私の履歴書 第十九回 KENTEXの原点、こだわりと理念生まれる

1999年が終わりいよいよ西暦2000年が始まろうとしていた。

新千年紀の始まりということで世界では「ミレニアム」と騒がれた。

コンピューターが誤作動するのではないかと「2000年問題」が取り沙汰されたがほぼトラブルもなく2000年が始まった。

 

2000年にはシドニー五輪がありマラソン高橋尚子の金、柔道で田村亮子の金、女子ソフトボールの銀など女子選手が大活躍した。

この年イチローが米大リーグマリナーズに入団している。

 

「2001年宇宙の旅」という傑作SF映画が1968年に上映されている。

月に人が住み、最新型人工知能を積んだ宇宙船が木星探査に向けて航行するという未来映画だ。

アメリカの宇宙飛行士アームストロングが69年に月面着陸に成功しまさに世界中が宇宙に熱い視線を注いでいた時代だった。

50年以上が過ぎた2020年の今、宇宙開発は想像ほどではなかったがコンピューターはハードソフト両面で進歩を遂げ人工知能はもはや現実のものとなった。

 

振り返ってみると、2000年前後は当社にとっていろんなプロジェクトが重なり集中していた時代だった。

私自身は日本のOEMビジネスを担当するかたわらKentexブランドの推進に本格的に集中し小さな芽を育てた時期でもある。

この回で記したいことはたくさんあるが紙面の関係でそのいくつかを選んでみたい。

 

モノの価値下落とデフレ不況

 

97年の金融破綻と消費税5%引き上げで戦後最悪の不況と言われたが2000年に入っても景気は回復せず不況はますます深刻化していた。

 

80年代に始まった中国製造シフトは世界中のモノの値段を下げた。

日本では家電を筆頭にユニクロなどの衣料、雑貨、家庭用品などすべてのモノが値を下げデフレが進行、100円ショップの商品は種類が増えて人気が拡大した。

 

日本の時計市場はロレックス、オメガなどの高級ブランドのみが好調、5万円以下の市場が縮小し中級、PB, カジュアル、ライセンスなどすべてダウン、超低価格品が市場に溢れた。

量販店では980円の時計から1980円,2980円,3980円の商品が主流となり、3980円は吊るしからGケース内に移った。

 

日本のOEM顧客を訪問するたびに“価格下落でコストの攻防が厳しい”とあちこちで悲鳴が出ていた。

日本で踏ん張っていた会社も工場を縮小あるいは畳むようになり当社にOEM委託の話も舞い込んだ。

さすがに超低価格品は品質の確保が難しいので、無理して参入するのは避けた。

 

低価格品が溢れる一方でブランド物は好調、市場での二極化が進行し国内の大手時計メーカーはそのはざまで苦しんでいた。

 

2001年の日経新聞記事に2000年の国内時計販売シェアの記事がある。

国内総販売5300億円(前年比一割減)のうちスイス高級品が3000億(横這い)で57%、香港低価格品が800億(横這い)で15%、日本勢は全体で1500億(二割減)の28.3%(セイコー700億、シチズン400億、他400億)とある。

 

日本勢が全体の三分の一以下(金額ベース)になりスイス勢の半分となった。

かつて日本メーカーの独壇場だった日本市場はスイス勢のブランド攻勢にシェアを奪われていた。

 

少し遡るが99年6月に私が師と仰ぐ邱永漢の講演会が東京であり邱さんは得意の先見力で10年、20年先の日本を予告していた。

要点は

・モノの付加価値が落ちるのでものづくり産業は伸びない 

・今後はサービス産業の生む付加価値(富)が上がる、そして日本人はその仕事に向いている

・お金を使う優先順がエンターテイメント、食べる、海外旅行、趣味、健康美容、教養の順番になりやっと7つ目に物を買うことに使う。

 

我々ものづくりの人間には厳しい現実が待ち構えているかもしれない。

しかし私はそれを頭に入れながらもその可能性を模索していく道に戸惑いはなかった。

 

シチズンとのビジネス

 

不況が続く中で当時シチズンもコスト減のため海外調達の強化を模索していた。

98年に知人の紹介でシチズンの企画担当者と香港で面会、中国工場に案内し技術面での信頼も得られてシチズン時計とのビジネスが始まった。

シチズンは中国に自社工場があるのでライセンスや特注品などの企画商品が我々外注への生産委託対象だがケンテックスのデザイン力や技術面も信頼され数々のモデルをOEM生産した。

 

それまでクオーツ時計がメインだったが99年にシチズンの自社自動巻きムーブCal.8200を搭載したSCUDOという機械式時計を生産する機会を得た。

自動巻き専用の設備機器が必要となり自動巻き上げ機や歩度測定器などを当社中国工場に導入、この生産を通して自動巻き時計の製造技術ノウハウを積み上げることが出来た。

後にこのノウハウがKentex自動巻きの生産に役立つことになる。

 

その後もフリーウェイ、スヌーピー、銀無垢のケースなども受注するようになりシチズン商事とのおつきあいもいただくようになったがその後シチズンでさえも不況の荒波にもまれ希望退職を募り、シチズン時計が商事を吸収合併する再編があった。

 

機械式時計に注目

 

クオーツ時計の低価格化と並行して陳腐化が進んだことで機械式時計が少しずつ見直されてきた。

そのころスイス高級品を除けばまだあまり流通していなかったが私は技術的に大量生産が困難で、クオーツに比べ付加価値が落ちにくい機械式時計に注目していた。

 

スイスETA香港支店の総経理Mr.潘(Poon)と初めてETA機械式ムーブの商談をしたのは98年の末だった。

そのころクオーツはオープン市場だったが機械式ムーブはかなり壁が高かった。

購入するにはブランド申請とスイス本社の審査が必要、しかも外装組立はスイスの指定3社で行ってスイスメイドにすること、さらにローターには(有償で)ブランド名を入れることが条件となっていた。安売りを未然に防ぐのだという。

いかにもプライドの高いスイスの会社だなと敷居の高さに驚いた。

 

しかし、この高価でなかなか手に入らないステータスとしてのETA自動巻きムーブを搭載したKENTEX時計を作るのが私の目標となった。

 

一方でこのころ日本製機械式ムーブの選択肢はほとんどなかった。

シチズンが8215などの82系自動巻きをわずかに外販していたがセイコーは内部で反対の声があったようでまだ外販はしていなかった。

私はTM(タイムモジュール)に早くから要望していた一人だが99年4月にTMの渡井氏が小林氏の後任として挨拶に来られた時点でようやく70系の自動巻きを販売開始する情報をもらった。

 

KENTEXの理念生まれる?

 

かつての日本企業が目指した“より多くの人に安く提供する”という大量生産方式は戦後のモノ不足から昭和の時代までは美徳であり善であった。

しかし安価なモノが溢れる今日、それはもう善ではなくなった。

 

安物が出るとその下をくぐろうとする価格競争の世界。

2000年代初頭はまさにそんな時代だった。

それは自らの利益を削るばかりでなく企業の存続さえ危うくする。

この発想では企業イメージも上がらずイタリア、フランス、スイスにあるようなブランドは生まれない。

日本から高級ブランドがあまり生まれなかった背景がここにあるように思う。

 

欧州では昔からいいモノを長く使う文化がある。

安く造る発想から脱し、いかに魅力を加え、価値を高めるかという

“付加価値の高いものづくり”を志向することが大事なのではないか。

私はある時からそう思うようになった。

私の中でパラダイム転換が起こる。

 

使い捨てではなく“永く愛着の持てるもの”に人はその価値を認め代償を惜しまない。

そしてブランドの信用も築いていける。

それがKENTEXの進むべき道ではないか。

 

この時点での実力からすればそれは遠い夢物語で現実的ではない。

 

が、この考えは私のKENTEXウォッチづくりの原点になっているように思う。

そこから“本物志向”という私の“思い(=理念)”が生まれてくる。

 

KENTEX自動巻きモデルS153M ESPY誕生

 

KENTEX時計は99年に初期モデルが一通り揃ったがそれらは特別な思いやこだわりもなく拙速に造った感があった。

99年半ばにさしかかったころ、ミレニアム2000を記念したKentexのフラッグシップとなるモデルを作りたいという思いで開発をスタート、ここからディテールへのこだわりが始まった。

 

ムーブはETA自動巻きが入手困難なので国産自動巻き8215を採用、ケースは長く愛用できる定番を目指し以前製作したシンプルで美しく、飽きの来ないデザインのS153Mを選んだ。

バンドは落ち着いたデザインの5列のソリッド、ダイアルは深みのあるややシャンペンがかったシルバー、ブラックエナメル、グラデーションつきブルーの高級感ある三色とした。

ダイアルのKENTEXロゴは植え略字とするために新規に型を製作、またKのスペルをデザインしたオリジナル秒針を製作した。

ムーブの見えるスケルトンバック仕様にしてガラスにMillenium2000 Limited Editionを印刷した。

今では当たり前になったが当時としてはこれでもかなりのこだわりでローターにもこだわった。

外販用8215のローターは以前にSCUDO生産でシチズンから供給された8200とは大違いでタングステン焼結の粗い仕上げのまま、高級感がなくそのままでは不満足。

いろいろ試行錯誤した結果、パラジウムめっきをかけることできれいな光沢とし、さらにレーザーでKENTEX、Japanマーク、Kマークの模様、ほかに個別製造番号を入れた。

シチズン香港駐在の日本人ムーブ営業担当がここまでやるメーカーはいないとあきれていたがきれいになったローターを見て感心していた。

 

こうしてこだわりがふんだんに盛り込まれた初のESPYはミレニアム直前の99年11月に発売を開始した。

KENTEXの代名詞ともなった“こだわり”はまさにこのモデルから始まったと言っても過言ではない。

 

新シリーズESPY誕生について;

自動巻きモデルとしては98年S122M ですでに”Confidence”を使用していたがその上位に位置づけるフラッグシップシリーズとしデザイン的にはConfidenceのスポーツに対してエレガンス系のテイストを持つクラシックシリーズとしたかった。

ESPYという名前はあまり耳慣れない言葉だが辞書を眺めてふとESPYという文字が目に入り意味は”ふと見つける“とある、これだと思いブランド登録を申請した。

 

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  99年末 ”ウォッチアゴーゴー”の1/3ページ広告(右)

 

国内営業の強化

 

Kentexの国内での販売開始当初は鈴木さんが一人でOEMのフォローをこなしながらハンズやオンタイムなどの道を開いてくれた。

99年11月、販売力強化のため営業の求人リクルートを出し10名ほど面接し2名を採用した。

一人は地方から出てきて東京で働き営業経験も全くない素人、当時27歳の中村君でどんな仕事でもやりますとチャレンジ意欲を感じて採用。

もう一人は時計営業経験者の小座間君34歳で彼には営業のリーダー格を期待した。

販売の下地が出来、ようやく国内市場開拓を実質的にスタートした。

 

2000年1月、小座間君からAction20と銘打ったKentex売り上げ拡大計画書が出てきた。

このころ平均単価は上代で2万円以下で数量は通販、店舗卸合わせても月90個に届かなかったが9月までに月300個、そして100店舗開拓というなんとも経営者喜ばせの強気の数字が並んでいた。

私はまんざらでもなかったがいざ活動開始、ふたを開けてみると果たしていっこうに数字が伸びずに9月になっても目標には遠く及ばなかった。

現実は思ったほど簡単ではなかった。

デフレ不況の中でほとんど無名の時計を店に置いてもらうのは誰がやっても難しかっただろう。

 

その後小座間君は居づらくなりしばらくして会社を離れることになってしまった。

ブランドの知名度、ブランド力を無視した計画だったことが災いした。

無名のブランドをゼロから立ち上げるのは生易しいものではない。

現実を目にして私は厳しさを実感した。

 

 

KENTEXレディスの開発

 

2000年1月早々、鈴木さんのアポ取りで丸井の事務所に杉村氏を訪問しKENTEXウォッチをプレゼンテーションする機会を得た。

その場で杉村氏は、メンズは絞りたいほどあり丸井は7割が女性客なので男物よりレディスが欲しいと言われた。

オンタイムでも同様の反応がありこの時KENTEXレディスを開発することにした。

若い層をターゲットに上代1万から2万円想定の新model企画をスタート。

当時アニエスBが人気でモノトーン基調のシンプルなデザインを狙った。

 

デザイナーと共にトレンドを探りながら、S122L、S251B、S257Bの3型をデザイン、3針タイプをメインにクロノや自動巻きを入れ計14REF.を製作し5月に発売開始した。

6月に再度丸井を訪問、案内したところ出来が良く時計屋のモノづくりと評価され8月から試験的にスタートすることになった。

新口座は難しいということで問屋として元林を紹介された。

 

その後オンタイムを訪問、星氏や女性バイヤーと面会した。

彼らは時計離れの中で苦戦中でもありここでの評価は手厳しかった。

もっとデザインで勝負した方が良い? ロレックスタイプはおばちゃん相手?

など、そうは問屋が卸さなかった。

有名ブランドならともかく時計の品質うんぬんよりファッション性と流行が命のレディス市場はKENTEXのコンセプトとは相いれないところがあった。

その年2000年3月のバーゼルフェアでそのコレクションを披露した。

デザインは高く評価されたが価格面で他の安いメーカーと比較されやはりレディスは当社の強みではないと思った。

 

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  2000年3月 バーゼルフェアでのKENTEXブース

 

ETA自動巻きS122M-Confidence発売

 

2000年4月、イタリアAdrianoからスイスETA2824を搭載した高級バージョンを造る話が持ち上がった。

KENTEXウォッチではこれまでで最高仕様のモデルとなる。

 

ケースは以前に8215搭載でOEM製作した人気の定番デザインS122Mとし、サファイアクリスタル採用でケース9時側にKENTEXロゴをレーザーマーキング。

ダイアルは高級品に使う天然貝パールをベースにインデックスはアラビアとローマの二種。

2824ムーブは香港のブローカーから購入した。

私は日本向けに40個を上乗せ生産、「日本で40個発売の世界限定!」と銘打ち、7月に時計誌“腕時計王”に1ページ掲載したところただちに強い反響があった。

ETA自動巻きながら38000円(税抜き)という価格が受けてか1か月で完売するヒットになった。

以前同じケースで製作した8215搭載モデルとの反応の違いにあらためてETAムーブの人気とそのブランド力に感心した。

 

S255M SKYMAN2の発売

 

2000年5月、インテック高橋社長とP店向けにKENTEXブランドで造る企画を進め、S255M3針day dateの5Ref.で500個を製作、好評につき第二弾を500、計1000個を生産した。

 

これをベースに8月に自社発売用としてスイス製クロノグラフ(クオーツ)を搭載したSKYMAN2クロノを製作、2000年末に発売開始した。

シンプルでユニークなデザインの40ミリケースで特徴のある六角リューズ。

ダイアルにブラックカーボンを採用、バンド中央列に黒色の繊維入り強化プラスティックを配し、ステンレスとのコントラストと黒を基調とした絶妙なバランスで精悍な印象のモデルとなった。

 

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   S255M Skyman 2 Chrono(下)とS143M Skyman(上)

 

 

2000年9月のHKフェアではこだわりの詰まったKentexラインアップが揃ってきた。

S122Mコンフィデンス、S143Mスカイマン, S153Mエスパイ, S255Mスカイマン2などが一堂に並ぶと個々のモデルだけでは感じないブランドの顔と個性を主張するようになりフェアでの客の反応が変わって来た。

 

アメリカのインポーターが関心を持ちS255Mなどトライアルオーダーが入った。

また韓国から来たという若い時計輸入業者がなぜかKentexを知っていたようでその場でたくさんのKentexウォッチを購入(仕入れ)したので驚いた。

この頃になってようやくKentexを知り興味を持つ人が表れてきた。

 

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    KENTEX初期のあゆみ(97~2000)

 

ホームページの刷新強化

 

この時期ホームページも刷新する。

2000年3月、当時㈱セキサスドットコムの名刺で市原さんがウェブサイトの営業で来社されKENTEXホームページはアミューズメント性が乏しいという意見をもらった。

 

その後相談を重ね、こだわり、デザイン性、ファンクラブ、ニュースなどのアイデアを盛り込んだ新たなホームページを立ち上げることになった。

11月にライフスパイスとして独立した市原さんと売り上げアップを図るホームページづくりを議論、雑誌広告との連携、時計マニアページ、ネット営業、口コミ効果、ファンクラブアンケート、OEMページの作成などのアイデアを入れて大手とは一味違う個性あるページ作りをめざした。 

以降、市原さんのセンスでページが作られていくが時計の写真は主に私自身が撮影を担当した。

2001年1月には名機ETAムーブのこだわり、商品写真の拡大、3D(動画)、オーナーズボイス、デザイナーの一言、などのアイデアを盛り込みさらにページが充実。

このころには市原さん自身がKentexウォッチのファンになり熱が入ってきた。

オーナーズボイスは私のバーゼルフェアレポートなど自分で撮影した写真を入れながら記事を構成した。

 

市原さんは普通のサラリーマンには収まらない自由人で東大を出ていながら大手にも入らず作家になる夢を持ち、文章も得意ながら映像のセンスもいい、こだわりも強かったので私とは波長が合った。

 

この時期、時計誌広告代理の内田さんに加えホームページ制作の市原さんという二人の味方を得てKENTEXウォッチの発信力がついてきた。

 

クロックハウスOEM

 

先にも記したが、2000年前後はまさにKentexブランド、OEMともに多忙だった。

起業後10年が過ぎて会社の実力がつき世間にもKENTEXの名が知られてきたのだろう、国内に200店舗を超える時計ショップを持つ時計専門店チェーン、ザクロックハウスとの縁が始まる。

 

2000年3月のバーゼルフェアでクロックハウス(以下TCH)の大野禄太郎さん(現社長)、菊岡Mgr.が当社ブースに見えられた。

何を話したかは記録にないがたぶんその時は立ち話程度でその後、4月21日にTCH本社を訪問することになり社長室で当時の大野禄一郎社長(創業者)と庭野常務にお会いした。

 

大野社長は顔いっぱいの髭を生やし実直重厚な雰囲気の印象だったが根はやさしそうな感じを受けた。若いころアメリカを横断したときに起業を思い立ち日本一の時計専門店チェーンを一代で築いた人だ。

この時は長男の禄太郎さんがクロックハウスドットコムというネットを立ち上げていて当社からウォッチヘッドを仕入れたいという話のほかにオリジナル企画としてKentexとのダブルネームで時計を造る話もあったがその時は具体的な進展はなかった。

Kentexとはどんな社長なのか、人物の見定めといったところだったのか。

 

当時コカティアラの伊藤氏と一緒にTCHへのビジネス参入を目論んでいた時期だったので願ってもない話だった。

そのころTCHは主にセイコーシチズン、オリエントのほかに大沢商会など国内大手時計メーカーにオリジナル商品を製造委託していた。

 

その後2001年4月に急進展があり再訪問、TCHから正式にOEMの商談があり、三菱商事の部長、TCHの大野社長以下スタッフ同席のもとでSPA(製造直売型)を時計にも拡大したいという趣旨だった。

 

大野社長から三菱商事の力を借り、自社ブランドのオリジナル商品開発に本格的に入っていきたいと正式に依頼を受けた。

モノ作りは香港のメーカー二社(Kentexと他1社)を候補とし、企画は社員のアイデア活用と当社の既存型を利用する。

「当社(TCH)は販売のプロだがものづくりはKentexに全面的にお願いする」と言っていただいた。

このSPWプロジェクトは鈴木部長、録太郎さん、次男の耕二郎さんを入れた4人のほかに当時の花谷専務がリーダーとなり9月発売に向けて歯車が動き出した。

気になっていた商流はコカティアラ経由でなくダイレクトでやると念を押された。

 

4月に入り三菱商事の上野氏、TCHの鈴木部長、耕二郎さんが来港、当社の在型モデルからペアーケース、男女三モデルを選定し前に進めることになった。

翌日当社中国工場やケースメーカーなどを視察、この日は東莞にある東銀酒店に泊まりみんなでカラオケを楽しんだ。

 

2001年11月、TCHにて花谷専務以下プロジェクトのメンバーとLeneo、Radic, Fregraなどの第二弾を企画。

それ以後、さらに本格的なTCHオリジナル商品展開へとOEMビジネスが拡大していく。

 

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2000年3月 バーゼルフェア TCH 大野禄太郎氏ほか

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2000年9月HKフェアで;ザクロックハウスの花谷専務、大野禄太郎氏、ほか 

 

 

最後に、私事について触れたい。

 

2000年前後は公私ともに多くの出来事があった。

 

仕事も順調にいっていたので98年末頃、東京に近い新浦安に陽当たりのいい中古住宅を購入した。

50坪を超える物件で庭もあったので翌年2月に造園をいれ庭木や門構えも整ったところで母や兄夫婦たちを呼んだ。

母は「たいしたもんだねえ」と喜んでくれた。

だがこれが母フキとの最期の機会になった。

 

2000年4月13日私が香港にいる時に母危篤との連絡が入った。

このころ仕事が忙しかったので翌日の便で戻らず二日後の15日、JL736便で日本に向かう途中、母は逝ってしまった。

90歳の往生だった。

死に目には会えなかったが、夕方近くになって柩に収まった母と再会した。

母の体に触れるとドライアイスで冷たくなっていて何とも言えない気持ちだった。

 

昭和24年、まだ二歳になったばかりの末っ子の私を含め5人の子を抱えて夫に先立たれた母の心境はいかばかりだったか。

”憲治をおぶって線路を歩いたことがある”と一度だけつぶやいたことがある。

強い母でなかったら今の私はいない。

当時は中学から社会人になるのが半分ほどいたと思うが余裕はないにもかかわらず私を高校まで行かせてくれた。

私はその母親に何の恩返しが出来たのだろうか。

 

17日通夜は久しぶりに集まった親戚とにぎやかに過ごしたが翌18日の葬儀告別式になると溢れる涙をこらえるのが精いっぱいだった。

 その後火葬場でばらばらになった骨を家族が一人ずつ順番に骨壺に入れるころには涙も枯れすっかり心も晴れていた。

 

ちょうどこの春に次男直樹が早稲田高校から早稲田大学に入学が決まり、食事会の席上で親戚の皆さんに報告できたことは良かった。

栃木県鹿沼市御殿山の満開の桜の花に囲まれた食事会場はほんのり酔いも回ってとても居心地が良かったのを覚えている。

 

 

 

  

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   2000年9月 HKフェアブース  ドウシシャほか

 

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   2000年2月 KentexTime 新春パーティ

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      イタリアベネチアのADRIANOブティック