を注いだ数々のKENTEX時計についてその思いやものづくりを次号から振り返っていきたいが今号ではKENTEXブランドの生い立ちから始めたい。

 

KENTEX時計の歴史はバーゼルフェアから始まる。

 

97年4月、世界の時計の祭典であるバーゼルフェア(正式名BASEL WORLD)を視察した。

マルマン一行とのバーゼル訪問から5年後の二度目のバーゼルだったが目的は翌年の出展を目論んでの下見だった。

 

この時イタリアベネチアのジュエリーウォッチショップADRIANOと初めて会った。

 

バーゼルで会ったADRIANOとのシーンは今でも鮮明に記憶に残っている。

その時は60代後半と思われる創業者のアドリアーノさんと息子、娘、その旦那の4名で仲のよさそうなファミリーだった。

ブースを持つ前だったのでメイン会場前のテーブルにOEMサンプルのロールを広げて商談、その中のスポーツモデルS82Mを気に入りショップのクリスマス発売に向けて作りたいということになった。

ブランドは当然ADRIANOと思っていたが意外にもKENTEXがいいと言う。

KENTEXの名前と響きがいいと言ってくれた。

当社初の、そして世界初のKENTEX時計が誕生することになった。

ステンレス10気圧クオーツクロノグラフ(OS60)で97年7月に生産投入、ダイアル4色で計200個の注文だったがそこに日本での発売を目論みわずかな数量を上乗せ生産した。

そしてこれがKENTEX時計の日本での小さなデビューとなる。

 

 97年8月、インターボイスの伊藤(取)、内田さんと会いこのKENTEX S82Mの日本発売に向けて初めて時計誌広告の商談をした。

12月,KENTEX初の時計誌広告となるS82Mの縦長三分の一ページ広告が載った。

直後に大阪の東急ハンズから電話が入り喜んで鈴木さんと二人で大阪に出張し面会の後置いてもらうことになった。

ハンズは常にめずらしいもの、新しいものに目を光らせている会社のようだ。

 

ここでたびたび出るS82Mについて少し説明を加えておきたい。

Kentex社では当初から時計の社内呼称をSports, Elegance, Ladies, Fashionの4つのデザインジャンルに分けそれぞれの頭文字S, E, L, Fに001からの追番をつけ、最後にManとLadyの区分をつけるようにした。

S82MはSportsの82番目に生産されたメンズモデルという意味になる。

 

S82Mは95年にAlexがデザインした小ぶりで丸みを帯びたデザインの回転ベゼルつきダイバーモデルだったがラグの形状が角張っていて違和感を感じたので私は柔らかくカーブしたよりComfortableなラグデザインに変更、95年の香港フェアで多くの客から引き合いの出る大ヒットモデルとなった。

当時日本でも行く先々で採用を希望された人気モデルだ。

 

 その後ADRIANOとはS162MボーイサイズSSケース10気圧を12月に生産投入、角形ケースE190M/E190Lペアモデル男女各300個を98年5月に投入した。

 

このころはまだKENTEXブランドのこだわりもなくどちらかというとOEMの延長でモデルに会社の名前を入れる程度の感覚だった。

 

98年4月バーゼルフェアに初出展

 

かつてセイコー時代にあこがれの場だった世界一の時計の祭典であるスイスバーゼルフェアに自分が出展するとは思いもよらなかったがそれが98年に現実となった。

 

巨大なフェア会場内にある香港Delegationの一角が出展スペースとなる。

KTとして初めての出展には私を含め香港から3名で出張した。

 

このフェアにはヨーロッパをはじめ各国のOEM客先がブースに訪れる。

フェアに来る連中は大方が会社のトップでバイヤーでもあり目の肥えたプロが多い。

当社モデルは価格で勝負する他の香港会社とは一味違う質の高さがありヨーロッパの客先からデザインと品質の両面で高い評価を得た。

 

Adrianoとは事前に連絡を取りチューリッヒのホテルで再会した。

彼らはベネチアからスイスまでアルプス越えでドライブして来たと言っていた。

セイコーインスツルの元上司、鎌田さん(当時時計事業部長だったか)やデザイン小野寺部長、桜井部長らが当社ブースに立ち寄ってくれた。

  

このフェアでは成美堂出版の事前手配でヨーロッパで活動していた日本人女性ライターが取材に訪れ「質実剛健なKENTEXブランド」と後に記事に紹介してくれた。

 

フェア中にドイツやイギリスの客などKENTEXブランドの販売に興味を持つ会社も現れたがこの時はOEM受注メインでフェアに望んでいたのでブランドとして販売できる商品もなくブランドビジネスを始める何の準備も出来ていない状態だったので、ブランドビジネスにはつながらなかったがヨーロッパの客の良い反応を得ることが出来た。

 

 そしてこの時のバーゼルフェア参加は私にブランドという意識をあらためて目覚めさせることになった。

  バーゼルフェアは期間が8日間と長くたっぷり時間があったので私は期間中にメジャーブランドが集まるメイン会場を繰り返しくまなく回った。

 

世界の時計ブランドが一堂に集まるバーゼルフェアは年一回の祭典に向けて各社総力を挙げた新モデルを発表する。

そしてそれを目当てに世界中から時計商や時計ジャーナリストが訪れる。

私は一流ブランドの数々の時計をひとつひとつ丁寧に見ているうちにしだいにその素晴らしさと美しさに目を見張り、興奮した。

 聞いたことのないマイナーなブランドでさえスイスの伝統的な時計づくりに裏打ちされた完成度の高い時計がそこにあった。

 やはり時計王国スイスの歴史と伝統で培った時計技術はすごいと舌を巻いた。

 

 

 KENTEXブランドの始動

 

たくさんの素晴らしい時計に刺激され私の中で眠っていた職人根性が目を覚ました。

もっといい時計を造りたいという気持と、ブランドへの夢と思いが芽生えてきた。

 

所詮、ナショナルブランドの足元にも及ばないだろうが

小さくても個性が光るブランドになりたい。

そんな気持ちが私を襲った。

 98年のバーゼルフェアは私に感動と夢をくれる舞台となった。

 

香港に戻ってからもブランドに対する思いが徐々に強くなり、そしてデザイナーのLamやAlexにもその思いが共有されKENTEXブランドが本格的に動き始める。

 

自分が気に入ったデザインのOEMモデルに少しずつ上乗せしKENTEXモデルのコレクションを増やしていった。

 

S82M(Leopard), S162M(Romeo), に加えS122M(Confidence),S165M(Prestage),

S172M(Dynastar), S185M(Aviator), S191M/S191L(Adriano), S193M(Diplomat),

などが初期のKENTEXモデルとしてラインナップ。

 

98年11月にケンテックスとして初めての自主企画モデルS143Mクロノモデルを開発、99年3月に初のSKYMANを発売した。

ケースはサティン仕上げと梨地仕上げ(サンドブラスト)の2種。

バイクや航空機の計器をイメージした見切りが大きく、深く入り込んだすり鉢状のダイアル、カーブしたガラスが特徴で黒を基調とした精悍で個性的なモデルになった。

 

初期のKENTEXコレクションが出揃い、それぞれの商品名(サブブランド)をつけて98年末に香港で初めてカタログを作成、その後KJの鈴木さんが日本での営業を始めた。

 

 98年、このころインタ―ボイスから独立したサーティーズ内田さんと時計誌での広告を始める。

 99年、内田さんに依頼し30万円のわずかな予算で会社概要、製品カタログ、新着情報など13ページ程度のコンテンツで初めてホームページを立ち上げた。

 

99年9月、ブランドのコンセプトがメディア向けに必要と言われケンテックスブランドの考えや思いをメモしたものを整理まとめて「KENTEX WATCHについて」と題して雑誌社にリリースした。

 

そのコンセプトにはこう記している。(原文のまま引用)

 

「いつも流行を追った奇をてらったものではなく、全体にシンプルな中にも飽きのこない優れたデザイン性と、見て心地よい美しさがあること。

そして、デザイン性の良さとともにディテールを大事に丁寧に仕上げた作り込みの緻密さ、長持ちのするしっかりした造りであること。

本当に良いものをリーズナブルな価格設定とし、誰でもデイリーユースとして気軽に腕にはめ、満足できる時計であること。

何よりも時計作りの根底に流れるのは、本当に自分が腕につけたいと思う最高の時計を造ろうとすることであり、大切なのはその情熱である」

 

あらためて読んでみると今の自分のブランドに対する考えと全く同じだ。

20年以上が過ぎた今もこのコンセプトは活きている。

 驚きとともに少し嬉しかった。

 

99年9月の香港フェアではKENTEXモデルが充実しブースでの展示にも力が入った。

それまではすべてOEM用モデルの展示だったがこのころからKENTEXブランド時計を並行して展示するようになった。

 

その結果、図らずも顧客はOEM用モデルよりもKENTEXモデルに注目しその(OEM)採用を希望する傾向になってしまったのは想定外だったが私自身はブランドへの強い思いからその後もKENTEXモデルの開発に集中した。

 

 これ以降、当社スタッフと多くの関係者の協力を得ながら私のKENTEX時計造りがさらに本格的になっていく。

私の思いのこもった作品の数々を次号から紹介していきたい。

 

 

さて今回は内容が盛りだくさんで長くなってしまったがこの項の最後に99年12月の香港KTスタッフのタイ旅行で締めくくりたい。

 

89年に創業してから10年が過ぎた99年12月。

苦しい時期もあったが何とかここまで来ることが出来たので10周年記念として全員のバンコク旅行を企画した。

スタッフと一部家族も含め総勢21名ほどのバスツアー、若い人たちも多かったのでみんなでわいわいタイフードを食べマリンスポーツを楽しんだ。

 

f:id:kentex:20200611150217j:plain95.3.マレーシアで開催された香港ウォッチフェア。左から私、Eddie陳、Terence.

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96年、私の天后フラットでスタッフと寿司パーティー
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          98年バーゼルフェア 初出展

 

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 初のKENTEXモデル、S82M クロノ(Leopard) 97年12月発売

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   KENTEX 初のSkyman  S143Mクロノ  99年3月発売

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初期のKENTEXモデル

 

 

 

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 99年ころ、デザインチームとミーティング(左からAlex, 私、Lam, Ching)

 

 

 

 

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                  99年ころ、KTの中国工場 LandTime(時栄)

 

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       99年 バーゼルフェア KENTEXブース

 

 

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     99年 バーゼルブースにてアドリアーノと再会

 

 

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99年バーゼル、バーデンワイラーホテルにてKTスタッフ(左からAlex,私、陳、Sacky)

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   99年  バーゼルフェア    ブースにてドウシシャ小早川Bと長島さん

 

 

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    99.9.香港ウォッチフェアブースで スタッフと

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          99.9 メディア向けにまとめた”KENTEX WATCHについて ”リリース文

 

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    99年12月 創業10周年記念のタイ、バンコク旅行