私の履歴書 第二十回 ケンテックス陸海空のシリーズ化と高い完成度
21世紀の初め、日本では小泉劇場が始まった。
2001年4月小泉純一郎が自民党総裁選で圧勝、「自民党をぶっ壊す」「改革なくして成長なし」と分かりやすいメッセージで人気を呼んだ。
大相撲夏場所で22回目の優勝を飾った横綱貴乃花への賛辞「感動した!」は流行語ともなった。
2001年9月には前代未聞の出来事がアメリカで起こった。
テロリストが乗った飛行機が世界貿易センターと国防総省に突っ込む同時テロが発生、このとき香港ウォッチフェアの最中でフランスのOEM客と夕食中だったが突然テレビで飛行機が突っ込むシーンが放映され仰天した。
2002年には小泉首相が北朝鮮を電撃訪問、拉致被害者が24年ぶりに帰国した。
松井秀喜がニューヨークヤンキーズに入団したのもこの年、このころインターネットが一般に普及し2チャンネルが台頭した。
2003年、香港でSARSが流行、中国深圳で発生したSARSが香港、台湾に広がり香港では約1700名が感染、うち300名近い死者が出る高い死亡率で香港市民は恐怖に震えた。
カナダ、米国、ドイツなどにも広がったがなぜか日本では一人も感染者が出なかったので“日本人の味噌汁が原因では”という説も出た。
2004年はアテネ五輪で史上最多の37個のメダルを獲得、うち16個が金というメダルラッシュとなった。
平泳ぎの北島康介、柔道の谷亮子、野村忠広、女子レスリングの吉田、伊調など五輪連覇の猛者が揃っていた。
北島康介の“チョー気持ちいい”谷亮子の”田村でも金、谷でも金“が話題になった。
さて、この時代のKentexの動きを振り返ってみたい。
98年に始まった自社ブランドKentexは、2000年までの数年間はまだOEM感覚の延長だったとも言えるだろう。
その後2001年から2005年にかけての5年間はコンセプトも固まり上を目指して意欲的に新モデルを開発した。
スイスブランドをお手本に、いい時計を造りたいという強い思いで毎回手掛ける新モデルに力が入った。
そして、それに応えるように次第にケンテックスのファンが増え、応援のメールや「満足し大いに感動した」といううれしい手紙もいただくようになった。
Kentexというブランドがささやかに花開き始めた時期と言えるだろう。
先人の優れたデザインや機能を学び、自分の感性を頼りにものづくりを繰り返してきた。
当然ながらそこに私の好みや個性が出てくるがありがたいことにそれに呼応してくれる人がいる。
ブランドというのはそういうものだろう。
複数の人間がプロデュースすれば個性は平均化し薄れていく。
メジャーブランドはともかく、マイナーなブランドは個性があってこそ、そこに魅力を感じるファンも現れる。
一方でマイナーブランドは市場が小さく、生みの苦しみもずいぶん味わった。
当時、香港や中国ではOEMビジネスが活況でケースやバンドなどの部品メーカーは数量の多いものを歓迎し優先した。
社内では数量で9割を占めていたOEMビジネスに対してKentexビジネスはロットが小さく担当者泣かせだった。
Kentexの注文数では足りずOEMと抱き合わせでやってもらうことも少なくなかった。
“あれは社長の趣味だから“と陰口を叩かれることもあったが、いつか香港のOEMビジネスが減少するときが来るという自分なりの危機感もあって自社ブランドビジネスを目指した。
2001年から2005年にかけて熱い思いで数々の新技術要素に挑戦、スタッフのサポートのおかげでデザインや技術面でも急速にレベルが上がり質のいい完成度の高い時計が生まれるようになった。
この頃開発したモデルはKentexの基本的なスタイルと個性を形づくったと言える。
2005年までを一区切りとして毎年連発した新モデルを並べると以下になる。
2001年;
・S296Mマリンマン(初)ダイバー(ETA2824自動巻きとクオーツクロノ)、
・S294Mランドマン2(ETA2824とクオーツデイト)、
・S295Mスカイマン3(スイスクオーツクロノ)、
・S122Mコンフィデンス(ETA2824搭載)のシリーズ化開始
・第二ブランド“IZM”発売スタート
2002年;
・S332Mマリンマン2(国産自動巻きとクオーツクロノ)、
・S294Xランドマン2(バルジュー7750とクオーツクロノ)
2003年;
・S368Xスカイマン4 回転計算尺パイロット(バルジュー7750とクオーツクロノ)、
・S349Mエスパイ2 クラシックデイト(ETA2824)
2004年;
・S409Xランドマン3超耐磁時計、
・S455M陸海空自衛隊時計(JSDF)スタート。
2005年
・E410M トウールビヨン(日本ブランド初)
バーゼルフェアで話題、日本の時計業界を沸かした。
あの有名な独立時計師フィリップデュフォーさんが突然ケンテックスブースに来訪。
これら一つ一つに作り手としての思い出がある。
この章では各モデルを今一度振り返りブランド草創期の歴史として留めておきたい。
陸海空のシリーズ化
2001年はKentex陸海空のコンセプトが生れた年であった。
正月明けて間もなく、サーティーズ内田氏と企画の話をしていた折りにスポーツ系を陸、海、空のシリーズとするアイデアが浮かんだ。
それまでスカイマン2モデルとミリタリー1モデルが存在していたがまだ陸海空というコンセプトではなかった。
ここであらためて各コンセプトを定義づけた。
・陸;Landman
ミリタリー系を中心に堅牢でタフな耐久性と瞬時に読み取れる視認性を重視。
・海;Marineman
高精度かつ堅牢なダイバー時計として20気圧以上の高い防水性能と視認性を重視。
・空;Skyman
スタイリッシュなデザインと優れた機能でプロユースに応える本格パイロットウォッチ。
ちなみに海は当初「Seaman」を考えたがすでに登録されていたので「Marineman」となった。
2001年3月のバーゼルフェアにあわせて陸海空各シリーズの新モデル計画をたて出版社向けリリースを作成、この年腕時計王などに“ケンテックスの陸海空ライン”を発表した。
2001年のバーゼルフェアでは日頃日本KJで頑張っている家内にケンテックスブースを視察してもらいその足で3日ほどスイスを観光することにした。
94年に子供たちの進学を機に家族が日本に戻ってから再び香港での単身生活、仕事で頻繁に帰国はしていたがやはり普段のコミュニケーション不足を感じていた。
フェアの後、スイスのルツエルン、ピラタス山などを二人で観光した。
初のマリンマン、S296Mダイバー
2001年6月に海シリーズ第一弾となるS296MをETA2824自動巻きとクオーツの二機種で同時発売、ここで陸海空のシリーズが出揃った。
この頃よりあこがれのスイス高級自動巻きETA2824の搭載が増える。
ダイバー時計は逆回転防止ベゼル、高圧防水性の確保など、設計、製造に時間がかかり開発の負荷が大きいのでモデル数はどうしても少なくなる。
またダイバーはファッション時計と違いメーカーの技術力がもろに出る。
ETAムーブ搭載のモデルには文字板に赤い文字でPr. (プロフェッシルョナル)と入れクオーツと区別した。
自動巻き;SS20気圧ダイバー 青とブラックダイアルの各100個(200個) 35000円(税抜き)クロノグラフ;SS20気圧 3Ref 300個 23000円
S294M ランドマン2
2001年12月、ランドマン第二弾をETA2824自動巻きとクオーツの二機種で同時発売。
ランドマン2の開発に際してネットを通じてユーザーの希望を聞くアイデアを試みた。
「100M防水」と「回転ベゼルつき」を決定仕様としてムーブとベルトの希望をホームページの掲示板で募ったところ「社長が直接ユーザーのアイデアを募るのは画期的で感動しました」とある人から連絡があり仕様、限定数、価格、売り方まで時計マニアをくすぐる説得力のあるアイデアをいただいた。
おそらく時計関連の仕事をされていた方と思うが参考になり後に“限定のKentex”と言われる私の商品企画にも影響を与えた。
最終的にはこの提案に近い形で完成、
ETA2824自動巻きのカーフベルトつき、Natoタイプとラバーのベルトをオリジナルウォッチケースに添付し限定200個で価格は36000円(税抜き)。
あわせてクオーツバージョンもNatoベルト付で同時発売した(13000円)。
後にリクエストに応えてETA2840のメタルバンドバージョンを追加、皮ベルトを革製のケンテックスオリジナルケースに入れて200個限定、2002年3月に39500円(税抜き)で発売した。
S295Mスカイマン3
それまとは打って変わり、流れるようなケースと縦方向にカーブした立体的なガラスがスタイリシュでモダンなデザインとなった。
スイスISAのクオーツ2機種で2001年末に発売。
- S295M-TBK スカイマン3(アラームトラベルGMT)
2001年11月発売 28000円
パワーインジケーターつき、200個限定 ブラックカーボンダイアル
- S295M-CBK スカイマン3(アラームクロノグラフ)
2001年12月 発売 24000円
アラーム設定機能つき、250個限定
●このころ日本の時計市場は極めて厳しい状況にあった。
OEM顧客の話ではGMSで1万円が売れなくなり5000円以下がメインに。
名前のあるブランドでも価格が下へシフトしていた。
セイコー、シチズンなどの国産時計メーカーも苦しい状況が続き量販店やディスカウンターでの販売が急拡大していた。
2001年HKフェアのセミナーで日本の小売店を代表してTCH花谷氏のスピーチがあった。
時計小売店の減少(20年前の25000店⇒2001年、7000店)とディスカウンターの増加、そして国産メーカーが新製品を量販店に出す(依存している)のは戦略の間違いだと指摘し、差別化した商品戦略の重要性とポピュラープライスチェーンの展開を話された。
規模を大幅に縮小した元大手ケースメーカーの社長から日本の状況が厳しいので香港、中国との道を探りたいと悲鳴に近い連絡が私にあったのもこの時期だ。
私がもといた古巣、セイコーインスツルではこのときリストラが行われていた。
この年のHKフェアでは日本から出張した内田氏、KJの鈴木、中村そして香港の矢野、橋本が集まり陸海空シリーズの企画をみんなでブレーンストーミングした。
第二ブランド”IZM”発売
市場が低価格にシフトし量販店の販売が勢いを増しているなかでケンテックスはディスカウンターへの流通を避け時計専門店での正価販売を貫いていたが数量的には伸び悩んでいた。
そこでケンテックスとは路線を変えた量販店向け商品「IZM」の発売を計画、
「若者対象の都会的で洗練されたデザインとこなれた価格のメイドインジャパン」をコンセプトとした。
カタログを作成、2001年のHKフェアで出品し国内ではリコーエレメックスに歓迎され卸を引き受けていただき2001年末からビッグカメラなどの量販店で販売した。
そこそこ売れ何年か続いたが低価格の競合他社商品が溢れる中でそれらを駆逐するほどの独自のインパクトがないことや後続の新モデルも出さなかったので後に終了した。
量販店では価格の優位性が評価されるのでその点では目立った存在になれなかったが逆にケンテックスというメーカーブランドの尖った個性や質の高さという独自の可能性をあらためて見直すきっかけになり以降さらに上位の高品質時計づくりに集中するようになる。
2002年1月に東京茅場町のオフィスが手狭になったので御徒町駅からほど近いところに引っ越した。
ようやく10名分程度の机と、他に倉庫スペースと会議スペースを確保できるようになった。
同年2月、ケンテックスを販売しているお店を中村君と訪問したが評判はよかった。
東急ハンズ池袋の店長さんからはフラッグシップモデルを待望するマニアがいるとか、個性ある時計を揃える池袋の時計店スギヤマの社長からは30代後半から50代のコアなケンテックスファンがいると聞き、着々と増えるファンを実感し意欲が湧いてきた。
2002年、東京ギフトショーに出展後、休む間もなく4月のバーゼルフェアに出展した。
ケンテックスの陸海空モデルが揃い、個性と統一感のあるディスプレイでヨーロッパの時計業者にケンテックスのアピールが出来た。
フェアでは腕時計王の取材をこなし三菱商事高見さん、TCH花谷社長、鈴木、大野さんらと合流、TCHのOEMビジネスは勢いを増していたがこの時花谷社長からKentex(OEM)の品質はトップ3に入るとうれしい言葉を頂戴した。
S332Mマリンマン2
マリンマン第二弾となるS332Mダイバーを2002年5月に発売。
スタイリシュなS295Mスカイマンに回転ベゼルをつけたイメージの立体的なデザイン。
20気圧防水仕様でベルトはケースとの一体感を強調したラバーを装着。
クオーツ二機種、デイト16000円(税抜き)とクロノグラフ24000円(税抜き)で発売。
翌年にオレンジベゼルとメタルバンドを追加した。
S294X-7750 ランドマン2プロ7750
2002年12月にケンテックス初の7750搭載モデルS294X-7750を発売。
ETA2824のさらに上を目指して機械式クロノの傑作と言われる垂涎の名機、バルジュー7750に挑戦した。
ミリタリー調のケースで迫力のある41ミリ(ベゼル)でサファイヤクリスタルつき。
黒のマット仕上げの精悍な文字板でアラビア、バーのインデックス各50個。
01/50~からのシリアルナンバーつきですべてのモデルに個別の歩度証明書をつけた。
スペアのカーフベルトつき、本塗りの黒の高級木箱入りで145000円(税抜き)。
ETA社クオーツクロノ搭載の普及版が29000円(税抜き)
S122M コンフィデンスシリーズ
陸海空シリーズとは別にスポーツクラシック系として人気の高かったS122Mコンフィデンスシリーズがある。
2000年にイタリア、アドリアーノ向けに製作したS122M ETA2824搭載限定モデル40個(38000円)に希望者が殺到、瞬時に完売となり幻のモデルと言われたがその後ファンの要望に応えて2001年6月にシルバー型打ち模様と白ラップの2種で各50個を限定発売した。
ケースサイドにKentexの文字を刻印、36000円と抑えたためこれも完売となり以後年一回の限定Confidenceシリーズとなった。
2002年はアドリアーノコラボモデルを復活、MOP(天然貝パール)を採用しケース横にAdrianoを刻印、アラビア、ローマ、バーの3種類のインデックスを各100個、同時に販売したブラックMOP、天然ダイヤ11ポイントの88個特別限定バージョン(50000円)が大きな人気を呼んだ。
その後も2003年、2004年とダイアルをリファインしてシリーズを継続した。
振り返ればブラックMOPとダイヤを取り込んだ個性あるダイアルが特に人気を集めた。
Confidenceシリーズはシンプルで完成された定番ケース、定評あるETA2824搭載、そして個性あるユニークな文字板、この三つがうまくかみ合ったことで時計ファンの心をとらえたと思う。
このシリーズは2004で終了した。
上海国際鍾表展(ウォッチ&クロックフェア)
2002年10月、上海で時計フェアが開催されるというので中国の時計市場の視察を兼ねて陳と出張した。
中国の景気拡大と旺盛な消費市場を背景に中国内の深圳や上海の新興ブランドがいかにも高いんだぞ!と高価格を印象づける展示が目立っていたが日本人が敬遠するようなデザインが並んでいて日本との大きな違いを感じた。
内田さんやケントレーディングの佐藤さんらと上海で合流し夕食を共にしたがこのころはまだ香港に比べてかなり割安な値段で美味しいものが食べられた。
以前に邱永漢が上海の「新天地」には流行の最先端があると本の中で書いていたので寄ってみたがその一角だけ当時の香港を超えるようなモダンな店が並んでいて驚いた。
翌年、二回目のフェアも視察したがこの年はスイスなどの有名ブランドが軒並み引いてしまったため寂しいフェアの印象となり上海でのウォッチフェアはその後トーンダウンしてしまったようだ。
中国市場は潜在力のあるマーケットとしていつも注目していたがいざ市場に入ろうとすると現実の壁がたくさんある。
同じ東洋人の顔をしているが文化と価値観の違いは大きく日本人の倫理感と商売感覚ではなかなかついていけないことが多い。
大きな投資と思い切った割り切りがないとなかなか前には進めない。
何度か中国市場開拓を前向きに検討したことがあるが知れば知るほど中途半端な気持ちでは手を出さないほうがいいというのが私の実感である。
S349Xエスパイ-7750
バルジュー7750を搭載した重厚で気品のあるクラシックモデルS349Xエスパイ7750を2003年6月に発売。
その前年4月のバーゼルフェアで、あるスイスブランドのモデルに目が留まった。
落ち着いた風格とクラシックな文字板、美しいケース、全体に気品と重厚な高級感がありこれまでに見た時計とは何か違うものを感じ強く印象に残った。
くまなく眺め、こういうフラッグシップモデルを造りたいとフェア中何度も足を運んだ。
幸いカタログを入手できたので香港に戻ってからその魅力を解明しようとした。
ケースのサイズ感とバランス、ベゼルの厚みと比率、それらが美しいダイアルとマッチして気品と風格を醸し出しているのだろう。そしてやや幅広で角度のあるベゼルが重厚な雰囲気を醸し出しているように思えた。
そのイメージをもとに私がラフスケッチを起こしLamが詳細を詰めサンプル製作を進めた。2002年9月のHKフェアに出品、高級感溢れる時計は来場者の目に留まり、ケンテックスのブランドイメージを高めた。
11月、当社工場で社内説明会を行いこのバルジュー7750搭載の最上位モデルを造ると宣言、最高レベルの品質に向けて品質基準など詳細の方向付けを行った。
その後2003年3月に再サンプルを確認後本生産に入る。
サティンとミラーの落ち着いたケース、風防は無反射コーティングが施された視認性が高い両面カーブのサファイアクリスタル。
クロノ操作のプッシャーはあえて製造困難な角ボタンにこだわった。
高級ダイアルメーカー“億昌”の繊細で美しい放射のギョーシェ(型打ち模様)を採用、シャンペンを帯びたシルバーにローマンインデックスを肉盛り印刷した。
もう一つはブラックのラップ仕上げに肉盛りめっきでアラビアの文字を浮き上がらせた。
丸みを帯びた菊リュウズの頭には天然のブルーサファイアを埋め込み、クラシック感のある針は薄緑の蓄光と黒のフレームが程よいアクセントでダイアルとの相性も良い。
秒針はケンテックスオリジナルデザインでKのロゴマークを入れた。
品のよい五列の無垢ベルトでアジャスト部はすべてねじ式を採用、バックルは無垢の観音開きとした。
スイス高級品並みのスペックが揃いケンテックス最上位モデルが出来上がった。
シルバーとブラックのダイアル各40個の超限定品。
本ワニ革のベルトを標準付属品としベルジョンのルーペ、ドライバー、クロスなどのツールセットを黒塗りのオリジナル高級木箱に入れて2003年6月に25万円(税抜き)で発売した。
これだけの仕様であれば名の知れたスイスブランドなら70万円以上の値がつくと思うがこの時点のケンテックスブランドではこの値付けが精いっぱいだった。
これだけの手間とコストから判断すれば商売として成り立っていないがあのバーゼルで出会った感動の時計を造りたい勢いでここまでやってしまったのは職人気質の自己満足と言われても仕方がない。
ただケンテックスの品質水準を一気に引き上げた逸品であることは間違いない。
ずっと後に、超実用時計のフラッグシップモデルとしてS526X-7750クラフツマンが世に出るが時計の美しさという点においてはこのモデルが私の頂点に位置する。
私に一つだけ選べと言われたらこのエスパイ7750を選ぶだろう。
このころ長男心哉がすでに社会人となっていたがこの時計を大いに気に入り自分から「買いたい」と言い出し自腹で買ってくれたのはうれしかった。
SARS騒動
2003年4月には冒頭で記したように新型肺炎SARSが香港で流行しスイスバーゼルフェアが台無しになった。
予定通りバーゼルに出張しブースをオープンするまでは良かったがその翌日、フェア事務局から対面でのビジネスをしてはいけないと突然の通達が出た。
HKTDCはこれに不満を示しフェア事務局と連日話し合いを持ったがWHOの後押しもあってか結局決裂となり我々は途中で香港に戻ってきた。
その後HKTDCとバーゼルフェア当局との間で裁判沙汰となりブース費用全額と一部賠償が戻ってきたがHK勢にとっては準備したすべてがパーになり後味の悪いフェアとなった。
香港人口720万人のうちわずか1750名の感染(感染率は0.025%)ではあったが香港居住者がバイ菌のように扱われてしまい不愉快な思いをした。
ちなみに日本に戻った時にも家族から家に来ないでと敬遠され数日間九十九里の宿で過ごした。
その時は入国時の検疫もなく1週間程度の自主隔離ですんでいたが幸いCOVID19のようなパンデミックにはならなかった。
S368Xスカイマン4回転計算尺モデル
2002年から2003年にかけてバルジュー7750搭載モデルが一気に花開いた。
2003年10月に回転計算尺機能付きのスカイマン4-7750モデルとクオーツバージョンを同時発売した。
S368Xはダイアルの目盛りと回転ベゼルの目盛りを合わせて簡易計算尺機能となるがこのモデルのすごさは回転ベゼルの目盛りが風防の下にあること(ブライトリングと同じ)。 だがその分構造が複雑で防水性などケース製造に苦労した。
このS368Xスカイマン4回転計算尺機能付きモデルの開発秘話がある。
2002年4月にヘリコプターと固定翼機のパイロットをしているという方からメールをもらった。「陸海空といいながら空に回転計算尺搭載モデルがないのは片手落ちではないですか」、そして国産にはブライトリングを超えるものがないのでぜひケンテックスから世に出してほしいと具体的なスペックの要望があった。
・目盛りと数字は極力大きくする。(振動の大きい機内では読み取りにくい)
・盤面は風防下に保護されるのが望ましい(傷により読み取れなくなる)
・内側目盛りと外側目盛りの段差をなくす(段があると正確に読めない)
5月にI氏と大宮でお会いした。
仙台在住の海上保安庁レスキューのパイロットで身分は明かさないでほしいと言われたが実際に飛行中に使用しているシチズンの回転計算尺つき腕時計を見せてくれた。
確かにベゼルに傷がつき目盛りが読みにくくなっていた。
本来パイロット用のフライトコンピューターと呼ぶ専用の計算盤があるが飛行中の現場では頭の回転が半分以下になるそうで咄嗟に飛行距離と時間を知るために計算尺つき腕時計を使うのだという。
飛行中の振動があるので見易さや夜光性が大切とか、計器はノット表示が世界共通であるとかプロの現場の情報をいろいろ教えてもらった。
これが実用性の高いS368Xスカイマン4の開発につながる。
その後もスケッチやサンプル段階でアドバイスをいただき2003年4月にサンプルをバーゼルフェアで発表した。
デザインだけのパイロットウォッチなら簡単だが、プロが使えるレベルのものを目指したので目盛りの精度など満足するまで試作を繰り返し、本当にプロに使ってもらえる実用的な回転計算尺付きのパイロットウォッチが開発できた。
5月にクオーツの先行品をI氏にプレゼントし使い易さを確認してもらった。
9月にクオーツバージョン2モデルを先行発売(38000円)、10月に7750バージョン2モデルを発売(168000円)した。
このモデルはヒットシリーズとなりリピート製作(クオーツバージョン)、また後にブルーインパルスモデルにも転用された。
ただ製造が相当困難でその後ケースメーカーからリピートは勘弁と宣告されてしまった。
S349Mエスパイ2デイト
フラッグシップモデルS349Xエスパイ7750で極めた高い完成度をETA2824デイト版に凝縮径小化した姉妹モデルS349M を2003年12月に発売した。
ケース径を38ミリとしS349X同様、やや幅広の角度のあるベゼルで秀逸な高級感はそのまま引き継がれている。
“高級品を日常使いできる逸品”とうたった。
シルバーの繊細な型打ち模様とブラックのラップ仕上げでそれぞれにローマとアラビアのインデックスで計4モデルを発売。
スケルトンバックでクラシック感のある菊リューズの頭にはサファイアを埋め込んだ。
香港でのショップ販売
2003年6月、香港三越店1階の時計テナントショップでケンテックスの販売を始める。
セイコー時代から付き合いのあるケースメーカー泰興の社長王さんの紹介でケンテックスを委託でスタートすることになった。
販売目標は月5個だったが動き出すと意外に反応が良く月に10個程度が出るようになった。
香港三越は銅鑼湾(コーズウェイベイ)という最もにぎやかなところにあり場所も良く日本人の購入者もいた。
2003年8月には日本のOEM客L.S(レイジースーザン)の紹介で香港のLSコレクションと商談、1年委託、12店舗でスタートすることになった。
ただし専売が条件だということでせっかくの三越ショップとどちらを選ぶか迷ったが香港LSはSINNやTUTIMAなどのブランド品も置くセレクトショップでケンテックスのブランドイメージを上げたい思いで三越内のショップを諦めた。
何年か続いたが店舗数の割に思ったほど数字が伸びなかった。
営業活動が不足していたのも一因だが販売員は知名度のないKENTEXに関心はうすい。
以前にも香港の大手時計チェーンショップと委託販売の経験があったがお店には売り物がたくさんあり知名度のあるブランドか足の速いものをやはり商売上優先する。
もとよりブランドを共に育てることを店に期待するのは難しく現実的でない。
結局、その時計のコンセプトを良く知り、ブランドに愛着を持っている自分たちできちんと伝えられる直営店を持つのが正解なのではないかと思うようになった。
HKウォッチ&クロックフェア
HKウォッチフェアは毎年継続出展していたが2000年から2ユニットに拡大、ブース専門のデザイン会社に依頼し来場者の目に留まる洗練されたブースとなった。
2002.9月のHKフェアからはOEM中心のメインホールのほかにブランドギャラリーというブランドコーナーにもブースを持った。
この年ケンテックスの陸海空モデルが充実しエスパイ7750試作品もブースに展示、その圧倒的レベルの高さが時計商に注目され中国、ニュ―ヨーク、LAそして中国の客からもKentexのディストリビューター希望が入るようになった。
しかし、ものは揃ったが会社全体はまだOEM体制のまま、ブランド専任のスタッフも不在で海外マーケティング体制がなかったので思うように進まなかったが年毎にケンテックスの名を世界の時計業者にアピール出来た。
フェア後、日本から出張したKJのメンバー海老原氏と当時大学生だった直樹を中国工場へ案内、その機会に工場のリーダーを集めて自分の考えを説明した。
「時計の過剰生産による安物化の中で我々は量から質へ向かう、そして良いものを造れる工場であるためには品質管理とC.S意識が大切であること、そのうえでプロ意識を持つこと」と伝えた。
2003年9月のHKフェアを前にケンテックス初の冊子形式25ページのカタログを作成した。
トップページにS368Xスカイマン7750の拡大写真、キャッチコピーは”時代を超えた本物主義“とした。
陸海空のコンセプトとスカイマン、ランドマン、マリンマンの各モデル、皮ベルト、アフターについて、Specification(全モデルスペック一覧)そして最終ページに“ケンテックスのモノづくり”と題して私の思いと理念を入れた。
2003年のケンテックスブースは陸海空の各モデルのラインアップが充実し多くの時計関係者にケンテックスブランドの質の高さをアピール出来た。
一方KentexTimeのブース内で目立ち過ぎ、客はOEM用に開発したモデルに目が行かずケンテックスモデルをOEMにという客が増えてしまったのは想定外だった。
前年に続き2003年のHKフェアにも社会勉強のつもりで参加してもらった直樹は21歳の大学生だったが帰国後この時のフェアでのケンテックスの印象をこうメールしてきた。
“他のブースと比べてまとまりの良さ、バラツキのない統一感を強く感じる。斬新ではないけどそれが全体の重みを生みどこか知的なオーラを醸し出していて「おお、いい時計だ」と思わせるものがある。
流行を追わない一貫したモノづくりの姿勢のもとでそれが歴史と伝統を生み、個性になり、信用になり、やがて周囲が一目置く存在になるのだと思う。“
そしてラストに“やはりビジネスは魅力的で自分に合っている気がする“とあった。
よく観察していると感心した。
そして 知名度が上がりつつあるケンテックスとそれに熱を入れている父の仕事に興味がある様子が伺えた。
私は数日後に次の趣旨のメールを返した。
「ケンテックスの仕事に興味を持ってくれるのはうれしい。自分の仕事を子供に押し付けるつもりはないがここまでやって来たケンテックスを終わりにしてしまうのは残念だし、仮に息子が継いでくれればありがたい。
ただ時計は成長ビジネスではないこと、社長業は外から見るほど楽じゃないしその苦労はやった者しか分からない。
人は本当に好きな仕事であればどんな壁も乗り越えられるがそうでないとつらい時に持たない。本気でやってみたいと思うようになるまで時を待ったほうがよい」と伝えた。
2003年12月 アンケート調査実施
2003年の暮れ、増えて来たケンテックスファンがケンテックスにどう感じ何を期待しているのかを知る目的でクリスマスプレゼントアンケートと銘打って調査を行うことにした。
市原さんや中村君らと質問項目を考え抽選で二名にESPY2デイト、スカイマン4クオーツのプレゼントをうたったところ100名近いファンのメール回答が集まった。
いずれも時計好きそしてケンテックスファンでとても興味深いデータが集まった。
長くなるがこの頃のケンテックスユーザーの声が分かるのでここに記しておきたい。
・年齢;30代が中心、15歳から60代の方まで回答あり
・見ている時計誌;圧倒的に腕時計王(当社のメイン広告誌だったので)
・時計を何個もっているか;5個以内が一番多く、10個以内、10個以上が続く
・持っている時計;ケンテックス、セイコー、ロレックス、カシオ、オメガ、
シチズン、タグホイヤー、ハミルトンなどで他は多種多様なブランド
・その中で気に入っている時計;ケンテックス(スカイマン、コンフィデンス)ロレックス、オメガ、セイコー、タグホイヤー
・ケンテックスを持っているか;Yesが6割、Noが4割(持ってない人もアンケート回答)
・何を持っているか;スカイマン、ランドマン、コンフィデンス、エスパイの順だった。
・気に入った点;デザイン、コストパフォーマンス、自動巻き、価格以上の性能質感など。他に起業精神、ポリシー、こだわり感、ひとめぼれなど。
・改善してほしい点;ベルトの質感アップ、ショップを多くしてほしい
・ケンテックスのブランドイメージ;高性能でリーズナブル、高品質で適正価格、こだわりを持ったメーカー、良心的、コストパフォーマンス、まじめなメーカー、マニアックでよいデザイン、名前でなく質と実のメーカー、質実剛健、新進気鋭、シンプルでリーズナブル、など様々な意見があったがほとんどが肯定的に評価。
中には“人に教えたくないメーカー”というのもあった。
・デザインについて;5段階評価で上から二つ(大変良いと良い)に集中、・
・価格について;5段階評価で真ん中のリーズナブルと少し高いに集中。
・品質について;5段階評価で上から二つ(かなり満足と満足)に集中、普通が少し
・期待する価格帯;機械式は20万円未満で、特に6万未満と10万未満が多かった。
クオーツは5万円未満と特に3万円未満が多かった。
・今後の展開期待;機械式希望が8割、クオーツが2割
・シリーズで好きなもの;スカイマン、エスパイ、コンフィデンス、ランドマンの順
・ケンテックスのサービスは;5段階評価で良い、大変良い、普通の順
他に“商品展示会”、“全コレクションが見られる直営店”に多くの人が希望すると回答してくれた。
たくさんの人がいい評価をしてくれていることに素直に感動を覚えた。
ケンテックスを数個以上持っているという人も何人かいたがその中にケンテックスへの熱い思いを語る丹羽忍という27歳の青年がいた。
ランドマン2、スカイマン3、マリンマン2を各一個とスカイマン4をダイアル違いで二つ、計5個を保有するケンテックス大ファンだった。
彼のケンテックスイメージは“こだわりを持ったメーカー、コンセプトが明確、高いだけの時計と違い使う人に自信をくれる”そして、バイクに乗る日はランドマン、雨の日はマリンマン、遊びの時はスカイマンと日によって使い分けるという。
これほどケンテックスに惚れ込んでいる人もいるのかと造り手冥利に思った。
この時のアンケートはユーザーと造り手の距離を縮めることが出来たと思う。
ドイツミュンヘンフェア
・2004年2月にドイツミュンヘンで開催されたフェア(Inhorgenta Europa2004)に初めて出展した。
ケンテックスブランドとOEM客開拓を目的として私、陳、JoviそしてデザイナーのAlexの4名で出張、雪の積もる中でのフェアだった。
バーゼルフェアと違い香港から出展する会社はわずかだったがケンテックスのシンプルで質感のある時計はドイツをはじめとした北欧の人に大いに受けいくつかのディストリビューターから引き合いがあった。
ここで知り合ったドイツの会社KRAFTが当社に強い関心を示しKentexとパートナーを組みたいということになりその後OEM客として付き合うことになる。
翌年再び訪問した際にはKRAFTのRalfとパートナーThomasにドイツの古城を改装したレストランで鹿肉をごちそうになった。途中から降りだした雪がロマンチックな雰囲気となりみんなで歓声を上げたのがいい思い出になっている。
ツダカ商事事件
2004年3月、会社の存続にかかわるような事件が起こった。
この年KJの業績が良かったので年度末にKJスタッフみんなで上海に社員旅行した。
食事と観光を楽しんで日本に帰った翌々日の31日、鈴木さんがいつものようにツダカに連絡を取ろうとしたが何度入れても電話が通じないという。
もしかして、と不安がよぎったがその日のうちにツダカ商事倒産(自己破産申し立て)のニュースが時計業界に走った。
ツダカとはすべて手形でやっていた。
生産はすべて香港だが手形決済のためにKJ経由の国内取引としていた。
何か月も前の売掛金をすべて合わせると7000万円近い数字になる。
香港での仕掛かり分を入れれば被害はさらに大きくなる。
以前にも万世など経験はしていたが今回は規模が違う。
頭が真っ白になった。
もうダメかな…という思いがよぎったが深呼吸して落ち着きを取り戻した。
その日は役員三人で話し合い、翌4月1日に顧問税理士に来てもらい相談、その足で銀座の税理士知り合いの弁護士を訪問した。
弁護士からいずれ破産管財人が資産を換金して債権者に分配となるが会社も個人も自己破産なので期待は薄いと言われた。回収策や対応について細かいレクチャーを受けたがその道の素人にはあまり役に立たない。
思い起こせば前年後半から急激に注文が多くなった。香港に来社し矢野と商談、お互いOEMのプロであるが僅か数時間でいくつかのモデルを決めていた。
計画倒産の可能性もあるが立証は難しいと言われた。
4月2日付の破産宣告の通知が届く。
ツダカの客先には当社のOEM客とダブっているところもありTCHやインテックとも情報を交換した。
失敗のない経営などありえないが“何でこの会社が!”という思いは創業した頃肝炎にかかり“なんで自分が“と嘆いたその心境だ。
一週間ほどは食欲もなかったがその後次第に平静さを取り戻した。
命があればまだチャンスはある。すべてのことに無駄はない。
無理をせず焦らず気持ちにゆとりをもって生活を見直せという神様の示唆なのだと思った。
3年後にまた全員で海外旅行に行けるようやり直せばいい。
当然日本もきついが大きな被害は生産している香港側が実質的に被ることになる。
幸い蓄えた余力があったので持ちこたえられると判断、私は“何とかなる”と皆に伝えた。
その後、実際にKentex Timeはキャシュフローに苦心しながらも香港のベンダーにいっさいの迷惑をかけずにこれを乗り切った。
パートナーの陳初めスタッフにはよく頑張ってくれたと感謝したい。
後に情報通のインテックの高橋社長(故人)が被害の大きかったトップ4社はどこも連鎖倒産せずに頑張っていると感心していたが当社もその一社だ。
そのうちの一つトレモントの小林社長からツダカを計画倒産で訴えるので共同戦線しないかと誘われ乗ることにした。
彼はツダカの購買担当津田マネージャーとは同じ大阪で長い付き合いだったが何の情報もくれなかったと憤慨し裏切られた思いが募り訴える行動に出た。
KJの経理を仕切っていた家内が弁護士からいろんな書類や証明等の要求に追われ大変だとこぼしていたが結果的には計画倒産の判決は下りず敗訴した。
世の中に連鎖倒産した会社は少なくないだろうが“自分は落ち度がないのになぜ倒産しなければならないのか“という被害者の気持ちが良く分かる。
結局、商売というのは自分で自分の身を守らなければならない。
ここで得た教訓3つを手帳にメモしていた。
- 急に増える注文には気をつけろ
- 甘い仕事には罠がある。
- 断る勇気も時には必要。
そして以後、手形ビジネスはいっさい受けないことを社内の鉄則とした。
最後に
振り返ってみると2001年からの数年は矢継ぎ早に新モデルを開発しKENTEXブランドは急速に成長した。
知名度のあるライセンスブランドを安く量販店に卸して売り上げを伸ばす、そういった客先のビジネスもOEMで受けながら、ケンテックスはいっさいのディスカウントをせず正価販売を貫いた。
それゆえファンは出来つつも数量は思うように伸びず長い間歯がゆい思いをしてきたがそれは将来どこかで大きく花開かせるために地面の下で根を張る作業だったのかもしれない。
2004年から始まった自衛隊時計や2005年に発売したトウールビヨンなどもこの回で書く予定だったがずいぶん長くなってしまったので次回に廻したい。