私の履歴書 第十四回 課長昇任と香港会社設立

 

1988年(昭和63年)5月に帰任。

久しぶりに千葉県鎌ヶ谷の我が家に戻り5年ぶりの日本の生活が始まった。

不在の間、親戚の甥に住んでもらっていたが庭もだいぶ荒れていたので趣味の庭いじりをまた始めた。

 

少々笑い話になるが帰国早々子供たちが親を驚かすことがあった。

長男が一人でお風呂に入った後風呂の湯をすっかり抜いてしまった事件。

次男が公園の鳩をみて“鳩が食べたい”と漏らした事。

 

香港は気温が高いのでお風呂の文化はなくシャワーがメインだが我が家では日本式にバスタブに湯をためて体を洗った後、流していた。

鳩は日本では平和のシンボルだが香港では養殖した小鳩(乳鴿)料理が昔からあってなかなか美味しく次男は大好物だった。

 

子供たちは5年の間にすっかり香港の文化が身についていたようだ。

 

 

会社では時計外装部外装調達課に配属された。

 

私は5年にわたる香港勤務を総括するレポートを作成し社内で帰国報告会を行った。

 

香港の一般動向から時計業界と外装メーカーの動向、そして時計外装の香港調達の現状と将来予測を価格、技術要素、デザイン面に渡って5枚のレポートにまとめ“最近の香港事情“として外装部内で説明会を行った。

 

このレポートで私は今後数年以内に香港のケースは技術、品質面で日本と同等レベルになると予測し、今後の外装調達戦略として“海外調達の拡大を加速させる”ことを提案した。

 

一方で今後拡大が期待される反面、需要の伸びに供給能力が追い付かず需給ギャップの問題が表面化するのでその解決が課題であることを指摘した。

 

そして安定した供給ソースを確保するためにはセイコーグループとして自前のケース工場を中国に設立することを提言した。

そのうえで国内のメーカーについてはその性格付けをはっきりさせると共に整理を進める必要があると付け加えた。

 

当時、円高の進行によって製造の海外シフトの流れはすでに世の中の趨勢となっていたが実際に現地にいた赴任者が作成したレポートは説得力があったようで社内の反響があった。

ちなみに私が退社して数年後にセイコー自前のケース工場が中国広州にあった黄哺工場内にスタートした。

 

数か月して外装部内の組織変更があり以前外装開発課時代に一緒だった鎌田さんが外装部の部長となり私は新設された外装生産技術課の課長に任命された。

 

国内での時計外装の生産技術をさらに高めるという使命で15名ほどのスタッフが用意された。

さらに金無垢の高級品クレドールの外装ケースを製造している60名ほどからなる外装職場が私の組織下に置かれた。

 

円高下で生産の海外シフトを推進した人間に今度は国内回帰のためとも言える生産技術開発の使命である。

私自身はこの円高の潮の流れに乗って香港の労務費が日本の十分の一以下(中国は十五分の一ぐらいだったか)というコストの安い生産拠点を活用するのが会社にとって得策だという認識だったのでこの使命には正直なところ矛盾を感じた。

 

自身の計画では帰国して数か月後には退社し10月ごろには香港でのスタートを考えていたのだが任命された以上すぐに無責任に辞めるわけにもいかなくなった。

考えた結果まず自分ができるところまでやり、課員の教育と方向づけを重視したうえで後任の人にバトンタッチしようと考えた。

 

課内のメンバーは外装製造の工場から上がってきた人間や技術員としてメーカーの支援をしてきた人たちで生産技術開発のプロではなかった。

新設なのでまだルーチンもなくまず課題を作る所から始めなければならなかったがとりあえず課員の再教育から始めた。

 

一方で昇進したからと言って起業の夢を諦めることはなかった。

 

6月ごろから徐々に自身の計画を親しい友人や一部の関連メーカーの人にも徐々に打ち明け始めた。

日本の外装メーカーにとっても当時海外に出ることは生き残る選択肢でもあったので中には彼ら自身が香港進出を検討しており私の計画に強い関心を示す所も出てきた。

 

当時セイコー系列のケースメーカーだった尾島製作所は国内での危機感があり香港とのビジネスを独自に模索しており私にコーディネーターとしての役割を期待した。

さらに何度か会ううちに私の計画する香港新会社への出資も希望された。

 

また当時国内のケースブランク(プレス上がりのケース素材)製作では日本でもトップレベルにあった茅野にある東新精工はすでに香港とのつながりを作っていて何度か香港PELに来社されお会いしていたが自身も中国に自前の工場を作る計画を進めていた。

 

東新精工の両角社長(現会長)は私の計画に賛同しその後香港でスタートしてからも経営面や心理面でも味方になってくれた。

 

同じくエプソン系列のサファイアガラスメーカーだった二光光学の社長と部長が東京に来られお会いすると香港進出を考えているがぜひ協力をお願いしたいという事だった。

 

そんな感じで私の計画は一部の関連メーカーに伝わった様子だったが国内ビジネスが縮小し香港とのビジネスを模索している日本の会社にとっては香港に日本人がいて日本とのコーディネーターの役割を担ってくれることは願ってもない事だった。

当時香港とのかかわりを強くするために香港に拠点を持ちたいという会社は多かったが実際にはなかなか香港に赴任する人材がいないのが現実だった。

 

当時日本語のできる香港人が日本の会社とのコーディネートをしている人は何人か知っていたが日本人が現地に根を下ろしていた人は時計関連ではほとんどいなかったと思う。

 

 

この年、私の組織下にあった外装職場の一部を福島県にある須賀川工場へ移管するプロジェクトが持ち上がり一連の仕事を年末にかけて行い、一段落した後で鎌田部長に退社の意志表示をした。

鎌田さんは東北出身の温厚篤実な信頼できる上司で本当は一緒に仕事をしたい人だったが自分のやりたいことを実行に移したいと計画を打ち明け了解をいただいた。

 

実は辞表を提出した後で鎌田部長からある提案があった。

 

“会社が資本を出すので香港で新会社をやってみないか“という話だった。

“ありがたいがそれでは自分が独立することにならないし自分の考えで自由にやってみたい”

と生意気にも粋がってお断りした。

 

仮にそれを受け入れたらどうなっていただろうか。

収入も担保されその後の立ち上げでは精神的にはずいぶん楽だったかなと思う。

が、おそらくいつまでもサラリーマン根性が抜けない自分がいたに違いない。

 

その時は、たとえ苦しくても自分の力でやってみたいという気持ちが強かった。

 

余談だが退社する前に一度だけ会社と労働組合との話し合いの場で会社側に座った経験がある。

福島への工場移管で人の移動が生じるので組合側に説明するその補佐を務めた。

 

時間が少し戻るが88年前半、帰任する前に香港に設立する会社の名前やパートナー選びをできるだけ具体化しておきたかった。

 

私なりに選んだ香港人の知り合い数名と何度か話し合いの場を持ち、並行して日本のケースメーカーとも話をした。

起業に興味を示す者が全部で5パーティぐらいになり当初はそれぞれが10%~20%前後のシェアを持つような具合で話を進めていたがそのうち「シェアは持ちたいが汗は流したくない」という本音が透けて見えてきた。

もともと人の案に乗っかる相手に汗水流せと要求する方が間違っているのだろう。

 

 

当初選んだ理由は彼らの営業の経験が私のその面での経験不足を補ってくれるだろうという甘い考えが根底にあった。

しかしケースメーカー精美の李さんからはパートナーはできるだけ少ないほうがいいというアドバイスももらっていた。

 

その後3者に絞り話を続けた結果、最後は結局自分が中心となり補佐の人材一人がいればいいという考えに落ち着きそれまで全く想定もしていなかったPEL当時の部下だった陳志強君に声をかけた。

彼は私と同じ技術系でビジネス面での経験はなくパートナーとしての不安があったがPELの中でも優秀な人材で仕事に前向きに行動するタイプだった。

日本で半年間の研修を経験していて日本語もかなりうまくなっていた。

 

彼は当時まだ30歳前。妻子がいて当初決心に戸惑いがあったがPELにいてもトップは日本人で固められて将来の夢が見えないとの思いから私と共にこの起業計画に掛けることを決断してくれた。

サラリーは今より上回ることを私は約束した。

 

この時点で新会社は私と現地香港人の二人でスタートすることが決まりその後は具体的な計画を私が練り日本から陳君に指示を出しながらステップを前に進めた。

 

 

社名についてはいろいろ考えた結果自分の名前からKENを取り自分が技術出身であることからTecnique(テクニック)をもじってTEXを加えてKENTEXとした。

日本語でも英語でも発音し易いことを意識し、最後にXとしたのは音感と響きの安定感を感じたからだ。

 

その頃はそれが将来ブランド名になるとは予想もしなかった。

 

社名をKentex Time Co.Ltd.として香港での会社登録を香港の李さんにお願いした。

Co.Ltd. は日本でいう株式会社にあたる。

香港では漢字名での登録が合わせて必要なので李さんの方で広東語に近い発音から「景徳(キンダッツ)錶業有限公司」とつけてくれた。

資本金は10万香港ドル、当時のレートでわずか170万円程度だ。

陳君は金に余裕がないと当初出資に消極的だったが私は彼にこれからは経営者の一人としてやってほしいと資金援助して20%のシェアを持ってもらった。

 

ここで初めてKentex Time Co.Ltd.が香港で設立された。

 

 

 

明けて昭和64年(1989)私は厄年となり正月は川崎大師の厄除けと鎌ヶ谷八幡宮に自身と家族の健康と起業の成功を合わせて祈願した。

身が引き締まる思いがあった。

 

この年1月7日に昭和天皇が87歳で崩御された。

史上最長62年の在位もすごいが大正天皇が病弱だったため若い時から摂政もしている。

在位中に二回の大戦を経験し戦後は一転して象徴として国民に寄り添いその距離を近づけた。

戦後は日本全国を廻り特に沖縄など戦争の被害の大きかったところに度々慰問されていた。

私が子供の頃の昭和天皇生物学者としての顔がよくテレビで映されていた。

 

昭和が終わりを告げ平成元年となる。

 

 

正式退社は4月だが40日以上の休暇を消化するため会社にいるのは3月半ばごろまでとなる。

まだ会社員の身だったが本格的に起業の準備に動き出した。

 

手元にある1989年の手帳を見るとこの時期目まぐるしく多くの人と会っている。

少しでもビジネスの種になるチャンスを探ろうと必死だった。

 

人生を振り返ってみるとこの年は人生のターニングポイントであり最も密度が濃かったように思う。

 

体が熱く燃えていたような感じだった。

ある朝、武者震いらしきものを初めて経験した。

 

ベッドから起きたときにブルブルっと震えが来た。

風邪をひくときに来るそれとは違うこれまで経験したことのないものだった。

体の芯から湧き上がる一瞬の感覚。

武士が戦闘を前にしたときこんな感覚なのだろうか。

これを武者震いと言うのだろうかとあとで思った。

 

89年の手帳にはその頃の行動が例年になく細かくメモされている。

振り返ってみると一つ一つ当時の記憶が蘇ってくる。

 

出発までの数か月間、セイコー退職と香港起業の挨拶回りであちこち回っている。

 

当時クロックビジネスを立ち上げて成功していたノア精密を訪問、ビジネスの先輩である庄司社長から“セイコーの看板を捨てて裸でぶつかれ、そして自分に厳しくすること、これができないと成功はない“とアドバイスをいただく。

 

2月15日~23日に香港出張 

前半はホテルに後半はケース工場の社長李さん宅に4泊させてもらいこれからのビジネスについて話し合った。

李さんは自分のケース工場の技術品質管理の指導や日本とのコーディネイトを私に期待。

 

3月にかけていくつかの送別会。

13日は先輩でもあり私の後任を引き受けてくださった三田村課長に業務の引き継ぎ。

14日に二光光学の押野社長、征矢部長(当時)と会いサファイヤガラスの香港販売に向けて橋本のオフィスに彼らのHK拠点をスタートすることになる。

 

3月後半には当時マルマン時計の製造を担当していた万世工業を訪問。

以前国内ケースメーカーにいた知己の山田さん(故人)の紹介での訪問だったが万世工業は私の香港起業に特に強い関心を示した。

香港調達を拡大しようとする計画の中でちょうど時計ケース技術者のプロを探していた最中とのことでこれがのちの時計OEMビジネスの拡大につながる。

 

3月24~4月8日まで家族帯同での香港出張

家族はホテル泊の後二泊ほど荃湾から車で10分ほどのところにあった李さん宅にステイし29日に帰国した。

香港ではほとんどマンション住まいが普通だが李さんはケースビジネスで成功したのか庭のある一軒家を持つお金持ちだった。

この時次男は7歳だったが李さんの大きな家に大型犬がいたのを覚えているという。

 

 

3月30日 TM(タイムモジュール)のGMジェネラルマネージャー)汪(ウオン)さんと夕食。 

SEIKOムーブ購入についてサポートの約束を得る。

汪さんはもともとEPH(EPSONセイコーの香港現地会社)のローカルのトップをしていた人で日本語はほとんどネイティブ、英語も北京語も抜群のすごい人だった。

諏訪精工(当時)に技術研修のおり知り合ったという日本人の奥さんで日本の文化にも精通していた。

起業後も汪さんは私を応援してくれた一人だった。

この時汪さんからは香港のオフィスはまだ上がるから毎月の賃料を払うよりできるだけ買った方が良いよとアドバイスを受ける。

その時は頭金もないので話を聞くだけだったがこの教えは後になってつくづく実感することになる。

 

4月1日オフィス探し。

5,6件の物件を見て荃湾(チェンワン)駅から直結しているオフィスビル「南豊中心」に決めた。

広さは600sf. (GROSS)だが実質40㎡もない。

机4つか5つ置けばいっぱいになる広さで月8700HK(当時のレートで15万円弱)の家賃。

 

この日夕方PELの加藤さん(故人)とハイヤットホテルロビーで待ち合わせ、林時計社長(現会長)と会う。

林時計はセイコー電子の協力時計組み立てメーカーとして大手であったが香港拠点をスタートしたい意向で二光光学同様私の香港オフィスを間借りしたいとの要望で私は快諾した。

 

6日には香港会社の運用資金の一部として40万円を香港ドルに交換しKentexTimeの口座に入金。

7日には南豊中心オフィスの正式契約で家賃二か月分とデポジット計29100HKDの支払い。

8日に70万円を陳君に渡しキャピタルの払い込みを指示。

事務機としてCANONの中古のコピー機とFAX機を購入。

陳君のサラリーとして遡って5か月分35000HKDを渡した後、同日の午後の便で帰国した。

 

まだスタート前で一銭の収入もないのにどんどん金が先に出ていく。

すべて私個人からの出金だ。

この先どうなるのか、心の片隅に不安が覗く。

 

 

 

4月20日付けでセイコー電子を正式退社した。

 

あと一年で25年勤続の100%満額となるところ僅か一年足りずに85%となり約1000万円弱の退職金だった。

住宅借入金が約500万円強残っていたので実質入金は500万円に満たなかった。

 

私は十分な資金を持っていたわけでもないので雇用保険の手続きで職業安定所(現ハローワーク)に足を延ばした。

申請はしたものの支給スタートまで何か月間も毎月一回以上の出頭が義務付けられることを知る。

さあどうするか。

支給されるまでこのまま半年以上日本で時間を無駄にしたくない。

私は雇用保険をあきらめ一刻も早く香港で動き出すことを優先した。

私は幸か不幸か(残念ながら)長年払い続けた雇用保険の恩恵を受けた経験がない。

 

5月に入りこれからお世話になりそうな会社に出国前最後の挨拶回りを行った。

 

準備万端、士気旺盛。

1989年5月19日。

いよいよ家族三人に見送られ再び香港に向けて成田を飛び立った。

 

ここからKentexTimeの本格活動が始まる。

そして香港での一人暮らしが始まることになる。

 

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レポート’最近の香港事情”(1988帰国報告会資料)

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香港新会社設立の挨拶状


 

 

2019 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
今年は亥年、そして平成最後の年となります。

私が子供の頃は母も含めてまだ明治生まれの方も珍しくなかったのでその頃よく「明治は遠くなりにけり」という言葉を耳にした記憶があります。

その元号も大正、昭和、平成と移り今年新しい元号が始まります。

5月に新天皇が即位される1か月前の4月に新元号が発表されるそうですが何という元号になるのか日本人は興味津々ですね。

昭和の最後(1989)に生まれた人でもなんと今年30歳です。
そのうち「昭和も遠くなりにけり」とうたわれる時代が来るのかもしれませんね。


さて今年はどんな年になるのか。

過去の亥年を振り返ると

1995(平成7)年は、急激な円高が起こり一時1ドル80円割れを記録、阪神淡路大震災も起こりました。

前回の2007(平成19)年にはアメリカのサブプライムローン問題が表面化し翌年に100年に一度の世界金融危機と言われたリーマン・ショック(2008)に繋がりました。


今、世界にはいろいろな不安材料があります。

米中の貿易関税問題,中国の減速、米景気後退の予兆、3月には英国のEU離脱

アメリカをはじめとする各国政治のポピュリズム化。

世界経済は怪しげな雰囲気が漂ってきました。

2019年はどうやら世界の景気後退局面に入りそうです。
国内では10月に消費税率が10%へ引き上げられることになっています。

厳しくなりそうなこの年を迎えて皆さん、公私共に気を引き締めていきましょう。


さて一昨年暮れから始めたブログ「私の履歴書」も第13回を数えました。

月一レベルのスローなペースですが私の生い立ちから始まりようやく香港で起業する段階までたどり着きました。

子供の頃からの自分の人生を振り返りながら書き出すといろんな思い出がよみがえってきます。

あれもこれも書き出すときりがないのでその中から強く自分の印象に残っているものがこの文章として書き残されています。

当時を思い出すとその頃ともに時を過ごした人たちに無性に会いたいと思う気持ちになることがあります。

しかしずいぶん時が経ってしまいどうにも手掛かりをつかめず連絡を取ることもできない人が多いのが現実です。

誰でも人は皆それぞれの人生がありいつまでも同じところにとどまっている人は少ないですから。
100人いれば100のドラマが生まれます。

ここまで私の個人的なドラマにお付き合いいただいた方にあらためてお礼申し上げます。

これから後半の私の脱サラ人生を続けて記していきたいと思います。

七転び八起きという言葉もありますがいろんな障害にぶつかりなかなか思うようにならないのが人生ですがそれでも苦もあれば楽があるのが人生です。

どんなことがあったか一つ一つ思い起こしながらまた書いていきます。

今しばらくお付き合いいただければ光栄です。


またこの履歴書が一段落したらそのあとは
生意気ですが人の生き方や考え方などについて多少なりとも長い人生を経験した人間として自分の視点で書いていければと考えています。

世に名著と言われる本や名言は多々あります。

自分が読み砕いたものをベースに、そこに自らの経験に基づく私の視点と解釈を加えながら“人生をどう生きるべきか“について若い人向けに少しでも参考になるようなことを書いていければいいなと考えています。

これは同時に“人の生き方“についての自分自身の考えを整理、まとめるいい機会でもあると思っています。

最後になりましたが新しい年が皆様にとって良い年でありますよう心からお祈り申し上げます。

私の履歴書 第十三回 ビジネスに目覚め独立を決意

赴任して2年が過ぎたころから仕事にも脂がのってきた。
3年目から帰任するまでの3年間は大いに会社に貢献したように思う。


自身の経験から海外赴任を振り返ると初めの一年ぐらいは新しい環境に馴染むまで時間がかかり二年目あたりからやっと自分の生活パターンができ仕事にも身が入る。
3年目になると会社全体の業務が見渡せるようになり自分の役割も自覚しスタッフや取引先とのつながりも強くなるので目に見える形で仕事の実績が出せるようになってきた。

当時は3年が一般的な海外赴任期間であったが私は自分の経験から5年という赴任期間が適切だと思う。

先にも述べたが1980年代は円高香港ドル安が急激に進行した時代だった。

統計を見ると80年から88年までの8年間に香港ドルは46円前後から16円台へと三分の一近くまで下落している。

82年の香港返還決定後に将来の失望感から香港ドルは大量に売り浴びせられ香港政庁は香港ドルの防衛と安定化を図るために83年10月にドルペッグ制(1USD=7.8HKD)を採用した。

80年代はアメリカが膨大な経常赤字(財政赤字貿易赤字双子の赤字)を抱え、日本は輸出が急伸、日本の一人勝ち状態だった。

このためドル高是正を狙った85年のプラザ合意後、急激な円高USドル安が進行し88年までの3年間でUSドルは235円から130円付近まで急落、ペッグ制を取った香港ドルは対円で大幅に下落した。

私が赴任した83年ころからは円高の連続で香港の物価がとても安く感じられた。
日本にいては感じられないが海外にいると強くなった円を身近に感じた。
このころ日本ではバブルが始まりアメリカの不動産買いや海外旅行ブームが起こった。

一方、一気に進んだ円高によって日本の製造業は競争力を失いコストの安い香港、台湾へと製造のアジアシフトが急激に進み始めた。
それにともない香港、台湾などに赴任する日本人が増えた。

時計業界では国内で製造していた時計ケースなどの時計部品の海外移転が加速、香港を筆頭に台湾、タイなどへのシフトが進んだ。

香港工場の位置づけはより重要となり私の任務もますます責任が重くなってきた。


当時香港PELでは主に中近東やアジア市場向けの70系自動巻きモデルのケース調達が主体だったが円高の進行とともに徐々に国内モデルもシフトが始まり香港でのケース調達数が一気に増えてきた。

80年代前半、時計バンドの製造は一足先に中国深圳への生産シフトが始まっていたが時計ケースはまだかなりの数のケースメーカーが香港に残っていた。

ケースの生産キャパの拡大が必要となり私はそれまでのケースメーカーに加え香港での新たな調達ソースを探す動きを始めた。

当時のケースメーカーを分類すると大きく3種類に分けられた。

最もメーカー数の多かったドレス系BS(真鍮)ケース、まだ比較的少なかった防水機能系ステンレスケース、そして主にアメリカ低価格市場向けのZn(亜鉛)合金ケースの三種類のメーカー群があったが当時はそのどれもが必要で私は新規メーカー開拓のため香港スタッフと一緒にメーカー探しを始めた。

香港のケースメーカーには20年以上の歴史を持つ会社も少なくなかったが調べていくとピンからキリまで4段階程度のグレードに分けられピン(Aクラス)の方はすでに名の知られたスイスブランドのお手付き(傘下)になっているメーカーが意外に多いことも分かった。
我々は主にBクラスを中心に新しいメーカーを訪問した。

その動きが香港のケースメーカーの間で噂となりセイコーは既存メーカーの見直し選別を始めていると誤解もされたが結果的には既存メーカーの生産量を拡大する中で新規メーカーも導入した。


話は変わるが1985年頃だったか、香港に進出している日本の時計業界が組織する香港精密機械部会が企画した中国の西安、四川、重慶の三都市の視察旅行がありPELを代表して参加する機会を得た。

香港で働く時計産業関連会社の日本人総勢20名ほどの団体が当時まだ改革開放が動き出したばかりの中国各都市を見て回った。

改革開放が始まったといっても実態はまだ共産主義体制の下で人民公社なども残っていた時代だ。

まだ改革の掛け声ばかりが先行した頃で国有企業の工場では手持ち無沙汰にしているやる気のない従業員も多く目につき、動いていない新品のNCマシンなどが無造作に置いてあった。

まだ経済が活性化するずっと前のころで、街で見かける人々の生活は貧しさが目に付き、服装も粗末で、人民服姿も見かけられた。

機会の平等でなく、ある意味”みんなで貧乏しよう“という結果の平等を求めた共産主義社会の実態を垣間見た気がした。

2018年の今、鄧小平が始めた改革開放政策がこれほど進展しGDPが日本を抜き世界で二番目になるとは想像もできない一昔前の共産主義中国の世界がそこにあった。

あれから30年以上が過ぎ中国は大きく変貌した。

鄧小平が今の中国を見たら何というだろうか。
鄧小平自身も自らが始めた改革開放政策によってこれほど国が豊かになるとは想像もしなかったに違いない。


いつだったか赴任中にたまたま香港在住の日本人を対象にした日本領事館主催の初の写真コンテスがあった。
私は香港で撮影した自身のストックの中から10枚ほど自選し応募したところその中の一枚がトップの総領事賞に選ばれた。

何の用事だったか中国広州市から香港戻りの船中で一泊し、翌早朝香港の港に着いたところで朝日を逆光に香港島のビル群を船上から一望した写真でタイトルは”香港の夜明け”とした。
日本人クラブでの表彰式で当時の松浦総領事から直接賞状を頂いた。



赴任中にはPELとしては初めてとなる時計のOEM生産の立ち上げも担当した。

それまで香港PELの役割はSEIKOなど自社ブランドの生産のみだったが(SANYOブランドでの)時計OEM生産のプロジェクトがスタートし香港で対応することになった。

それまで時計のデザインはすべて日本で行われていたが香港でのデザイン作業を進めるために香港会社としては始めて時計デザイナー(新卒)を採用した。

この頃が香港でのOEMビジネスの草創期となり企画やデザインの芽を植えたことで後に香港会社でのOEMビジネスが大きく伸びることにつながる。

当時は景気も良く時計が良く売れたのでSANYOロゴの時計は短期間で相当数を生産、面白いように売り上げが伸びたのでこのOEMビジネスで大いに会社に貢献することができた。

この時のOEM業務の成功体験はのちに私がビジネスに目覚める一つのきっかけにもなった。


急激な円高進行で製造業の香港シフトが進むにつれて香港詣が増えたのもこのころだった。

本社からはもちろん関連メーカーの人たち、さらには時計以外の人も含めて香港の現地事情に詳しい赴任者から情報を得ようと多くの来訪を受けた。

当時の製造業に関わる人たちにとって“海外生産シフト”は死活にかかわる真剣なテーマだったので多くの人が香港を訪れるようになり赴任者は半ばアテンド業ではないかと思うぐらいに人と会う機会が増えた。

結果的にはそれが自分自身の勉強となり、多くの人と話しをするうちに人を観察する目が備わり、モノを見る視野が広がった。

人の違いが短時間で掴めるようになり30分も話すとその人の考えている事が大体分かるようになってきた。


香港PELは日本から近いせいもあって本社からの出張者が多かったが役員も定期的に来られることが多かった。

日本ではなかなか接することが出来ない役員でも香港ではミーティングや香港のアテンドなどで直接話をする機会も多くなる。

海外に出ると気持ちも解放されるのかなぜかざっくばらんになり本音も出てくる。

さすがに役員になる人は違うなと思う人もいれば、意外に世間が狭く見識に乏しいなと感じる人もいた。

こうした香港での数々の経験は私の視野を広め、伴い自分も変わっていった。

数年が過ぎた頃には一介の技術屋から商売感覚が根付きビジネスに目覚めて海外ビジネスに興味を持つようになってきた。

香港で生活するうちに香港の風に吹かれた影響もあるだろう。


香港には根っからの商売人気質の文化が息づいている。
日本に比べ多くの人が自分の小さな商売を持ち一生懸命に精を出している。

総じてお金に敏感で人々は金儲け話に余念がない。

香港には円卓を囲んで乾杯をするときに“賺多的”(ジャントーディ)という言葉がある。
“たくさん稼ごう“とお互いに元気づける意味で使われるが、俗に言われる大阪商人の“儲かりまっか“と相通じるものがある。



そんな香港のお金儲け第一主義的な文化に染まった事実も拭えないがこの気持ちの変化は実は邱さんの本による影響が大きい。

香港に赴任する前に邱さんのファンになり赴任中も新しい本が出るたびにずっと追っかけて読んでいた。

前にも書いたが邱さんは1950年半ばごろから作家活動に入り小説『香港』で直木賞受賞後はどちらかというと自分の体験をもとに身近なお金(経済学)の話題を中心にした多くの本を出しているが私自身は邱さんの本を読むことで生きる上での知恵を授かり、世の中を見る目がついてきたように思う。

大きな潮の流れを見てそれに乗ることが大事であること。

それに逆らってはたとえ倍の力で頑張っても成功は難しいこと。

世の中が動くときは変化でありそこに隙間ができてチャンスが生まれること。

これらの邱さんの教えは今も忘れていない。

80年代に深圳の経済特区が始まったころにすでに邱さんは「中国が世界の工場になる」と予言していた。

当時は円高によって世の中が大きく動き香港への生産シフトという大きな変化があったのでそこにビジネスチャンスが生まれた。

図らずも邱さんの教えで私はそこに気がついた。



ちなみに赴任前後の1980年代に読んだ邱さんのいくつかの本は以下のものだった。(出版年は順不同)

「金銭読本」
「成功の法則」
「変化こそチャンス」
「金銭処世学」
「香港の挑戦」
「私の金儲け自伝」
「奔放なる発想、時代を読む」
「人生後半のための経済設計」
「株の目、事業の目」
「世界で稼ぐ」
「野心家の時間割」
「変わる世の中変わらぬ鉄則」
など。

なかでも赴任中に読んだ「人生後半のための経済設計」(1986年10刷)が私の独立心に火をつけた。

この本の第三章に“40歳からの生き方考え方“と題した文章がある。

少し長くなるがとても示唆に富んだ内容なのでその一部を原文のまま紹介したい。
(1996年刊行の「生きざまの探究」にも同様の内容が書かれている)



『人生80年時代になると今の定年制度が人生の波長と合わなくなってきている。
(★ 橋本注;2018年現在では人生100年時代と言われている)

60歳の定年が65歳になろうとその先15年も20年も残っているからもう一度褌を締めなおして第二の人生を歩まなければならない。

60歳を過ぎて定年になってから頭の切り替えをし、新しい挑戦をするのはほとんど償却の終わった機械に違う作業をこなせというものである。
第二の人生も大事だと思うなら60歳で区切るのは明らかに不合理である。

その意味で80年の人生を60歳で区切るよりも1歳から40歳、41歳から80歳までと区切るほうがあらゆる点で都合が良い。

1歳から20歳までは成長期で、社会人としての経験を積むのは20歳からとしてその時点で自分の性格に合った仕事は何なのか分かろうと思うのは無理がある。

入社後いろいろな部署を回り対外的な経験を積んでどれが本当に自分の天職であるかを悟るのを20年がかりでやる。

残りの人生をかけてやる仕事を見定めるのが40歳というわけである。

その時点でそれまでと同じ仕事を選ぶか転職転業して新しい人生に挑戦するのもその人の幸いである。

どちらにしても60歳になってからでは遅すぎるので60歳になって会社に首を切られるより40歳で自分の首を切るべきである。

40歳なら過去20年の経験を活かし独立自営をすることもできるしそれだけの活力もある。
途中で一回や二回の挫折をしても立ち直る時間の余裕がある。

しかし十中八九の人が自分の首を切るようなことをまずやらない。
会社にそれを強要されるわけではないのでついそのままになる。

辞めても辞めなくとも一向に差し支えないが40歳の節目のところで20年後の自分に思いをいたしてここはどうしたらよいかを考える。』

そしてこうも書いている。

『学校を出て40歳までは西も東も分からない世間知らずがだんだん体験を積んで一人前になっていく過程。
しかし40歳を過ぎると体力も次第に衰え初め能力にも格差が目立ってくる。
40歳は人生の先が見えてくる時期で「人生の一つの曲がり角」である。

山登りに例えれば峠に差し掛かったところでそこでお金をもらいながら勉強する形の就職は40歳を一つの区切りにするのが適当ではないかと思う。

本人も今までの仕事が自分に向いた仕事なのか自覚し、自分の能力の限界について見極めのつく年齢でもある。
40歳前後が男の人生の一区切りで「40歳は脱サラのラストチャンス」

それまでに独立を考えたことのない人は会社勤めが性に合っていると思って定年までの道を突っ走るのが良い。

この年のころにいっぺん自分の将来の生き方について方針を定めておくかおかないかが熟年以降に大きく影響する。

死ぬまで現役でいられる(定年のない)仕事を見つける。
定年後に職から離れ、責任を逃れて年を取ったと意識すると人間は途端に老けてしまう。
平均寿命は延びているのに頭脳の方が退化してしまっては自らボケ人間になるようなものだ。

そうならないために定年後にやるべき仕事を見つけておくことが必要になる。
定年後に職を失うことを防ぐには小さくても自営業をやるしか方法はない。

ただ一定のスケールの事業規模を築こうと思えば定年になってからでは間に合わないので40歳前後に始めることである。

この年齢は人生経験を積んで知識もありまだ体力もあるので失敗の可能性が小さくちょうど良い年齢なのである。

自分の人生は自分で切り開いていく以外に道はない。
失敗を恐れずに体験する「冒険家の発想」を勧める。』



私は邱さんのこの“人生を40歳で区切る”考え方に強く同意し反応した。

自分の年齢、仕事の環境、やりたいこと、そしてその可能性、それらがすべて今の自分に一致している。


もともと一回きりの人生を一生サラリーマンだけで終わるのは何か物足りないなという気持ちがどこかにあったし、いつか自分の商売というものを小さくてもいいから一度はやって見たかった。

やりたいことをやらずに後悔するよりもやってみる事に生きがいを見つける。

赴任終了と同時に独立すれば人生前半をサラリーマン、そして後半をビジネス人生とするのも悪くないなと思った。

三年やってダメならまたサラリーマンに戻ればいい。
どんな会社に入っても自分なりに貢献できる自負はあった。

香港での独立を強く意識するようになり決心するまでにさほどの時間がかからなかった。

邱さん曰く、

『経済的発展をもたらした日本人の特質をサムライの精神を受け継ぐものとしそれが「個人の利益より集団の利益を優先する」日本社会の特質を作り出している。

香港はその逆で個の利益を優先する社会といってもよく、また世間もそれを認めていて力のあるものがどんどん伸びていく世界と言ってよい。』

私自身、香港に来て感じたことは

日本の社会が大企業という集団中心の社会になっているのに対して香港は小さな個人企業が集合した社会になっている。

財閥といえる大きな会社でも日本のようにメイン株主の比率が小さく社長と言ってもサラリーマンと変わらないような社長なのに対し、香港は個人(もしくはファミリー)で持っているケースが多く、そのため経営の決断が断然早い。

香港にも累進税制度はあるが所得税の最高が15%なので税率は低い。
レッセフェールと言われる自由放任主義政治で規制が少なく起業の魅力がある。

かつて香港ドリームと言われて久しいが香港は誰でもやる気のある者が自由に挑戦し、そしてその実を個人が受け取れる懐の深さもある。

たいしたことはできないが挑戦する魅力がある。

この決心は妻以外の誰にも伝えず自分の中に暖め、残りの赴任期間は仕事の手を抜かず全力で成果を出しながら一方で起業のための準備を進めることにした。

日本の通信教育を利用して経営実務や経理マーケティングなど経営に必要な勉強も始めた。
並行して香港で起業する際の信頼できるパートナーを探す動きも始めた。


ちょうど赴任後4年経ったこのころ仕事の実績も認められ主任から副主査へと(課長級への)昇格が認められた。
昭和63年(1988)、赴任して5年、任期を全うしていよいよ帰国の時期が来た。
お世話になった香港の人たちに挨拶を済ませ家族ともども帰国の途に就いた。

休暇を取り日本経由でハワイまで飛び家族で何泊か滞在した後に帰国した。

初めて訪れた常夏の島ハワイは美しく素晴らしい所だった。

真っ青な空とどこまでも澄んだ海、色鮮やかに咲く美しい花に囲まれて私は未来の挑戦への興奮を抑えながらなぜかすがすがしい気持ちだった。


80年代とその後に読んだ邱永漢の著作


独立のきっかけとなる「人生後半のための経済設計」

私の履歴書 第十二回 香港生活をエンジョイ

100万ドルの夜景と言われた香港島の山頂から見る夜景は現在ではさらに高層ビルとネオンが増えていっそう煌びやかになっている。

1997年の返還後からすでに20年が過ぎた今(2018)、街も人も当時とは大きく変わったが返還前の香港を懐かしむ人は多い。

赴任した1983年、香港はまだイギリス植民地の時代である。

植民地時代の香港政庁の幹部は香港総督(26代総督サー・エドワード・ユード)が指名する権限を持っていて政府の上層部にはイギリス人が多数占めていた。

街には貿易、金融ビジネスに関わる欧米人のほかに小さな店舗を経営しているインド人やアマとして働くフィリピン人などの外国人が多く目についた。

中環(セントラル)を中心とする香港島側には50階を超える高層ビルが林立し国際金融、商業の中心として先進的な街だった。
その一角にある蘭桂坊(ランカイフォン)は香港の欧米式ナイトライフを開拓した草分け的存在で欧米人が集まるカフェ&バーが並んでいた。

九龍側は当時市街に空港のあった関係でビルの高さ制限があり(1998年の空港移転後に廃止)どちらかというと工業ビルが多く製造関係の会社が多かった。

空港に近い觀塘(クントン)やPELのあった葵涌(クワイチュン)などは代表的な工業地区で繊維関係や時計、玩具、日用品など軽工業を中心とした種々の会社が雑居する20階建てほどの工業ビルが折り重なるように並んでいた。

九龍半島の先端にある尖沙咀(チムサーチョイ)は当時から九龍の中心地として数多くのレストラン、商店街、ブランドショップがあり海外からの観光客が集まる街だった。
そのころ香港の物価は安く世界中から人が集まる買い物天国でもあった。

インターナショナルなホテルも多くペニンシュラやリージェントなどの高級ホテルの豪華なロビーでゆったりとお茶をするのもリッチな気分になれるひと時だった。

香港の生活に家族も慣れてきたころ、上の子は九龍塘(ガウロントン)にあるインターナショナル幼稚園に通うことになった。
入園には親の英語での面接があったが無事入園することが出来た。

下の子は2歳のころ、幼稚園に入る前の子供たちを集めたプレイグループに行くことにした。
初めての日は母親から離れられず、預けて去ろうとすると大泣きしたという。
それでも翌日からは普通に通うようになった。

両方ともインターなので地元のほかに西洋人、インド人、日本人の子供たちが混じっていて先生も英語でのコミュニケーションだった。

私自身も英会話に磨きをかけようと尖沙咀にあった英会話教室にしばらく通った。
その後、British Counsel (英国文化協会)が開講している英語クラスにも入りレベルアップに努めた。

そのせいもあってか、PELと長く付き合いのあるケースメーカーの人からこれまでの赴任者で一番うまいとお世辞を言われたこともあった。

アメリカ人に教わったのでそのころは米式発音に近い英語をしゃべっていたように思う。
普通の香港人は香港独特の英語をしゃべる人が多いがTVで見る政府の高官などはクイーンズイングリッシュの格調の高い英語をしゃべる人が多かった。

一方で広東語はあまり好きになれずまじめに勉強しようとする気持ちが湧かなかった。
濁音が多く、大声で話す人が多いので初めに耳障りな印象を受けた。
言葉の末尾にガーとかゲーがつくことが多く、日本人にはどことなく品悪く聞こえる。
ところが英語に変わるととたんに丁寧に感じるのがおかしかった。

香港人の母国語である広東語をもっと勉強しないといけないと思うのだが、どちらかというと英語での会話の方が気分がいいので、今でも広東語は日常会話程度の域を出ない。

地下鉄車両の中で端の方にいる人たちの話し声が大きくて隣で話している日本人の声が聞こえないことが一度ならずあった。

最近は以前に比べると香港人の話す声が小さくなったように感じるが、代わりに中国からの観光客の声が大きく騒がしいので香港人たちからあいつらは品がないと嫌われている。

「声の大きさは文化(教養)のレベルと反比例している」ように感じる。
ヨーロッパに行くと車内で、大声でしゃべる人はほとんど見かけない。


赴任後まもなく、たまたま私の部下に梁君というテニスのうまいスタッフがいた。
私は赴任前、日本で毎週のように地元のクラブに通っていたので香港でもテニスをしたくて休みの日に彼とよくプレイした。

PELの日本人の中には生活レベルが違うのであまりローカルと近づき過ぎるのはよくないと忠告する人もいたが、私はむしろ他のローカルスタッフとも食事に行ったりして地元の人たちとのコミュニケーションをとるように心掛けた。

立場や文化が違っても触れ合うことでお互いの気脈も通じるし仕事にもいい影響が出るというのが私の信条だった。

当時香港に出ていたセイコーグループ三社(EPSON,、服部セイコー、第二精工舎)が年一回、合同で行うゴルフコンペがあったが、たまたまその年はテニス親睦大会となり私ともう一名が組んだPELのペアがダブルスで優勝したことがあった。


PELの伊藤GMはお酒好きな人で就業時間中に時々お誘いの電話が来た。
会社も安定して、いい時代だったので大きなGM室にひとりポツンといるのが寂しかったのか。

「今日行く?」「行きますか」、私も嫌いじゃないのですぐにまとまる。

そのころ香港には日本の居酒屋風な店は皆無だったが食事をしてホテルのBARで飲んだり、たまにカラオケにも行った。
当時はまだ今のようなカラオケはなく客に合わせて生伴奏をするところが多かった。
自分のキーに合わせてくれるので気分よく歌えた。


話は変わるが

香港は狭い所に多くの人間が住んでいるので住居費はかなり高く、一般庶民にとって居住環境は悪い。

2000平方フィート(約186平方米)以上の豪華マンションに住む金持ちもたくさんいるが、300平方フィート(約28平方米)に家族5人で暮らす家族も多い。

日本から派遣されている一般的な日本人家族の場合、香港では中の上レベルのフラットに住むケースが多い。
私が赴任した当時でも家族帯同の場合でだいたい30万円以上はした。
日本なら豪華マンションだが香港では普通の広さでもこのくらいは覚悟しなければならない。

現在ではさらに高騰し赴任者の住居費では香港が世界一となり、家族で住む広さを確保するのがますます難しくなってきている。

派遣する会社にとっても厳しいがそれだけビジネスチャンスの多い都市ともいえるのだろう。
さすがに近年では香港を飛ばして中国深圳に赴任するケースが増えている。



香港には「鴛鴦(インヨン)」という飲み物がある。

昔からの軽食店である茶餐廳(チャーチャンティン)に行くと紅茶とコーヒーを混ぜた飲み物に出会える。
これこそが東西が混じりあい、何でもありの香港文化を象徴するように思えてならない。

香港は100年以上にわたるイギリス植民地のもとで中国(華南)の文化に西洋の文化が程よく入り交じった独特の文化が育っている。

東京の半分(札幌市と同じ面積)にビジネス街、ショッピング街そして至る所にある便利店、数々の食いもの屋まで、何から何までが凝縮している。
チョットした買い物もすぐ近くで用が済み便利さこの上ない。

一歩郊外に出ると小一時間程度でけっこう山や海の自然もある。
新界の西貢(サイクン)や香港島の南側に抜けるとレパレス湾などの海水浴のできる海岸もある。

ハイキングやサイクリングコースもあり休みの日は郊外に出て楽しむ人も多い。
釣り人にとっては香港にも名所があるらしい。
私も小舟に乗って小ぶりのガルーパ(日本のはた)を釣ったことがある。

先に声の大きさは文化に反比例していると記したがマナーも同様で、経済が発展し豊かになり、それに合わせて文化レベルも上がるとマナーもよくなる。

昔に比べると香港人のマナーは格段に良くなった。

赴任したころ目撃したが、地下鉄の車両から降りようとする西洋人が、我先に乗りこもうとする人たちに出口をふさがれ真っ赤になって怒っているシーンを目撃したことがある。

人口密度が高いと、生存競争の中で人を押しのけでも生き残る、そんな強さも身につけなければならない。

日本人から見ると香港の人はせわしなくせっかちに見えるが、裏返してみれば「スピードと効率を優先する」文化なのだということに気がつく。

街が騒がしく雑然としている面もあるのでいっぺん嫌いになるとどうにも居られなくなるような所だが、良い所に目を向ければ、これほど自由でそして人間的な街はない。

一方で優秀な人も多く香港は世界の学生数学コンテストで世界一を取っている。
教育レベルも高くなり、香港のいくつかの大学は世界大学ランキングでも上の方で香港大学は東大より上位に位置している。


香港人の健康意識はかなり高い。

ここでは中国の医食同源の考え方が根付いており総じて飲食に気を遣う人が多い。

一日に飲む水の量も多く自分用の保温機能のある大きいポットをもってこまめに水を飲む。
水はぬるま湯で飲むことが多く日本のように氷水を飲む習慣はない。
体を冷やさないという考えが徹底している。

香港の医療費は高いがおそらく世界でも日本についで高い医療レベルにある。
ロイヤル(英国王室)認定の西洋医もいれば中医東洋医学)も多い。

日本と比べて飲酒、喫煙者が少なく、また伝統的な漢方系の健康食品も数多い。

中国茶をはじめ亀ゼリーや、暑い夏に「熱さまし」として飲む「涼茶〈りょんちゃ〉」を売っている店が至る所にある。
薬草を煎じたものでいくつかの種類がありその人の体質や症状に合わせて飲む。

これらの伝統的食文化が功を奏しているのか香港はすでに日本を抜いて男女とも世界一の長寿国である。

日本がある意味、先進医療技術で生かされている事実を考えると香港の実力は本物といえるのではないだろうか。



日本にいると遠いアジアだが香港ではアジアの国が身近に感じる。

台湾は一時間、バンコクやマレーシアでも数時間圏内にある。

香港赴任中は深圳でのライチ狩りのほか、中国、台湾、バンコクシンガポール、マレーシアなどアジアの観光地にも足を延ばした。

狭い香港に住んでいる人にとって海外旅行は息抜きであり、しょっちゅう外に出ている人が多い。
香港はおそらく世界でも海外旅行の比率が一番高いに違いない。


香港自体も外に開かれており海外からの人の出入りも多い。

フィリピン人はじめインドネシア人などすでに20万人以上のアマ(amah)が働いている。
結果として共働きのできる家庭が増え、女性の社会進出がかなり進んでいる。

日本も高齢化社会が現実になり海外から人を入れる規制を緩くする動きが出てきているがまだ動きが遅く規模が小さすぎる。

このままいけば日本全体が老人国になり(すでにそうだが)、仮にお金があっても介護する人がいない現実が来ている。

一刻も早く規制を軽くして香港のように海外からアマさんや若い人材を入れるべきだろう。
特にフィリピン人は英語も話し、明るくて介護に向いている。

国全体のエネルギーも活性化し、内からの国際化も進む。

治安や文化の問題など理由をつけて壁を作っていては世界の時代の流れに取り残される。
日本も思い切った開国をする時期に来ている。


最後にまた蛇足をひとつ。

地元の英会話教室に通っていた時の失敗談がある。

テキストなしで一時間だべるだけという気軽な個人レッスンで教師は世界を旅しながら周っている外国人が多かった。
その日はたまたま英国から来た女性だった。

話の流れで馬の話題になったついでに日本では馬を食べる習慣があると説明した。
そこまでは良かったが、余計なことに馬の刺身がおいしいなどと言ったものだから途端にその女性の顔が固くなりその目が軽蔑のまなざしに変わった。
まずいと思ったが、時すでに遅し。

あとで知ったがイギリス人にとって馬は特別な存在で日本以上に社会に溶け込み大切にする文化がある。
一緒に仕事をする仲間であり友達であってそれを食べるなどとはなんと野蛮な、さぞかし日本人が猫を食べるように思われたのだろう。

その後、その先生から個人レッスンを受ける機会はなかった。

日本人の当たり前が決して外国人にも当たり前ではない。

理屈では分かる…が、

これは私が海外にいて体験し学んだ教訓の一つだ。


九龍と香港島をつなぐフェリー

ネイザンロードの看板

茶店

1985年 シンガポール旅行

1986年 香港九龍公園にて

私の履歴書 第十一回 香港赴任と家族での生活

昭和58年(1983)5月末、すでに盛夏となっている香港に到着した。

啓徳空港で待ち受けてくれていた前任者と車に乗り込み会社に向かう車窓から見る景色は日本とは全く違うものだった。
日本では見かけないような細長いノッポビルが折り重なるように並んでいる。

香港は世界でも最も人口密度の高い都市だ。
狭い所に当時500万以上の人口(2018年は730万人)を抱えているので自ずと建物は上へ上へと縦に伸びている。

旧市街に入ると唐楼と呼ばれる5階建てほどの古い建物が並び、その一階には豚の内臓や鶏の丸焼きなどが吊るされた焼味店や中国漢方薬の店が多く見られそれらが混ざった独特の匂いが伝わって来る。

上半身裸で荷物を運ぶ男達やせわしなく動き回る人々を見るとそこに上品さは欠けるがたくましく生きるエネルギー溢れた人々の生活が垣間見える。

日本では見られないそんな風景が私には新鮮だった。

香港は写真になる。

それが私の最初の印象だった。
その頃はまだ写真を撮る眼で風景を見ていたところがあった。


PEL(Seiko Precision Engineering Ltd)に着任し伊藤GMに挨拶を済ませしばらく雑談をした後その日は九龍半島の最南端にあるリージェントホテルのラウンジに連れていただき前任者を交えてあれこれ香港の話題を聞かせていただいた。

ラウンジから海超えに見える香港島に林立する高層ビルを眺めているといよいよこの国際都市香港で働くことになるのだと憧れと共に緊張感がこみあげてきた。

その時生まれて初めて飲んだあの塩をまぶしたカクテル“マルガリータ”が私のお気に入りとなり今でも来客で食事の後ホテルバーに行けば必ずこのマルガリータを注文する。

6月に入るとさらに蒸し暑さが加わり日本の感覚でネクタイに夏用ブレザーを着ていたらあせもが出来てしまった。
やはりここは地元の人たちのスタイルであるジーンズにTシャツが理にかなっている。

一か月後に家族が合流。

当時は日本人家族が赴任または帰国時にはPELの日本人家族が空港で送迎する習わしがあり妻と4歳、1歳の子供たちを総出で出迎えてくれた。

1980年代は円高が激しく進行、金融、証券以外にも日本の製造会社が香港に製造拠点を移す一大ブームとなっていた。
日本では絶好調の景気が続いていてちょうどバブルが始まるころだった。

当時日系企業はみな飛ぶ鳥を落とす勢いだったのでローカルや韓国の駐在者に日本人は金持ちだとうらやましがられる(実際はそうではなかったが)一方で成り金的な目立つ日本人を白い目で見る人たちもいた。

勢いのある日系企業の赴任者や帰任者が増え、大勢の日本人が啓徳空港の送迎に集まりゲート前で一斉に‘バンザーイ“とやって見送っていたものだからそのうちひんしゅくを買ったのか日本領事館から”ほどほどに自粛してね”という通達が出たことがある。

多くの日本人観光客が香港に訪れ九龍ペニンシュラホテルにあるルイビトンショップで日本人が行列をしていたのもこのころだ。

一か月近く尖沙咀(チムサーチュイ)のホテル住まいをしたのち家族が住むフラット(香港ではマンションをイギリス式に呼ぶ)は前任者が住んでいた九龍城近くの家具付きの部屋を居ぬきで使うことになった。
前任者が雇っていた香港人のアマ(お手伝いさん)もそのまま継続し掃除や子供の面倒を見てもらっていたが半年後には妻が自分でやると言って辞めてもらった。


当時の啓徳空港は市街からほど近くにあり交通便利な空港だったがこのフラットからも近い距離にあった。

飛行機がライオンロック(山)直前で右旋回しながら降下着陸するというパイロットにとっては世界で一番難しい魔の空港として知られていた。

しかもちょうどその下に位置する九龍城付近には多くの雑居ビルが立ち並んでいる。

私たちは赴任当時、近くの九龍城市場に野菜などを買いに行くたびに経験しているが飛行機が降りてくる直下にいるとほんの10メートル上を飛んでいるかのようなすれすれの高さで機体が見えた。

その迫力と騒音の高さは想像を絶するほどでその間会話ができないのだが住人は慣れたものでその一瞬当然のように沈黙する。

一方飛行機に乗っている側から見ると右旋回降下してまもなく、眼下にすれすれのビルが見えるので操縦を誤っているのではないかと内心穏やかでない。

そんな空港はおそらく世界のどこにもないので初めて香港に降り立った人は肝を冷やす人が多かった。

スリル満点の何ともすさまじい空港ではあったが一方で航空ファンにとってはこんな面白い空港はなく、写真愛好家にとっては絶好の被写体であった。

ライオンロックをバックに飛行機が旋回して着陸するまでの様が眺められる小高い岩山が私たちの住んでいたフラットの近くにあったのでたまに子供たちとそこに上り眺めたこともある。

何かと話題の多い空港だったが乗降客の伸びに空港の処理能力が追い付かず返還後の1998年にランタオ島の新空港に移った。

今でも返還以前の香港を懐かしむ人が多いが当時の啓徳空港はいかにも何でもありの香港を象徴しているようで私自身とても懐かしい。


着任早々猛烈な台風も経験した。

香港には台風の強さに応じて弱いものからシグナル1、3,5(今はない),8,9,10という段階で表し、3以上になると幼稚園や小学校が休みになる。

フラットに入居して間もないころ台風に遭遇、猛烈な風雨の中でフラットの古い窓枠の隙間から激しく水漏れし床がジャブ濡れになるのを一晩中タオルで防ぎながら悪戦苦闘した思い出がある。

後で聞いたらシグナル10(ハリケーン)になったそうでなんと10年に一回あるかないかの台風を着任早々経験した。
今ではほぼアルミサッシになっていると思うがその頃の古いビルはまだ鉄の窓だった。


PELは第二精工舎の香港現地法人で新界地区の葵涌(クワイチュン)という工業地区にあった。
10階建ての工業ビルを5フロアほど(1フロア1000㎡位だったか)間借りした大きなスペースを持つ工場だった。

当時は自動巻き時計(Cal.70)の販売が好調で月産20万個ぐらいの組立をしていた。
それに伴う時計技術や製品検査部門、外装部品の現地調達、検査部門そして社内にはメッキ工場も保有していた。

時計はHOL(旧服部セイコーの香港販社)経由で中東など海外に輸出していた。

多角化として進めていた電子部品の海外販売チームも含めると総勢400名ぐらいの規模だったと思う。

日本人赴任者はトップの伊藤GM(General Manager)以下13名ぐらいでそれぞれ各部署の責任者として配置されていた。

私の前任者は外装設計担当だったが数か月後には外装技術担当の赴任者が帰任し私が兼任することになった。

面白いことにPEL内の日本人とローカルスタッフとの言語はムーブ、組立部門は代々広東語で、それ以外の総務や外装関係は英語での会話が主だった。
もともとPELは時計組立から始まっているので当初はワーカーとの英語が通じず広東語での指導になったのだろう。そのせいかムーブ担当の赴任者は代々広東語のうまい人が多かった。

ローカルのリーダークラスはほぼ英語ができるので意思の疎通に問題はなかった。
社内には時計専門用語を網羅した日本語、広東語、英語での一覧表がありそれを使って説明することもあった。

外装設計と外装技術のローカルスタッフが合わせて10名ほど、それと外装部品検査工場を含めて総勢80名ほどが私の管轄であった。

日本にいた時よりも仕事のスパンが広がり部下が増え権限と責任が大きくなる。
一技術者としての立場から管理者としての役割も要求された。

外装部では香港内の10を超えるケースメーカーから購買をしていたが外装技術の責任者として品質管理の責任とQCD評価によるケースメーカー選定にも目を配る必要があった。


当時は急激な円高の進行で国内での時計製造が困難になり製造の香港シフトが加速していた。
私が赴任したころは1香港ドルが35円程度だったがその後も継続して円高が進行した。

その頃はまだ香港の労働コストが(日本と比較して)相対的に安くまた時計の販売も好調だったので香港法人は利益を生んでいた。

その多くを本社に還元しながらも赴任者の待遇にも余裕があったようだ。

住居費は当然としても幼稚園や日本人学校など子弟の教育費や保険、所得税も会社持ちで日本人クラブのほかにスポーツクラブの会員も一部の赴任者に供与された。

当時はまだ泥棒や強盗など香港の治安に不安もあり安全面の事情も考慮して会社にはドライバー付き専用車が5台ほどあり行き帰りとも1台で数人の日本人を拾って通勤していた。

その頃日本人一人にかかる総費用はローカル従業員100人分と言われていた時代でまだローカルとの差が大きかったがそれでもまだ日本人を必要としていた時代だった。


私が赴任した1983年は香港返還を決めた中英共同声明が発表される前年にあたるのでちょうどそのころはイギリスのマーガレットサッチャー首相と中国の訒小平がギリギリの交渉を続けていたころだ。


ここで、香港というところはどんな歴史と背景があるのか。
さらに深く理解するためにその歴史を簡単に振り返ってみたい。


香港はもともと中国華南にある広東省の小さな一漁村だったがその成り立ちは清朝時代に始まる。

香港島と九龍(大陸側)を隔てている海峡は大きな船が往来できる天然の良港だった。
イギリスはアヘンを中国に輸出する貿易基地として利用していたが1839年イギリスと清朝アヘン戦争によってイギリスが香港島を占領。

その後1842年の南京条約でイギリスに永久割譲された。
(狭義での香港はこの香港島を指す)

アロー戦争後、1860年の北京条約で九龍半島の界限街(ガイハンガイ)以南も割譲される。

さらにその後の清朝の弱体化(1884年清仏戦争、1898年日清戦争)の中でイギリスは1898年7月九龍 界限街以北から深圳(シェンチェン)河以南の新界地域の租借に成功した。

租借期限は99年間とされ1997年7月1日が返還日となった。

その後イギリス植民地(イギリス下の政庁)として19世紀から20世紀にかけ華南貿易基地として発展する。

1865年にはイギリス資本の香港上海銀行が創設、1877年香港西医書院〈のちの香港大学〉が創立されここで学んだ孫文らが決起、何度も清朝の軍に負けながらもついに革命に成功(辛亥革命)、1912年に清朝が滅亡し国民政府(中華民国)が樹立される。

戦前の香港はイギリス植民地下のもとで中国大陸と諸外国の中継貿易基地として発展、香港政庁はレッセフェール(自由放任政策)に徹していた。


1941年の太平洋戦争で日本陸軍が侵攻を開始しイギリス軍が降伏。

1945年終戦までの3年8か月間、日本(軍)が統治した時期がある。
この時期には貿易も止まり経済が悪化し160万の人口が60万人まで減少、
この時日本軍が乱発した軍票は敗戦で無価値になり今もその補償要求があるという。

その後中国の国共内戦により中国共産党中華人民共和国を成立(1949年)すると共産主義に反発する多くの中国人が香港に逃れた。

上海にあるイギリス資本(スワイヤー、ジャーディンマセソンなど)が香港に拠点を移し香港の経済発展に大きく寄与した。

中國の一党独裁を嫌った難民が大量に香港に流入、それが安価な労働力となり繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が大きく発展し後に香港最大の財閥となる李嘉誠のような起業家が出てくる。

その後旅客機の大型化で輸送量が増え香港は東南アジアにおける流通のハブとなりシンガポール、台湾、韓国と並ぶアジアの4小龍と呼ばれるようになった。

1970年代に入ると香港返還問題で中英のやり取りが活発化、イギリスのサッチャー首相は強硬に引き続き植民地支配を求めていたが中国は「港人治港」を要求、訒小平は一歩も引かなかった。

私が赴任した1983年はほぼ返還が決まるころであったと思うが毎日この返還に関わるニュースがテレビに流れ、世界中がこの成り行きに注目を集めていた。


1984年12月中英共同声明発表、1997年7月1日に中国に主権委譲し「特別行政区」となることが正式に決まった。

訒小平が提案した「一国両制」政策〈のちの香港基本法のベースとなる〉をもとに50年間は現状を維持し社会主義政策を実施しないことを約束した。

しかしこの発表後、中国共産党を嫌う多くの香港人がカナダ、オーストラリアへの一大移住ブームとなる。

1980年代は訒小平による中国の改革開放政策が加速し香港の製造業は国境を越えて中国側に進出、香港はしだいに金融、商業、観光都市化していく。


こうした歴史的背景もあって香港に住む人たちは返還後の今でも中国に根強い疑心暗鬼を持っている人が多い。

私は歴史に翻弄される香港で長い間イギリスの植民地として経済発展してきた時代から共産主義の中国に返還されるという世界に例のない歴史的な大事件の渦中に香港にいたことになる。

ついでだが

返還が決まったころ日本でも返還後の香港がどうなるのかしきりに話題になった。

もう香港は終わりだという説が多かったと記憶しているが中でも経済評論家の長谷川慶太郎は”香港はゴーストタウン化する”とその著書に書いていた。しかもこの人はいつも”間違いない”と付け加える。

それに対して邱永漢は”返還後の香港は中国の窓口として栄える”と主張した。

”香港が中国化するのでなく中国が香港化する”のだと。

邱さんの見方はこうだった。

第一に
1997年までは10年以上の時間がありその間に指導者が変わるので毛沢東時代の再来は考えられない。どんな指導者でも新しい時代の風潮には勝てない。

第二に
香港を傘下に収めた中国の指導者に「12億人の生活を改善しなければそもそも自分たち(共産党)の地位を守れない」という認識があれば限りなく資本主義に近い形で経済の発展をせざるを得なくなる。
そのためには香港をお手本にして経済の発展を進めることになるからむしろ「中国大陸の香港化」が大きな流れになる可能性が大きい。

と1980年代当時の著書に書いている。

次の時代がアジアになるとして香港はそのおへその位置にあるからアジアに置かれた香港は他の追随を許さないものがあると付け加えている。

当時まだ改革開放前で何やら得体の知れない中国の将来の変化を予測できる人が何人いただろうか。


多くの情報を集め、分析予測する長谷川慶太郎に対し自分の足で現場を知り中国語で多くの人と交流しビジネスをしている邱永漢との違いがはっきり出た。

私はその後、それまで同じく先を見る意味で興味をもって読んでいた長谷川氏の著書”次(の時代)はこうなる”シリーズをいっさい読まなくなった。


ちなみに邱さんは1992年に目黒区の住民を辞めてアジアが見え世界の動きがよく良く分かるという理由で香港に居を移した。




返還後20年が過ぎた今も香港の活力と経済的発展は変わらずに続いてはいるがここ2〜3年の動きを見ると中国の政治的圧力はますます強くなり植民地時代に比べると自由な発言がかなり規制されてきた感は歪めない。




次回は赴任中の仕事や香港での生活の中で感じたことを記してみたい。



1980年代の香港


ライオンロックを背に降下する飛行機



九龍城付近の雑居ビル上をすれすれで降下する機体

私の履歴書 第十回 家族、登用試験、邱永漢先生との出会い

結婚後は江戸川区小岩にあった社宅の入寮申請が通り、そこに移り住むことになった。
18歳で親元を離れてから都内のアパートを転々とした一人暮らしが長かったので二人での新生活にとても幸福感を感じた。
家に帰れば話し相手がいるし食事も作ってくれる。

当分この生活を満喫したいと思っていたが昭和53年(1978)7月に長男を授かった。

と同時に生活は一変。
この年は何年ぶりかの猛暑だったが社宅にはあいにくクーラーがなく夕方になるとこらえきれずに生まれたばかりの赤ん坊を外でずっと抱えていたと家に帰った私に彼女はこぼしていた。
当時の社宅には風呂もなかったので私も時おり慣れない手つきで近くの銭湯に連れていった。

命名の本を買っていろいろ考えたが迷った末にその著者に手紙を書いたところいくつかの候補を書いた丁寧な返事をいただいた。
その中にあった「心哉」という名前が話し方教室で学んだ“心”と私の中で結びつきそれを選ばせてもらった。

この年私には第二精工舎(現セイコーインスツル)の主任登用試験の挑戦があった。

第二精工舎には二段階の登用試験制度がある。

一つ目は高卒入社後5年で受けられる係補試験(大卒入社はこの試験を免除)
これを通過すると7年後に上級幹部職への登竜門である「主任試験」を受ける資格ができる。

将来会社の幹部に行くためには必須の門だがかなり狭き門であった。
大卒であってもこの主任試験を通るのは簡単ではなかった。
(ちなみに弁護士や公認会計士の資格を持っている人は免除されていた)

私は昭和45年(1970)23歳の時に係補試験を一回でパスしていたので1977に主任試験の資格ができ受験したが通らずこの年(1978)は二度目の挑戦だった。

試験内容は一次試験が一般常識(社内常識含む)、専門知識それに論文と実務評価点が加わる。
それぞれ60点以上が条件でその一つでもクリアできないと失格となる。
二次試験は専門論文で70点以上取らなければならない。

会社にいる以上ここは重要な局面となる。
当然ながらこの先もらえる給与も大きく変わってくるのでこの時ばかりは真剣に勉強した。
普段はボーっとしているがここぞというときは集中力を発揮するタイプだ。

寒い時期となり暖房のない部屋で生後間もない長男を膝にあんか代わりに勉強したこともある。

専門知識と論文は事前の準備で何とかなる自信はあったが一般常識は何が出るか予測がつかず的の絞り込みが難しかった。
前年の経験から合否の境目はこの常識だった。

大学入試よろしく国語から社会、政治経済まで幅広くやり直した。
新聞を読む習慣はこのころからできた。

論文は自分の専門領域を中心に自分がどう会社に貢献していくべきかを主眼に書いたものを上司の野沢課長や一足先に主任試験を通っていた鎌田さん(後に社長)に見てもらい
ダメ出しをもらいながら何度も書き直しを繰り返した。

この年11月の試験を受け運よく難関を突破することが出来た。
受験者総数287名で一次合格者は48名。


さらに翌年2月に二次試験の専門論文(その場で与えられたテーマを3時間内に仕上げる)も無事通過し最終的には部長級3名の面接を経て私は合格となった。

この年時計外装部で主任試験を通ったのは4名。

大卒,院卒の多い中で高卒もちらほら混ざっていた。
高卒の同期入社が全社で約80人いたがこの年の合格者は私を含めて二人だけだった。

この時私は31歳、これで会社の登竜門をくぐれたと思うとこみあげるものがあった。

大卒者にとっても厳しいこの試験を通ったことで私はこのころ自信がついたように思う。

いったん会社に入れば実務面ではあまり学歴の違いは分からない。
むしろその人の知識レベルや仕事の姿勢で差は出てくるもので私自身大卒者と比べて仕事上で引け目を感じることはほとんどなかった。

ただそうはいってもやはり見えない学歴の差別が人事に出てくることは実際にありえる。
私は自力で大学(二部)は卒業したが会社では高卒入社の資格のままだった。

しかしこの試験を通過すればそこから先は同じスタートラインから進むことになる。
このあたりから自分はできるという思いを持つようになりその自信がさらにプラス思考で上をめざす原動力になった。

思えばこの時期広く勉強したことはその後大きく役立っている。

知識の幅を広げることで飛躍できる土台(ジャンプ台)ができるのだと思う。
知識を身につけることは生きるための武器を持つことにつながる。
逆に十分な知識を持たないと社会の底辺に甘んずることになりかねない。



私の人生の師といえる邱永漢先生(故人)の本に出会ったのはこの頃だった。

結婚し子供も出来たのでそろそろ家が欲しいと不動産に関する本を探していたころ
本屋で立ち読みをしていたらたまたま邱さんの本が目に留まった。


その時の本のタイトルまでは記憶していないが軽く立ち読みをしたら中味が面白く引き込まれた。
これまで読んでいた本とは何かが違っていた。
平易で読みやすい文章だが内容は示唆に富んでいてすぐにでも役立つような知恵が詰まっていた。
書かれていることにいちいち納得し感心する。

こんな人がいたのかとそれ以降何冊か邱さんの本を続けて読んでいるうちにすっかりファンになった。

邱さんは世の中の観察が鋭く発想や考え方が普通の日本人と少し違っていた。
台湾出の秀才で東大を卒業、もともとずば抜けた頭の持ち主だが普通の人と違うのは世の中の動きを感知する天才ではないかと思うその能力と同時に先見力の優れた稀有な人だ。

生前300冊ぐらいの本を書いているのでそのすべてを読破してはいないが本と出会った1980年頃以降からはその多くを読んでいる。

私は邱さんの本から商売の考え方や金銭哲学、さらに処世術まで含めて多くの知識と知恵を得てその影響を大きく受けた。

結果として邱さんは私が起業家として独立する芽(きっかけ)を作ってくれた人であり自分の生き方にも指針を与えてくれた私の師と仰いでいる。

今後もこのブログで時折登場していただくことになると思うのでその人となりを今少し紹介しておきたい。

邱永漢は1924年、日本統治下時代の台湾(台南)生まれ。
台湾人の父と日本人の母を持ち台湾随一の秀才校である台北高校から東大経済学部に入り卒業して台湾に戻った後、中国から入ってきた国民党政府の悪政に反旗を翻して香港に亡命。
香港に6年ほど住んで香港の女性と結婚したのち作家をめざし東京に戻った。
1955年直木賞(このとき石原慎太郎芥川賞)を取り作家としての活動を始めたが本来の持ち味である経済や金銭感覚の鋭さを活かして書いた本が多くのファンを得るようになった。(私もその一人)

作家でありながら実業家でもある。
始めてわずか一年の株で大成功、金儲けの神様ともいわれた。
先見の明がありいつも人よりも一歩どころかずっと先10年、20年先を見る人だったので私はいつも邱さんの新刊が出るたびに追っかけて読んでいた。

私のような凡人には逆さになってもそんな先が見えないので邱さんが今世の中をどう見て、これから時代がどう変化すると見ているのかそれを知りたかった。

邱さんはアイデアを思いつくと自分が真っ先にビジネスをやってみるのだが失敗してしまうことも多くその何年か後に他の人が成功すると書いていた。

先を見過ぎて先走りしてしまう傾向があって時代が後からついてくると自戒していた。
日本でビジネスホテルを始めたのも、コインランドリーも邱さんが最初に始めている。


当時1980年代から「これからはアジアの時代」といくつもの本に持説を論じていた。

日本人の感覚と同時に華人の商売感覚を持ち合わせた人で中国や台湾、香港の事情に詳しく日本を外から客観的な視点で見られる人だった。

2012年に88歳で亡くなられる直前まで筆まめな方で邱さんのブログ「もしもしQさんQさんよ」(もともとは日刊イトイ新聞内にあった)に毎日書いておられた。
私は最後まで邱さんの世の中の観察を参考にさせていただいた。



話は戻るが昭和56年、34歳の時に私は初めての自分の家を持った。

船橋駅から東武野田線で三つ目の馬込沢駅鎌ヶ谷市道野辺)というところに小さな庭付きの中古で1800万円ぐらいだったか、3割の頭金、残りは会社の住宅ローン制度を利用、
金利は5%だったが当時の銀行ローンと比べると低利で借りられた。

木造のベランダがかなり痛んでいたのでそこは業者に依頼して新しくしてもらったがそれ以外は初めてのマイホームということではりきって屋根のペンキ塗りから玄関前のタイル張替え、部屋の塗り替えなど(進藤君の手も借りながら)すべて自分たちでやった。
また小さな一坪ぐらいのスペースに畑を作り野菜も作ったりした。

家の前のおばあさんがそれを見ていて「若いのによくやるねえ」と声をかけてくれた。
自分の息子は何もしないでいつもごろごろしているとこぼしていた。
このおばあさんは家ではめっぽう口うるさい人でよくヒステリックな声が聞こえてきたが近くの畑を借りて毎日自分の野菜づくりに精を出している人でなぜか私には優しく話してくれた。

引っ越しをして間もなく昭和57年(1982)2月、家内が臨月となりもうそろそろというところで3歳の長男と妻の実家で控えていたら「無事男の子が生まれましたよ」と妻のお母さんから伝えられた。

正直次は女子がいいなと期待を込めていたこともあって女子の名前ばかりいろいろと考えていたのだが、実は男子の名前はもともと以前から密かに暖めていた名前があった。
そのころから学者や役者の中にも時折見かける”直樹“という名前が自分なりに気に入っていた。
そのため長男に比べると意外にあっさり決めることが出来た。
私は画数などあまり気にしないほうでどちらかというと語感と響きを大事にした。

数日後だったか無事生まれてほっとしていた矢先に病院にいる妻から会社に電話があった。
先生(女医さん)から「もしかしてダウン症の疑いがあります」と宣告されたという。
「念のためDNA検査で確認します」ということだった。
結果が出るまでに一か月かかるという。

理由は手相であった。

普通は知能線(頭脳線)と感情線はくっついてないで離れているが“ますかけ線”と呼ばれる横一文字のまっすぐ伸びる線になっていて顔も確かにそれっぽい顔をしていると先生に言われたらしい。

「お父さんは普通の生活をしていますか?」と聞かれて「普通だと思いますが」と答えたそうである。

医者というのはこういうセンシティブな内容を事もなげにしゃべれるのだなと思った。


実は私自身が両手とも“ますかけ線”の手相でこれは“猿手”ともいわれ片手でもめずらしいそうだが両手共はめったになく一万人に一人の手相だそうだ。

改めてネットで調べてみたら実際ダウン症によく見られるようだが一方でこの線を持つ人は強運に恵まれ大成功を収める手相といわれるらしい。
性格は頑固で意地っ張り、こうと決めたら自分の意見はめったに変えない芯の強い人とも書いてある。
(うん、確かにそうかも)

歴史上では織田信長豊臣秀吉徳川家康の三人ともますかけ線だったという。
近年では石原慎太郎小泉純一郎松下幸之助手塚治虫小沢征爾とそうそうたる人たち。
そして福山雅治志村けん明石家さんまさんたちも名を連ねている。

しかしそれらの人に比べると私の成功はかなり小粒だが。

いや、確かに自分の人生を振り返ると私は運に恵まれていたとつくづく思う。
幼いうちに父親には逝かれてしまったが母や兄たちに守られ、就職した会社では先輩に恵まれ起業してからもスタッフに恵まれた。

しかし私自身この年になるまでほとんど手相というのを見てもらった記憶がない。

そんなに特別な手相ならどんな未来があったのか若い時に見てもらうべきだったとも思うが私は「自分の未来は自分が決める」という考えだったのであえて他人に自分の未来を言われることが好きでなかった。

もしこの年になって今、手相師に見てもらったら何と言ってくれるのだろう。

70を超えた人間に「あなたは将来出世しますよ」と言ってくれる人もいないだろうからどんな答えが返ってくるのかそれはそれで興味がある。
逆に「この手相ならもっと出世していいはずですけどね」と言われても困るが、手相見に年齢制限はあるのだろうか。


いづれにしてもダウン症か天下を取るかの違いは天と地の違いなので結果が出るまでの一か月は長かった。

多少のマイナスは受け入れるのでとにかく普通の人であってほしいと私は心から神様にお願いした。
(私には都合の悪い時だけ神様にお願いする都合のいい癖があった)

心配になり会社の図書室にこもってダウン症について調べたものだがようやく結果が出てそうではなかったと聞いて目の前がパッと明るくなったのを覚えている。



その年(1982)の10月、外装設計二課時代に当時の野沢課長から香港出張の指示があった。
第二精工舎の香港工場PEL(Precision Engineering Ltd.)の設計者との情報交換だという。

JAL成田発、5泊6日でちょうど香港ウォッチ&クロックフェアと合わせてPEL内部や当時はまだ香港内にあった時計ケース工場を視察する機会を得た。
初日にはアバディーンタイガーバーム、ビクトリアピークなど定番の観光地を会社の車で案内してもらった。

後で分かったのだが実は私の香港赴任を前提に計画されたもので香港に赴任していた外装設計者の後任として私が指名されていたのだった。

そうとは知らず食事をごちそうになったりいろいろと香港内を案内してもらっていい気分になり「香港っていい所だね」などと言っていたものだからその後難なく私に赴任の話が回ってきた。

事実、私にとって香港の印象は良かった。

中華料理のレベルは高くおいしいしイギリスの植民地下で英語を公用語とした国際都市香港は東洋の真珠ともいわれていた。
同じアジア圏で欧米と比べても日本との文化のギャップも小さく生活がしやすい。


私には初めての海外旅行であったがこの時いい意味でカルチャーショックがあった。

それは英語が生活で使われている現場を初めて体感したこと。

香港は広東語が母国語だがイギリスの植民地だったのでかなり英語も使われていた。

多少の英会話を趣味程度でやっていたがその世界を見て本当に英語って使えるんだというのが(当たり前の話だが)その時の正直な感想だった。
遅ればせながら30過ぎてそれ(活きた英語)を実感したのだった。

そしてある韓国料理店に入ったらそこの女主人が韓国人なのに広東語はもちろん英語も日本語も話す。さらに京都弁まで使い分けられると聞いてびっくりした。
後になって分かるのだが香港にはそういう人が特別めずらしくもなく普通にいることを知る。

世の中にはこんな人もいるのかとショックを受けた。
それに比べ自分も含めて日本人はいかに言葉の武器を持っていないか身をもって実感した。

これがきっかけとなって私は英語ぐらいしっかりやろうとその時決心したのである。


私自身は前から海外赴任にあこがれていた方で、以前にも先輩たちから香港の話を聞き海外生活という未知の世界に興味を持っていた。

妻も大手商社にいて身近に海外勤務を見ていたので何の抵抗もなかった。
子供たちもまだ小さくこれと言って支障はなくすんなりと了承した。

12月には正式に赴任が決まりその後は英会話の勉強に集中した。

会社指定で市ヶ谷にあるバークレーハウスランゲージセンターというところで個人授業を受けた。
アメリカ人教師で2時間レッスンを週4回、赴任までの期間が比較的あったので130時間を超えるレッスンでずいぶん話せるレベルになった。

「もう香港に行っても全然問題ないよ」と言ってくれた私の担当教師であったアメリカ人の若い先生とも仲良くなり彼のガールフレンド(同じ英語教師)と一緒に鎌ヶ谷の家まで招待したことがあった。

その時のちょっとした思い出がある。

二人が玄関に用意しておいたスリッパを履かないで入ってきたのでどうぞと言って履いてもらったら今度はそのまま畳の部屋に上がってきた。
ここはスリッパを脱いでと言ったので今度はあわてて脱いだのだがあとで考えてみるとこんな狭い家でスリッパを履かせたり脱がせたりさせるほうが間違いだったことに気がついた。
とんだ迷惑だったに違いない。

ついでにこれも余談だがスリッパを脱いだ靴下に大きな穴が開いていた。
英語教師も実態は厳しいんだなと思った。

その日は家内の手作りの日本料理を慣れない箸を使いながら「ディリーシャス!」と言って喜んで食べて帰ってくれた。
二人にとっても思い出に残るささやかな日本の家庭体験だったかと思う。



香港行きが決まり私の兄弟やその家族が集まって私の歓送会をやってくれた。
確かその席だったと思うのだが三兄がなんとにわか覚えの広東語の歌を唄ってくれたことにびっくりした。

昭和58年(1983)5月いよいよ赴任の日が来た。

家族を置いて私一人が先行で成田を飛び立った。
36歳の旅立ちだった。



●このころの世相を見ると

昭和52年(1977)円高不況で企業倒産件数が過去最高に。
       大卒男子の初任給が10万円を突破。

巨人の王貞治が756号の世界新記録を達成し国民栄誉賞第一号に。
カラオケが盛り場に登場、一曲ごとの料金制が多かった。

昭和53年(1978)キャンディーズが解散、ピンクレディが人気絶頂。
新宿や六本木でディスコフィーバー、昼はホコ天竹の子族出現。
     この年成田空港が開港した。

昭和54年(1979)ウォークマンソニーから登場
このころ日本には勢いがあった。自信を失ったアメリカ人に「日本に学べ」と伝えた“ジャパンアズナンバーワン“が日本でベストセラーに。
 インベーダーゲームが流行

昭和55年(1980)ジョンレノンがニューヨークの自宅前で射殺される。
山口百恵が芸能界引退 黒澤明監督の影武者がカンヌ映画祭でグランプリ獲得

昭和56年(1981)チャールズ皇太子がダイアナと結婚
          千代の富士横綱昇進

NHK朝の連ドラ「おしん」が60%を超える視聴率となりおシンドロームと言われた。
      任天堂ファミコンが新発売。

昭和58年(1983)東京ディズニーランド浦安市に開園




昭和54年(1979)主任登用試験合格


邱永漢先生


私の手相
両手とも”ますかけ線”といわれる横につながった一直線になっている。

私の履歴書 第九回 学ぶ愉しさ 好奇心旺盛だった20代

私の履歴書 第九回

20代は旅とカメラが私のメインテーマだったがそのころ何事にも好奇心旺盛だったので写真以外にもいろんなことに興味を持った。

この項では仕事から離れたところで自分のやってきたことを思い出してみたい。

振り返れば10代は何も分からないまま学校生活を過ごしたが20代になり東京という都会生活の中に浸ると新しいものが目に飛び込み,触れる機会が増えてきた。
そんな中で自分の興味ある世界に足を踏み入れ首を突っ込んできた。

今にして思えばそれらが私の後半の人生のための血や肉になっているような気がする。

いったん写真の道をあきらめ趣味としてやることに決めるともともと旅が好きだったので旅とカメラをセットに日本全国を周るのが楽しみとなった。
毎年5月と夏に約一週間の休みがあったのでここを利用して日本全国を遠出した。

撮影メインで自由に行動するためにほとんど一人旅が多かった。
時には気の合う進藤君と出かけることもあったがその時はカメラに集中することはできないが友人と気ままな旅をするのもまた楽しかった。

写真家をめざした者としていつかは写真集を出したいという夢もひそかに持っていた。
旅と写真をメインに写真紀行を出す夢を見たもののそこまでの金もなく現実には至らなかった。

会社が終わってから片道2時間近くかけた写真学校通いもなくなり写真から距離を置くと生活も徐々に会社中心で回るようになってきた。

就業後の時間もたっぷりあるのでおのずと会社の同僚と酒を呑む機会が増える。
会社近くの亀戸や上野で呑むことが多かったが時には新橋、新宿、銀座などへ繰り出して夜の街を飲み歩くのもそれはそれで楽しかったが次第に物足りなさを感じてきた。

20代後半のころ何か新しいことをやってみたくなり新宿にあった「ヒコみずのジュエリー学校」のペーパーデザイン科に通うことにした。
もともとデザインに関心があったが仕事でも金無垢のケース(クレドール)を扱っていたこともありジュエリーの世界にも一時期興味を持っていた。
ジュエリーの世界に入ろうかと思ったこともある。

ここで一年間ジュエリーデザインの勉強をした。
といっても、一年ではスケッチやレンダリングのテクニックをかじった程度である。
当時はパソコンでなく全て手描きだがコース終了のころ小筆を使って細密に描いた絵を友人に見せたら写真かと勘違いされたことがあるのでその程度のテクニックは身につけたのだろう。

その後さらに銀座にあるアクセサリースクールで一年間彫金教室に通った。

ほとんど女性ばかりの教室だったがここではガスバーナーやヤスリなどの工具を使ってシルバーの指輪やペンダントを造る彫金細工をやった。
会社でやっていた仕事に近い内容だったのでその延長線上で学ぶことが出来た。

その都度興味のあることをやってきたが体で覚えた感覚はその後自分で会社を興してから自分のイメージをスケッチで表現することにも大いに役立っている。

東京には様々な教室があり何かを学ぼうとする人にとって便利で懐の深い街である。


このころ話し方教室にも通った。

会社が亀戸なので新小岩のアパートに住んでいたがある日JR総武線の車内で「江川ひろしの話し方教室」という広告を見かけた。

栃木県の片田舎から出てきた私はまだ鹿沼弁が抜けきらず人前で話すことに自信がなかった。
“500人の前でも話せます“という見出しに惹かれて行ってみた。

何百人も詰めかけた大きな会場で聞いた江川ひろし本人(故人)の話にいたく感動し聞いている途中で体が震えてきたことを覚えている。

その自信と迫力に満ちた、人の心をぐいぐいつかむ話にまさに引き込まれた。
それはかつて出会ったことのない衝撃の体験だった。
迷うことなくその話し方教室の3か月コースを受講した。

江川ひろしはもともと郵政省の若手キャリアだったが自分のすぐれた話の才能を武器にこれからは話し方が大事ということに着目しキャリアを捨て1953年に日本話し方センターを創立した。
当時、時代がそれを必要とし多くの経営者や会社員が受講するようになったという。
実際私が受講したクラスには若い弁護士さんもいた。


少しでも話がうまくなればという程度の動機だったがそこで学んだことは予想を超えるものだった。

「話し方」のテクニックはもちろんだがそれ以外にもっと大事なこと、生きていくうえで大切な人間関係を学ぶカリキュラムだった。

自分から挨拶をしなさいということから始まり、話し方を通して誠実さや感謝の心を説き何より自分自身が変わること、
そして「プラス思考」で「積極性」のある考え方に変えていくものだった。

一部話し方センターから引用し要約すると

「ことばの前に心あり ことばの後に行動あり」

【言葉=話し方を中心に、言葉の前の”心のあり方”、言葉の後の”行動のあり方”、と言葉の前後を含めて一体に学んでいきます。
それは、単なる「話し方」のテクニックにとどまらず、人としての生き方を根本からよりよい方向に変えていくことです。】

まさにその通りだった。

その時まで話がうまいというのはすらすらと流暢に話すことだと勘違いしていた。
しかしそれよりも人に伝えようとする中身がもっと大事なのだということを知った。

正直この教室を受けてから自分の人生が変わった気がする。

そしてその後出会う世界的名著「人を動かす」(デールカーネギー著)を読んでその思いが自分の信念につながっていく。

この本の中で多くの例を挙げて繰り返し記している人間の心理や人間関係の重要で基本的な事がまさにこの話し方教室で学んだことと相通じるものだった。

この時以来私の中でストンと落ちるものがあり自身のものとして定着していった。


20代の時にこの教室に通いこの本に出会ったことは私にとって幸運だった。

今でもベストセラーに名を連ねる“人を動かす“は人間の機微や本質をついておりいつの時代でも通用する本なので私は今でも若い人にこの本を読むことを勧めている。


余談になるが話し方教室の受講で“笑いを取る”という授業があり講座の後はそれを実際に試すよう指導されていたので早速外装開発課時代の持ち回り朝礼でやったことがあった。

高校時代に利き手の右手をけがししかたなく左手でお尻を拭くはめになったときがあったのだがそれ以来ずっと左手の習慣になってしまった話をやったところ課員に大うけした。
まではよかったがお堅い課長には渋い顔をされてしまった。

教室ではその後さらに自分自身をコントロールする訓練の自己催眠コースを続けて受けた。

これは後に脳のα波を出すイメージトレーニングで自己の潜在能力や願望達成する手法の勉強へとつながった。

能力開発研究所の志賀一雄(工学博士)の調査でひらめきの天才や音楽家、超能力者などの脳の状態を調べると彼らが集中して能力を発揮しているときは意識と潜在意識が統合された
集中状態でアルファ優勢になっていることをつきとめた。

人の脳はリラックスした状態でアルファ波になるがそれを自分でコントロールし理想のイメージを自在に描けるように訓練してそれを仕事や生活に役立てようとする理論がありこれを学んだ。


アルファ波を測定するマシンがありそれを買って意識的にアルファ波を出す訓練をやった。

イメージトレーニングと言って自己の願望をメンタルスクリーンに描いてそれを潜在脳に働きかけ伝達することでその願望を達成させようとするものだ。


これは“マーフィの成功の法則”と同じ理屈で強い願望を自身に強く働きかけ(続け)ることでいったん潜在脳に叩き込まれると人は無意識のうちに実現に向かって行動し
いつの日かそれが実現されるというものだ。
その思いが強ければ強いほど実現の可能性が高くなる。

実際私はこれで自分の将来をイメージし実現させる努力をした。


また20代は毎年冬になるとスキーで明け暮れた時代だが冬が終わると出来なくなるのでシーズンオフにできるテニス(硬式)を始めたのもこのころだ。

結構夢中になり例の進藤君とスキーが明けるとテニスを二人でやるようになった。
テニス教室にも通いながら競い合ったがスキーもテニスもお互い同じようなレベルでウマが合った。


そして20代の終わりのころに出会いもあった。

会社の連休を利用して南は与論島から北は青森まで日本中をずいぶんあちこち周ったが1975年の夏、それまで行ったことのない北海道に行くことにした。

私の旅はほとんど一人旅だったがさすがに北海道はやたら広くて交通不便なのでこの時ばかりは団体ツアーに参加した。

28歳の夏、ここで運命の人に出会うことになる。

ツアー客はほとんど女性ばかりでガイドを除くと男性客が二人しかいなかった。

一週間ぐらいのバスツアーなので行く先々でお互い記念写真を撮りあったりしているうちに徐々に同乗客と仲良くなった。

そのうちの二人組で参加していた一人に気になる人がいた。

小柄だが清楚で可憐。
自分が描いていたイメージに近かった。
徐々に近づき後半は一緒に行動するようになり写真もたくさん撮った。

その後東京で逢い、何度かデイトするうちに冬になるころには結婚を意識するようになった。

そして翌年昭和51年(1976)5月、日本がロッキード事件で揺れていた時にゴールインした。
彼女はその時事件の渦中にあった商社丸紅に勤めていた。

後で聞かされたが私はツアー期間中ずっと同じシャツを着ていたので不潔な人だなと思っていたらしい。

写真学校時代、黒いTシャツを毎日着続けるのが写真学生の間で流行っていてそれを私は撮影旅行でカッコよく踏襲していたつもりだった。


ちょうどその頃だったが会社の勤労課から社内報の表紙を撮ってほしいという依頼があり昭和51年(1976)4月から翌年3月までの12回、表紙を担当した。

会社では11月に年一回の文化展というのがあって絵や写真、生け花など文化部所属の腕に覚えのある人が作品を出展する機会があり私は毎年写真を出品していて写真で名が知られていた。


ここぞ腕の見せ所とばかり(写真学校で撮る映像とは異なり)一般の人に受けそうな癖のない分かりやすい写真を季節ごとに撮り、毎回短い文章をつけて12回載せた。

これがなかなか好評だったのでその後は全社内的に「写真の橋本さん」として一躍知られる存在になった。


ちなみに4月号に桜の背景のアクセントとして赤い色の傘をさした彼女をこっそりエキストラとして登場させた。


4月 「桜咲く」東京上野

5月 「五月の風」新宿御苑

6月 堀切菖蒲園

7月「夏開く華」中尊寺の蓮

8月 佐渡の夕日

9月 「新しい息吹き」新宿西口中央公園

10月 白川郷の秋

11月 京都天竜寺の紅葉

12月 師走の銀座


1月 東京の夜明け

2月 「ガラスの中のメルヘン」表参道で

3月 ファンタジー