2023 新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。
2023年は卯年になります。
兎年は飛躍や向上の年と言われ物事の終わりや始まりを告げる出来事が多くなるようです。
昨年は引き続きコロナが私たちの生活に大きな影響を与え、廃業や休業などを余儀なくされた方も多くいたと思います。
一方で次第に感染状況が好転し、コロナからの回復の兆しが見え始めた年でもあります。
今年は長いトンネルを抜けようやく本格的な脱コロナの年になることを願っています。
一方でゼロコロナから180度転換し、極端な放任政策で一気に感染爆発している中国の状況も気になります。
春節に向け中国人の大移動で新たな脅威が再び世界に及ばないか懸念される事態にもなっています。
XBB1.5という新たな変異株も米国あたりで見つかり感染拡大が始まっているのも気になりますがさほど大きな影響もなく世界が通常の経済活動に一刻も早く戻ることを願ってやみません。
世界は今、インフレと不景気が同時進行するスタグフレーションと言える状況です。
日本においても永年のデフレからようやく脱しインフレにシフトしつつある状況ですが相変わらず景気がいいと言える状況とは程遠い状態です。
昨年は為替において過去にない急激な円安が進行しエネルギーはじめモノの値段が上がりました。
輸入が輸出を上回る最近の日本にとっては多くの会社が影響を受けました。
この不況下では円安によるコストアップを価格引き上げでカバーすることもままならず苦しい状況に陥っている会社も多いと思います。
当社も昨年は円安による大きな影響を受けこれを乗り越えなければならない苦しい場面に遭遇しました。
一時は150円を超えたドル円も最近は130円台前半で落ち着いていますが今年の為替の成り行きがどうなるか注目されます。
今年はコロナに一喜一憂する時代から一刻も早くみんなが通常の経済活動に戻り、専念できる年になることを心から祈っています。
日本も含めて今は世界的に集団免疫が出来つつあるのではないでしょうか。
多くの方が経済活動に復帰し再び元気な日本を取り戻すことが出来るよう祈るばかりです。
皆様におかれましても今年一年健康で良い年でありますよう心からお祈りいたします。
追伸)
最近ある方から会長ブログが止まっているけど大丈夫?
というお問い合わせをいただきました。
また何人かの方からブログ ”私の履歴書”の更新を待っているというありがたい情報をいただきました。
私のようなどうでもいいような個人の履歴を興味を持って読んでくれている方もいるのだと改めてうれしくなりました。
ここにあらためて感謝します。
ただの怠けでブログの更新を怠っている次第です。
意外に時間とエネルギーがいるんです。
私は幸い年の割には元気に過ごしておりますのでご安心ください。
現役を離れてのんびりする時間が増えるとついなまけ癖がついてしまいます。
ご要望あることが分かりましたのでまたブログを更新するよう頑張ります。
2004年あたりからはいいよいよ自衛隊モデルや本格的なケンテックスフラッグシップモデルが世に出る時期ですのでここを書かないわけにはいきませんよね。
少し時間がかかるかもしれませんが気長に待っていただければ幸いです。
時折ブログを覗いていただければうれしいです。
私の履歴書 第二十回 ケンテックス陸海空のシリーズ化と高い完成度
21世紀の初め、日本では小泉劇場が始まった。
2001年4月小泉純一郎が自民党総裁選で圧勝、「自民党をぶっ壊す」「改革なくして成長なし」と分かりやすいメッセージで人気を呼んだ。
大相撲夏場所で22回目の優勝を飾った横綱貴乃花への賛辞「感動した!」は流行語ともなった。
2001年9月には前代未聞の出来事がアメリカで起こった。
テロリストが乗った飛行機が世界貿易センターと国防総省に突っ込む同時テロが発生、このとき香港ウォッチフェアの最中でフランスのOEM客と夕食中だったが突然テレビで飛行機が突っ込むシーンが放映され仰天した。
2002年には小泉首相が北朝鮮を電撃訪問、拉致被害者が24年ぶりに帰国した。
松井秀喜がニューヨークヤンキーズに入団したのもこの年、このころインターネットが一般に普及し2チャンネルが台頭した。
2003年、香港でSARSが流行、中国深圳で発生したSARSが香港、台湾に広がり香港では約1700名が感染、うち300名近い死者が出る高い死亡率で香港市民は恐怖に震えた。
カナダ、米国、ドイツなどにも広がったがなぜか日本では一人も感染者が出なかったので“日本人の味噌汁が原因では”という説も出た。
2004年はアテネ五輪で史上最多の37個のメダルを獲得、うち16個が金というメダルラッシュとなった。
平泳ぎの北島康介、柔道の谷亮子、野村忠広、女子レスリングの吉田、伊調など五輪連覇の猛者が揃っていた。
北島康介の“チョー気持ちいい”谷亮子の”田村でも金、谷でも金“が話題になった。
さて、この時代のKentexの動きを振り返ってみたい。
98年に始まった自社ブランドKentexは、2000年までの数年間はまだOEM感覚の延長だったとも言えるだろう。
その後2001年から2005年にかけての5年間はコンセプトも固まり上を目指して意欲的に新モデルを開発した。
スイスブランドをお手本に、いい時計を造りたいという強い思いで毎回手掛ける新モデルに力が入った。
そして、それに応えるように次第にケンテックスのファンが増え、応援のメールや「満足し大いに感動した」といううれしい手紙もいただくようになった。
Kentexというブランドがささやかに花開き始めた時期と言えるだろう。
先人の優れたデザインや機能を学び、自分の感性を頼りにものづくりを繰り返してきた。
当然ながらそこに私の好みや個性が出てくるがありがたいことにそれに呼応してくれる人がいる。
ブランドというのはそういうものだろう。
複数の人間がプロデュースすれば個性は平均化し薄れていく。
メジャーブランドはともかく、マイナーなブランドは個性があってこそ、そこに魅力を感じるファンも現れる。
一方でマイナーブランドは市場が小さく、生みの苦しみもずいぶん味わった。
当時、香港や中国ではOEMビジネスが活況でケースやバンドなどの部品メーカーは数量の多いものを歓迎し優先した。
社内では数量で9割を占めていたOEMビジネスに対してKentexビジネスはロットが小さく担当者泣かせだった。
Kentexの注文数では足りずOEMと抱き合わせでやってもらうことも少なくなかった。
“あれは社長の趣味だから“と陰口を叩かれることもあったが、いつか香港のOEMビジネスが減少するときが来るという自分なりの危機感もあって自社ブランドビジネスを目指した。
2001年から2005年にかけて熱い思いで数々の新技術要素に挑戦、スタッフのサポートのおかげでデザインや技術面でも急速にレベルが上がり質のいい完成度の高い時計が生まれるようになった。
この頃開発したモデルはKentexの基本的なスタイルと個性を形づくったと言える。
2005年までを一区切りとして毎年連発した新モデルを並べると以下になる。
2001年;
・S296Mマリンマン(初)ダイバー(ETA2824自動巻きとクオーツクロノ)、
・S294Mランドマン2(ETA2824とクオーツデイト)、
・S295Mスカイマン3(スイスクオーツクロノ)、
・S122Mコンフィデンス(ETA2824搭載)のシリーズ化開始
・第二ブランド“IZM”発売スタート
2002年;
・S332Mマリンマン2(国産自動巻きとクオーツクロノ)、
・S294Xランドマン2(バルジュー7750とクオーツクロノ)
2003年;
・S368Xスカイマン4 回転計算尺パイロット(バルジュー7750とクオーツクロノ)、
・S349Mエスパイ2 クラシックデイト(ETA2824)
2004年;
・S409Xランドマン3超耐磁時計、
・S455M陸海空自衛隊時計(JSDF)スタート。
2005年
・E410M トウールビヨン(日本ブランド初)
バーゼルフェアで話題、日本の時計業界を沸かした。
あの有名な独立時計師フィリップデュフォーさんが突然ケンテックスブースに来訪。
これら一つ一つに作り手としての思い出がある。
この章では各モデルを今一度振り返りブランド草創期の歴史として留めておきたい。
陸海空のシリーズ化
2001年はKentex陸海空のコンセプトが生れた年であった。
正月明けて間もなく、サーティーズ内田氏と企画の話をしていた折りにスポーツ系を陸、海、空のシリーズとするアイデアが浮かんだ。
それまでスカイマン2モデルとミリタリー1モデルが存在していたがまだ陸海空というコンセプトではなかった。
ここであらためて各コンセプトを定義づけた。
・陸;Landman
ミリタリー系を中心に堅牢でタフな耐久性と瞬時に読み取れる視認性を重視。
・海;Marineman
高精度かつ堅牢なダイバー時計として20気圧以上の高い防水性能と視認性を重視。
・空;Skyman
スタイリッシュなデザインと優れた機能でプロユースに応える本格パイロットウォッチ。
ちなみに海は当初「Seaman」を考えたがすでに登録されていたので「Marineman」となった。
2001年3月のバーゼルフェアにあわせて陸海空各シリーズの新モデル計画をたて出版社向けリリースを作成、この年腕時計王などに“ケンテックスの陸海空ライン”を発表した。
2001年のバーゼルフェアでは日頃日本KJで頑張っている家内にケンテックスブースを視察してもらいその足で3日ほどスイスを観光することにした。
94年に子供たちの進学を機に家族が日本に戻ってから再び香港での単身生活、仕事で頻繁に帰国はしていたがやはり普段のコミュニケーション不足を感じていた。
フェアの後、スイスのルツエルン、ピラタス山などを二人で観光した。
初のマリンマン、S296Mダイバー
2001年6月に海シリーズ第一弾となるS296MをETA2824自動巻きとクオーツの二機種で同時発売、ここで陸海空のシリーズが出揃った。
この頃よりあこがれのスイス高級自動巻きETA2824の搭載が増える。
ダイバー時計は逆回転防止ベゼル、高圧防水性の確保など、設計、製造に時間がかかり開発の負荷が大きいのでモデル数はどうしても少なくなる。
またダイバーはファッション時計と違いメーカーの技術力がもろに出る。
ETAムーブ搭載のモデルには文字板に赤い文字でPr. (プロフェッシルョナル)と入れクオーツと区別した。
自動巻き;SS20気圧ダイバー 青とブラックダイアルの各100個(200個) 35000円(税抜き)クロノグラフ;SS20気圧 3Ref 300個 23000円
S294M ランドマン2
2001年12月、ランドマン第二弾をETA2824自動巻きとクオーツの二機種で同時発売。
ランドマン2の開発に際してネットを通じてユーザーの希望を聞くアイデアを試みた。
「100M防水」と「回転ベゼルつき」を決定仕様としてムーブとベルトの希望をホームページの掲示板で募ったところ「社長が直接ユーザーのアイデアを募るのは画期的で感動しました」とある人から連絡があり仕様、限定数、価格、売り方まで時計マニアをくすぐる説得力のあるアイデアをいただいた。
おそらく時計関連の仕事をされていた方と思うが参考になり後に“限定のKentex”と言われる私の商品企画にも影響を与えた。
最終的にはこの提案に近い形で完成、
ETA2824自動巻きのカーフベルトつき、Natoタイプとラバーのベルトをオリジナルウォッチケースに添付し限定200個で価格は36000円(税抜き)。
あわせてクオーツバージョンもNatoベルト付で同時発売した(13000円)。
後にリクエストに応えてETA2840のメタルバンドバージョンを追加、皮ベルトを革製のケンテックスオリジナルケースに入れて200個限定、2002年3月に39500円(税抜き)で発売した。
S295Mスカイマン3
それまとは打って変わり、流れるようなケースと縦方向にカーブした立体的なガラスがスタイリシュでモダンなデザインとなった。
スイスISAのクオーツ2機種で2001年末に発売。
- S295M-TBK スカイマン3(アラームトラベルGMT)
2001年11月発売 28000円
パワーインジケーターつき、200個限定 ブラックカーボンダイアル
- S295M-CBK スカイマン3(アラームクロノグラフ)
2001年12月 発売 24000円
アラーム設定機能つき、250個限定
●このころ日本の時計市場は極めて厳しい状況にあった。
OEM顧客の話ではGMSで1万円が売れなくなり5000円以下がメインに。
名前のあるブランドでも価格が下へシフトしていた。
セイコー、シチズンなどの国産時計メーカーも苦しい状況が続き量販店やディスカウンターでの販売が急拡大していた。
2001年HKフェアのセミナーで日本の小売店を代表してTCH花谷氏のスピーチがあった。
時計小売店の減少(20年前の25000店⇒2001年、7000店)とディスカウンターの増加、そして国産メーカーが新製品を量販店に出す(依存している)のは戦略の間違いだと指摘し、差別化した商品戦略の重要性とポピュラープライスチェーンの展開を話された。
規模を大幅に縮小した元大手ケースメーカーの社長から日本の状況が厳しいので香港、中国との道を探りたいと悲鳴に近い連絡が私にあったのもこの時期だ。
私がもといた古巣、セイコーインスツルではこのときリストラが行われていた。
この年のHKフェアでは日本から出張した内田氏、KJの鈴木、中村そして香港の矢野、橋本が集まり陸海空シリーズの企画をみんなでブレーンストーミングした。
第二ブランド”IZM”発売
市場が低価格にシフトし量販店の販売が勢いを増しているなかでケンテックスはディスカウンターへの流通を避け時計専門店での正価販売を貫いていたが数量的には伸び悩んでいた。
そこでケンテックスとは路線を変えた量販店向け商品「IZM」の発売を計画、
「若者対象の都会的で洗練されたデザインとこなれた価格のメイドインジャパン」をコンセプトとした。
カタログを作成、2001年のHKフェアで出品し国内ではリコーエレメックスに歓迎され卸を引き受けていただき2001年末からビッグカメラなどの量販店で販売した。
そこそこ売れ何年か続いたが低価格の競合他社商品が溢れる中でそれらを駆逐するほどの独自のインパクトがないことや後続の新モデルも出さなかったので後に終了した。
量販店では価格の優位性が評価されるのでその点では目立った存在になれなかったが逆にケンテックスというメーカーブランドの尖った個性や質の高さという独自の可能性をあらためて見直すきっかけになり以降さらに上位の高品質時計づくりに集中するようになる。
2002年1月に東京茅場町のオフィスが手狭になったので御徒町駅からほど近いところに引っ越した。
ようやく10名分程度の机と、他に倉庫スペースと会議スペースを確保できるようになった。
同年2月、ケンテックスを販売しているお店を中村君と訪問したが評判はよかった。
東急ハンズ池袋の店長さんからはフラッグシップモデルを待望するマニアがいるとか、個性ある時計を揃える池袋の時計店スギヤマの社長からは30代後半から50代のコアなケンテックスファンがいると聞き、着々と増えるファンを実感し意欲が湧いてきた。
2002年、東京ギフトショーに出展後、休む間もなく4月のバーゼルフェアに出展した。
ケンテックスの陸海空モデルが揃い、個性と統一感のあるディスプレイでヨーロッパの時計業者にケンテックスのアピールが出来た。
フェアでは腕時計王の取材をこなし三菱商事高見さん、TCH花谷社長、鈴木、大野さんらと合流、TCHのOEMビジネスは勢いを増していたがこの時花谷社長からKentex(OEM)の品質はトップ3に入るとうれしい言葉を頂戴した。
S332Mマリンマン2
マリンマン第二弾となるS332Mダイバーを2002年5月に発売。
スタイリシュなS295Mスカイマンに回転ベゼルをつけたイメージの立体的なデザイン。
20気圧防水仕様でベルトはケースとの一体感を強調したラバーを装着。
クオーツ二機種、デイト16000円(税抜き)とクロノグラフ24000円(税抜き)で発売。
翌年にオレンジベゼルとメタルバンドを追加した。
S294X-7750 ランドマン2プロ7750
2002年12月にケンテックス初の7750搭載モデルS294X-7750を発売。
ETA2824のさらに上を目指して機械式クロノの傑作と言われる垂涎の名機、バルジュー7750に挑戦した。
ミリタリー調のケースで迫力のある41ミリ(ベゼル)でサファイヤクリスタルつき。
黒のマット仕上げの精悍な文字板でアラビア、バーのインデックス各50個。
01/50~からのシリアルナンバーつきですべてのモデルに個別の歩度証明書をつけた。
スペアのカーフベルトつき、本塗りの黒の高級木箱入りで145000円(税抜き)。
ETA社クオーツクロノ搭載の普及版が29000円(税抜き)
S122M コンフィデンスシリーズ
陸海空シリーズとは別にスポーツクラシック系として人気の高かったS122Mコンフィデンスシリーズがある。
2000年にイタリア、アドリアーノ向けに製作したS122M ETA2824搭載限定モデル40個(38000円)に希望者が殺到、瞬時に完売となり幻のモデルと言われたがその後ファンの要望に応えて2001年6月にシルバー型打ち模様と白ラップの2種で各50個を限定発売した。
ケースサイドにKentexの文字を刻印、36000円と抑えたためこれも完売となり以後年一回の限定Confidenceシリーズとなった。
2002年はアドリアーノコラボモデルを復活、MOP(天然貝パール)を採用しケース横にAdrianoを刻印、アラビア、ローマ、バーの3種類のインデックスを各100個、同時に販売したブラックMOP、天然ダイヤ11ポイントの88個特別限定バージョン(50000円)が大きな人気を呼んだ。
その後も2003年、2004年とダイアルをリファインしてシリーズを継続した。
振り返ればブラックMOPとダイヤを取り込んだ個性あるダイアルが特に人気を集めた。
Confidenceシリーズはシンプルで完成された定番ケース、定評あるETA2824搭載、そして個性あるユニークな文字板、この三つがうまくかみ合ったことで時計ファンの心をとらえたと思う。
このシリーズは2004で終了した。
上海国際鍾表展(ウォッチ&クロックフェア)
2002年10月、上海で時計フェアが開催されるというので中国の時計市場の視察を兼ねて陳と出張した。
中国の景気拡大と旺盛な消費市場を背景に中国内の深圳や上海の新興ブランドがいかにも高いんだぞ!と高価格を印象づける展示が目立っていたが日本人が敬遠するようなデザインが並んでいて日本との大きな違いを感じた。
内田さんやケントレーディングの佐藤さんらと上海で合流し夕食を共にしたがこのころはまだ香港に比べてかなり割安な値段で美味しいものが食べられた。
以前に邱永漢が上海の「新天地」には流行の最先端があると本の中で書いていたので寄ってみたがその一角だけ当時の香港を超えるようなモダンな店が並んでいて驚いた。
翌年、二回目のフェアも視察したがこの年はスイスなどの有名ブランドが軒並み引いてしまったため寂しいフェアの印象となり上海でのウォッチフェアはその後トーンダウンしてしまったようだ。
中国市場は潜在力のあるマーケットとしていつも注目していたがいざ市場に入ろうとすると現実の壁がたくさんある。
同じ東洋人の顔をしているが文化と価値観の違いは大きく日本人の倫理感と商売感覚ではなかなかついていけないことが多い。
大きな投資と思い切った割り切りがないとなかなか前には進めない。
何度か中国市場開拓を前向きに検討したことがあるが知れば知るほど中途半端な気持ちでは手を出さないほうがいいというのが私の実感である。
S349Xエスパイ-7750
バルジュー7750を搭載した重厚で気品のあるクラシックモデルS349Xエスパイ7750を2003年6月に発売。
その前年4月のバーゼルフェアで、あるスイスブランドのモデルに目が留まった。
落ち着いた風格とクラシックな文字板、美しいケース、全体に気品と重厚な高級感がありこれまでに見た時計とは何か違うものを感じ強く印象に残った。
くまなく眺め、こういうフラッグシップモデルを造りたいとフェア中何度も足を運んだ。
幸いカタログを入手できたので香港に戻ってからその魅力を解明しようとした。
ケースのサイズ感とバランス、ベゼルの厚みと比率、それらが美しいダイアルとマッチして気品と風格を醸し出しているのだろう。そしてやや幅広で角度のあるベゼルが重厚な雰囲気を醸し出しているように思えた。
そのイメージをもとに私がラフスケッチを起こしLamが詳細を詰めサンプル製作を進めた。2002年9月のHKフェアに出品、高級感溢れる時計は来場者の目に留まり、ケンテックスのブランドイメージを高めた。
11月、当社工場で社内説明会を行いこのバルジュー7750搭載の最上位モデルを造ると宣言、最高レベルの品質に向けて品質基準など詳細の方向付けを行った。
その後2003年3月に再サンプルを確認後本生産に入る。
サティンとミラーの落ち着いたケース、風防は無反射コーティングが施された視認性が高い両面カーブのサファイアクリスタル。
クロノ操作のプッシャーはあえて製造困難な角ボタンにこだわった。
高級ダイアルメーカー“億昌”の繊細で美しい放射のギョーシェ(型打ち模様)を採用、シャンペンを帯びたシルバーにローマンインデックスを肉盛り印刷した。
もう一つはブラックのラップ仕上げに肉盛りめっきでアラビアの文字を浮き上がらせた。
丸みを帯びた菊リュウズの頭には天然のブルーサファイアを埋め込み、クラシック感のある針は薄緑の蓄光と黒のフレームが程よいアクセントでダイアルとの相性も良い。
秒針はケンテックスオリジナルデザインでKのロゴマークを入れた。
品のよい五列の無垢ベルトでアジャスト部はすべてねじ式を採用、バックルは無垢の観音開きとした。
スイス高級品並みのスペックが揃いケンテックス最上位モデルが出来上がった。
シルバーとブラックのダイアル各40個の超限定品。
本ワニ革のベルトを標準付属品としベルジョンのルーペ、ドライバー、クロスなどのツールセットを黒塗りのオリジナル高級木箱に入れて2003年6月に25万円(税抜き)で発売した。
これだけの仕様であれば名の知れたスイスブランドなら70万円以上の値がつくと思うがこの時点のケンテックスブランドではこの値付けが精いっぱいだった。
これだけの手間とコストから判断すれば商売として成り立っていないがあのバーゼルで出会った感動の時計を造りたい勢いでここまでやってしまったのは職人気質の自己満足と言われても仕方がない。
ただケンテックスの品質水準を一気に引き上げた逸品であることは間違いない。
ずっと後に、超実用時計のフラッグシップモデルとしてS526X-7750クラフツマンが世に出るが時計の美しさという点においてはこのモデルが私の頂点に位置する。
私に一つだけ選べと言われたらこのエスパイ7750を選ぶだろう。
このころ長男心哉がすでに社会人となっていたがこの時計を大いに気に入り自分から「買いたい」と言い出し自腹で買ってくれたのはうれしかった。
SARS騒動
2003年4月には冒頭で記したように新型肺炎SARSが香港で流行しスイスバーゼルフェアが台無しになった。
予定通りバーゼルに出張しブースをオープンするまでは良かったがその翌日、フェア事務局から対面でのビジネスをしてはいけないと突然の通達が出た。
HKTDCはこれに不満を示しフェア事務局と連日話し合いを持ったがWHOの後押しもあってか結局決裂となり我々は途中で香港に戻ってきた。
その後HKTDCとバーゼルフェア当局との間で裁判沙汰となりブース費用全額と一部賠償が戻ってきたがHK勢にとっては準備したすべてがパーになり後味の悪いフェアとなった。
香港人口720万人のうちわずか1750名の感染(感染率は0.025%)ではあったが香港居住者がバイ菌のように扱われてしまい不愉快な思いをした。
ちなみに日本に戻った時にも家族から家に来ないでと敬遠され数日間九十九里の宿で過ごした。
その時は入国時の検疫もなく1週間程度の自主隔離ですんでいたが幸いCOVID19のようなパンデミックにはならなかった。
S368Xスカイマン4回転計算尺モデル
2002年から2003年にかけてバルジュー7750搭載モデルが一気に花開いた。
2003年10月に回転計算尺機能付きのスカイマン4-7750モデルとクオーツバージョンを同時発売した。
S368Xはダイアルの目盛りと回転ベゼルの目盛りを合わせて簡易計算尺機能となるがこのモデルのすごさは回転ベゼルの目盛りが風防の下にあること(ブライトリングと同じ)。 だがその分構造が複雑で防水性などケース製造に苦労した。
このS368Xスカイマン4回転計算尺機能付きモデルの開発秘話がある。
2002年4月にヘリコプターと固定翼機のパイロットをしているという方からメールをもらった。「陸海空といいながら空に回転計算尺搭載モデルがないのは片手落ちではないですか」、そして国産にはブライトリングを超えるものがないのでぜひケンテックスから世に出してほしいと具体的なスペックの要望があった。
・目盛りと数字は極力大きくする。(振動の大きい機内では読み取りにくい)
・盤面は風防下に保護されるのが望ましい(傷により読み取れなくなる)
・内側目盛りと外側目盛りの段差をなくす(段があると正確に読めない)
5月にI氏と大宮でお会いした。
仙台在住の海上保安庁レスキューのパイロットで身分は明かさないでほしいと言われたが実際に飛行中に使用しているシチズンの回転計算尺つき腕時計を見せてくれた。
確かにベゼルに傷がつき目盛りが読みにくくなっていた。
本来パイロット用のフライトコンピューターと呼ぶ専用の計算盤があるが飛行中の現場では頭の回転が半分以下になるそうで咄嗟に飛行距離と時間を知るために計算尺つき腕時計を使うのだという。
飛行中の振動があるので見易さや夜光性が大切とか、計器はノット表示が世界共通であるとかプロの現場の情報をいろいろ教えてもらった。
これが実用性の高いS368Xスカイマン4の開発につながる。
その後もスケッチやサンプル段階でアドバイスをいただき2003年4月にサンプルをバーゼルフェアで発表した。
デザインだけのパイロットウォッチなら簡単だが、プロが使えるレベルのものを目指したので目盛りの精度など満足するまで試作を繰り返し、本当にプロに使ってもらえる実用的な回転計算尺付きのパイロットウォッチが開発できた。
5月にクオーツの先行品をI氏にプレゼントし使い易さを確認してもらった。
9月にクオーツバージョン2モデルを先行発売(38000円)、10月に7750バージョン2モデルを発売(168000円)した。
このモデルはヒットシリーズとなりリピート製作(クオーツバージョン)、また後にブルーインパルスモデルにも転用された。
ただ製造が相当困難でその後ケースメーカーからリピートは勘弁と宣告されてしまった。
S349Mエスパイ2デイト
フラッグシップモデルS349Xエスパイ7750で極めた高い完成度をETA2824デイト版に凝縮径小化した姉妹モデルS349M を2003年12月に発売した。
ケース径を38ミリとしS349X同様、やや幅広の角度のあるベゼルで秀逸な高級感はそのまま引き継がれている。
“高級品を日常使いできる逸品”とうたった。
シルバーの繊細な型打ち模様とブラックのラップ仕上げでそれぞれにローマとアラビアのインデックスで計4モデルを発売。
スケルトンバックでクラシック感のある菊リューズの頭にはサファイアを埋め込んだ。
香港でのショップ販売
2003年6月、香港三越店1階の時計テナントショップでケンテックスの販売を始める。
セイコー時代から付き合いのあるケースメーカー泰興の社長王さんの紹介でケンテックスを委託でスタートすることになった。
販売目標は月5個だったが動き出すと意外に反応が良く月に10個程度が出るようになった。
香港三越は銅鑼湾(コーズウェイベイ)という最もにぎやかなところにあり場所も良く日本人の購入者もいた。
2003年8月には日本のOEM客L.S(レイジースーザン)の紹介で香港のLSコレクションと商談、1年委託、12店舗でスタートすることになった。
ただし専売が条件だということでせっかくの三越ショップとどちらを選ぶか迷ったが香港LSはSINNやTUTIMAなどのブランド品も置くセレクトショップでケンテックスのブランドイメージを上げたい思いで三越内のショップを諦めた。
何年か続いたが店舗数の割に思ったほど数字が伸びなかった。
営業活動が不足していたのも一因だが販売員は知名度のないKENTEXに関心はうすい。
以前にも香港の大手時計チェーンショップと委託販売の経験があったがお店には売り物がたくさんあり知名度のあるブランドか足の速いものをやはり商売上優先する。
もとよりブランドを共に育てることを店に期待するのは難しく現実的でない。
結局、その時計のコンセプトを良く知り、ブランドに愛着を持っている自分たちできちんと伝えられる直営店を持つのが正解なのではないかと思うようになった。
HKウォッチ&クロックフェア
HKウォッチフェアは毎年継続出展していたが2000年から2ユニットに拡大、ブース専門のデザイン会社に依頼し来場者の目に留まる洗練されたブースとなった。
2002.9月のHKフェアからはOEM中心のメインホールのほかにブランドギャラリーというブランドコーナーにもブースを持った。
この年ケンテックスの陸海空モデルが充実しエスパイ7750試作品もブースに展示、その圧倒的レベルの高さが時計商に注目され中国、ニュ―ヨーク、LAそして中国の客からもKentexのディストリビューター希望が入るようになった。
しかし、ものは揃ったが会社全体はまだOEM体制のまま、ブランド専任のスタッフも不在で海外マーケティング体制がなかったので思うように進まなかったが年毎にケンテックスの名を世界の時計業者にアピール出来た。
フェア後、日本から出張したKJのメンバー海老原氏と当時大学生だった直樹を中国工場へ案内、その機会に工場のリーダーを集めて自分の考えを説明した。
「時計の過剰生産による安物化の中で我々は量から質へ向かう、そして良いものを造れる工場であるためには品質管理とC.S意識が大切であること、そのうえでプロ意識を持つこと」と伝えた。
2003年9月のHKフェアを前にケンテックス初の冊子形式25ページのカタログを作成した。
トップページにS368Xスカイマン7750の拡大写真、キャッチコピーは”時代を超えた本物主義“とした。
陸海空のコンセプトとスカイマン、ランドマン、マリンマンの各モデル、皮ベルト、アフターについて、Specification(全モデルスペック一覧)そして最終ページに“ケンテックスのモノづくり”と題して私の思いと理念を入れた。
2003年のケンテックスブースは陸海空の各モデルのラインアップが充実し多くの時計関係者にケンテックスブランドの質の高さをアピール出来た。
一方KentexTimeのブース内で目立ち過ぎ、客はOEM用に開発したモデルに目が行かずケンテックスモデルをOEMにという客が増えてしまったのは想定外だった。
前年に続き2003年のHKフェアにも社会勉強のつもりで参加してもらった直樹は21歳の大学生だったが帰国後この時のフェアでのケンテックスの印象をこうメールしてきた。
“他のブースと比べてまとまりの良さ、バラツキのない統一感を強く感じる。斬新ではないけどそれが全体の重みを生みどこか知的なオーラを醸し出していて「おお、いい時計だ」と思わせるものがある。
流行を追わない一貫したモノづくりの姿勢のもとでそれが歴史と伝統を生み、個性になり、信用になり、やがて周囲が一目置く存在になるのだと思う。“
そしてラストに“やはりビジネスは魅力的で自分に合っている気がする“とあった。
よく観察していると感心した。
そして 知名度が上がりつつあるケンテックスとそれに熱を入れている父の仕事に興味がある様子が伺えた。
私は数日後に次の趣旨のメールを返した。
「ケンテックスの仕事に興味を持ってくれるのはうれしい。自分の仕事を子供に押し付けるつもりはないがここまでやって来たケンテックスを終わりにしてしまうのは残念だし、仮に息子が継いでくれればありがたい。
ただ時計は成長ビジネスではないこと、社長業は外から見るほど楽じゃないしその苦労はやった者しか分からない。
人は本当に好きな仕事であればどんな壁も乗り越えられるがそうでないとつらい時に持たない。本気でやってみたいと思うようになるまで時を待ったほうがよい」と伝えた。
2003年12月 アンケート調査実施
2003年の暮れ、増えて来たケンテックスファンがケンテックスにどう感じ何を期待しているのかを知る目的でクリスマスプレゼントアンケートと銘打って調査を行うことにした。
市原さんや中村君らと質問項目を考え抽選で二名にESPY2デイト、スカイマン4クオーツのプレゼントをうたったところ100名近いファンのメール回答が集まった。
いずれも時計好きそしてケンテックスファンでとても興味深いデータが集まった。
長くなるがこの頃のケンテックスユーザーの声が分かるのでここに記しておきたい。
・年齢;30代が中心、15歳から60代の方まで回答あり
・見ている時計誌;圧倒的に腕時計王(当社のメイン広告誌だったので)
・時計を何個もっているか;5個以内が一番多く、10個以内、10個以上が続く
・持っている時計;ケンテックス、セイコー、ロレックス、カシオ、オメガ、
シチズン、タグホイヤー、ハミルトンなどで他は多種多様なブランド
・その中で気に入っている時計;ケンテックス(スカイマン、コンフィデンス)ロレックス、オメガ、セイコー、タグホイヤー
・ケンテックスを持っているか;Yesが6割、Noが4割(持ってない人もアンケート回答)
・何を持っているか;スカイマン、ランドマン、コンフィデンス、エスパイの順だった。
・気に入った点;デザイン、コストパフォーマンス、自動巻き、価格以上の性能質感など。他に起業精神、ポリシー、こだわり感、ひとめぼれなど。
・改善してほしい点;ベルトの質感アップ、ショップを多くしてほしい
・ケンテックスのブランドイメージ;高性能でリーズナブル、高品質で適正価格、こだわりを持ったメーカー、良心的、コストパフォーマンス、まじめなメーカー、マニアックでよいデザイン、名前でなく質と実のメーカー、質実剛健、新進気鋭、シンプルでリーズナブル、など様々な意見があったがほとんどが肯定的に評価。
中には“人に教えたくないメーカー”というのもあった。
・デザインについて;5段階評価で上から二つ(大変良いと良い)に集中、・
・価格について;5段階評価で真ん中のリーズナブルと少し高いに集中。
・品質について;5段階評価で上から二つ(かなり満足と満足)に集中、普通が少し
・期待する価格帯;機械式は20万円未満で、特に6万未満と10万未満が多かった。
クオーツは5万円未満と特に3万円未満が多かった。
・今後の展開期待;機械式希望が8割、クオーツが2割
・シリーズで好きなもの;スカイマン、エスパイ、コンフィデンス、ランドマンの順
・ケンテックスのサービスは;5段階評価で良い、大変良い、普通の順
他に“商品展示会”、“全コレクションが見られる直営店”に多くの人が希望すると回答してくれた。
たくさんの人がいい評価をしてくれていることに素直に感動を覚えた。
ケンテックスを数個以上持っているという人も何人かいたがその中にケンテックスへの熱い思いを語る丹羽忍という27歳の青年がいた。
ランドマン2、スカイマン3、マリンマン2を各一個とスカイマン4をダイアル違いで二つ、計5個を保有するケンテックス大ファンだった。
彼のケンテックスイメージは“こだわりを持ったメーカー、コンセプトが明確、高いだけの時計と違い使う人に自信をくれる”そして、バイクに乗る日はランドマン、雨の日はマリンマン、遊びの時はスカイマンと日によって使い分けるという。
これほどケンテックスに惚れ込んでいる人もいるのかと造り手冥利に思った。
この時のアンケートはユーザーと造り手の距離を縮めることが出来たと思う。
ドイツミュンヘンフェア
・2004年2月にドイツミュンヘンで開催されたフェア(Inhorgenta Europa2004)に初めて出展した。
ケンテックスブランドとOEM客開拓を目的として私、陳、JoviそしてデザイナーのAlexの4名で出張、雪の積もる中でのフェアだった。
バーゼルフェアと違い香港から出展する会社はわずかだったがケンテックスのシンプルで質感のある時計はドイツをはじめとした北欧の人に大いに受けいくつかのディストリビューターから引き合いがあった。
ここで知り合ったドイツの会社KRAFTが当社に強い関心を示しKentexとパートナーを組みたいということになりその後OEM客として付き合うことになる。
翌年再び訪問した際にはKRAFTのRalfとパートナーThomasにドイツの古城を改装したレストランで鹿肉をごちそうになった。途中から降りだした雪がロマンチックな雰囲気となりみんなで歓声を上げたのがいい思い出になっている。
ツダカ商事事件
2004年3月、会社の存続にかかわるような事件が起こった。
この年KJの業績が良かったので年度末にKJスタッフみんなで上海に社員旅行した。
食事と観光を楽しんで日本に帰った翌々日の31日、鈴木さんがいつものようにツダカに連絡を取ろうとしたが何度入れても電話が通じないという。
もしかして、と不安がよぎったがその日のうちにツダカ商事倒産(自己破産申し立て)のニュースが時計業界に走った。
ツダカとはすべて手形でやっていた。
生産はすべて香港だが手形決済のためにKJ経由の国内取引としていた。
何か月も前の売掛金をすべて合わせると7000万円近い数字になる。
香港での仕掛かり分を入れれば被害はさらに大きくなる。
以前にも万世など経験はしていたが今回は規模が違う。
頭が真っ白になった。
もうダメかな…という思いがよぎったが深呼吸して落ち着きを取り戻した。
その日は役員三人で話し合い、翌4月1日に顧問税理士に来てもらい相談、その足で銀座の税理士知り合いの弁護士を訪問した。
弁護士からいずれ破産管財人が資産を換金して債権者に分配となるが会社も個人も自己破産なので期待は薄いと言われた。回収策や対応について細かいレクチャーを受けたがその道の素人にはあまり役に立たない。
思い起こせば前年後半から急激に注文が多くなった。香港に来社し矢野と商談、お互いOEMのプロであるが僅か数時間でいくつかのモデルを決めていた。
計画倒産の可能性もあるが立証は難しいと言われた。
4月2日付の破産宣告の通知が届く。
ツダカの客先には当社のOEM客とダブっているところもありTCHやインテックとも情報を交換した。
失敗のない経営などありえないが“何でこの会社が!”という思いは創業した頃肝炎にかかり“なんで自分が“と嘆いたその心境だ。
一週間ほどは食欲もなかったがその後次第に平静さを取り戻した。
命があればまだチャンスはある。すべてのことに無駄はない。
無理をせず焦らず気持ちにゆとりをもって生活を見直せという神様の示唆なのだと思った。
3年後にまた全員で海外旅行に行けるようやり直せばいい。
当然日本もきついが大きな被害は生産している香港側が実質的に被ることになる。
幸い蓄えた余力があったので持ちこたえられると判断、私は“何とかなる”と皆に伝えた。
その後、実際にKentex Timeはキャシュフローに苦心しながらも香港のベンダーにいっさいの迷惑をかけずにこれを乗り切った。
パートナーの陳初めスタッフにはよく頑張ってくれたと感謝したい。
後に情報通のインテックの高橋社長(故人)が被害の大きかったトップ4社はどこも連鎖倒産せずに頑張っていると感心していたが当社もその一社だ。
そのうちの一つトレモントの小林社長からツダカを計画倒産で訴えるので共同戦線しないかと誘われ乗ることにした。
彼はツダカの購買担当津田マネージャーとは同じ大阪で長い付き合いだったが何の情報もくれなかったと憤慨し裏切られた思いが募り訴える行動に出た。
KJの経理を仕切っていた家内が弁護士からいろんな書類や証明等の要求に追われ大変だとこぼしていたが結果的には計画倒産の判決は下りず敗訴した。
世の中に連鎖倒産した会社は少なくないだろうが“自分は落ち度がないのになぜ倒産しなければならないのか“という被害者の気持ちが良く分かる。
結局、商売というのは自分で自分の身を守らなければならない。
ここで得た教訓3つを手帳にメモしていた。
- 急に増える注文には気をつけろ
- 甘い仕事には罠がある。
- 断る勇気も時には必要。
そして以後、手形ビジネスはいっさい受けないことを社内の鉄則とした。
最後に
振り返ってみると2001年からの数年は矢継ぎ早に新モデルを開発しKENTEXブランドは急速に成長した。
知名度のあるライセンスブランドを安く量販店に卸して売り上げを伸ばす、そういった客先のビジネスもOEMで受けながら、ケンテックスはいっさいのディスカウントをせず正価販売を貫いた。
それゆえファンは出来つつも数量は思うように伸びず長い間歯がゆい思いをしてきたがそれは将来どこかで大きく花開かせるために地面の下で根を張る作業だったのかもしれない。
2004年から始まった自衛隊時計や2005年に発売したトウールビヨンなどもこの回で書く予定だったがずいぶん長くなってしまったので次回に廻したい。
私の履歴書 第十九回 KENTEXの原点、こだわりと理念生まれる
1999年が終わりいよいよ西暦2000年が始まろうとしていた。
新千年紀の始まりということで世界では「ミレニアム」と騒がれた。
コンピューターが誤作動するのではないかと「2000年問題」が取り沙汰されたがほぼトラブルもなく2000年が始まった。
2000年にはシドニー五輪がありマラソンで高橋尚子の金、柔道で田村亮子の金、女子ソフトボールの銀など女子選手が大活躍した。
「2001年宇宙の旅」という傑作SF映画が1968年に上映されている。
月に人が住み、最新型人工知能を積んだ宇宙船が木星探査に向けて航行するという未来映画だ。
アメリカの宇宙飛行士アームストロングが69年に月面着陸に成功しまさに世界中が宇宙に熱い視線を注いでいた時代だった。
50年以上が過ぎた2020年の今、宇宙開発は想像ほどではなかったがコンピューターはハードソフト両面で進歩を遂げ人工知能はもはや現実のものとなった。
振り返ってみると、2000年前後は当社にとっていろんなプロジェクトが重なり集中していた時代だった。
私自身は日本のOEMビジネスを担当するかたわらKentexブランドの推進に本格的に集中し小さな芽を育てた時期でもある。
この回で記したいことはたくさんあるが紙面の関係でそのいくつかを選んでみたい。
モノの価値下落とデフレ不況
97年の金融破綻と消費税5%引き上げで戦後最悪の不況と言われたが2000年に入っても景気は回復せず不況はますます深刻化していた。
80年代に始まった中国製造シフトは世界中のモノの値段を下げた。
日本では家電を筆頭にユニクロなどの衣料、雑貨、家庭用品などすべてのモノが値を下げデフレが進行、100円ショップの商品は種類が増えて人気が拡大した。
日本の時計市場はロレックス、オメガなどの高級ブランドのみが好調、5万円以下の市場が縮小し中級、PB, カジュアル、ライセンスなどすべてダウン、超低価格品が市場に溢れた。
量販店では980円の時計から1980円,2980円,3980円の商品が主流となり、3980円は吊るしからGケース内に移った。
日本のOEM顧客を訪問するたびに“価格下落でコストの攻防が厳しい”とあちこちで悲鳴が出ていた。
日本で踏ん張っていた会社も工場を縮小あるいは畳むようになり当社にOEM委託の話も舞い込んだ。
さすがに超低価格品は品質の確保が難しいので、無理して参入するのは避けた。
低価格品が溢れる一方でブランド物は好調、市場での二極化が進行し国内の大手時計メーカーはそのはざまで苦しんでいた。
2001年の日経新聞記事に2000年の国内時計販売シェアの記事がある。
国内総販売5300億円(前年比一割減)のうちスイス高級品が3000億(横這い)で57%、香港低価格品が800億(横這い)で15%、日本勢は全体で1500億(二割減)の28.3%(セイコー700億、シチズン400億、他400億)とある。
日本勢が全体の三分の一以下(金額ベース)になりスイス勢の半分となった。
かつて日本メーカーの独壇場だった日本市場はスイス勢のブランド攻勢にシェアを奪われていた。
少し遡るが99年6月に私が師と仰ぐ邱永漢の講演会が東京であり邱さんは得意の先見力で10年、20年先の日本を予告していた。
要点は
・モノの付加価値が落ちるのでものづくり産業は伸びない
・今後はサービス産業の生む付加価値(富)が上がる、そして日本人はその仕事に向いている
・お金を使う優先順がエンターテイメント、食べる、海外旅行、趣味、健康美容、教養の順番になりやっと7つ目に物を買うことに使う。
我々ものづくりの人間には厳しい現実が待ち構えているかもしれない。
しかし私はそれを頭に入れながらもその可能性を模索していく道に戸惑いはなかった。
シチズンとのビジネス
不況が続く中で当時シチズンもコスト減のため海外調達の強化を模索していた。
98年に知人の紹介でシチズンの企画担当者と香港で面会、中国工場に案内し技術面での信頼も得られてシチズン時計とのビジネスが始まった。
シチズンは中国に自社工場があるのでライセンスや特注品などの企画商品が我々外注への生産委託対象だがケンテックスのデザイン力や技術面も信頼され数々のモデルをOEM生産した。
それまでクオーツ時計がメインだったが99年にシチズンの自社自動巻きムーブCal.8200を搭載したSCUDOという機械式時計を生産する機会を得た。
自動巻き専用の設備機器が必要となり自動巻き上げ機や歩度測定器などを当社中国工場に導入、この生産を通して自動巻き時計の製造技術ノウハウを積み上げることが出来た。
後にこのノウハウがKentex自動巻きの生産に役立つことになる。
その後もフリーウェイ、スヌーピー、銀無垢のケースなども受注するようになりシチズン商事とのおつきあいもいただくようになったがその後シチズンでさえも不況の荒波にもまれ希望退職を募り、シチズン時計が商事を吸収合併する再編があった。
機械式時計に注目
クオーツ時計の低価格化と並行して陳腐化が進んだことで機械式時計が少しずつ見直されてきた。
そのころスイス高級品を除けばまだあまり流通していなかったが私は技術的に大量生産が困難で、クオーツに比べ付加価値が落ちにくい機械式時計に注目していた。
スイスETA香港支店の総経理Mr.潘(Poon)と初めてETA機械式ムーブの商談をしたのは98年の末だった。
そのころクオーツはオープン市場だったが機械式ムーブはかなり壁が高かった。
購入するにはブランド申請とスイス本社の審査が必要、しかも外装組立はスイスの指定3社で行ってスイスメイドにすること、さらにローターには(有償で)ブランド名を入れることが条件となっていた。安売りを未然に防ぐのだという。
いかにもプライドの高いスイスの会社だなと敷居の高さに驚いた。
しかし、この高価でなかなか手に入らないステータスとしてのETA自動巻きムーブを搭載したKENTEX時計を作るのが私の目標となった。
一方でこのころ日本製機械式ムーブの選択肢はほとんどなかった。
シチズンが8215などの82系自動巻きをわずかに外販していたがセイコーは内部で反対の声があったようでまだ外販はしていなかった。
私はTM(タイムモジュール)に早くから要望していた一人だが99年4月にTMの渡井氏が小林氏の後任として挨拶に来られた時点でようやく70系の自動巻きを販売開始する情報をもらった。
KENTEXの理念生まれる?
かつての日本企業が目指した“より多くの人に安く提供する”という大量生産方式は戦後のモノ不足から昭和の時代までは美徳であり善であった。
しかし安価なモノが溢れる今日、それはもう善ではなくなった。
安物が出るとその下をくぐろうとする価格競争の世界。
2000年代初頭はまさにそんな時代だった。
それは自らの利益を削るばかりでなく企業の存続さえ危うくする。
この発想では企業イメージも上がらずイタリア、フランス、スイスにあるようなブランドは生まれない。
日本から高級ブランドがあまり生まれなかった背景がここにあるように思う。
欧州では昔からいいモノを長く使う文化がある。
安く造る発想から脱し、いかに魅力を加え、価値を高めるかという
“付加価値の高いものづくり”を志向することが大事なのではないか。
私はある時からそう思うようになった。
私の中でパラダイム転換が起こる。
使い捨てではなく“永く愛着の持てるもの”に人はその価値を認め代償を惜しまない。
そしてブランドの信用も築いていける。
それがKENTEXの進むべき道ではないか。
この時点での実力からすればそれは遠い夢物語で現実的ではない。
が、この考えは私のKENTEXウォッチづくりの原点になっているように思う。
そこから“本物志向”という私の“思い(=理念)”が生まれてくる。
KENTEX自動巻きモデルS153M ESPY誕生
KENTEX時計は99年に初期モデルが一通り揃ったがそれらは特別な思いやこだわりもなく拙速に造った感があった。
99年半ばにさしかかったころ、ミレニアム2000を記念したKentexのフラッグシップとなるモデルを作りたいという思いで開発をスタート、ここからディテールへのこだわりが始まった。
ムーブはETA自動巻きが入手困難なので国産自動巻き8215を採用、ケースは長く愛用できる定番を目指し以前製作したシンプルで美しく、飽きの来ないデザインのS153Mを選んだ。
バンドは落ち着いたデザインの5列のソリッド、ダイアルは深みのあるややシャンペンがかったシルバー、ブラックエナメル、グラデーションつきブルーの高級感ある三色とした。
ダイアルのKENTEXロゴは植え略字とするために新規に型を製作、またKのスペルをデザインしたオリジナル秒針を製作した。
ムーブの見えるスケルトンバック仕様にしてガラスにMillenium2000 Limited Editionを印刷した。
今では当たり前になったが当時としてはこれでもかなりのこだわりでローターにもこだわった。
外販用8215のローターは以前にSCUDO生産でシチズンから供給された8200とは大違いでタングステン焼結の粗い仕上げのまま、高級感がなくそのままでは不満足。
いろいろ試行錯誤した結果、パラジウムめっきをかけることできれいな光沢とし、さらにレーザーでKENTEX、Japanマーク、Kマークの模様、ほかに個別製造番号を入れた。
シチズン香港駐在の日本人ムーブ営業担当がここまでやるメーカーはいないとあきれていたがきれいになったローターを見て感心していた。
こうしてこだわりがふんだんに盛り込まれた初のESPYはミレニアム直前の99年11月に発売を開始した。
KENTEXの代名詞ともなった“こだわり”はまさにこのモデルから始まったと言っても過言ではない。
新シリーズESPY誕生について;
自動巻きモデルとしては98年S122M ですでに”Confidence”を使用していたがその上位に位置づけるフラッグシップシリーズとしデザイン的にはConfidenceのスポーツに対してエレガンス系のテイストを持つクラシックシリーズとしたかった。
ESPYという名前はあまり耳慣れない言葉だが辞書を眺めてふとESPYという文字が目に入り意味は”ふと見つける“とある、これだと思いブランド登録を申請した。
99年末 ”ウォッチアゴーゴー”の1/3ページ広告(右)
国内営業の強化
Kentexの国内での販売開始当初は鈴木さんが一人でOEMのフォローをこなしながらハンズやオンタイムなどの道を開いてくれた。
99年11月、販売力強化のため営業の求人リクルートを出し10名ほど面接し2名を採用した。
一人は地方から出てきて東京で働き営業経験も全くない素人、当時27歳の中村君でどんな仕事でもやりますとチャレンジ意欲を感じて採用。
もう一人は時計営業経験者の小座間君34歳で彼には営業のリーダー格を期待した。
販売の下地が出来、ようやく国内市場開拓を実質的にスタートした。
2000年1月、小座間君からAction20と銘打ったKentex売り上げ拡大計画書が出てきた。
このころ平均単価は上代で2万円以下で数量は通販、店舗卸合わせても月90個に届かなかったが9月までに月300個、そして100店舗開拓というなんとも経営者喜ばせの強気の数字が並んでいた。
私はまんざらでもなかったがいざ活動開始、ふたを開けてみると果たしていっこうに数字が伸びずに9月になっても目標には遠く及ばなかった。
現実は思ったほど簡単ではなかった。
デフレ不況の中でほとんど無名の時計を店に置いてもらうのは誰がやっても難しかっただろう。
その後小座間君は居づらくなりしばらくして会社を離れることになってしまった。
ブランドの知名度、ブランド力を無視した計画だったことが災いした。
無名のブランドをゼロから立ち上げるのは生易しいものではない。
現実を目にして私は厳しさを実感した。
KENTEXレディスの開発
2000年1月早々、鈴木さんのアポ取りで丸井の事務所に杉村氏を訪問しKENTEXウォッチをプレゼンテーションする機会を得た。
その場で杉村氏は、メンズは絞りたいほどあり丸井は7割が女性客なので男物よりレディスが欲しいと言われた。
オンタイムでも同様の反応がありこの時KENTEXレディスを開発することにした。
若い層をターゲットに上代1万から2万円想定の新model企画をスタート。
当時アニエスBが人気でモノトーン基調のシンプルなデザインを狙った。
デザイナーと共にトレンドを探りながら、S122L、S251B、S257Bの3型をデザイン、3針タイプをメインにクロノや自動巻きを入れ計14REF.を製作し5月に発売開始した。
6月に再度丸井を訪問、案内したところ出来が良く時計屋のモノづくりと評価され8月から試験的にスタートすることになった。
新口座は難しいということで問屋として元林を紹介された。
その後オンタイムを訪問、星氏や女性バイヤーと面会した。
彼らは時計離れの中で苦戦中でもありここでの評価は手厳しかった。
もっとデザインで勝負した方が良い? ロレックスタイプはおばちゃん相手?
など、そうは問屋が卸さなかった。
有名ブランドならともかく時計の品質うんぬんよりファッション性と流行が命のレディス市場はKENTEXのコンセプトとは相いれないところがあった。
その年2000年3月のバーゼルフェアでそのコレクションを披露した。
デザインは高く評価されたが価格面で他の安いメーカーと比較されやはりレディスは当社の強みではないと思った。
2000年3月 バーゼルフェアでのKENTEXブース
ETA自動巻きS122M-Confidence発売
2000年4月、イタリアAdrianoからスイスETA2824を搭載した高級バージョンを造る話が持ち上がった。
KENTEXウォッチではこれまでで最高仕様のモデルとなる。
ケースは以前に8215搭載でOEM製作した人気の定番デザインS122Mとし、サファイアクリスタル採用でケース9時側にKENTEXロゴをレーザーマーキング。
ダイアルは高級品に使う天然貝パールをベースにインデックスはアラビアとローマの二種。
2824ムーブは香港のブローカーから購入した。
私は日本向けに40個を上乗せ生産、「日本で40個発売の世界限定!」と銘打ち、7月に時計誌“腕時計王”に1ページ掲載したところただちに強い反響があった。
ETA自動巻きながら38000円(税抜き)という価格が受けてか1か月で完売するヒットになった。
以前同じケースで製作した8215搭載モデルとの反応の違いにあらためてETAムーブの人気とそのブランド力に感心した。
S255M SKYMAN2の発売
2000年5月、インテック高橋社長とP店向けにKENTEXブランドで造る企画を進め、S255M3針day dateの5Ref.で500個を製作、好評につき第二弾を500、計1000個を生産した。
これをベースに8月に自社発売用としてスイス製クロノグラフ(クオーツ)を搭載したSKYMAN2クロノを製作、2000年末に発売開始した。
シンプルでユニークなデザインの40ミリケースで特徴のある六角リューズ。
ダイアルにブラックカーボンを採用、バンド中央列に黒色の繊維入り強化プラスティックを配し、ステンレスとのコントラストと黒を基調とした絶妙なバランスで精悍な印象のモデルとなった。
S255M Skyman 2 Chrono(下)とS143M Skyman(上)
2000年9月のHKフェアではこだわりの詰まったKentexラインアップが揃ってきた。
S122Mコンフィデンス、S143Mスカイマン, S153Mエスパイ, S255Mスカイマン2などが一堂に並ぶと個々のモデルだけでは感じないブランドの顔と個性を主張するようになりフェアでの客の反応が変わって来た。
アメリカのインポーターが関心を持ちS255Mなどトライアルオーダーが入った。
また韓国から来たという若い時計輸入業者がなぜかKentexを知っていたようでその場でたくさんのKentexウォッチを購入(仕入れ)したので驚いた。
この頃になってようやくKentexを知り興味を持つ人が表れてきた。
KENTEX初期のあゆみ(97~2000)
ホームページの刷新強化
この時期ホームページも刷新する。
2000年3月、当時㈱セキサスドットコムの名刺で市原さんがウェブサイトの営業で来社されKENTEXホームページはアミューズメント性が乏しいという意見をもらった。
その後相談を重ね、こだわり、デザイン性、ファンクラブ、ニュースなどのアイデアを盛り込んだ新たなホームページを立ち上げることになった。
11月にライフスパイスとして独立した市原さんと売り上げアップを図るホームページづくりを議論、雑誌広告との連携、時計マニアページ、ネット営業、口コミ効果、ファンクラブアンケート、OEMページの作成などのアイデアを入れて大手とは一味違う個性あるページ作りをめざした。
以降、市原さんのセンスでページが作られていくが時計の写真は主に私自身が撮影を担当した。
2001年1月には名機ETAムーブのこだわり、商品写真の拡大、3D(動画)、オーナーズボイス、デザイナーの一言、などのアイデアを盛り込みさらにページが充実。
このころには市原さん自身がKentexウォッチのファンになり熱が入ってきた。
オーナーズボイスは私のバーゼルフェアレポートなど自分で撮影した写真を入れながら記事を構成した。
市原さんは普通のサラリーマンには収まらない自由人で東大を出ていながら大手にも入らず作家になる夢を持ち、文章も得意ながら映像のセンスもいい、こだわりも強かったので私とは波長が合った。
この時期、時計誌広告代理の内田さんに加えホームページ制作の市原さんという二人の味方を得てKENTEXウォッチの発信力がついてきた。
クロックハウスOEM
先にも記したが、2000年前後はまさにKentexブランド、OEMともに多忙だった。
起業後10年が過ぎて会社の実力がつき世間にもKENTEXの名が知られてきたのだろう、国内に200店舗を超える時計ショップを持つ時計専門店チェーン、ザクロックハウスとの縁が始まる。
2000年3月のバーゼルフェアでクロックハウス(以下TCH)の大野禄太郎さん(現社長)、菊岡Mgr.が当社ブースに見えられた。
何を話したかは記録にないがたぶんその時は立ち話程度でその後、4月21日にTCH本社を訪問することになり社長室で当時の大野禄一郎社長(創業者)と庭野常務にお会いした。
大野社長は顔いっぱいの髭を生やし実直重厚な雰囲気の印象だったが根はやさしそうな感じを受けた。若いころアメリカを横断したときに起業を思い立ち日本一の時計専門店チェーンを一代で築いた人だ。
この時は長男の禄太郎さんがクロックハウスドットコムというネットを立ち上げていて当社からウォッチヘッドを仕入れたいという話のほかにオリジナル企画としてKentexとのダブルネームで時計を造る話もあったがその時は具体的な進展はなかった。
Kentexとはどんな社長なのか、人物の見定めといったところだったのか。
当時コカティアラの伊藤氏と一緒にTCHへのビジネス参入を目論んでいた時期だったので願ってもない話だった。
そのころTCHは主にセイコー、シチズン、オリエントのほかに大沢商会など国内大手時計メーカーにオリジナル商品を製造委託していた。
その後2001年4月に急進展があり再訪問、TCHから正式にOEMの商談があり、三菱商事の部長、TCHの大野社長以下スタッフ同席のもとでSPA(製造直売型)を時計にも拡大したいという趣旨だった。
大野社長から三菱商事の力を借り、自社ブランドのオリジナル商品開発に本格的に入っていきたいと正式に依頼を受けた。
モノ作りは香港のメーカー二社(Kentexと他1社)を候補とし、企画は社員のアイデア活用と当社の既存型を利用する。
「当社(TCH)は販売のプロだがものづくりはKentexに全面的にお願いする」と言っていただいた。
このSPWプロジェクトは鈴木部長、録太郎さん、次男の耕二郎さんを入れた4人のほかに当時の花谷専務がリーダーとなり9月発売に向けて歯車が動き出した。
気になっていた商流はコカティアラ経由でなくダイレクトでやると念を押された。
4月に入り三菱商事の上野氏、TCHの鈴木部長、耕二郎さんが来港、当社の在型モデルからペアーケース、男女三モデルを選定し前に進めることになった。
翌日当社中国工場やケースメーカーなどを視察、この日は東莞にある東銀酒店に泊まりみんなでカラオケを楽しんだ。
2001年11月、TCHにて花谷専務以下プロジェクトのメンバーとLeneo、Radic, Fregraなどの第二弾を企画。
それ以後、さらに本格的なTCHオリジナル商品展開へとOEMビジネスが拡大していく。
2000年3月 バーゼルフェア TCH 大野禄太郎氏ほか
2000年9月HKフェアで;ザクロックハウスの花谷専務、大野禄太郎氏、ほか
最後に、私事について触れたい。
2000年前後は公私ともに多くの出来事があった。
仕事も順調にいっていたので98年末頃、東京に近い新浦安に陽当たりのいい中古住宅を購入した。
50坪を超える物件で庭もあったので翌年2月に造園をいれ庭木や門構えも整ったところで母や兄夫婦たちを呼んだ。
母は「たいしたもんだねえ」と喜んでくれた。
だがこれが母フキとの最期の機会になった。
2000年4月13日私が香港にいる時に母危篤との連絡が入った。
このころ仕事が忙しかったので翌日の便で戻らず二日後の15日、JL736便で日本に向かう途中、母は逝ってしまった。
90歳の往生だった。
死に目には会えなかったが、夕方近くになって柩に収まった母と再会した。
母の体に触れるとドライアイスで冷たくなっていて何とも言えない気持ちだった。
昭和24年、まだ二歳になったばかりの末っ子の私を含め5人の子を抱えて夫に先立たれた母の心境はいかばかりだったか。
”憲治をおぶって線路を歩いたことがある”と一度だけつぶやいたことがある。
強い母でなかったら今の私はいない。
当時は中学から社会人になるのが半分ほどいたと思うが余裕はないにもかかわらず私を高校まで行かせてくれた。
私はその母親に何の恩返しが出来たのだろうか。
17日通夜は久しぶりに集まった親戚とにぎやかに過ごしたが翌18日の葬儀告別式になると溢れる涙をこらえるのが精いっぱいだった。
その後火葬場でばらばらになった骨を家族が一人ずつ順番に骨壺に入れるころには涙も枯れすっかり心も晴れていた。
ちょうどこの春に次男直樹が早稲田高校から早稲田大学に入学が決まり、食事会の席上で親戚の皆さんに報告できたことは良かった。
栃木県鹿沼市御殿山の満開の桜の花に囲まれた食事会場はほんのり酔いも回ってとても居心地が良かったのを覚えている。
2000年9月 HKフェアブース ドウシシャほか
2000年2月 KentexTime 新春パーティ
イタリアベネチアのADRIANOブティック
私の履歴書 第十八回 海外ビジネス展開、バーゼルフェア出展とKENTEXブランドの始動
平成7年(1995)、日本を揺るがす大きな事件が起こった。
1月17日観測史上初の震度7を記録した神戸を中心とする阪神淡路大震災が発生。
多くの家屋が倒壊、死者は6400人を超えるすさまじい地震だった。
3月には東京霞が関を通る地下鉄で猛毒が撒かれるオウム真理教事件が発生。
神経ガスのサリンが散布され、乗客乗務員ほか被害者の救助にあたった人々も含む多数の死者や被害者が出た。
ケンテックスジャパンの山田さんは事件のおきたこの日も同路線で通勤したが時間帯の違いで幸いにも免れることが出来た。
90年代半ば、香港K.T.(Kentex Time Co.Ltd.)は小規模ながらも時計メーカーとしての組織が出来上がってきた。
時計の生産数は月産約3万から4万個近くになり 仕事の急増と共にスタッフも増えた。
94年末には経理、シッピングのスタッフにマーケティング、技術、品質, 検査、出荷、デザイナーなどが加わり総勢20名程になった。
業務が複雑化してきたので業務分担の明確化と効率化を目的に組織を編成した。
本来小さい会社に組織はいらない、意識の高い精鋭が揃っていればそれぞれがおのずと結果を出していくというのが私の考えだ。
しかし現実はそうもいかない、人が増えれば8:2の法則といわれるように何をしているのか分からないスタッフも出てくる。
会社のベクトルを合わせるために最低限の組織も必要になる。
私は組織を編成する三つの目的、
1)責任分担の明確化(組織表)
2)権限の委譲
3)目標管理
を説明したうえで私自身が大事だと思う9つの行動指針を社員に伝えた。
1.行動の重視、結果の評価(実践重視、言い訳は不要)
2.お客様優先(C.S.顧客満足⇒マーケット第一)
3.品質重視(当社の基本理念)
4.チームワークの精神(壁を作らず協力、上下左右の風通しを良くする)
5.問題意識を持ち、考える習慣を身につける
6.創造性の重視(慣習に捕らわれず柔軟な発想)
7.開発を重視(新商品開発は会社存続の条件)
8.自己啓発(自分を磨く心)
9.仕事に生きがいを持つ(一日の大半は会社にいる⇒挑戦する心を持つ)
OEMの増大に伴い、私はR&D(デザイン開発)の強化による顧客への提案力が重要と考えデザイナーの層を厚くした。
私自身がデザインに関心を持っていたことも背景にある。
94年にデザイナー三名( Lam, Alex, Eunice(女性))を採用、デザイン開発が強化され顧客の要望に迅速にレスポンスする体制ができた。
96年にEuniceがChingに代わりチームワーク良くそれぞれがドレス系、スポーツ系、レディスファッション系と各人の得意分野が発揮され、時計デザインの幅と質の高さがセイコーはじめ内外の顧客に評価されるようになった。
香港デザイナーの多くは日本人の感性とは一味違うところがある。
私はミーティングを通じて日本の文化や日本人好みのテイストを伝えた。
繰り返し説明したのが日本人の好きなシック(Chic)という言葉。
日本人なら上品なイメージがすぐに思い浮かぶが、どちらかというとカジュアルで原色を好む香港の文化ではそれを掴みにくかったが次第に上品な味も出るようになった。
中でもAlexはスポーツ系デザインが得意でデザイン力も高く市場のトレンドを把握した顧客に歓迎される多くのモデルを生み出した。
私の感性や好みとも近く、後にKENTEXブランドの数々のスポーツモデルを生み出し私の力強いパートナーとして多くの実績を残すことになる。
またLamはエレガンス系が得意だったがデザインのみならず技術にも詳しく有名時計ブランドの世界にも通じていた。
私自身が得ることもありR&Dのリーダーとして長らくチームを引っ張ってくれた。
私の補佐としてKENTEXブランドの立ち上げ、進展に大きく貢献した一人だ。
94年に設立したケンテックスジャパンはこの香港での生産力を背景に日本市場におけるニーズの開拓を行い、お客様に喜ばれる企画と満足できるコストで、そして信頼される品質を提供することに力を注いだ。
世界の時計生産地としての香港(中国)と大きな市場を持つ日本をつなぐケンテックスグループの製販一貫体制がこのころ始まった。
小さいながらも自らの製造基地と販売拠点をもつ当社の強みとなった。
当時、日本国内の主なOEM客は万世工業(マルマン)、ドウシシャ、リコーエレメックス、オリエント、クレファ、(98年からシチズンが始まる)などで日本顧客は主に私が営業活動した。
一方、香港地元を含めて海外顧客はEddie陳をリーダーにYip、Angela、Jake, Terence、Grace, Barry, Sacky、Joviなど、時代とともにセールススタッフは流動的だったがその時々のSales担当がOEMの営業窓口として対応した。
91年から参加した香港インターナショナルウォッチフェアに毎年継続出展し90年代半ばにはドイツ、イギリス、フランス、トルコなど海外の仕事が増えていった。
94年3月に家族が帰国した後、私は独りになったので同じ香港島のビクトリア公園に近い天后(ティンハウ)という所に小さめのフラットを借りそこに移った。
その後、毎月高い家賃を払い続けるよりも買った方が長い目でメリットがあるという邱さんの教えを忘れず96年に九龍側の黄哺にフラットを会社で(ローンを組み)購入、3月に引っ越した。
香港の日系会社はメチャ高い家賃を永年払い続けているところが多いが香港のようなインフレの続く都市では買うことが合理的な決断であることがやはり後に明確になる。
マレーシア進出、失敗と教訓
当時アジアはまだ開発途上で低所得層が多く時計市場はまだ、未熟だった。
一部の高所得者層向けの有名ブランドを除けば二流もしくは無名の安物時計がメインだった。
94年にHKTDC(香港貿易発展局)が主催したマレーシアのクアラルンプールでのHK時計メーカーフェアが企画され私はアジア進出のチャンスと思い参加した。
香港の時計メーカー約20社が出展。
翌95年のフェアにも出展し現地の時計ディーラーともコネが出来た。
96年はこのコネをベースに陳、Lamと私の三名でマレーシアの時計商数社を訪問した。
G.S.M( Gold Stone Marketing)の社長はマレーシア時計協会の会長も兼務、Playboy, Givency, NinaRicciなどのディーラーもしており、当社のデザイン、品質を評価してくれた。
95年のフェアで知己となりコーディネーターとして動いてくれたマレーシアの華人Mr.Weeと組み96年6月にKT出資でMIYAKO Time社を設立、K.Tのマレーシアオフィスとしてスタート、直後の7月に出張し2社と具体的に商談、仕事が始まる。
WataTimeはクアラルンプール市内にショップ数店を持ち自社ブランドを保有、当社の
OEM人気モデルS82Mを気に入りJaguarブランドで生産した。
もう1社のTime Galerieは小さな会社ながら強気の計画で大量の数を注文、出荷後のT/T後払いでリスクがあったが私は相手を信用し生産を請け負った。
Louis DeLong9000個(全11モデル×800個)とBabanino、Okuraあわせて17000個。いずれもにわかに立ち上げたPBでブランド力はない。
翌97年3月に再訪問した時点で当初予定したほど数が伸びずに計画の三分の一程度の出荷にとどまっていた。
キャンペーンを打ってもらったがその後もスピードは上がらず最終的には大量の生産在庫を持つ羽目に。
私にとってはOEMビジネススタート以来、最大の黒星となった。
考えてみればこれだけの仕事を何の担保もなしに受ける方が甘い。
先方のいい加減な読みとどん欲な商売根性に振り回されてしまった。
アジアで商売をしている人たちは中華系(華僑)が多いが自分の利益には執着するが相手の不利益には全く無頓着で関心が及ばない。
以降、大きな話ほど落とし穴があると思い注意するようになった。
中国人の世界では「騙した人間よりも騙された人間が悪い」のが常識だ。
騙しあいが普通に横行している世界で「騙されないよう賢くなれ」という教えなのだ。
私は日本人のプライドとして相手を信用することは今も大事だと考えている。
しかし、ビジネスの世界を甘く見てはいけない。
相手の話を鵜呑みにせず常にリスクとその対応を考えることが必須であることを学んだ。
とは言え、OEMビジネスを長く続けていると注意しながらも避けられないこともある。
見込みより売れないと分かると途中で引き取りを止める客は少なくない。
生産の一部が在庫になるケースがどうしても起こる。
ある意味、モノを造る会社にとってこれは宿命的なものがある。
相手先ブランドでものを作るOEMビジネスは初めに(見込み)利益が確定できる反面、想定外の在庫で利益が飛ぶ事もままある。
ならば自社ブランドでやる、という考えも浮かんでくる。
それはそれで別のリスクがあるが
OEMは顧客の意向に沿って作るのに対し自社ブランドは自分のアイデアや計画で作れる。
鈴木さんとの縁
KJ(ケンテックスジャパン)は94年の設立スタート後、妻と山田さんにパートさんが加わり三人で切り盛りしていたが売り上げが伸びず一年が過ぎても赤字から脱出できていなかった。
山田さんは設立時、直前でシェアを入れることを躊躇されたので発起人に加わらず社員として定収を得ていた。
どちらかというと指示待ちでいまひとつ仕事への積極性が感じられなかった。
車がエンジンをふかして動き出すようにスタート時には多くのエネルギーが要る。
創業時に七転八倒した私にはいささか物足りなさを感じていた。
妻からも不満の声が出たので95年10月に山田さんと話し合い、目標を決めて頑張ってもらうようにうながしたが結局翌年に退社することになった。
そのニュースが入ったのかタイミングよく96年3月、日本の時計組立会社、田村時計の社長から連絡が入った。
不景気で国内組立の仕事が減り、人員削減の折り鈴木さんを業務兼営業として出向させてもらえないかという提案だった。
鈴木さんは田村時計勤務10年ほどでオリエント特販との窓口などもやっており衣料品の営業の経験もあった。
年を聞いたら「ウーン、43ぐらいだったかなあ」。
ちょうどいい年齢と思い私は鈴木さんを面接、5歳ほどサバ読んでくれたことを後で知ったが人が良さそうで正式に入社してもらうことにした。
これも神様がくれた縁と感謝している。
鈴木さんの入社は大正解だった。
当初は仕事の違いに戸惑いも見られたが徐々に自分のスタイルでエネルギッシュな本来の馬力を発揮してくれるようになった。
一人でOEMの営業から出荷作業、果ては修理作業まで仕事の幅を広げていき私の番頭役としても大いに助けてくれた。
理屈は得意でないが行動力は抜群。
天性的な明るさと人の好さで誰とでもすぐに親しくなれる性格は顧客からも好かれた。
声が大きくいつも元気、時折下ネタを飛ばしては女性陣を困らせることもあったが私と同じ団塊世代、早くに父を亡くした境遇も似ていてウマが合った。
私は香港と日本を行き来する生活だったが日本に戻るたびに鈴木さんと一杯やることが多くなり何でも話し合える仲となった。
世界経済の悪化と日本の戦後最悪デフレ不況
90年代後半になると世界は不況に向かっていた。
1997年、タイを中心に始まったアジア通貨危機はアジア各国の急激な通貨下落と金融危機が起こりインドネシア・韓国経済が大きな打撃を受けマレーシアや香港もダメージを受けた。
アジアにとどまらず98年からのロシア通貨危機、99年のブラジル通貨危機につながり世界経済は悪化、世界同時株安がおこりデフレが進行した。
当時、世界では唯一中国だけが猛烈な勢いで伸びていた。
日本はバブル後の91年以降、長く不況が続いていたが97年4月の5%消費税が追い打ちをかけマーケットはさらに縮小、販売不振と企業の倒産が増え深刻な状態が続いた。
97年に山一證券の自主廃業、北海道拓殖銀行倒産などの金融破綻がおこった。
GDPがマイナス3.5%と戦後最悪となり本格的なデフレ経済に突入。
銀行、会社、個人の信用収縮が起こり、デフレがデフレを呼ぶデフレスパイラルに。
98年には戦後最悪の不況と言われるようになり雇用が収縮、就職氷河期でフリーターや派遣社員の道を選ぶ大卒者が増えた。
為替は95年の円高80円をピークに急激に円安方向に転換、3年後の98年8月には148円の円安で当社香港の日本向けの商売はいっそう厳しくなっていた。
海外にまたがるビジネスはいつも為替に振り回される。
それまでの右肩上がりで伸びる図式は様変わりし会社を取り巻く環境は激変した。
時計産業が成熟化し低価格化によるビジネスの付加価値が下がる。
世界的なモノ余り現象と市場の冷却化で物が売れない時代に。
会社として生き残るために不況と数量減に対応できる体質づくりが急務となった。
98年4月、私は会社の置かれた現況と今後の課題を整理したうえで危機意識を社員に共有してもらうためにスタッフ全員を集めた。
英語を理解しないスタッフもいるのであらかじめ用意した文章をEddie陳に広東語に翻訳してもらい英語で説明した。
その時の要旨は以下の点だ。
- 滞留在庫の削減(マレーシアOEMデッドストックの整理、減少)
- 経費人件費の削減(香港の労働コストが高く生産関連業務の中国シフト)
- 品質異常による損失コストの低減(設計から製造出荷までのミスをなくす)
- 購入部品の原価低減
- 日程短縮(競争力アップと在庫減につながる)
- ドルベースの売り上げを増やす。
- アメリカ、ヨーロッパなど比較的好景気なマーケットの開拓
- セールスパワーアップ(売り上げを作るスタッフの強化)
香港の労働コストはインフレで毎年上昇、日本と比べてもすでに割安感はなかった。
物を作る多くの会社は香港のスタッフを極力減らし中国にシフトする動きが加速していた。
中国組立工場の引き取り、自社工場へ
KentexTimeはOEM時計の最終組み立てを当時中国内に工場を持つAsino(安沙)という組立会社(本社香港)に委託していた。
Asino中国工場は当時170名ほどの人員でHerald Electronics(興利)という香港の顧客をメインに月産20万個を超える組立作業を請け負っていた。
Asinoの組立ラインはアメリカ向けの安物が主体なため当社製品との品質レベルの違いがあり作業の質の違い悩まされていた。
96年半ば、当社KTの生産数が月4万個近くになったころ品質向上を目的にAsinoと話をして空いていた3階スペースにKT専用の検査、組立ラインを設けた。
KTが採用した中国人スタッフの意識と質を上げるために香港のEddie陳, 矢野、 Rico, Mimi(もとセイコー香港の検査員)らが頻繁に工場に出入りし、教育、検査などの技術指導、工場の管理強化でレベルを上げる努力をした。
それまで外装設計、技術、生産管理など香港で行っていた業務の中国シフトが進み香港人数名が常駐するようになった。
当時、中国人ワーカーの給与は500HKD(寮費含む)程だった。
陳が責任者となりセイコー時代に培った検査知識やノウハウを導入、日本的QC(品質管理)を取り入れたレベルの高い工場を目指した。
97年5月にKJの鈴木さんが香港出張の際にKT中国工場を視察した際、きれいに管理された組み立てラインを見て感心していた。
ところが98年3月、突然そのAsino本体がクローズするという話が出てきた。
彼らは安い単価で組み立てを請け負う付加価値の低い賃仕事で経営が行き詰っていた。
本来はメイン顧客であるHeraldがどう支援するのが筋だが買い取る意思はないとのことでKTが後を請け負うかどうかになった。
数字を調べていくと売り上げ25万HKD程度に対し工場の経費が35万HKDで毎月赤字を累積、負債は香港が300万HKD、中国工場は家賃滞納等で40万HKD程あることが分かった。
その後、Asino香港本社は負債含めて先方で片づけてもらい、中国工場をKTが肩代わりする方向で検討に入った。
10万個を維持する設備と必要な人員を検討、工程別に人員を割り出しワーカー
が100名、間接スタッフが20名、合計120名で経費はかなり切り詰めても24万HKDとなった。
工場のメイン組立依頼客であるHeraldはアメリカ向け安物主体でこれ以上の組立費アップを了解できないという。
リスクは高いと判断、ビジネス環境は最悪のタイミングでどう生き残るかを優先しなければならない状況だったのでここで火中の栗を拾うことは避ける結論とした。
しかし数日後、Eddie陳と黄謄達(Herald担当のAsinoのDirector)の二人が揃って私に何とか継続してもらえないかと改めて懇願に来た。
私としてもできることならここまで努力して育てた体制を無為にはしたくない。
私は組立数を10万個体制、工場経費を20万HKDまで削減するよう条件を出して了解した。
その後彼らの努力で9月の時点で147名まで人員削減、経費は30万HKDを切るようになりその後も状況は改善されてきた。
しかしさらなる景気の悪化でHeraldの仕事は減り続け収支のマイナスが長く続いた。
98年8月から99年7月までの1年分のデータを見ると組立数が平均約10万個で累積収支は48万HKドル近くのマイナス、月平均で約4万HKドルのKTの持ち出しが続く状況だった。
私は中国工場をこの先どうするか迷った。
果たして独自の中国工場を持つのが本当に正解なのか?
中国工場を持つ意味をあらためて整理してみた。
メリットは;
・KT独自の品質管理体制が構築でき高い品質を確保、維持できる。
・労務費が安くワーカーや大卒スタッフの採用が簡単(当時)
・OEM顧客に対し自社工場としての信頼性、宣伝効果がある。
・スペースに余裕がありいざというときの拡張も可能。
・同じ大陸内で外装部品の調達フォローを強化できる。
・将来の中国拡大の拠点としての可能性がある。
デメリットもある。
・中国工場のオペレーションは複雑で困難が伴う。
・管理役人との交渉調整など面倒さが伴う(袖の下など)
・香港スタッフのパワーが二分される。
・中国人ワーカースタッフの能率モチベーションの低さ(労務管理の問題)
・香港と中国工場の2社で経費が増大(通信、交通ほか)
99年8月に陳、矢野、私、それにEddy梁(外部会計士)の4名で中国工場LandTimeをどうするか善後策を話し合った。
いくつかの代替案もあったが最終的には現工場を何とか継続する動きに再度取り組むことになった。
その後中国管理区(役所)との家賃交渉でそれまでの2フロア分の家賃が1フロア分の家賃となり(アンダーテーブル?)、Heraldからは組立費値上げの代わりに工場の固定費を補うカバーチャージ設定を了解してもらった。
しかしその後もHeraldの数量が落ち込みカバーチャージの額も当初の18万HKDから段階的に8万まで落ちいよいよ継続運営が困難になった。
このころになると工場全体の組立仕事が減る一方で当社KTの比率が大きくなっていた。
結局、中国工場はKTビジネスの安定した品質を維持供給するための自社工場であるとの観点から香港との連結で採算を見ればいいという判断に頭を切り替えた。
2002年5月、Heraldに代わり工場のすべてのカバーチャージを持つことにし
この時点で中国工場は実質KTの傘下になった。
8月、KTが新たに出資設立した香港の会社LandTimeを中国特区来料加工LandTimeの100%ホルダーとして正式にKT所有とした。
以降、当社は香港本社と中国工場を含めた大きな経費を抱えることになったがその後LandTime中国工場はEddie陳をはじめ香港スタッフ、中国スタッフの努力でさらに高品質の時計を作る工場へとレベルアップしていく。
99年にはCNCマシンを購入して職人を養成、Bs素材で新デザインのサンプルを作るダミーサンプルチームを結成し新デザイン開発力を強化している。
香港返還
話は変わるが97年は香港が中国に返還される節目の年だった。
この年、返還を前に香港は世界中から注目された。
1997年6月30日、チャールズ皇太子と江沢民国家主席、ブレア首相と李鵬首相が出席し盛大な返還式典が行われた。
私はテレビ中継を見ながら歴史的なその模様をビデオ録画した。
返還後に香港特別行政区政府が成立し、歴代最後の香港提督パッテンが香港を去り董建華が初代行政長官に就任した。
駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍が駐屯することになった。
香港の「高度の自治」を明記した1984年の中英共同声明は1997年の返還から50年間適用されるとしていたが、その後中国の管理統制がじわじわと強まっている。
2014年の雨傘運動、2019年の逃亡犯条例改正案をめぐる反政府デモなど中国に抗議する民主化の動きは今も続いており香港の自治がいっそう怪しくなってきている。
香港の国際的なビジネスの魅力、そして言論、宗教の自由が今後も保たれるのか。
世界の都市ランキングで香港は常にトップレベルにいるがこの先どうなっていくのか。
永く香港に関わってきた私としては気がかりであるがおそらく形は変えても金融都市としての機能、中国の窓口としての役割は今後も続くと私は考える。
なぜなら中国共産党の幹部にとってもそれを維持することが彼らのメリットであり、必要でもあるからである。
邱永漢先生が存命であればどう見るだろうか。天国の先生に聞いてみたい。
スイスバーゼルフェア出展とケンテックスブランドの始動
さて、“私の履歴書”も回を重ねいよいよ本丸のKENTEXブランドの話にたどり着くことが出来た。
私のノートと過去の資料を眺めていると過去の記憶が時系列で蘇ってくる。
私の精力を注いだ数々のKENTEX時計についてその思いやものづくりを次号から振り返っていきたいが今号ではKENTEXブランドの生い立ちから始めたい。
KENTEX時計の歴史はバーゼルフェアから始まる。
97年4月、世界の時計の祭典であるバーゼルフェア(正式名BASEL WORLD)を視察した。
マルマン一行とのバーゼル訪問から5年後の二度目のバーゼルだったが目的は翌年の出展を目論んでの下見だった。
この時イタリアベネチアのジュエリーウォッチショップADRIANOと初めて会った。
バーゼルで会ったADRIANOとのシーンは今でも鮮明に記憶に残っている。
その時は60代後半と思われる創業者のアドリアーノさんと息子、娘、その旦那の4名で仲のよさそうなファミリーだった。
ブースを持つ前だったのでメイン会場前のテーブルにOEMサンプルのロールを広げて商談、その中のスポーツモデルS82Mを気に入りショップのクリスマス発売に向けて作りたいということになった。
ブランドは当然ADRIANOと思っていたが意外にもKENTEXがいいと言う。
KENTEXの名前と響きがいいと言ってくれた。
当社初の、そして世界初のKENTEX時計が誕生することになった。
ステンレス10気圧クオーツクロノグラフ(OS60)で97年7月に生産投入、ダイアル4色で計200個の注文だったがそこに日本での発売を目論みわずかな数量を上乗せ生産した。
そしてこれがKENTEX時計の日本での小さなデビューとなる。
97年8月、インターボイスの伊藤(取)、内田さんと会いこのKENTEX S82Mの日本発売に向けて初めて時計誌広告の商談をした。
12月,KENTEX初の時計誌広告となるS82Mの縦長三分の一ページ広告が載った。
直後に大阪の東急ハンズから電話が入り喜んで鈴木さんと二人で大阪に出張し面会の後置いてもらうことになった。
ハンズは常にめずらしいもの、新しいものに目を光らせている会社のようだ。
ここでたびたび出るS82Mについて少し説明を加えておきたい。
Kentex社では当初から時計の社内呼称をSports, Elegance, Ladies, Fashionの4つのデザインジャンルに分けそれぞれの頭文字S, E, L, Fに001からの追番をつけ、最後にManとLadyの区分をつけるようにした。
S82MはSportsの82番目に生産されたメンズモデルという意味になる。
S82Mは95年にAlexがデザインした小ぶりで丸みを帯びたデザインの回転ベゼルつきダイバーモデルだったがラグの形状が角張っていて違和感を感じたので私は柔らかくカーブしたよりComfortableなラグデザインに変更、95年の香港フェアで多くの客から引き合いの出る大ヒットモデルとなった。
当時日本でも行く先々で採用を希望された人気モデルだ。
その後ADRIANOとはS162MボーイサイズSSケース10気圧を12月に生産投入、角形ケースE190M/E190Lペアモデル男女各300個を98年5月に投入した。
このころはまだKENTEXブランドのこだわりもなくどちらかというとOEMの延長でモデルに会社の名前を入れる程度の感覚だった。
98年4月バーゼルフェアに初出展
かつてセイコー時代にあこがれの場だった世界一の時計の祭典であるスイスバーゼルフェアに自分が出展するとは思いもよらなかったがそれが98年に現実となった。
巨大なフェア会場内にある香港Delegationの一角が出展スペースとなる。
KTとして初めての出展には私を含め香港から3名で出張した。
このフェアにはヨーロッパをはじめ各国のOEM客先がブースに訪れる。
フェアに来る連中は大方が会社のトップでバイヤーでもあり目の肥えたプロが多い。
当社モデルは価格で勝負する他の香港会社とは一味違う質の高さがありヨーロッパの客先からデザインと品質の両面で高い評価を得た。
Adrianoとは事前に連絡を取りチューリッヒのホテルで再会した。
彼らはベネチアからスイスまでアルプス越えでドライブして来たと言っていた。
セイコーインスツルの元上司、鎌田さん(当時時計事業部長だったか)やデザイン小野寺部長、桜井部長らが当社ブースに立ち寄ってくれた。
このフェアでは成美堂出版の事前手配でヨーロッパで活動していた日本人女性ライターが取材に訪れ「質実剛健なKENTEXブランド」と後に記事に紹介してくれた。
フェア中にドイツやイギリスの客などKENTEXブランドの販売に興味を持つ会社も現れたがこの時はOEM受注メインでフェアに望んでいたのでブランドとして販売できる商品もなくブランドビジネスを始める何の準備も出来ていない状態だったので、ブランドビジネスにはつながらなかったがヨーロッパの客の良い反応を得ることが出来た。
そしてこの時のバーゼルフェア参加は私にブランドという意識をあらためて目覚めさせることになった。
バーゼルフェアは期間が8日間と長くたっぷり時間があったので私は期間中にメジャーブランドが集まるメイン会場を繰り返しくまなく回った。
世界の時計ブランドが一堂に集まるバーゼルフェアは年一回の祭典に向けて各社総力を挙げた新モデルを発表する。
そしてそれを目当てに世界中から時計商や時計ジャーナリストが訪れる。
私は一流ブランドの数々の時計をひとつひとつ丁寧に見ているうちにしだいにその素晴らしさと美しさに目を見張り、興奮した。
聞いたことのないマイナーなブランドでさえスイスの伝統的な時計づくりに裏打ちされた完成度の高い時計がそこにあった。
やはり時計王国スイスの歴史と伝統で培った時計技術はすごいと舌を巻いた。
KENTEXブランドの始動
たくさんの素晴らしい時計に刺激され私の中で眠っていた職人根性が目を覚ました。
もっといい時計を造りたいという気持と、ブランドへの夢と思いが芽生えてきた。
所詮、ナショナルブランドの足元にも及ばないだろうが
小さくても個性が光るブランドになりたい。
そんな気持ちが私を襲った。
98年のバーゼルフェアは私に感動と夢をくれる舞台となった。
香港に戻ってからもブランドに対する思いが徐々に強くなり、そしてデザイナーのLamやAlexにもその思いが共有されKENTEXブランドが本格的に動き始める。
自分が気に入ったデザインのOEMモデルに少しずつ上乗せしKENTEXモデルのコレクションを増やしていった。
S82M(Leopard), S162M(Romeo), に加えS122M(Confidence),S165M(Prestage),
S172M(Dynastar), S185M(Aviator), S191M/S191L(Adriano), S193M(Diplomat),
などが初期のKENTEXモデルとしてラインナップ。
98年11月にケンテックスとして初めての自主企画モデルS143Mクロノモデルを開発、99年3月に初のSKYMANを発売した。
ケースはサティン仕上げと梨地仕上げ(サンドブラスト)の2種。
バイクや航空機の計器をイメージした見切りが大きく、深く入り込んだすり鉢状のダイアル、カーブしたガラスが特徴で黒を基調とした精悍で個性的なモデルになった。
初期のKENTEXコレクションが出揃い、それぞれの商品名(サブブランド)をつけて98年末に香港で初めてカタログを作成、その後KJの鈴木さんが日本での営業を始めた。
98年、このころインタ―ボイスから独立したサーティーズ内田さんと時計誌での広告を始める。
99年、内田さんに依頼し30万円のわずかな予算で会社概要、製品カタログ、新着情報など13ページ程度のコンテンツで初めてホームページを立ち上げた。
99年9月、ブランドのコンセプトがメディア向けに必要と言われケンテックスブランドの考えや思いをメモしたものを整理まとめて「KENTEX WATCHについて」と題して雑誌社にリリースした。
そのコンセプトにはこう記している。(原文のまま引用)
「いつも流行を追った奇をてらったものではなく、全体にシンプルな中にも飽きのこない優れたデザイン性と、見て心地よい美しさがあること。
そして、デザイン性の良さとともにディテールを大事に丁寧に仕上げた作り込みの緻密さ、長持ちのするしっかりした造りであること。
本当に良いものをリーズナブルな価格設定とし、誰でもデイリーユースとして気軽に腕にはめ、満足できる時計であること。
何よりも時計作りの根底に流れるのは、本当に自分が腕につけたいと思う最高の時計を造ろうとすることであり、大切なのはその情熱である」
あらためて読んでみると今の自分のブランドに対する考えと全く同じだ。
20年以上が過ぎた今もこのコンセプトは活きている。
驚きとともに少し嬉しかった。
99年9月の香港フェアではKENTEXモデルが充実しブースでの展示にも力が入った。
それまではすべてOEM用モデルの展示だったがこのころからKENTEXブランド時計を並行して展示するようになった。
その結果、図らずも顧客はOEM用モデルよりもKENTEXモデルに注目しその(OEM)採用を希望する傾向になってしまったのは想定外だったが私自身はブランドへの強い思いからその後もKENTEXモデルの開発に集中した。
これ以降、当社スタッフと多くの関係者の協力を得ながら私のKENTEX時計造りがさらに本格的になっていく。
私の思いのこもった作品の数々を次号から紹介していきたい。
さて今回は内容が盛りだくさんで長くなってしまったがこの項の最後に99年12月の香港KTスタッフのタイ旅行で締めくくりたい。
89年に創業してから10年が過ぎた99年12月。
苦しい時期もあったが何とかここまで来ることが出来たので10周年記念として全員のバンコク旅行を企画した。
スタッフと一部家族も含め総勢21名ほどのバスツアー、若い人たちも多かったのでみんなでわいわいタイフードを食べマリンスポーツを楽しんだ。
95.3.マレーシアで開催された香港ウォッチフェア。左から私、Eddie陳、Terence.
98年バーゼルフェア 初出展
初のKENTEXモデル、S82M クロノ(Leopard) 97年12月発売
KENTEX 初のSkyman S143Mクロノ 99年3月発売
99年ころ、デザインチームとミーティング(左からAlex, 私、Lam, Ching)
99年ころ、KTの中国工場 LandTime(時栄)
99年 バーゼルフェア KENTEXブース
99年バーゼル、バーデンワイラーホテルにてKTスタッフ(左からAlex,私、陳、Sacky)
99年 バーゼルフェア ブースにてドウシシャ小早川Bと長島さん
99.9.香港ウォッチフェアブースで スタッフと
99.9 メディア向けにまとめた”KENTEX WATCHについて ”リリース文
99年12月 創業10周年記念のタイ、バンコク旅行
新型コロナに伴う緊急事態宣言発令について
皆さまごいかがお過ごしでしょうか。
中国武漢で起こった新型コロナが世界中で爆発的に拡大し予想もしない様相になってしまいました。
100年に一度あるかのパンデミックですが今世界ではニューヨークはじめ世界の主要都市でロックアウト(都市封鎖)という信じられない状態になっています。
しかも日本とは違いそれは強制されるもので従わない人、会社には罰則があります。
日本は現時点(4月9日)で全国で約5000人(クルーズ船の感染者を除く)規模の感染者で死者は100人を少し超える数です。
海外に比べれば人口比で意外に少ないと言えますがいよいよ日本でも7日に国の緊急事態宣言が発令されました。
それに伴い東京都初め指定された各県毎の緊急事態宣言が徐々に出始めます。
個人的には一週間早く宣言が出ていれば都内のお花見気分などで気を抜くこともなく今少しおさえられたのではないかという気もします。
日本での緊急事態宣言は諸外国に比べると罰則もなくかなり緩やかなので個人の意識と責任に委ねられる部分が多くなってきます。
人権を尊重するという表向きと経済をこれ以上悪化させたくないという判断との天秤で決められた決断かと思います。
強制しなければ補償も緩やかなものにできるという裏事情(本音)も見え隠れします。
いづれにしても一刻も早く国民全員が気を引き締めて感染を防ぐという気持ちと体制をとることが必要だと思います。
どうか皆様方におかれましてはこの新型コロナ感染の危機から逃れるための日常のお仕事、生活において最大限の注意を払っていただくようお願い申し上げます。
密閉、密接、密集の三密を避けると共にとにかく頻繁な手洗い、うがい、そしてマスク着用の三つの基本も怠ってはいけないと思います。
ウィルスは石鹸の泡に流れやすいという記事がありました。
それと鼻や口、目を手で触らないことがかなり有効であるとのことです。
緊急事態宣言に伴い休業、テレワークなどによって自宅にこもることが多くなると思います。
ずっと家にいるとストレスもたまりますが一生に一度あるかないかの出来事ですのでここは冷静にみんなが感染防止に協力する姿勢が大事かと思います。
普段家庭サービスがままならない方にとっては家族と触れ合うチャンスではないでしょうか。
家にこもりっきりでなく時には近くの公園にでも家族と出かけ人と距離をとりながら新鮮な空気を吸ってリフレッシュするのもいいでしょう。
一方で先日、国連事務総長から世界でDVが急増しているという報告がありました。
普段適当に距離があった家族が24時間べったりとなると思わぬ不満やけんかとなりかねないことがままあります。
つい最近、日本でもありましたね。
コロナ失業で収入減をなじられ怒った夫が妻を殴り死亡させたという悲しいニュースです。
他人事ではないですね。
このコロナ危機で株は暴落、飲食店、居酒屋はじめサービス業、ホテル、観光、航空会社、イベントなどほぼすべての会社にとって未曾有の危機です。
大企業ばかりでなく中小零細企業には死活問題でたいへんな状態です。
しかもこれは今世界中で起こっています。
みなさん、今は誰にとっても厳しい状況ですがここは辛抱して冷静にこの危機を乗り越えるために頑張りましょう。
昨日、首相から過去にないGDPの2割という触れ込みで最大規模108兆円との緊急経済対策の発表がありました。
しかし、どうやら中味に乏しい数字のからくりということが分かってくるとこれに対しいっせいに批判が出ています。
あまり言いたくないですがやたらと修飾語の多いうわべだけの言葉を感じてしまうのは私だけではないと思います。
この数字はもろもろすべてを含めた事業規模での総計であって、真水と呼ばれる実際の政府の財政支出は16.8兆円(GDPの3%)しかなくこの危機的状態では全く不足と思われます。
しかも30万円の現金支給という聞こえのいい言葉は細かい条件がついていてほとんどの家庭でその対象になりません。
アメリカの2兆ドル(220兆円)の実質真水に比べると全く情けない数字です。
これは財務省の案をそのまま発表したのだと思いますがこの未曾有の危機に際して政治家としてのプライドはないのでしょうか。
野党や自民党の一部(消費税減税勢力)からも消費税減税(0~5%)の提案が出ていますが私はこの日本の景気(GDP)が20年間一向に伸びずに、しかも米中貿易戦争による冷え込みにこのコロナ不況が加わる極端な落ち込みを回復するためには有効な対策ではないかと考えますが今の政府自民党幹部には全くその気はないようです。
今の政府は果たして本当に国民の味方なのかと思ってしまいます。
ちなみに私はアンチ自民党でもなく野党派でもありませんが今の日本の政治や内閣の姿勢には不満を持っている一人です。
利権に染まらず信念を持った政治のプロが少ないように感じます。
お金の苦労を知らない二世議員も普通の国民目線で世の中が見えているのかはなはだ疑問です。
が、ここではあまり政治的発言は控えましょう。
本気で日本の将来と人々の幸せに目を向けた国民のための政治を望みます。
新型コロナはこの先数か月で鎮静化するものではなくおそらく長期化するとの説が専門家の間で言われています。
どんどん変化ししぶといウィルスのようです。
予想に反して早く鎮静化すればありがたいですが100年前のスペイン風邪でもいったん沈静化に見えた後に第二波、第三波とあり本当に終わるまでに2年ぐらいかかったようですので皆さん、気を緩めずに引き続きご注意ください。
どうかご本人はじめご家族の方も気を付けてお過ごしください。
私自身も高齢者の重篤化にならないよう今は外出を極力控えています。
一日も早く鎮静化し世界が正常に戻ることを心から祈っています。
私の履歴書 第十七回 時計OEMビジネスの拡大と日本オフィス設立
平成4年(92)5月、元気を取り戻し,家族との香港での生活が復活して心身ともに充実、香港でのビジネス活動を本格的に再開した。
このころ日本ではバブルが弾け株価低迷と地価下落の複合不況に突入した。
日経平均株価は平成元年(89年)末の最高値38,915円をピークに暴落に転じ平成5年(93)末には、株式価値総額が89年末株価の59%にまで減少した。
全国の地価は下落し始め、93年には全国商業地平均で前年比10%以上の値下がりを記録した。
本格的な不景気突入を背景に世の中は低価格指向に動き出す。
当時その最先端を走っていたダイエー創業者の中内功氏は(それまでモノの値段はおよそメーカーが決めていたが)「これからはストアが価格を決める」と主張、消費者優先の理念で「良い品をどんどん安く」という価格破壊志向が世間に歓迎され市場はさらなる低価格化に動いていた。
93年には一着1900円のスーツや、スーパーのプライベートブランド商品などの激安ブームが起きそれが時計市場にも波及、5000円以下の時計が店頭に増えてきた。
サンキュッパ(3980円)、ニッキュッパ(2980円)、イチキュッパ(1980円)という時計が多く出回るようになり数量ベースでは量販店での販売が主流となってきた。
店先で吊るして売る「吊るし商品」が増え1000円を切る安物時計も出回るようになる。
時計がなぜそこまで行ったのか。
ここで私なりに解説を加えたい。
近年の時計の歴史を振り返ってみると
1969年世界で初めてクオーツ腕時計(諏訪精工舎デジタル時計アストロン)が開発されそれまでの機械式時計に比べて高い精度が話題を呼び人気となった。
発売当初は35万円もしたクオーツ時計が70年代から下がり始めると爆発的に拡大、80年代に入ると世界で拡大、さらなる大量生産による低価格化が加速した。
スイス勢も遅ればせながらクオーツ開発に参入、メーカー間の競争が激しくなる。
セイコーやシチズンも必死に合理化によるコストダウンに努めた。
80年代にはカシオの時計参入でさらに競争が激化、デジタル時計をはじめ時計の低価格化が一気に進んだ。
カシオの参入は精密機械独自の文化だった時計業界に「大量生産で安く」する電子メーカーの論理が吹き込まれるものだった。
クオーツムーブメント(駆動体)、特にデジタルは電子部品なので歯車やぜんまいなど製作が難しい精密機械部品を必要とせず電子メーカーの参入しやすくなる。
必然的に大量生産による時計の低価格化が加速した。
私が子供の頃、腕時計は贅沢品で持っている人は少なかったように思うが気がついたら巷にあふれ玩具と似たような扱いになってしまった。
一方で70年代のクオーツショックで壊滅状態となったスイスの時計産業はスウォッチグループが中心となった機械式時計のラグジュアリー路線が功を奏し80年代半ば以降に奇跡の復活をとげた。
オメガ、ブレゲ、ロンジン、ブランパンなどスイスの名門時計ブランドは高級品のマーケティング戦略で息を吹き返し売り上げが急増、80年代後半にはスイスの時計輸出額は再び日本のそれを抜いた。
クオーツやソーラーなどの技術や低価格路線を追求していた日本の時計産業は円高の影響もあり皮肉にもこの時期から衰退につながる。
この教訓は後に私がケンテックスブランドを初めてからのブランディングの考え方にも影響を及ぼしている。
話を戻すと
この90年代初め、低価格指向が加速し時計がどんどん値下がり、数量が増える中で私は香港を拠点に時計のOEM生産活動に従事した。
二国間にまたがる貿易において為替の変動はビジネスを大きく左右する。
追い風になるときもあれば強い逆風になるときもある。
これは私が長く海外でビジネスをしてきた強い実感だ。
90年から再び円高トレンドが続き94年6月には戦後初の100円突破になった。
当時の円と香港ドルの為替を見てみると90年の1香港ドル18.6円から95年の12.2円までの5年間で52%円も上昇している(年間平均レート)。
これは年率10%のコストダウンを5年間続けたのと同じことになる。
私が香港で創業の理念とした「日本品質を香港価格で提供する」という戦略は日本市場の低価格指向と円高のダブル追い風にのって大いに歓迎された。
時計の大量生産と低価格化進行で搭載するムーブメントも下がり、同様に外装部品の低価格化需要も強まった。
このころ日本の顧客を回るとあちこちで量販点向けの安い時計ケースを要望された。
安くできるのはプラスティックと亜鉛合金でどちらも市場で急増した。
プラは軽さと見た目で高級感はないが亜鉛合金は金属なので比較的高級感を出し易く、ダイカスト(射出成型)加工で価格も下げ易い。
一方で品質が不安定なデメリットもあり腐食などの経時品質劣化がおきやすくそれを防ぐ製造ノウハウが必要とされた。
私はセイコー時代、亜鉛合金ケース開発の経験からその品質的危うさを知っていたので香港のメーカーを慎重に選び92年ごろから品質テストを進めた上で万世工業(マルマン向け)の要望で投入を開始、その後数年にわたり大量の数を生産した。
しかし、一方で低品質の亜鉛合金ケース時計が香港他社メーカーから大量に輸出され品質問題が多発、その後市場での亜鉛ケースの信頼性をなくした経緯がある。
当時マルマングループの国内での時計販売が拡大、時計製造を受け持つ万世工業とのビジネスは増大し低価格から中級品までORCA(20気圧SSダイバー)、Bivourc(10気圧)、Rayard(ドレス系)、Fem(レディス)など相当な数の時計を生産した。
マルマン時計ビジネスがスタートしたころ、92年4月に量販店大手などのマルマンの得意先一行を招待したスイスバーゼルフェア視察旅行に同行する機会があった。
引率リーダーは当時マルマンの時計販売を引っ張っていた時計企画本部長の高橋さん。
セイコー時代にバーゼル出張者の視察レポートを見ていた私にとってそこはあこがれの場だった。
初めてのヨーロッパ、初めてのスイスバーゼル視察そして宿泊地ドイツの別荘地バーデンワイラーはとても印象に残り今でも鮮明に覚えている。
バーゼルフェアの後、顧客一行のパリ観光があったが言葉ができる人がいないという理由で下手な通訳兼という役で同行させてもらったがその時私が撮った写真がマルマンの得意先に配れて助かったと後日高橋さんから感謝のお手紙をいただいた。
高橋さんの人脈を大切にする人柄を感じた。
当時香港にあるHOL(Hattori Overseas Ltd.)は当社のメイン顧客でALBA-Xと呼んでいた東南アジア向けALBAの生産を請け負った。
東南アジア市場の販路拡大のため企画から出荷までを一貫して香港で遂行するプロジェクトだがスタート当初の年70万個から100万個を超す勢いに成長していた。
時計製造はSEIKOグループ内のEPH、SIHの2社に香港ローカルの時計製造会社7社ほどが参加、当社も初期の頃から参加する機会を得た。
年に3回の企画でカテゴリー別コンセプトが示された後各社のスケッチ提示で始まり他社との比較競争の中で決まるためこの仕事を取るにはデザイン力が必要不可欠だった。
このころから提案力を強化するためにデザイナーを増員、常時3名の時計デザイナーを擁するようになった。
当社は日本顧客向けの仕事をやっていたこともあり香港7社の中でも洗練されたスケッチ提案が出てくると評価されるようになった。
ALBA-Xのコスト対応はかなりきつく利益率は低かったが1モデル3000個以上と数量規模がありビジネスの大きさに魅力があったので必死に食らいつくことで会社としてのコスト競争力がつくと判断し前向きに対応した。
数が大きいとターゲットコストがめっぽう厳しくなるのはどこの世界も同じで世の中おいしい仕事はそう簡単に転がってない。
きついながらも頑張ってセイコーの仕事を続けたことが会社の信用となり日本はじめ海外の新規顧客獲得につながった部分は大きいと思う。
92年夏、HOLの小針さんとタイ、チェンマイの日系時計バンドメーカーを訪問した。
89年に設立、日本人数名、タイ人250名の2シフトで述べ500名で月産7万本のバンドを製作、社長から中国に比べ人の定着率がいいと説明があった。
中国以外にもタイなどに進出している日本の会社は少なくなかった。
小針さんと仕事をご一緒する中でセイコー独自の時計企画の進め方、例えば縦軸にDressyとSporty、横軸にAntiqueとModernをとったマップでのブランドの位置づけや顧客ターゲットを明確にする手法など仕事を通じて勉強になった。
KENTEX TIMEは香港を拠点に91年から毎年継続して香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアに出展した。
年を追うごとに会社の名前も浸透し日本以外にも欧州、中近東、アメリカなどの客先が徐々に広がり生産数も拡大、93年4月ごろ外装部品の調達拡大に備えてケースやバンドの新規メーカー開拓を始めた。
永漢(バンド)、実豊パワー(ケース)、信徳(ケース)佳時(ケース)平山(ケース)新生(ケース)興発(ダイアル)、景福、恒勝、Easy依時(いずれもケース)などセイコー時代の旧知のメーカーを訪問。
中国内にシフトした工場だがオーナーはほとんど香港人、旧知のボスも多かった。
各メーカーとも世界市場の拡大と強い需要に対応するためにマシニングセンターやプレス機械などの設備投資を積極的に進め生産キャパを増強していた。
200人から500人規模の中国人ワーカーを抱えケース生産数は月20万個から多い所で40万個という規模のところもあった。
中国人ワーカーの給与はマネージャーレベルを除くと日本円で1万円にも満たない安い労働力を得られていた。
当時はアメリカ向けなどの低価格品が多くケースの材料はBs(真鍮)や亜鉛合金が中心、高級品向けのステンレスケースはまだ3割以下だった。
92年10月に香港千葉銀行の大工原さんが訪問され口座を開設、その後千葉県人会を紹介され年末の県人会に出席した。
香港千葉県人会は千葉県ゆかりの人の年一回の集まりで現在も千葉銀行HKさんが事務局で継続、私は初期の頃から参加している古株のため数年前から県人会の会長を仰せつかっている。
大工原さんからHKTDCを紹介され運営するデザインギャラリーのほか香港内のチェーン店シティチェーンや西武などの日系デパートでの小売りを勧められたがそのころまだ自社ブランドがなく前に進められなかった。
香港政府管掌であるHKTDC(香港貿易発展局)は香港の産業と貿易拡大のための積極的なバックアップをしていた。
毎年9月に開催される香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアの主催を初め、春にスイスで開催される世界最大の時計宝飾見本市であるバーゼルフェア出展も賛助していた。
香港のウォッチ、クロックそしてジュエリーメーカーからなる一大デレゲーションが毎年大挙してバーゼルに出展し時計輸出は年ごとに増大、香港時計産業の拡大に大きく貢献していた。
(ちなみに日本にも日本貿易振興機構(ジェトロ)があるが日本の時計産業特に中小企業にバーゼル出展を推進援助する動きは見られない)
93年1月、ビジネスも順調に伸びていたので香港のインフレ継続を考慮して賃貸していたライチコクのオフィスビル(億利工業中心)内の7Fの一室をローンで購入した。
香港340万ドル(日本円で5000万程度)だったか、グロスで2100平方フィートとさらに広くなり改装後の4月に6Fから引っ越した。
93年半ば頃には日本マーケットの拡大に向けて日本オフィスの設立を模索した。
香港で創業して4年が経過し時計製造会社としての体制が整い次の飛躍のステップとして国内市場を拡大するため日本での橋頭保が必要と考えた。
そのころ以前面識のあった元ケースメーカーの山田龍雄さんが万世工業マレーシア赴任から帰国し退社したということで私にコンタクトがあった。
会って話をするうちに今の日本市場にあふれている時計はメーカーの高級ブランド品か香港から大量に流れている粗悪品の両極端に偏っていて「適正価格で良質の時計」が日本市場では今求められているという意見で一致、日本人が香港に拠点を持っている会社にチャンスがあるということで二人で日本の会社設立構想を進めることにした。
93年11月に日本法人設立のプラン「ケンテックスジャパン事業計画書」を作成。
設立の動機背景、会社の構想、事業内容、売り上げ計画、中期構想、ブランド戦略、商流物流ルートについてできるだけ具体的にした。
ちなみにそれを見ると自社ブランドビジネスを将来50%以上にすることや中国、東南アジアマーケット開拓のために上海オフィス、バンコクオフィスを構想、ブランド戦略はケンテックス以外にカテゴリー別市場別に第二、第三ブランドを考えていた。
このころ山田さんの紹介でドウシシャの長島さんと商談する機会がありドウシシャとの時計OEMビジネスの話を進める。
ドウシシャの社内説得資料として香港の時計製作の標準日程表やQAシステムなどを提出、94年に入りケンテックスへの発注が示唆された。
ちょうどこのころ山田さんから万世マレーシア工場から帰任する矢野という人材がいるという話があり期待して会ってみた。
矢野さんは早稲田の哲学科卒ながらバンドメーカー(都南精密)に入社というちょっと変わり種で当時34歳で私より一回り若かった。
マレーシアに赴任していたので英語も使える。
ギャンブルが好きだが仕事はまじめに何でもやると聞いていた。
会ってみると確かに麻雀競馬の話をすると止まらない人だがその分カンも良く頭の回転も速い。本好きで知識も豊富、仕事にも前向きな姿勢を感じた。
日本法人の事業計画案など私の考え、構想に魅力を感じてくれたのか経営者の一人として出資することにも同意、香港勤務も厭わないということでケンテックスの仲間として参加することになった。
私にとってはラッキーな出会いだったと感謝している。
94年春、ドウシシャと具体的な商談が進みBsバンドシリーズの注文が決定、ただしFOB(香港出荷)でなく国内納入が条件ということでここからケンテックスジャパンの使命と歴史が始まることになる。
4月にドウシシャ大阪訪問、東端常務ほか小早川部長など上層部に挨拶し仕事が正式にスタートした。
平成8年(94)5月に株式会社ケンテックスジャパンを法人登記し東京茅場町のマンションの一室でスタートした。
資本金1300万円、うち700万円を香港kentex Timeが出資した。
電話番号はNTTに元勤務していた兄の計らいで03-5846-0811(時計はいい!?)を取ってもらった。
その少し前の94年3月、子供たちは香港の中学と小学を卒業しそれぞれ日本の高校、中学に進学することが決まり妻と共に家族三人が帰国した。
妻は帰国後子供たちの学校処理で忙しい中ケンテックスジャパンの設立に加わりその後は山田さんと共にジャパンオフィスの運営に携わる。
矢野さんはジャパンの法人登記に尽力、設立後しばらくドウシシャOEM時計入荷品の検査ほか管理等の仕事をしてからこの年香港に赴任した。
ケンテックスジャパン設立後作成した手作りの会社案内に私は次のように記している。
「現在香港は世界一の時計生産国となっています。しかしながらいまだに安かろう悪かろうの商品がメジャーであることは残念なことです。
アジアの小龍香港はインフラが整い国際自由貿易都市でありながら背後に労働コストの低い中国を控える事から時計の生産拠点として最適の立地と言えます。
私はこの地において日本の生産技術と管理手法を取り入れて真に日本に受け入れられる優れた品質のものを安く製造し提供することに挑戦しております。
コピーではなくオリジナルを、安物ではなく良いものを造ることが今後の香港の課題であり日本人が現地に赴く意味があるものと考えます。
私どもはこれからもさらに良いものをプレゼンテーションし続けていきます。」
このころ多くの会社が香港に時計や外装部品の調達を求めて来社されたが日本に拠点を持ったことでより香港との接点が広がりビジネスに繋がったと思う。
当時,OEMの顧客は香港のHOL(SEIKO)と日本の万世工業(マルマン)の二社が大きかったが円高の継続でさらに日本のOEM顧客が増え95年度にはそれまでの最高の売り上げ5400万香港ドルを記録した。
94年4月には日本からオリエント時計の幹部が香港に来社。
上原部長、秋葉部長、浅川国内販売担当課長、HKオリエント船引社長9いずれも当時)らがオフィスに来られて香港オペレーション拡大をしたいとの話があった。
その後企画担当者や設計者らが来港されて具体的に新型の検討を進め正式に95年6月発売のSS10気圧モデル男女各2Kをスタートした。
この時期、日本では時計が良く売れていたので国内ではライセンスや自社PBで時計を製作販売する会社が増えクレファを始め多くの会社のオリジナル時計を製作した。
名前を上げるとUSC、オーク、寺沢製作所、ホッタインター、ベアフルト、日本プレシャス、マルチタイム、三協、フォート、白井製作所、大和エンター、フレンドリー、エスポワールシンワなどなどお世話になった会社は多い。
それぞれ会社ごとに市場、店舗が違うのでカテゴリーの違う数多いOEMの仕事を請け負った。
それらのいろんなジャンルの時計を作っていく中で時計製造に関わる幅広いノウハウと技術力が会社に蓄積されていった。
またOEM客先との商談のなかで私自身の市場の勉強や商売感覚も磨くことが出来た。
今思えばこの経験と知識の積み上げが後に自社ブランドスタートの礎になったと言える。
このころの世相を見てみよう。
93.5 サッカーの日本プロリーグ(Jリーグ)が開設される。
93.6.皇太子さま(現天皇)と雅子さんがご結婚
93. 不況による激安ブーム、ポケベルが普及
93.8. 連立内閣、自民党が分裂、日本新党、新党さきがけ、新生党などが連立し細川内閣が誕生。
94.6 松本サリン事件で7人が死亡。
94.6. 東京外為市場で円が99円台となり戦後初の100円突破を記録した。
95.1.阪神淡路大震災;神戸市で観測史上初の震度7を記録。死者は6400人超。
95.3.オウム事件;地下鉄で猛毒サリンがまかれ13人が死亡、5月に施設の一斉捜索で教祖らを逮捕。
野茂英雄、米大リーグに入団新人王になりトルネード投法が話題に。
2020(令和2年) 新年のご挨拶
皆さま明けましておめでとうございます。
令和がスタートして2年目に入りました。
今年の子年をチェックしてみたら
十二支の1番目に「子」がきているように、子年を植物にたとえると新しい生命が種子の中にきざし始める時期で、新しい物事や運気のサイクルの始まる年になると考えられている。
とありました。
いいことが始まるといいのですが新年そうそうアメリカとイランのきな臭いニュースが飛び込んできました。
北朝鮮かなと思っていましたがイランが先に来ましたね。
いい悪いは別にしてトランプさんが登場してから世界はずいぶん変わってきたように思います。
対中の態度も大きく変わり昨年中国の否定を国として明確にしました。
ウィグルなどの人権問題や香港の民主化運動にも耳を傾けず自分たちの論理を通そうとする中国政府には私も否定的です。
香港の民主化運動は多くの香港市民にも支持されておりまだ続くと思いますがどうなるか全く先は読めません。
もしかするとこの動きが世界や中国国内にも広がり中国共産党政権の変化につながるような流れも可能性としてあり得るかもしれません。
さて、ケンテックスですが
おかげさまで私が香港で創業してから30年が過ぎました。
ここまで来られたのはひとえに皆様のご支援があったからこそと心から感謝しております。
そしてこの記念となる年に私どもにも新しい動きがあります。
今年1月25日、秋葉原に二店目となる新店舗をオープンいたします。
近いうちにホームページで正式な案内が出ると思いますが駅からすぐ近くでアクセスがいいのでぜひ立ち寄ってみてください。
どちらかというと自衛隊モデルやMOTO-Rなどのモデルが主体になるかと思いますが自動巻きも並びますのでご期待ください。
どうか皆様にとって新しい運気のサイクルが始まる年となりますよう心から願っています。
皆様の今年一年のご健康とご健勝をお祈りしております。
橋本憲治