私の履歴書 第十九回 KENTEXの原点、こだわりと理念生まれる

1999年が終わりいよいよ西暦2000年が始まろうとしていた。

新千年紀の始まりということで世界では「ミレニアム」と騒がれた。

コンピューターが誤作動するのではないかと「2000年問題」が取り沙汰されたがほぼトラブルもなく2000年が始まった。

 

2000年にはシドニー五輪がありマラソン高橋尚子の金、柔道で田村亮子の金、女子ソフトボールの銀など女子選手が大活躍した。

この年イチローが米大リーグマリナーズに入団している。

 

「2001年宇宙の旅」という傑作SF映画が1968年に上映されている。

月に人が住み、最新型人工知能を積んだ宇宙船が木星探査に向けて航行するという未来映画だ。

アメリカの宇宙飛行士アームストロングが69年に月面着陸に成功しまさに世界中が宇宙に熱い視線を注いでいた時代だった。

50年以上が過ぎた2020年の今、宇宙開発は想像ほどではなかったがコンピューターはハードソフト両面で進歩を遂げ人工知能はもはや現実のものとなった。

 

振り返ってみると、2000年前後は当社にとっていろんなプロジェクトが重なり集中していた時代だった。

私自身は日本のOEMビジネスを担当しながらもKentexブランド推進に本格的に集中し小さな芽を熱い思いで育てた時期でもある。

この回で記したいことはたくさんあるが紙面の関係でそのいくつかを選んでみたい。

 

モノの価値下落とデフレ不況

 

97年の金融破綻と消費税5%引き上げで戦後最悪の不況と言われたが2000年に入っても景気は回復せず不況はますます深刻化していた。

 

80年代に始まった中国製造シフトは世界中のモノの値段を下げた。

日本では家電を筆頭にユニクロなどの衣料、雑貨、家庭用品などすべてのモノが値を下げデフレが進行、100円ショップの商品は種類が増えて人気が拡大した。

 

日本の時計市場はロレックス、オメガなどの高級ブランドのみが好調、5万円以下の市場が縮小し中級、PB, カジュアル、ライセンスなどすべてダウン、超低価格品が市場に溢れた。

量販店では980円の時計から1980円,2980円,3980円の商品が主流となり、3980円は吊るしからGケース内に移った。

 

日本のOEM顧客を訪問するたびに“価格下落でコストの攻防が厳しい”とあちこちで悲鳴が出ていた。

日本で踏ん張っていた会社も工場を縮小あるいは畳むようになり当社にOEM委託の話も舞い込んだ。

さすがに超低価格品は品質の確保が難しいので、無理して参入するのは避けた。

 

低価格品が溢れる一方でブランド物は好調、市場での二極化が進行し国内の大手時計メーカーはそのはざまで苦しんでいた。

 

2001年の日経新聞記事に2000年の国内時計販売シェアの記事がある。

国内総販売5300億円(前年比一割減)のうちスイス高級品が3000億(横這い)で57%、香港低価格品が800億(横這い)で15%、日本勢は全体で1500億(二割減)の28.3%(セイコー700億、シチズン400億、他400億)とある。

 

日本勢が全体の三分の一以下(金額ベース)になりスイス勢の半分となった。

かつて日本メーカーの独壇場だった日本市場はスイス勢のブランド攻勢にシェアを奪われていた。

 

少し遡るが99年6月に私が師と仰ぐ邱永漢の講演会が東京であり邱さんは得意の先見力で10年、20年先の日本を予告していた。

要点を述べると

・モノの付加価値が落ちるのでものづくり産業は伸びない 

・今後はサービス産業の生む付加価値(富)が上がる、そして日本人はその仕事に向いている

・お金を使う優先順がエンターテイメント、食べる、海外旅行、趣味、健康美容、教養の順番になりやっと7つ目に物を買うことに使う。

 

厳しい現実が待ち構えているかもしれない。

しかし私はそれを頭の中に入れながらも自分が置かれているものづくりの可能性を模索していく道に戸惑いはなかった。

 

シチズンとのビジネス

 

不況が続く中で当時シチズンもコスト減のため海外調達の強化を模索していた。

98年に知人の紹介でシチズンの企画担当者と香港で面会、中国工場に案内し技術面での信頼も得られてシチズン時計とのビジネスが始まった。

シチズンは中国に自社工場があるのでライセンスや特注品などの企画商品が我々外注への生産委託対象だがケンテックスのデザイン力や技術面も信頼され数々のモデルをOEM生産した。

 

それまでクオーツ時計がメインだったが99年にシチズンの自社自動巻きムーブCal.8200を搭載したSCUDOという機械式時計を生産する機会を得た。

自動巻き専用の設備機器が必要となり自動巻き上げ機や歩度測定器などを当社中国工場に導入、この生産を通して自動巻き時計の製造技術ノウハウを積み上げることが出来た。

後にこのノウハウがKentex自動巻きの生産に役立つことになる。

 

その後もフリーウェイ、スヌーピー、銀無垢のケースなども受注するようになりシチズン商事とのおつきあいもいただくようになったがその後シチズンでさえも不況の荒波にもまれ希望退職を募るようになりシチズン時計が商事を吸収合併する再編があった。

 

機械式時計に注目

 

クオーツ時計の低価格化と並行して陳腐化が進んだことで機械式時計が少しずつ見直されてきた。

そのころスイス高級品を除けばまだ市場ではあまり流通していなかったが私は技術的に大量生産が困難で、クオーツに比べ付加価値が落ちにくい機械式時計に注目していた。

 

スイスETA香港支店の総経理Mr.潘(Poon)と初めてETA機械式ムーブの商談をしたのは98年の末だった。

そのころクオーツはオープン市場だったが機械式ムーブはかなり壁が高かった。

購入するにはブランド申請とスイス本社の審査が必要、しかも外装組立はスイスの指定3社で行ってスイスメイドにすること、さらにローターには(有償で)ブランド名を入れることが条件となっていた。安売りを未然に防ぐのだという。

いかにもプライドの高いスイスの会社だなと敷居の高さに驚いた。

 

しかし、この高価でなかなか手に入らないステータスとしてのETA自動巻きムーブを搭載したKENTEX時計を作るのが私の目標となった。

 

一方でこのころ日本の機械式ムーブの選択肢はほとんどなかった。

シチズンが8215などの82系自動巻きをわずかに外販していたがセイコーは内部で反対の声があったようでまだ外販はしていなかった。

私はTM(タイムモジュール)にそれを早くから要望していた一人だが99年4月にTMの渡井氏が小林氏の後任として挨拶に来られた時点でようやく70系の自動巻きを販売開始する情報をもらった。

 

KENTEXの理念生まれる?

 

かつての日本企業が目指した“より多くの人に安く提供する”という大量生産方式は戦後のモノ不足から昭和の時代までは美徳であり善であった。

しかし安価なモノが溢れる今日、それはもう善ではなくなった。

 

安物が出るとその下をくぐろうとする価格競争の世界。

2000年代初頭はまさにそんな時代だった。

それは自らの利益を削るばかりでなく企業の存続さえ危うくする。

この発想では企業イメージも上がらずイタリア、フランス、スイスにあるようなブランドは生まれない。

なかなか日本から高級ブランドが生まれなかった背景がここにあるように思う。

 

欧州では昔からいいモノを長く使う文化がある。

安く造る発想から脱し、いかに魅力を加え、価値を高めるかという

“付加価値の高いものづくり”を志向することが大事なのではないか。

私はある時からそう思うようになった。

私の中でパラダイム転換が起こった。

 

使い捨てではなく“永く愛着の持てるもの”に人はその価値を認め代償も惜しまない。

そしてブランドの信用も築いていける。

それがKENTEXの進むべき道ではないか。

 

この時点での実力からすればそれは遠い夢物語で商売としては現実的でない。

 

が、この考えは私のKENTEXウォッチづくりの原点になっているように思う。

そして、そこから“本物志向”という私の“思い(=理念)”が生まれてくる。

 

KENTEX自動巻きモデルS153M ESPY誕生

 

KENTEX時計は99年に初期モデルが一通り揃ったがそれらは特別な思いやこだわりもなく拙速に造った感があった。

99年半ばにさしかかったころ、ミレニアム2000を記念したKentexのフラッグシップとなるモデルを作りたいという思いで開発をスタート、ここからディテールへのこだわりが始まった。

 

ムーブはETA自動巻きが入手困難なので国産自動巻き8215を採用、ケースは長く愛用できる定番を目指し以前製作したシンプルで美しく、飽きの来ないデザインのS153Mを選んだ。

バンドは落ち着いたデザインの5列のソリッド、ダイアルは深みのあるややシャンペンがかったシルバー、ブラックエナメル、グラデーションつきブルーの高級感ある三色とした。

ダイアルのKENTEXロゴは植え略字とするために新規にデザインし型を製作、またKのスペルをデザインしたオリジナル秒針を製作した。

ケースバックはムーブの見えるスケルトン仕様にしてガラスにMillenium2000 Limited Editionを印刷した。

今では当たり前になったが当時としてはかなりのこだわりでさらにローターにもこだわった。

外販用8215のローターは以前にSCUDO生産でシチズンから供給された8200とは大違いでタングステン焼結の粗い仕上げのまま、高級感がなくそのままでは不満足。

いろいろ試行錯誤した結果、パラジウムめっきをかけることできれいな光沢とし、さらにレーザーでKENTEX、Japanマーク、Kマークの模様、ほかに個別製造番号を入れた。

香港駐在の日本人シチズンムーブ営業担当がここまでやるメーカーはいないとあきれていたがきれいになったローターを見て感心していた。

 

こうしてこだわりがふんだんに盛り込まれた初のESPYはミレニアム直前の99年11月に発売を開始した。

KENTEXの代名詞ともなった“こだわり”はまさにこのモデルから始まったと言っても過言ではない。

 

新シリーズESPY誕生について;

自動巻きモデルとしては98年S122M ですでに”Confidence”を使用していたがその上位に位置づけるフラッグシップシリーズとしデザイン的には同じクラシック系でもConfidenceのスポーツに対してエレガンス系のテイストを持つシリーズとしたかった。

ESPYという名前はあまり耳慣れない言葉だが辞書を眺めてふとESPYという文字が目に入り意味は”ふと見つける“とある、これだと思いブランド登録を申請した。

 

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  99年末 ”ウォッチアゴーゴー”の1/3ページ広告(右)

 

国内営業の強化

 

Kentexの国内での販売開始当初は鈴木さんが一人でOEMのフォローをこなしながらハンズやオンタイムなどの道を開いてくれた。

99年11月、販売力強化のため営業の求人リクルートを出し10名ほど面接し2名を採用した。

一人は地方から出てきて東京で働き営業経験も全くない素人、当時27歳の中村君でどんな仕事でもやりますとチャレンジ意欲を感じて採用。

もう一人は時計営業経験者の小座間君34歳で彼には営業のリーダー格を期待した。

販売の下地が出来、ようやく国内市場開拓を実質的にスタートした。

 

2000年1月、小座間君からAction20と銘打ったKentex売り上げ拡大計画書が出てきた。

このころ平均単価は上代で2万円以下で数量は通販、店舗卸合わせても月90個に届かなかったが9月までに月300個、そして100店舗開拓というなんとも経営者喜ばせの強気の数字が並んでいた。

私はまんざらでもなかったがいざ活動開始、ふたを開けてみると果たしていっこうに数字が伸びずに9月になっても目標には遠く及ばなかった。

現実は思ったほど簡単ではなかった。

時期も悪かったがほとんど無名の時計を店に置いてもらうのは誰がやっても難しかっただろう。

 

その後小座間君は居づらくなりしばらくして会社を離れることになってしまった。

ブランドの知名度、力というものを無視した計画だったことが災いした。

無名のブランドをゼロから立ち上げるのは生易しいものではない。

現実を前にして私は厳しさを実感した。

 

 

KENTEXレディスの開発

 

2000年1月早々、鈴木さんのアポ取りで丸井の事務所に杉村氏を訪問しKENTEXウォッチをプレゼンテーションする機会を得た。

その場で杉村氏は、メンズは絞りたいほどあり丸井は7割が女性客なので男物よりレディスが欲しいと言われた。

オンタイムでも同様の反応がありこの時KENTEXレディスを開発することにした。

若い層をターゲットに上代1万から2万円想定の新model企画をスタート。

当時アニエスBが人気でモノトーン基調のシンプルなデザインを狙った。

 

デザイナーと共にトレンドを探りながら、S122L、S251B、S257Bの3型をデザイン、3針タイプをメインにクロノや自動巻きを入れ計14REF.を製作し5月に発売開始した。

6月に再度丸井を訪問、案内したところ出来が良く時計屋のモノづくりと評価され8月から試験的にスタートすることになった。

新口座は難しいということで問屋として元林を紹介された。

 

その後オンタイムを訪問、星氏や女性バイヤーと面会した。

彼らは時計離れの中で苦戦中でもありここでの評価は手厳しかった。

もっとデザインで勝負した方が良い? ロレックスタイプはおばちゃん相手?

など、そうは問屋が卸さなかった。

有名ブランドならともかく時計の品質うんぬんよりファッション性と流行が命のレディス市場はKENTEXのコンセプトとは相いれないところがあった。

その年2000年3月のバーゼルフェアでそのコレクションを披露した。

 

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  2000年3月 バーゼルフェアでのKENTEXブース

 

ETA自動巻きS122M-Confidence発売

 

2000年4月、イタリアAdrianoからスイスETA2824を搭載した高級バージョンを造る話が持ち上がった。

KENTEXウォッチでは最高スペックのモデルとなる。

 

ケースは以前に8215搭載でOEM製作した人気の永久定番デザインのS122Mとし、サファイアクリスタル採用でケース9時側にKENTEXロゴをレーザーマーキング。

ダイアルは高級品に使う天然貝パールをベースにインデックスはアラビアとローマの二種。

2824ムーブはETA(HK)からでなく香港のブローカーから購入した。

私は日本向けに40個を上乗せ生産した。

「日本で40個発売の世界限定!」と銘打ち、7月に時計誌“腕時計王”に1ページ掲載したところただちに強い反響があった。

ETA自動巻きながら38000円(税抜き)という価格が受けてかほぼ1か月で完売するヒットになった。

以前同じケースで製作した8215搭載モデルとの反応の違いにあらためてETAムーブの人気とそのブランド力に感心した。

 

S255M SKYMAN2の発売

 

2000年5月、インテック高橋社長とP店向けにKENTEXブランドで造る企画を進め、S255M3針day dateの5Ref.で500個を製作、好評につき第二弾を500、計1000個を生産した。

 

これをベースに8月に自社発売用としてスイス製クロノグラフ(クオーツ)を搭載したSKYMAN2クロノを製作、2000年末に発売開始した。

シンプルでユニークなデザインの40ミリケースで特徴のある六角リューズを採用。

ダイアルにブラックカーボンを採用、バンド中央列に黒色の繊維入り強化プラスティックを採用し、ステンレスとのコントラストが個性を主張、黒を基調とした絶妙なバランスで精悍な印象のモデルとなった。

 

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   S255M Skyman 2 Chrono(下)とS143M Skyman(上)

 

 

2000年9月のHKフェアではこだわりの詰まったKentexラインアップが揃ってきた。

S122Mコンフィデンス、S143Mスカイマン, S153Mエスパイ, S255Mスカイマン2などが一堂に並ぶと個々のモデルだけでは感じないブランドの顔と個性を主張するようになりフェアでの客の反応が変わって来た。

 

アメリカのインポーターが関心を持ちS255Mなどトライアルオーダーが入った。

また韓国から来たという若い時計輸入業者がなぜかKentexを知っていたようでその場でたくさんのKentexウォッチを購入したので驚いたこともあった。

この頃になってようやくKentexの事を知り興味を持つ人が表れてきた。

 

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    KENTEX初期のあゆみ(97~2000)

 

ホームページの刷新強化

 

この時期ホームページも刷新する。

2000年3月、当時㈱セキサスドットコムの名刺で市原さんがウェブサイトの営業で来社されKENTEXホームページはアミューズメント性が乏しいという意見をもらった。

 

その後相談を重ね、こだわり、デザイン性、ファンクラブ、ニュースなどのアイデアを盛り込んだ新たなホームページを立ち上げることになった。

11月にライフスパイスとして独立した市原さんと売り上げアップを図るホームページづくりを議論、雑誌広告との連携、時計マニアページ、ネット営業、口コミ効果、ファンクラブアンケート、OEMページの作成などのアイデアを入れて大手とは一味違う個性あるページ作りをめざした。 

以降、市原さんのセンスでページが作られていくが時計の写真は主に私自身が撮影を担当した。

2001年1月には名機ETAムーブのこだわり、商品写真の拡大、3D(動画)、オーナーズボイス、デザイナーの一言、などのアイデアを盛り込みさらにページが充実。

このころには市原さん自身がKentexウォッチのファンになり熱が入ってきた。

オーナーズボイスは私のバーゼルフェアレポートなど自分で撮影した写真を入れながら記事を構成した。

 

市原さんは普通のサラリーマンには収まらない自由人で東大を出ていながら大手にも入らず作家になる夢を持ち、文章も得意ながら映像のセンスもいい、こだわりも強かったので私とは波長が合った。

 

この時期、時計誌広告代理の内田さんに加えホームページ制作の市原さんという二人の味方を得てKENTEXウォッチの発信力がついてきた。

 

クロックハウスOEM

 

先にも記したが、2000年前後はまさにKentexブランド、OEMともに多忙だった。

起業後10年が過ぎて会社の実力がつき世間にもKENTEXの名が知られてきたのだろう、国内に200店舗を超える時計ショップを持つ時計専門店チェーン、ザクロックハウスとの縁が始まる。

 

2000年3月のバーゼルフェアでクロックハウス(以下TCH)の大野禄太郎さん(現社長)、菊岡Mgr.が当社ブースに見えられた。

何を話したかは記録にないがたぶん立ち話程度でその後4月21日にTCH本社を訪問することになり社長室で当時の大野禄一郎社長(創業者)と庭野常務にお会いした。

 

大野社長は顔いっぱいの髭を生やし実直重厚な雰囲気の印象だったが根はやさしそうな感じを受けた。若いころアメリカを横断したときに起業を思い立ち日本一の時計専門店チェーンを一代で築いた人だ。

この時は長男の禄太郎さんがクロックハウスドットコムというネットを立ち上げていて当社からウォッチヘッドを仕入れたいという話のほかにオリジナル企画としてKentexとのダブルネームで時計を造る話もあったがその時は具体的な進展はなかった。

Kentexとはどんな社長なのか、人物の見定めといったところだったのか。

 

当時コカティアラの伊藤氏と情報を交換しながらTCHへのビジネス参入を目論んでいた時期だったので願ってもない話だった。

そのころTCHは主にセイコーシチズン、オリエントのほかに大沢商会など国内大手時計メーカーとオリジナル商品を造っていた。

 

その後2001年4月に急進展があり再訪問、TCHから正式にOEMの商談があり、三菱商事の部長、TCHの大野社長以下スタッフ同席のもとでSPA(製造直売型)を時計にも拡大したいという趣旨の話だった。

 

大野社長から(金はないので)三菱商事の力を借り、自社ブランド(三つ)のオリジナル商品開発に本格的に入っていきたいと正式に説明を受けた。

モノ作りは香港のメーカー二社(Kentexと他1社)を候補とし、企画は社員のアイデア活用と当社の既存型を利用する。

「当社(TCH)は販売のプロだがものづくりはKentexに全面的にお願いする」と言っていただいた。

このSPWプロジェクトは鈴木部長、録太郎さん、次男の耕二郎さんを入れた4人のほかに当時の花谷専務がリーダーとなり9月発売に向けて歯車が動き出した。

気になっていた商流はコカティアラ経由でなくダイレクトにすると補足された。

 

4月に入り三菱商事の上野氏、TCHの鈴木部長、耕二郎さんが来港、当社の在型モデルからE304M/L, E190M/L, S192M/Lのペア三モデルを選定し前に進めることになった。

翌日当社中国工場やケースメーカーなどを視察、この日は東莞にある東銀酒店に泊まりみんなでカラオケを楽しんだ。

 

2001年11月、TCHにて花谷専務以下プロジェクトのメンバーとLeneo、Radic, Fregraなどの第二弾を企画。

それ以後、さらに本格的なTCHオリジナル商品展開へとOEMビジネスが拡大していく。

 

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2000年3月 バーゼルフェア TCH 大野禄太郎氏ほか

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2000年9月HKフェアで;ザクロックハウスの花谷専務、大野禄太郎氏、ほか 

 

 

最後に、私事について触れたい。

 

2000年前後は公私ともに多くの出来事があった。

 

仕事も順調にいっていたので98年末頃、東京に近い新浦安に陽当たりのいい中古住宅を購入した。

50坪を超える物件で庭もあったので翌年2月に造園をいれ庭木や門構えも整ったところで母や兄夫婦たちを呼んだ。

母は「たいしたもんだねえ」と喜んでくれた。

だがこれが母フキとの最期の機会になった。

 

2000年4月13日私が香港にいる時に母危篤との連絡が入った。

このころ仕事が忙しかったので翌日の便で戻らず二日後の15日、JL736便で日本に向かう途中、母は逝ってしまった。

90歳の往生だった。

死に目には会えなかったが、夕方近くになって棺桶に収まった母と再会した。

母の体に触れるとドライアイスで冷たくなっていて何とも言えない気持ちだった。

 

昭和24年、まだ二歳になったばかりの末っ子の私を含め5人の子を抱えて夫に先立たれた母の心境はいかばかりだったか。

私をおぶって“線路を歩いたことがある”と一度だけ聞いたことがある。

強い母でなかったら今の私はいない。

生活に余裕はなく当時中学卒も少なくなかった中で私を高校まで行かせてくれた。

私はその母親に何の恩返しが出来たのだろうか。

 

17日通夜は久しぶりに集まった親戚との話でにぎやかに過ごしたが翌18日の葬儀告別式になると溢れる涙をこらえるのが精いっぱいだった。

 その後火葬場でばらばらになった骨を家族が一人ずつ順番に骨壺に入れるころには涙も枯れたのかなぜかすっかり心も晴れていた。

 

ちょうどこの春に次男直樹が早稲田高校から早稲田大学に入学が決まり、食事会の席上で親戚の皆さんに報告できたことは良かった。

栃木県鹿沼市御殿山の満開の桜の花に囲まれた食事会場はほんのり酔いも回ってとても居心地が良かったのを覚えている。

 

 

 

  

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   2000年9月 HKフェアブース  ドウシシャほか

 

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   2000年2月 KentexTime 新春パーティ

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      イタリアベネチアのADRIANOブティック

私の履歴書 第十八回 海外ビジネス展開、バーゼルフェア出展とKENTEXブランドの始動

 



 

平成7年(1995)、日本を揺るがす大きな事件が起こった。

1月17日観測史上初の震度7を記録した神戸を中心とする阪神淡路大震災が発生。

多くの家屋が倒壊、死者は6400人を超えるすさまじい地震だった。

 

3月には東京霞が関を通る地下鉄で猛毒が撒かれるオウム真理教事件が発生。

神経ガスサリンが散布され、乗客乗務員ほか被害者の救助にあたった人々も含む多数の死者や被害者が出た。

 

ケンテックスジャパンの山田さんは事件のおきたこの日も同路線で通勤したが時間帯の違いで幸いにも免れることが出来た。

 

90年代半ば、香港K.T.(Kentex Time Co.Ltd.)は小規模ながらも時計メーカーとしての組織が出来上がってきた。

 

時計の生産数は月産約3万から4万個近くになり 仕事の急増と共にスタッフも増えた。

94年末には経理、シッピングのスタッフにマーケティング、技術、品質, 検査、出荷、デザイナーなどが加わり総勢20名程になった。

業務が複雑化してきたので業務分担の明確化と効率化を目的に組織を編成した。

 

本来小さい会社に組織はいらない、意識の高い精鋭が揃っていればそれぞれがおのずと結果を出していくというのが私の考えだ。

しかし現実はそうもいかない、人が増えれば8:2の法則といわれるように何をしているのか分からないスタッフも出てくる。

会社のベクトルを合わせるために最低限の組織も必要になる。

 

私は組織を編成する三つの目的、

1)責任分担の明確化(組織表)

2)権限の委譲

3)目標管理

 を説明したうえで私自身が大事だと思う9つの行動指針を社員に伝えた。

 

1.行動の重視、結果の評価(実践重視、言い訳は不要)

2.お客様優先(C.S.顧客満足⇒マーケット第一)

3.品質重視(当社の基本理念)

4.チームワークの精神(壁を作らず協力、上下左右の風通しを良くする)

5.問題意識を持ち、考える習慣を身につける

6.創造性の重視(慣習に捕らわれず柔軟な発想)

7.開発を重視(新商品開発は会社存続の条件)

8.自己啓発(自分を磨く心)

9.仕事に生きがいを持つ(一日の大半は会社にいる⇒挑戦する心を持つ)

 

OEMの増大に伴い、私はR&D(デザイン開発)の強化による顧客への提案力が重要と考えデザイナーの層を厚くした。

私自身がデザインに関心を持っていたことも背景にある。

 

94年にデザイナー三名( Lam, Alex, Eunice(女性))を採用、デザイン開発が強化され顧客の要望に迅速にレスポンスする体制ができた。

96年にEuniceがChingに代わりチームワーク良くそれぞれがドレス系、スポーツ系、レディスファッション系と各人の得意分野が発揮され、時計デザインの幅と質の高さがセイコーはじめ内外の顧客に評価されるようになった。

 

香港デザイナーの多くは日本人の感性とは一味違うところがある。

私はミーティングを通じて日本の文化や日本人好みのテイストを伝えた。

 

繰り返し説明したのが日本人の好きなシック(Chic)という言葉。

日本人なら上品なイメージがすぐに思い浮かぶが、どちらかというとカジュアルで原色を好む香港の文化ではそれを掴みにくかったが次第に上品な味も出るようになった。

 

中でもAlexはスポーツ系デザインが得意でデザイン力も高く市場のトレンドを把握した顧客に歓迎される多くのモデルを生み出した。

私の感性や好みとも近く、後にKENTEXブランドの数々のスポーツモデルを生み出し私の力強いパートナーとして多くの実績を残すことになる。

またLamはエレガンス系が得意だったがデザインのみならず技術にも詳しく有名時計ブランドの世界にも通じていた。

私自身が得ることもありR&Dのリーダーとして長らくチームを引っ張ってくれた。

私の補佐としてKENTEXブランドの立ち上げ、進展に大きく貢献した一人だ。

 

94年に設立したケンテックスジャパンはこの香港での生産力を背景に日本市場におけるニーズの開拓を行い、お客様に喜ばれる企画と満足できるコストで、そして信頼される品質を提供することに力を注いだ。

 

世界の時計生産地としての香港(中国)と大きな市場を持つ日本をつなぐケンテックスグループの製販一貫体制がこのころ始まった。

小さいながらも自らの製造基地と販売拠点をもつ当社の強みとなった。

 

当時、日本国内の主なOEM客は万世工業(マルマン)、ドウシシャリコーエレメックス、オリエント、クレファ、(98年からシチズンが始まる)などで日本顧客は主に私が営業活動した。

 

一方、香港地元を含めて海外顧客はEddie陳をリーダーにYip、Angela、Jake, Terence、Grace, Barry, Sacky、Joviなど、時代とともにセールススタッフは流動的だったがその時々のSales担当がOEMの営業窓口として対応した。

 

91年から参加した香港インターナショナルウォッチフェアに毎年継続出展し90年代半ばにはドイツ、イギリス、フランス、トルコなど海外の仕事が増えていった。

 

94年3月に家族が帰国した後、私は独りになったので同じ香港島のビクトリア公園に近い天后(ティンハウ)という所に小さめのフラットを借りそこに移った。

その後、毎月高い家賃を払い続けるよりも買った方が長い目でメリットがあるという邱さんの教えを忘れず96年に九龍側の黄哺にフラットを会社で(ローンを組み)購入、3月に引っ越した。

香港の日系会社はメチャ高い家賃を永年払い続けているところが多いが香港のようなインフレの続く都市では買うことが合理的な決断であることがやはり後に明確になる。

 

マレーシア進出、失敗と教訓

 

当時アジアはまだ開発途上で低所得層が多く時計市場はまだ、未熟だった。

一部の高所得者層向けの有名ブランドを除けば二流もしくは無名の安物時計がメインだった。

 

94年にHKTDC(香港貿易発展局)が主催したマレーシアのクアラルンプールでのHK時計メーカーフェアが企画され私はアジア進出のチャンスと思い参加した。

香港の時計メーカー約20社が出展。

翌95年のフェアにも出展し現地の時計ディーラーともコネが出来た。

96年はこのコネをベースに陳、Lamと私の三名でマレーシアの時計商数社を訪問した。

 

G.S.M( Gold Stone Marketing)の社長はマレーシア時計協会の会長も兼務、Playboy,  Givency,  NinaRicciなどのディーラーもしており、当社のデザイン、品質を評価してくれた。

 

95年のフェアで知己となりコーディネーターとして動いてくれたマレーシアの華人Mr.Weeと組み96年6月にKT出資でMIYAKO Time社を設立、K.Tのマレーシアオフィスとしてスタート、直後の7月に出張し2社と具体的に商談、仕事が始まる。

 

WataTimeはクアラルンプール市内にショップ数店を持ち自社ブランドを保有、当社の

OEM人気モデルS82Mを気に入りJaguarブランドで生産した。

 

もう1社のTime Galerieは小さな会社ながら強気の計画で大量の数を注文、出荷後のT/T後払いでリスクがあったが私は相手を信用し生産を請け負った。

Louis DeLong9000個(全11モデル×800個)とBabanino、Okuraあわせて17000個。いずれもにわかに立ち上げたPBでブランド力はない。

 

翌97年3月に再訪問した時点で当初予定したほど数が伸びずに計画の三分の一程度の出荷にとどまっていた。

キャンペーンを打ってもらったがその後もスピードは上がらず最終的には大量の生産在庫を持つ羽目に。

私にとってはOEMビジネススタート以来、最大の黒星となった。

 

考えてみればこれだけの仕事を何の担保もなしに受ける方が甘い。

先方のいい加減な読みとどん欲な商売根性に振り回されてしまった。

アジアで商売をしている人たちは中華系(華僑)が多いが自分の利益には執着するが相手の不利益には全く無頓着で関心が及ばない。

 以降、大きな話ほど落とし穴があると思い注意するようになった。

 

中国人の世界では「騙した人間よりも騙された人間が悪い」のが常識だ。

騙しあいが普通に横行している世界で「騙されないよう賢くなれ」という教えなのだ。

 

私は日本人のプライドとして相手を信用することは今も大事だと考えている。

しかし、ビジネスの世界を甘く見てはいけない。

相手の話を鵜呑みにせず常にリスクとその対応を考えることが必須であることを学んだ。

 

とは言え、OEMビジネスを長く続けていると注意しながらも避けられないこともある。

見込みより売れないと分かると途中で引き取りを止める客は少なくない。

生産の一部が在庫になるケースがどうしても起こる。

 

 ある意味、モノを造る会社にとってこれは宿命的なものがある。

相手先ブランドでものを作るOEMビジネスは初めに(見込み)利益が確定できる反面、想定外の在庫で利益が飛ぶ事もままある。

 

ならば自社ブランドでやる、という考えも浮かんでくる。

それはそれで別のリスクがあるが

OEMは顧客の意向に沿って作るのに対し自社ブランドは自分のアイデアや計画で作れる。

 

 

鈴木さんとの縁

 

KJ(ケンテックスジャパン)は94年の設立スタート後、妻と山田さんにパートさんが加わり三人で切り盛りしていたが売り上げが伸びず一年が過ぎても赤字から脱出できていなかった。

 

山田さんは設立時、直前でシェアを入れることを躊躇されたので発起人に加わらず社員として定収を得ていた。

どちらかというと指示待ちでいまひとつ仕事への積極性が感じられなかった。

 

車がエンジンをふかして動き出すようにスタート時には多くのエネルギーが要る。

創業時に七転八倒した私にはいささか物足りなさを感じていた。

 

妻からも不満の声が出たので95年10月に山田さんと話し合い、目標を決めて頑張ってもらうようにうながしたが結局翌年に退社することになった。

 

そのニュースが入ったのかタイミングよく96年3月、日本の時計組立会社、田村時計の社長から連絡が入った。

不景気で国内組立の仕事が減り、人員削減の折り鈴木さんを業務兼営業として出向させてもらえないかという提案だった。

 

鈴木さんは田村時計勤務10年ほどでオリエント特販との窓口などもやっており衣料品の営業の経験もあった。

年を聞いたら「ウーン、43ぐらいだったかなあ」。

ちょうどいい年齢と思い私は鈴木さんを面接、5歳ほどサバ読んでくれたことを後で知ったが人が良さそうで正式に入社してもらうことにした。

 

これも神様がくれた縁と感謝している。

鈴木さんの入社は大正解だった。

 

当初は仕事の違いに戸惑いも見られたが徐々に自分のスタイルでエネルギッシュな本来の馬力を発揮してくれるようになった。

一人でOEMの営業から出荷作業、果ては修理作業まで仕事の幅を広げていき私の番頭役としても大いに助けてくれた。

理屈は得意でないが行動力は抜群。

天性的な明るさと人の好さで誰とでもすぐに親しくなれる性格は顧客からも好かれた。

声が大きくいつも元気、時折下ネタを飛ばしては女性陣を困らせることもあったが私と同じ団塊世代、早くに父を亡くした境遇も似ていてウマが合った。

 

私は香港と日本を行き来する生活だったが日本に戻るたびに鈴木さんと一杯やることが多くなり何でも話し合える仲となった。

 

世界経済の悪化と日本の戦後最悪デフレ不況

 

90年代後半になると世界は不況に向かっていた。

1997年、タイを中心に始まったアジア通貨危機はアジア各国の急激な通貨下落と金融危機が起こりインドネシア・韓国経済が大きな打撃を受けマレーシアや香港もダメージを受けた。

アジアにとどまらず98年からのロシア通貨危機、99年のブラジル通貨危機につながり世界経済は悪化、世界同時株安がおこりデフレが進行した。

当時、世界では唯一中国だけが猛烈な勢いで伸びていた。

 

日本はバブル後の91年以降、長く不況が続いていたが97年4月の5%消費税が追い打ちをかけマーケットはさらに縮小、販売不振と企業の倒産が増え深刻な状態が続いた。

 

97年に山一證券の自主廃業、北海道拓殖銀行倒産などの金融破綻がおこった。

GDPがマイナス3.5%と戦後最悪となり本格的なデフレ経済に突入。

銀行、会社、個人の信用収縮が起こり、デフレがデフレを呼ぶデフレスパイラルに。

 

98年には戦後最悪の不況と言われるようになり雇用が収縮、就職氷河期でフリーターや派遣社員の道を選ぶ大卒者が増えた。

 

為替は95年の円高80円をピークに急激に円安方向に転換、3年後の98年8月には148円の円安で当社香港の日本向けの商売はいっそう厳しくなっていた。

 

海外にまたがるビジネスはいつも為替に振り回される。

それまでの右肩上がりで伸びる図式は様変わりし会社を取り巻く環境は激変した。

 

時計産業が成熟化し低価格化によるビジネスの付加価値が下がる。

世界的なモノ余り現象と市場の冷却化で物が売れない時代に。

 

会社として生き残るために不況と数量減に対応できる体質づくりが急務となった。

 

98年4月、私は会社の置かれた現況と今後の課題を整理したうえで危機意識を社員に共有してもらうためにスタッフ全員を集めた。

 

英語を理解しないスタッフもいるのであらかじめ用意した文章をEddie陳に広東語に翻訳してもらい英語で説明した。

 

その時の要旨は以下の点だ。

  • 滞留在庫の削減(マレーシアOEMデッドストックの整理、減少)
  • 経費人件費の削減(香港の労働コストが高く生産関連業務の中国シフト)
  • 品質異常による損失コストの低減(設計から製造出荷までのミスをなくす)
  • 購入部品の原価低減
  • 日程短縮(競争力アップと在庫減につながる)
  • ドルベースの売り上げを増やす。
  • アメリカ、ヨーロッパなど比較的好景気なマーケットの開拓
  • セールスパワーアップ(売り上げを作るスタッフの強化)

 

香港の労働コストはインフレで毎年上昇、日本と比べてもすでに割安感はなかった。

物を作る多くの会社は香港のスタッフを極力減らし中国にシフトする動きが加速していた。

 

 

中国組立工場の引き取り、自社工場へ

 

KentexTimeはOEM時計の最終組み立てを当時中国内に工場を持つAsino(安沙)という組立会社(本社香港)に委託していた。

 

Asino中国工場は当時170名ほどの人員でHerald Electronics(興利)という香港の顧客をメインに月産20万個を超える組立作業を請け負っていた。

Asinoの組立ラインはアメリカ向けの安物が主体なため当社製品との品質レベルの違いがあり作業の質の違い悩まされていた。

96年半ば、当社KTの生産数が月4万個近くになったころ品質向上を目的にAsinoと話をして空いていた3階スペースにKT専用の検査、組立ラインを設けた。

 

KTが採用した中国人スタッフの意識と質を上げるために香港のEddie陳, 矢野、 Rico,  Mimi(もとセイコー香港の検査員)らが頻繁に工場に出入りし、教育、検査などの技術指導、工場の管理強化でレベルを上げる努力をした。

 

それまで外装設計、技術、生産管理など香港で行っていた業務の中国シフトが進み香港人数名が常駐するようになった。

当時、中国人ワーカーの給与は500HKD(寮費含む)程だった。

 

陳が責任者となりセイコー時代に培った検査知識やノウハウを導入、日本的QC(品質管理)を取り入れたレベルの高い工場を目指した。

 

97年5月にKJの鈴木さんが香港出張の際にKT中国工場を視察した際、きれいに管理された組み立てラインを見て感心していた。

 

 ところが98年3月、突然そのAsino本体がクローズするという話が出てきた。

彼らは安い単価で組み立てを請け負う付加価値の低い賃仕事で経営が行き詰っていた。

 

本来はメイン顧客であるHeraldがどう支援するのが筋だが買い取る意思はないとのことでKTが後を請け負うかどうかになった。

 数字を調べていくと売り上げ25万HKD程度に対し工場の経費が35万HKDで毎月赤字を累積、負債は香港が300万HKD、中国工場は家賃滞納等で40万HKD程あることが分かった。

 

その後、Asino香港本社は負債含めて先方で片づけてもらい、中国工場をKTが肩代わりする方向で検討に入った。

10万個を維持する設備と必要な人員を検討、工程別に人員を割り出しワーカー

が100名、間接スタッフが20名、合計120名で経費はかなり切り詰めても24万HKDとなった。

 

工場のメイン組立依頼客であるHeraldはアメリカ向け安物主体でこれ以上の組立費アップを了解できないという。

リスクは高いと判断、ビジネス環境は最悪のタイミングでどう生き残るかを優先しなければならない状況だったのでここで火中の栗を拾うことは避ける結論とした。

 

しかし数日後、Eddie陳と黄謄達(Herald担当のAsinoのDirector)の二人が揃って私に何とか継続してもらえないかと改めて懇願に来た。

 

私としてもできることならここまで努力して育てた体制を無為にはしたくない。

私は組立数を10万個体制、工場経費を20万HKDまで削減するよう条件を出して了解した。

 その後彼らの努力で9月の時点で147名まで人員削減、経費は30万HKDを切るようになりその後も状況は改善されてきた。

 しかしさらなる景気の悪化でHeraldの仕事は減り続け収支のマイナスが長く続いた。

98年8月から99年7月までの1年分のデータを見ると組立数が平均約10万個で累積収支は48万HKドル近くのマイナス、月平均で約4万HKドルのKTの持ち出しが続く状況だった。

 

私は中国工場をこの先どうするか迷った。

果たして独自の中国工場を持つのが本当に正解なのか?

 中国工場を持つ意味をあらためて整理してみた。

 

メリットは;

・KT独自の品質管理体制が構築でき高い品質を確保、維持できる。

労務費が安くワーカーや大卒スタッフの採用が簡単(当時)

OEM顧客に対し自社工場としての信頼性、宣伝効果がある。

・スペースに余裕がありいざというときの拡張も可能。

・同じ大陸内で外装部品の調達フォローを強化できる。

・将来の中国拡大の拠点としての可能性がある。

 

デメリットもある。

・中国工場のオペレーションは複雑で困難が伴う。

・管理役人との交渉調整など面倒さが伴う(袖の下など)

・香港スタッフのパワーが二分される。

・中国人ワーカースタッフの能率モチベーションの低さ(労務管理の問題)

・香港と中国工場の2社で経費が増大(通信、交通ほか)

 

99年8月に陳、矢野、私、それにEddy梁(外部会計士)の4名で中国工場LandTimeをどうするか善後策を話し合った。

 

いくつかの代替案もあったが最終的には現工場を何とか継続する動きに再度取り組むことになった。

 

 その後中国管理区(役所)との家賃交渉でそれまでの2フロア分の家賃が1フロア分の家賃となり(アンダーテーブル?)、Heraldからは組立費値上げの代わりに工場の固定費を補うカバーチャージ設定を了解してもらった。

 

しかしその後もHeraldの数量が落ち込みカバーチャージの額も当初の18万HKDから段階的に8万まで落ちいよいよ継続運営が困難になった。

 このころになると工場全体の組立仕事が減る一方で当社KTの比率が大きくなっていた。

結局、中国工場はKTビジネスの安定した品質を維持供給するための自社工場であるとの観点から香港との連結で採算を見ればいいという判断に頭を切り替えた。

 

2002年5月、Heraldに代わり工場のすべてのカバーチャージを持つことにし

この時点で中国工場は実質KTの傘下になった。

 8月、KTが新たに出資設立した香港の会社LandTimeを中国特区来料加工LandTimeの100%ホルダーとして正式にKT所有とした。

 

以降、当社は香港本社と中国工場を含めた大きな経費を抱えることになったがその後LandTime中国工場はEddie陳をはじめ香港スタッフ、中国スタッフの努力でさらに高品質の時計を作る工場へとレベルアップしていく。

99年にはCNCマシンを購入して職人を養成、Bs素材で新デザインのサンプルを作るダミーサンプルチームを結成し新デザイン開発力を強化している。

 

香港返還

 

話は変わるが97年は香港が中国に返還される節目の年だった。

この年、返還を前に香港は世界中から注目された。

1997年6月30日、チャールズ皇太子江沢民国家主席、ブレア首相と李鵬首相が出席し盛大な返還式典が行われた。

私はテレビ中継を見ながら歴史的なその模様をビデオ録画した。

 

返還後に香港特別行政区政府が成立し、歴代最後の香港提督パッテンが香港を去り董建華が初代行政長官に就任した。

駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍が駐屯することになった。

香港の「高度の自治」を明記した1984年の中英共同声明は1997年の返還から50年間適用されるとしていたが、その後中国の管理統制がじわじわと強まっている。

2014年の雨傘運動、2019年の逃亡犯条例改正案をめぐる反政府デモなど中国に抗議する民主化の動きは今も続いており香港の自治がいっそう怪しくなってきている。

 

香港の国際的なビジネスの魅力、そして言論、宗教の自由が今後も保たれるのか。

世界の都市ランキングで香港は常にトップレベルにいるがこの先どうなっていくのか。

 

永く香港に関わってきた私としては気がかりであるがおそらく形は変えても金融都市としての機能、中国の窓口としての役割は今後も続くと私は考える。

なぜなら中国共産党の幹部にとってもそれを維持することが彼らのメリットであり、必要でもあるからである。

邱永漢先生が存命であればどう見るだろうか。天国の先生に聞いてみたい。

 

スイスバーゼルフェア出展とケンテックスブランドの始動

 

さて、“私の履歴書”も回を重ねいよいよ本丸のKENTEXブランドの話にたどり着くことが出来た。

 

私のノートと過去の資料を眺めていると過去の記憶が時系列で蘇ってくる。

私の精力を注いだ数々のKENTEX時計についてその思いやものづくりを次号から振り返っていきたいが今号ではKENTEXブランドの生い立ちから始めたい。

 

KENTEX時計の歴史はバーゼルフェアから始まる。

 

97年4月、世界の時計の祭典であるバーゼルフェア(正式名BASEL WORLD)を視察した。

マルマン一行とのバーゼル訪問から5年後の二度目のバーゼルだったが目的は翌年の出展を目論んでの下見だった。

 

この時イタリアベネチアのジュエリーウォッチショップADRIANOと初めて会った。

 

バーゼルで会ったADRIANOとのシーンは今でも鮮明に記憶に残っている。

その時は60代後半と思われる創業者のアドリアーノさんと息子、娘、その旦那の4名で仲のよさそうなファミリーだった。

ブースを持つ前だったのでメイン会場前のテーブルにOEMサンプルのロールを広げて商談、その中のスポーツモデルS82Mを気に入りショップのクリスマス発売に向けて作りたいということになった。

ブランドは当然ADRIANOと思っていたが意外にもKENTEXがいいと言う。

KENTEXの名前と響きがいいと言ってくれた。

当社初の、そして世界初のKENTEX時計が誕生することになった。

ステンレス10気圧クオーツクロノグラフ(OS60)で97年7月に生産投入、ダイアル4色で計200個の注文だったがそこに日本での発売を目論みわずかな数量を上乗せ生産した。

そしてこれがKENTEX時計の日本での小さなデビューとなる。

 

 97年8月、インターボイスの伊藤(取)、内田さんと会いこのKENTEX S82Mの日本発売に向けて初めて時計誌広告の商談をした。

12月,KENTEX初の時計誌広告となるS82Mの縦長三分の一ページ広告が載った。

直後に大阪の東急ハンズから電話が入り喜んで鈴木さんと二人で大阪に出張し面会の後置いてもらうことになった。

ハンズは常にめずらしいもの、新しいものに目を光らせている会社のようだ。

 

ここでたびたび出るS82Mについて少し説明を加えておきたい。

Kentex社では当初から時計の社内呼称をSports, Elegance, Ladies, Fashionの4つのデザインジャンルに分けそれぞれの頭文字S, E, L, Fに001からの追番をつけ、最後にManとLadyの区分をつけるようにした。

S82MはSportsの82番目に生産されたメンズモデルという意味になる。

 

S82Mは95年にAlexがデザインした小ぶりで丸みを帯びたデザインの回転ベゼルつきダイバーモデルだったがラグの形状が角張っていて違和感を感じたので私は柔らかくカーブしたよりComfortableなラグデザインに変更、95年の香港フェアで多くの客から引き合いの出る大ヒットモデルとなった。

当時日本でも行く先々で採用を希望された人気モデルだ。

 

 その後ADRIANOとはS162MボーイサイズSSケース10気圧を12月に生産投入、角形ケースE190M/E190Lペアモデル男女各300個を98年5月に投入した。

 

このころはまだKENTEXブランドのこだわりもなくどちらかというとOEMの延長でモデルに会社の名前を入れる程度の感覚だった。

 

98年4月バーゼルフェアに初出展

 

かつてセイコー時代にあこがれの場だった世界一の時計の祭典であるスイスバーゼルフェアに自分が出展するとは思いもよらなかったがそれが98年に現実となった。

 

巨大なフェア会場内にある香港Delegationの一角が出展スペースとなる。

KTとして初めての出展には私を含め香港から3名で出張した。

 

このフェアにはヨーロッパをはじめ各国のOEM客先がブースに訪れる。

フェアに来る連中は大方が会社のトップでバイヤーでもあり目の肥えたプロが多い。

当社モデルは価格で勝負する他の香港会社とは一味違う質の高さがありヨーロッパの客先からデザインと品質の両面で高い評価を得た。

 

Adrianoとは事前に連絡を取りチューリッヒのホテルで再会した。

彼らはベネチアからスイスまでアルプス越えでドライブして来たと言っていた。

セイコーインスツルの元上司、鎌田さん(当時時計事業部長だったか)やデザイン小野寺部長、桜井部長らが当社ブースに立ち寄ってくれた。

  

このフェアでは成美堂出版の事前手配でヨーロッパで活動していた日本人女性ライターが取材に訪れ「質実剛健なKENTEXブランド」と後に記事に紹介してくれた。

 

フェア中にドイツやイギリスの客などKENTEXブランドの販売に興味を持つ会社も現れたがこの時はOEM受注メインでフェアに望んでいたのでブランドとして販売できる商品もなくブランドビジネスを始める何の準備も出来ていない状態だったので、ブランドビジネスにはつながらなかったがヨーロッパの客の良い反応を得ることが出来た。

 

 そしてこの時のバーゼルフェア参加は私にブランドという意識をあらためて目覚めさせることになった。

  バーゼルフェアは期間が8日間と長くたっぷり時間があったので私は期間中にメジャーブランドが集まるメイン会場を繰り返しくまなく回った。

 

世界の時計ブランドが一堂に集まるバーゼルフェアは年一回の祭典に向けて各社総力を挙げた新モデルを発表する。

そしてそれを目当てに世界中から時計商や時計ジャーナリストが訪れる。

私は一流ブランドの数々の時計をひとつひとつ丁寧に見ているうちにしだいにその素晴らしさと美しさに目を見張り、興奮した。

 聞いたことのないマイナーなブランドでさえスイスの伝統的な時計づくりに裏打ちされた完成度の高い時計がそこにあった。

 やはり時計王国スイスの歴史と伝統で培った時計技術はすごいと舌を巻いた。

 

 

 KENTEXブランドの始動

 

たくさんの素晴らしい時計に刺激され私の中で眠っていた職人根性が目を覚ました。

もっといい時計を造りたいという気持と、ブランドへの夢と思いが芽生えてきた。

 

所詮、ナショナルブランドの足元にも及ばないだろうが

小さくても個性が光るブランドになりたい。

そんな気持ちが私を襲った。

 98年のバーゼルフェアは私に感動と夢をくれる舞台となった。

 

香港に戻ってからもブランドに対する思いが徐々に強くなり、そしてデザイナーのLamやAlexにもその思いが共有されKENTEXブランドが本格的に動き始める。

 

自分が気に入ったデザインのOEMモデルに少しずつ上乗せしKENTEXモデルのコレクションを増やしていった。

 

S82M(Leopard), S162M(Romeo), に加えS122M(Confidence),S165M(Prestage),

S172M(Dynastar), S185M(Aviator), S191M/S191L(Adriano), S193M(Diplomat),

などが初期のKENTEXモデルとしてラインナップ。

 

98年11月にケンテックスとして初めての自主企画モデルS143Mクロノモデルを開発、99年3月に初のSKYMANを発売した。

ケースはサティン仕上げと梨地仕上げ(サンドブラスト)の2種。

バイクや航空機の計器をイメージした見切りが大きく、深く入り込んだすり鉢状のダイアル、カーブしたガラスが特徴で黒を基調とした精悍で個性的なモデルになった。

 

初期のKENTEXコレクションが出揃い、それぞれの商品名(サブブランド)をつけて98年末に香港で初めてカタログを作成、その後KJの鈴木さんが日本での営業を始めた。

 

 98年、このころインタ―ボイスから独立したサーティーズ内田さんと時計誌での広告を始める。

 99年、内田さんに依頼し30万円のわずかな予算で会社概要、製品カタログ、新着情報など13ページ程度のコンテンツで初めてホームページを立ち上げた。

 

99年9月、ブランドのコンセプトがメディア向けに必要と言われケンテックスブランドの考えや思いをメモしたものを整理まとめて「KENTEX WATCHについて」と題して雑誌社にリリースした。

 

そのコンセプトにはこう記している。(原文のまま引用)

 

「いつも流行を追った奇をてらったものではなく、全体にシンプルな中にも飽きのこない優れたデザイン性と、見て心地よい美しさがあること。

そして、デザイン性の良さとともにディテールを大事に丁寧に仕上げた作り込みの緻密さ、長持ちのするしっかりした造りであること。

本当に良いものをリーズナブルな価格設定とし、誰でもデイリーユースとして気軽に腕にはめ、満足できる時計であること。

何よりも時計作りの根底に流れるのは、本当に自分が腕につけたいと思う最高の時計を造ろうとすることであり、大切なのはその情熱である」

 

あらためて読んでみると今の自分のブランドに対する考えと全く同じだ。

20年以上が過ぎた今もこのコンセプトは活きている。

 驚きとともに少し嬉しかった。

 

99年9月の香港フェアではKENTEXモデルが充実しブースでの展示にも力が入った。

それまではすべてOEM用モデルの展示だったがこのころからKENTEXブランド時計を並行して展示するようになった。

 

その結果、図らずも顧客はOEM用モデルよりもKENTEXモデルに注目しその(OEM)採用を希望する傾向になってしまったのは想定外だったが私自身はブランドへの強い思いからその後もKENTEXモデルの開発に集中した。

 

 これ以降、当社スタッフと多くの関係者の協力を得ながら私のKENTEX時計造りがさらに本格的になっていく。

私の思いのこもった作品の数々を次号から紹介していきたい。

 

 

さて今回は内容が盛りだくさんで長くなってしまったがこの項の最後に99年12月の香港KTスタッフのタイ旅行で締めくくりたい。

 

89年に創業してから10年が過ぎた99年12月。

苦しい時期もあったが何とかここまで来ることが出来たので10周年記念として全員のバンコク旅行を企画した。

スタッフと一部家族も含め総勢21名ほどのバスツアー、若い人たちも多かったのでみんなでわいわいタイフードを食べマリンスポーツを楽しんだ。

 

f:id:kentex:20200611150217j:plain95.3.マレーシアで開催された香港ウォッチフェア。左から私、Eddie陳、Terence.

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96年、私の天后フラットでスタッフと寿司パーティー
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          98年バーゼルフェア 初出展

 

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 初のKENTEXモデル、S82M クロノ(Leopard) 97年12月発売

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   KENTEX 初のSkyman  S143Mクロノ  99年3月発売

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初期のKENTEXモデル

 

 

 

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 99年ころ、デザインチームとミーティング(左からAlex, 私、Lam, Ching)

 

 

 

 

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                  99年ころ、KTの中国工場 LandTime(時栄)

 

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       99年 バーゼルフェア KENTEXブース

 

 

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     99年 バーゼルブースにてアドリアーノと再会

 

 

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99年バーゼル、バーデンワイラーホテルにてKTスタッフ(左からAlex,私、陳、Sacky)

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   99年  バーゼルフェア    ブースにてドウシシャ小早川Bと長島さん

 

 

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    99.9.香港ウォッチフェアブースで スタッフと

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          99.9 メディア向けにまとめた”KENTEX WATCHについて ”リリース文

 

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    99年12月 創業10周年記念のタイ、バンコク旅行 

 

 

新型コロナに伴う緊急事態宣言発令について

 

皆さまごいかがお過ごしでしょうか。

 

中国武漢で起こった新型コロナが世界中で爆発的に拡大し予想もしない様相になってしまいました。

100年に一度あるかのパンデミックですが今世界ではニューヨークはじめ世界の主要都市でロックアウト(都市封鎖)という信じられない状態になっています。

しかも日本とは違いそれは強制されるもので従わない人、会社には罰則があります。

 

日本は現時点(4月9日)で全国で約5000人(クルーズ船の感染者を除く)規模の感染者で死者は100人を少し超える数です。

海外に比べれば人口比で意外に少ないと言えますがいよいよ日本でも7日に国の緊急事態宣言が発令されました。

それに伴い東京都初め指定された各県毎の緊急事態宣言が徐々に出始めます。

 

個人的には一週間早く宣言が出ていれば都内のお花見気分などで気を抜くこともなく今少しおさえられたのではないかという気もします。

 

日本での緊急事態宣言は諸外国に比べると罰則もなくかなり緩やかなので個人の意識と責任に委ねられる部分が多くなってきます。

人権を尊重するという表向きと経済をこれ以上悪化させたくないという判断との天秤で決められた決断かと思います。

強制しなければ補償も緩やかなものにできるという裏事情(本音)も見え隠れします。

 

いづれにしても一刻も早く国民全員が気を引き締めて感染を防ぐという気持ちと体制をとることが必要だと思います。

 

 

どうか皆様方におかれましてはこの新型コロナ感染の危機から逃れるための日常のお仕事、生活において最大限の注意を払っていただくようお願い申し上げます。

 

密閉、密接、密集の三密を避けると共にとにかく頻繁な手洗い、うがい、そしてマスク着用の三つの基本も怠ってはいけないと思います。

ウィルスは石鹸の泡に流れやすいという記事がありました。

それと鼻や口、目を手で触らないことがかなり有効であるとのことです。

 

緊急事態宣言に伴い休業、テレワークなどによって自宅にこもることが多くなると思います。

ずっと家にいるとストレスもたまりますが一生に一度あるかないかの出来事ですのでここは冷静にみんなが感染防止に協力する姿勢が大事かと思います。

 

普段家庭サービスがままならない方にとっては家族と触れ合うチャンスではないでしょうか。

家にこもりっきりでなく時には近くの公園にでも家族と出かけ人と距離をとりながら新鮮な空気を吸ってリフレッシュするのもいいでしょう。

 

一方で先日、国連事務総長から世界でDVが急増しているという報告がありました。

普段適当に距離があった家族が24時間べったりとなると思わぬ不満やけんかとなりかねないことがままあります。

 

つい最近、日本でもありましたね。

コロナ失業で収入減をなじられ怒った夫が妻を殴り死亡させたという悲しいニュースです。

他人事ではないですね。

 

このコロナ危機で株は暴落、飲食店、居酒屋はじめサービス業、ホテル、観光、航空会社、イベントなどほぼすべての会社にとって未曾有の危機です。

大企業ばかりでなく中小零細企業には死活問題でたいへんな状態です。

しかもこれは今世界中で起こっています。

 

 

みなさん、今は誰にとっても厳しい状況ですがここは辛抱して冷静にこの危機を乗り越えるために頑張りましょう。

 

昨日、首相から過去にないGDPの2割という触れ込みで最大規模108兆円との緊急経済対策の発表がありました。

 

しかし、どうやら中味に乏しい数字のからくりということが分かってくるとこれに対しいっせいに批判が出ています。

あまり言いたくないですがやたらと修飾語の多いうわべだけの言葉を感じてしまうのは私だけではないと思います。

 

この数字はもろもろすべてを含めた事業規模での総計であって、真水と呼ばれる実際の政府の財政支出は16.8兆円(GDPの3%)しかなくこの危機的状態では全く不足と思われます。

 

しかも30万円の現金支給という聞こえのいい言葉は細かい条件がついていてほとんどの家庭でその対象になりません。

アメリカの2兆ドル(220兆円)の実質真水に比べると全く情けない数字です。

これは財務省の案をそのまま発表したのだと思いますがこの未曾有の危機に際して政治家としてのプライドはないのでしょうか。

 

野党や自民党の一部(消費税減税勢力)からも消費税減税(0~5%)の提案が出ていますが私はこの日本の景気(GDP)が20年間一向に伸びずに、しかも米中貿易戦争による冷え込みにこのコロナ不況が加わる極端な落ち込みを回復するためには有効な対策ではないかと考えますが今の政府自民党幹部には全くその気はないようです。

 

今の政府は果たして本当に国民の味方なのかと思ってしまいます。

 

ちなみに私はアンチ自民党でもなく野党派でもありませんが今の日本の政治や内閣の姿勢には不満を持っている一人です。

 

利権に染まらず信念を持った政治のプロが少ないように感じます。

お金の苦労を知らない二世議員普通の国民目線で世の中が見えているのかはなはだ疑問です。

 

が、ここではあまり政治的発言は控えましょう。

 

本気で日本の将来と人々の幸せに目を向けた国民のための政治を望みます。

 

新型コロナはこの先数か月で鎮静化するものではなくおそらく長期化するとの説が専門家の間で言われています。

どんどん変化ししぶといウィルスのようです。

 

予想に反して早く鎮静化すればありがたいですが100年前のスペイン風邪でもいったん沈静化に見えた後に第二波、第三波とあり本当に終わるまでに2年ぐらいかかったようですので皆さん、気を緩めずに引き続きご注意ください。

 

どうかご本人はじめご家族の方も気を付けてお過ごしください。
私自身も高齢者の重篤化にならないよう今は外出を極力控えています。

 

一日も早く鎮静化し世界が正常に戻ることを心から祈っています。

 

 

私の履歴書 第十七回 時計OEMビジネスの拡大と日本オフィス設立


平成4年(92)5月、元気を取り戻し,家族との香港での生活が復活して心身ともに充実、香港でのビジネス活動を本格的に再開した。

 

このころ日本ではバブルが弾け株価低迷と地価下落の複合不況に突入した。

 

日経平均株価は平成元年(89年)末の最高値38,915円をピークに暴落に転じ平成5年(93)末には、株式価値総額が89年末株価の59%にまで減少した。

全国の地価は下落し始め、93年には全国商業地平均で前年比10%以上の値下がりを記録した。

 

本格的な不景気突入を背景に世の中は低価格指向に動き出す。

 

当時その最先端を走っていたダイエー創業者の中内功氏は(それまでモノの値段はおよそメーカーが決めていたが)「これからはストアが価格を決める」と主張、消費者優先の理念で「良い品をどんどん安く」という価格破壊志向が世間に歓迎され市場はさらなる低価格化に動いていた。

 

93年には一着1900円のスーツや、スーパーのプライベートブランド商品などの激安ブームが起きそれが時計市場にも波及、5000円以下の時計が店頭に増えてきた。

 

サンキュッパ(3980円)、ニッキュッパ(2980円)、イチキュッパ(1980円)という時計が多く出回るようになり数量ベースでは量販店での販売が主流となってきた。

店先で吊るして売る「吊るし商品」が増え1000円を切る安物時計も出回るようになる。

 

時計がなぜそこまで行ったのか。

ここで私なりに解説を加えたい。

 

近年の時計の歴史を振り返ってみると

1969年世界で初めてクオーツ腕時計(諏訪精工舎デジタル時計アストロン)が開発されそれまでの機械式時計に比べて高い精度が話題を呼び人気となった。

発売当初は35万円もしたクオーツ時計が70年代から下がり始めると爆発的に拡大、80年代に入ると世界で拡大、さらなる大量生産による低価格化が加速した。

 

スイス勢も遅ればせながらクオーツ開発に参入、メーカー間の競争が激しくなる。

セイコーシチズンも必死に合理化によるコストダウンに努めた。

80年代にはカシオの時計参入でさらに競争が激化、デジタル時計をはじめ時計の低価格化が一気に進んだ。

 

カシオの参入は精密機械独自の文化だった時計業界に「大量生産で安く」する電子メーカーの論理が吹き込まれるものだった。

 

クオーツムーブメント(駆動体)、特にデジタルは電子部品なので歯車やぜんまいなど製作が難しい精密機械部品を必要とせず電子メーカーの参入しやすくなる。

必然的に大量生産による時計の低価格化が加速した。

 

私が子供の頃、腕時計は贅沢品で持っている人は少なかったように思うが気がついたら巷にあふれ玩具と似たような扱いになってしまった。

 

一方で70年代のクオーツショックで壊滅状態となったスイスの時計産業はスウォッチグループが中心となった機械式時計のラグジュアリー路線が功を奏し80年代半ば以降に奇跡の復活をとげた。

オメガ、ブレゲロンジン、ブランパンなどスイスの名門時計ブランドは高級品のマーケティング戦略で息を吹き返し売り上げが急増、80年代後半にはスイスの時計輸出額は再び日本のそれを抜いた。

 

クオーツやソーラーなどの技術や低価格路線を追求していた日本の時計産業は円高の影響もあり皮肉にもこの時期から衰退につながる。

 

この教訓は後に私がケンテックスブランドを初めてからのブランディングの考え方にも影響を及ぼしている。            

 

話を戻すと

 

この90年代初め、低価格指向が加速し時計がどんどん値下がり、数量が増える中で私は香港を拠点に時計のOEM生産活動に従事した。

 

 

二国間にまたがる貿易において為替の変動はビジネスを大きく左右する。

追い風になるときもあれば強い逆風になるときもある。

これは私が長く海外でビジネスをしてきた強い実感だ。

 

90年から再び円高トレンドが続き94年6月には戦後初の100円突破になった。

 

当時の円と香港ドルの為替を見てみると90年の1香港ドル18.6円から95年の12.2円までの5年間で52%円も上昇している(年間平均レート)。

これは年率10%のコストダウンを5年間続けたのと同じことになる。

 

私が香港で創業の理念とした「日本品質を香港価格で提供する」という戦略は日本市場の低価格指向と円高のダブル追い風にのって大いに歓迎された。

 

 

時計の大量生産と低価格化進行で搭載するムーブメントも下がり、同様に外装部品の低価格化需要も強まった。

このころ日本の顧客を回るとあちこちで量販点向けの安い時計ケースを要望された。

 

安くできるのはプラスティックと亜鉛合金でどちらも市場で急増した。

 

プラは軽さと見た目で高級感はないが亜鉛合金は金属なので比較的高級感を出し易く、ダイカスト(射出成型)加工で価格も下げ易い。

一方で品質が不安定なデメリットもあり腐食などの経時品質劣化がおきやすくそれを防ぐ製造ノウハウが必要とされた。

 

私はセイコー時代、亜鉛合金ケース開発の経験からその品質的危うさを知っていたので香港のメーカーを慎重に選び92年ごろから品質テストを進めた上で万世工業(マルマン向け)の要望で投入を開始、その後数年にわたり大量の数を生産した。

 

しかし、一方で低品質の亜鉛合金ケース時計が香港他社メーカーから大量に輸出され品質問題が多発、その後市場での亜鉛ケースの信頼性をなくした経緯がある。

 

当時マルマングループの国内での時計販売が拡大、時計製造を受け持つ万世工業とのビジネスは増大し低価格から中級品までORCA(20気圧SSダイバー)、Bivourc(10気圧)、Rayard(ドレス系)、Fem(レディス)など相当な数の時計を生産した。

 

マルマン時計ビジネスがスタートしたころ、92年4月に量販店大手などのマルマンの得意先一行を招待したスイスバーゼルフェア視察旅行に同行する機会があった。

引率リーダーは当時マルマンの時計販売を引っ張っていた時計企画本部長の高橋さん。

 

セイコー時代にバーゼル出張者の視察レポートを見ていた私にとってそこはあこがれの場だった。

初めてのヨーロッパ、初めてのスイスバーゼル視察そして宿泊地ドイツの別荘地バーデンワイラーはとても印象に残り今でも鮮明に覚えている。

バーゼルフェアの後、顧客一行のパリ観光があったが言葉ができる人がいないという理由で下手な通訳兼という役で同行させてもらったがその時私が撮った写真がマルマンの得意先に配れて助かったと後日高橋さんから感謝のお手紙をいただいた。

高橋さんの人脈を大切にする人柄を感じた。

 

 

当時香港にあるHOL(Hattori Overseas Ltd.)は当社のメイン顧客でALBA-Xと呼んでいた東南アジア向けALBAの生産を請け負った。

東南アジア市場の販路拡大のため企画から出荷までを一貫して香港で遂行するプロジェクトだがスタート当初の年70万個から100万個を超す勢いに成長していた。

時計製造はSEIKOグループ内のEPH、SIHの2社に香港ローカルの時計製造会社7社ほどが参加、当社も初期の頃から参加する機会を得た。

年に3回の企画でカテゴリー別コンセプトが示された後各社のスケッチ提示で始まり他社との比較競争の中で決まるためこの仕事を取るにはデザイン力が必要不可欠だった。

 

このころから提案力を強化するためにデザイナーを増員、常時3名の時計デザイナーを擁するようになった。

当社は日本顧客向けの仕事をやっていたこともあり香港7社の中でも洗練されたスケッチ提案が出てくると評価されるようになった。

ALBA-Xのコスト対応はかなりきつく利益率は低かったが1モデル3000個以上と数量規模がありビジネスの大きさに魅力があったので必死に食らいつくことで会社としてのコスト競争力がつくと判断し前向きに対応した。

 

 数が大きいとターゲットコストがめっぽう厳しくなるのはどこの世界も同じで世の中おいしい仕事はそう簡単に転がってない。

きついながらも頑張ってセイコーの仕事を続けたことが会社の信用となり日本はじめ海外の新規顧客獲得につながった部分は大きいと思う。

 

92年夏、HOLの小針さんとタイ、チェンマイの日系時計バンドメーカーを訪問した。

89年に設立、日本人数名、タイ人250名の2シフトで述べ500名で月産7万本のバンドを製作、社長から中国に比べ人の定着率がいいと説明があった。

中国以外にもタイなどに進出している日本の会社は少なくなかった。

 

小針さんと仕事をご一緒する中でセイコー独自の時計企画の進め方、例えば縦軸にDressyとSporty、横軸にAntiqueとModernをとったマップでのブランドの位置づけや顧客ターゲットを明確にする手法など仕事を通じて勉強になった。

 

KENTEX TIMEは香港を拠点に91年から毎年継続して香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアに出展した。

年を追うごとに会社の名前も浸透し日本以外にも欧州、中近東、アメリカなどの客先が徐々に広がり生産数も拡大、93年4月ごろ外装部品の調達拡大に備えてケースやバンドの新規メーカー開拓を始めた。

 

永漢(バンド)、実豊パワー(ケース)、信徳(ケース)佳時(ケース)平山(ケース)新生(ケース)興発(ダイアル)、景福、恒勝、Easy依時(いずれもケース)などセイコー時代の旧知のメーカーを訪問。

中国内にシフトした工場だがオーナーはほとんど香港人、旧知のボスも多かった。

 

各メーカーとも世界市場の拡大と強い需要に対応するためにマシニングセンターやプレス機械などの設備投資を積極的に進め生産キャパを増強していた。

200人から500人規模の中国人ワーカーを抱えケース生産数は月20万個から多い所で40万個という規模のところもあった。

中国人ワーカーの給与はマネージャーレベルを除くと日本円で1万円にも満たない安い労働力を得られていた。

 

当時はアメリカ向けなどの低価格品が多くケースの材料はBs(真鍮)や亜鉛合金が中心、高級品向けのステンレスケースはまだ3割以下だった。

 

 92年10月に香港千葉銀行の大工原さんが訪問され口座を開設、その後千葉県人会を紹介され年末の県人会に出席した。

香港千葉県人会は千葉県ゆかりの人の年一回の集まりで現在も千葉銀行HKさんが事務局で継続、私は初期の頃から参加している古株のため数年前から県人会の会長を仰せつかっている。

 大工原さんからHKTDCを紹介され運営するデザインギャラリーのほか香港内のチェーン店シティチェーンや西武などの日系デパートでの小売りを勧められたがそのころまだ自社ブランドがなく前に進められなかった。

 

香港政府管掌であるHKTDC(香港貿易発展局)は香港の産業と貿易拡大のための積極的なバックアップをしていた。

毎年9月に開催される香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアの主催を初め、春にスイスで開催される世界最大の時計宝飾見本市であるバーゼルフェア出展も賛助していた。

香港のウォッチ、クロックそしてジュエリーメーカーからなる一大デレゲーションが毎年大挙してバーゼルに出展し時計輸出は年ごとに増大、香港時計産業の拡大に大きく貢献していた。

(ちなみに日本にも日本貿易振興機構ジェトロ)があるが日本の時計産業特に中小企業にバーゼル出展を推進援助する動きは見られない)

 

 

93年1月、ビジネスも順調に伸びていたので香港のインフレ継続を考慮して賃貸していたライチコクのオフィスビル(億利工業中心)内の7Fの一室をローンで購入した。

香港340万ドル(日本円で5000万程度)だったか、グロスで2100平方フィートとさらに広くなり改装後の4月に6Fから引っ越した。

 

93年半ば頃には日本マーケットの拡大に向けて日本オフィスの設立を模索した。

 

香港で創業して4年が経過し時計製造会社としての体制が整い次の飛躍のステップとして国内市場を拡大するため日本での橋頭保が必要と考えた。

 

そのころ以前面識のあった元ケースメーカーの山田龍雄さんが万世工業マレーシア赴任から帰国し退社したということで私にコンタクトがあった。

 

会って話をするうちに今の日本市場にあふれている時計はメーカーの高級ブランド品か香港から大量に流れている粗悪品の両極端に偏っていて「適正価格で良質の時計」が日本市場では今求められているという意見で一致、日本人が香港に拠点を持っている会社にチャンスがあるということで二人で日本の会社設立構想を進めることにした。

 

93年11月に日本法人設立のプラン「ケンテックスジャパン事業計画書」を作成。

設立の動機背景、会社の構想、事業内容、売り上げ計画、中期構想、ブランド戦略、商流物流ルートについてできるだけ具体的にした。

ちなみにそれを見ると自社ブランドビジネスを将来50%以上にすることや中国、東南アジアマーケット開拓のために上海オフィス、バンコクオフィスを構想、ブランド戦略はケンテックス以外にカテゴリー別市場別に第二、第三ブランドを考えていた。

 

このころ山田さんの紹介でドウシシャの長島さんと商談する機会がありドウシシャとの時計OEMビジネスの話を進める。

ドウシシャの社内説得資料として香港の時計製作の標準日程表やQAシステムなどを提出、94年に入りケンテックスへの発注が示唆された。

 

ちょうどこのころ山田さんから万世マレーシア工場から帰任する矢野という人材がいるという話があり期待して会ってみた。

矢野さんは早稲田の哲学科卒ながらバンドメーカー(都南精密)に入社というちょっと変わり種で当時34歳で私より一回り若かった。

マレーシアに赴任していたので英語も使える。

ギャンブルが好きだが仕事はまじめに何でもやると聞いていた。

会ってみると確かに麻雀競馬の話をすると止まらない人だがその分カンも良く頭の回転も速い。本好きで知識も豊富、仕事にも前向きな姿勢を感じた。

日本法人の事業計画案など私の考え、構想に魅力を感じてくれたのか経営者の一人として出資することにも同意、香港勤務も厭わないということでケンテックスの仲間として参加することになった。

私にとってはラッキーな出会いだったと感謝している。

 

94年春、ドウシシャと具体的な商談が進みBsバンドシリーズの注文が決定、ただしFOB(香港出荷)でなく国内納入が条件ということでここからケンテックスジャパンの使命と歴史が始まることになる。

4月にドウシシャ大阪訪問、東端常務ほか小早川部長など上層部に挨拶し仕事が正式にスタートした。

 

平成8年(94)5月に株式会社ケンテックスジャパンを法人登記し東京茅場町のマンションの一室でスタートした。

資本金1300万円、うち700万円を香港kentex Timeが出資した。

電話番号はNTTに元勤務していた兄の計らいで03-5846-0811(時計はいい!?)を取ってもらった。

 

その少し前の94年3月、子供たちは香港の中学と小学を卒業しそれぞれ日本の高校、中学に進学することが決まり妻と共に家族三人が帰国した。

妻は帰国後子供たちの学校処理で忙しい中ケンテックスジャパンの設立に加わりその後は山田さんと共にジャパンオフィスの運営に携わる。

 

矢野さんはジャパンの法人登記に尽力、設立後しばらくドウシシャOEM時計入荷品の検査ほか管理等の仕事をしてからこの年香港に赴任した。

 

ケンテックスジャパン設立後作成した手作りの会社案内に私は次のように記している。

 「現在香港は世界一の時計生産国となっています。しかしながらいまだに安かろう悪かろうの商品がメジャーであることは残念なことです。

アジアの小龍香港はインフラが整い国際自由貿易都市でありながら背後に労働コストの低い中国を控える事から時計の生産拠点として最適の立地と言えます。

私はこの地において日本の生産技術と管理手法を取り入れて真に日本に受け入れられる優れた品質のものを安く製造し提供することに挑戦しております。

コピーではなくオリジナルを、安物ではなく良いものを造ることが今後の香港の課題であり日本人が現地に赴く意味があるものと考えます。

私どもはこれからもさらに良いものをプレゼンテーションし続けていきます。」

 

 

このころ多くの会社が香港に時計や外装部品の調達を求めて来社されたが日本に拠点を持ったことでより香港との接点が広がりビジネスに繋がったと思う。

 

当時,OEMの顧客は香港のHOL(SEIKO)と日本の万世工業(マルマン)の二社が大きかったが円高の継続でさらに日本のOEM顧客が増え95年度にはそれまでの最高の売り上げ5400万香港ドルを記録した。

 

94年4月には日本からオリエント時計の幹部が香港に来社。

上原部長、秋葉部長、浅川国内販売担当課長、HKオリエント船引社長9いずれも当時)らがオフィスに来られて香港オペレーション拡大をしたいとの話があった。

その後企画担当者や設計者らが来港されて具体的に新型の検討を進め正式に95年6月発売のSS10気圧モデル男女各2Kをスタートした。

 

 

この時期、日本では時計が良く売れていたので国内ではライセンスや自社PBで時計を製作販売する会社が増えクレファを始め多くの会社のオリジナル時計を製作した。

名前を上げるとUSC、オーク、寺沢製作所、ホッタインター、ベアフルト、日本プレシャス、マルチタイム、三協、フォート、白井製作所、大和エンター、フレンドリー、エスポワールシンワなどなどお世話になった会社は多い。

 

それぞれ会社ごとに市場、店舗が違うのでカテゴリーの違う数多いOEMの仕事を請け負った。

それらのいろんなジャンルの時計を作っていく中で時計製造に関わる幅広いノウハウと技術力が会社に蓄積されていった。

またOEM客先との商談のなかで私自身の市場の勉強や商売感覚も磨くことが出来た。

今思えばこの経験と知識の積み上げが後に自社ブランドスタートの礎になったと言える。

 

 

このころの世相を見てみよう。

 

93.5 サッカーの日本プロリーグ(Jリーグ)が開設される。

93.6.皇太子さま(現天皇)と雅子さんがご結婚

93. 不況による激安ブーム、ポケベルが普及

93.8. 連立内閣、自民党が分裂、日本新党新党さきがけ新生党などが連立し細川内閣が誕生。

94.6 松本サリン事件で7人が死亡。

94.6. 東京外為市場で円が99円台となり戦後初の100円突破を記録した。

オリックスイチローが史上初の年間200安打を達成。

95.1.阪神淡路大震災;神戸市で観測史上初の震度7を記録。死者は6400人超。

95.3.オウム事件;地下鉄で猛毒サリンがまかれ13人が死亡、5月に施設の一斉捜索で教祖らを逮捕。

東京大阪の知事選で青島幸男横山ノックが当選。

大相撲九州場所若乃花貴乃花の兄弟対決、兄の勝利。

野茂英雄、米大リーグに入団新人王になりトルネード投法が話題に。

 

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92.8. 香港Kentex Timeのスタッフと

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92.4.バーゼル視察 EGANAパーティでマルマン高橋部長と

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92.4.パリ凱旋門 マルマン得意先一行と(右端が私)

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92.9.香港ウォッチフェア マルマン、万世との食事

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93.11.日本法人の事業計画案を作成

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94.12.KTオフィス内でX,masパーティ

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95.3.KTオフィス 私のBirthdayで花束をもらう

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94.日本法人設立後に作成した会社案内文


 

2020(令和2年)  新年のご挨拶

皆さま明けましておめでとうございます。

令和がスタートして2年目に入りました。

今年の子年をチェックしてみたら

十二支の1番目に「子」がきているように、子年を植物にたとえると新しい生命が種子の中にきざし始める時期で、新しい物事や運気のサイクルの始まる年になると考えられている。

とありました。

 いいことが始まるといいのですが新年そうそうアメリカとイランのきな臭いニュースが飛び込んできました。

北朝鮮かなと思っていましたがイランが先に来ましたね。

 

いい悪いは別にしてトランプさんが登場してから世界はずいぶん変わってきたように思います。

対中の態度も大きく変わり昨年中国の否定を国として明確にしました。

ウィグルなどの人権問題や香港の民主化運動にも耳を傾けず自分たちの論理を通そうとする中国政府には私も否定的です。

香港の民主化運動は多くの香港市民にも支持されておりまだ続くと思いますがどうなるか全く先は読めません。

もしかするとこの動きが世界や中国国内にも広がり中国共産党政権の変化につながるような流れも可能性としてあり得るかもしれません。

 

さて、ケンテックスですが

おかげさまで私が香港で創業してから30年が過ぎました。

ここまで来られたのはひとえに皆様のご支援があったからこそと心から感謝しております。

 

そしてこの記念となる年に私どもにも新しい動きがあります。

今年1月25日、秋葉原に二店目となる新店舗をオープンいたします。

近いうちにホームページで正式な案内が出ると思いますが駅からすぐ近くでアクセスがいいのでぜひ立ち寄ってみてください。

どちらかというと自衛隊モデルやMOTO-Rなどのモデルが主体になるかと思いますが自動巻きも並びますのでご期待ください。

 

どうか皆様にとって新しい運気のサイクルが始まる年となりますよう心から願っています。

皆様の今年一年のご健康とご健勝をお祈りしております。

 

橋本憲治

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の履歴書 第十六回 人生初の入院、そして復活

 

平成3年(1991) 6月5日朝、ついに体の不調が限界になり香港島セントラルにある日本語を話す医者Dr.William Chaoに駆け込んだ。

ドクターは私の目を覗き込み二、三話した後、ほぼ肝炎に間違いないとすぐに血液を採り検査に廻した。

結果が出るまで近くの店で時間を過ごしたがこの大事な時に肝炎かよと心は大きく揺れた。

健康には自信があったのでまさか自分がなるとは想像もしてなかった。

 

午後になりGPT値がなんと1880(標準値は37以下)と出て即刻入院を促された。

とっさに日本での入院も考えたがこの値では飛行機に乗るのも怪しい。

すぐにGPTを下げるのが大事と言われ香港での入院を決断した。

 

オフィスに戻り妻とメイン顧客の二社に電話を入れてからマンションに戻り大急ぎで部屋を整理して入院の準備をした。

Dr. Chaoから指定された香港島にある私立養和病院(Sanatorium Hospital)へ陳君に同行してもらい入院手続きを済ませたのが午後8時、9時にはもう点滴が始まっていた。

 

ちなみに香港では医者を選ぶ場合公立と私立があって公立(Government)病院は圧倒的に治療費は安いがいつも混んでいて待ち時間が長く、入院となると何か月も待たされる。

結果、多くの人は医療費が高いが信頼できる(と言われている)個人の医者に診てもらうケースが多く入院となると医師が病院を指定するのが通例になっている。

 

 戦争みたいな一日が終わり誰もいなくなった部屋で心が落ち着くとしだいに覚悟が出来てきた。

なってしまったものは仕方ない、あとは前向きに治すだけだ。

そう思うと少し気が楽になった。

 

人生初のそしてこれまでにも一度きりの入院生活が始まった。

 

以下はその時の病棟日記だ。

 

入院一夜明けた6月6日、早朝6時に目が覚める。

昨夜はTVでテニスのフレンチオープンを見て気がまぎれた。

9時に点滴交換、5%ブドウ糖と0.9%の食塩水1000mlが12時間で体内に注入される。

10時半Dr. Chao来診, 日本の大学を卒業した医師で日本語がとてもうまく日本人医師と話している感覚で安心できた。

 

Dr.からのアドバイスで仕事は1時間以内に限定し休養を取るように。

食事は何でも好きなものOK、ただし油の強いものは控え肉魚など高蛋白のものを、特に牛肉がいいと。

肝炎の治療はとにかく「食って寝て、よく眠る」、それしかないと言われてちょっと拍子抜けしたがそれが肝臓を休ませる一番の方法なのだ。

 

部屋は一人ではもったいない程の広い個室で空調完備、大きなソファのほかにTV, 小型冷蔵庫、トイレ、シャワー付きで今のわが身には贅沢過ぎるがすべてDr.の手配だ。

 

窓側に寄るとハッピーバレー競馬場の一角が見えた。

「ここで2年分の疲れを一気に洗濯するか…」

ようやく気分が前向きになってきた。

 

気持ちを整理し妻に手紙を書く。

 

病院も部屋もドクターも出来過ぎで心配はない。

この2年間飛ばし過ぎたので神様が休みをくれたのだろう。

しばらく静養に努めた後は自分のペースで日々楽観的に過ごすよう自省する。

そしていずれ時が解決すると。

 

 

7日朝Dr.来診

いいニュースと悪いニュースがあるという。

GoodはGPTが1200まで下がったこと。

BadはB型肝炎と判明したこと。

A型は放っておいても完治するがB型は処置が悪いと慢性肝炎に移行しやすく体内の抗原をゼロにし抗体ができるまでしっかり治療に専念する必要があること。

治療期間は3週間入院し退院後は2週間づつ徐々に仕事を増やしていく。

6か月間はアルコールを控える。

 

今思うと適切で分かりやすい説明だったと思う。

 

もしかして自分のチャレンジはここまでかと一瞬頭をよぎったが

まだまだ人生やりたいことがたくさんある。

 ここで慢性肝炎になるわけにはいかない。

 

何としても完治しなければ。

その日からGPTに一喜一憂する日々が始まった。

 

 

10日、午前7時採血、7時半ベッドシーツ交換

ナースとは下手な広東語での会話になるがなんとかなる。

9時半Dr.来診 GPTが1240と3日前と変化なくがっかり。

 とにかく安静にしてよく寝る事。この二三日身体が痒くよく眠れなかった。

軽い睡眠薬を1錠もらったが先生は薬をできるだけ使いたくないという。

 

12日、6時半採血 8時Dr.来診 なんとGPT1400と上がってしまった。

初めの一週間は上がったり下がったりでいったん下がり始めるとウィルスもどんどん減っていくらしい。

 

14日、6時半採血 8時半Dr.来診 体の調子は良くなってきている。

とにかく昼もよく眠ること。夜眠れなかったら薬で寝ても良い。

 

夕方6時半 Dr.来診「おめでとうございます、下がりました」

”GPT 1180 黄疸指数8.3 これも最低とのこと。

夕食はお祝いにビーフステーキを注文する。

病院食はなくレストランのように毎日メニューから好きなものを注文する。

肝炎は何でも好きなものを食べていいというのがありがたい。

 

16日、昨夜は1時になっても眠くならなかったので睡眠薬で眠りについた。

TVでは日本の雲仙岳の爆発とフィリピンの火山爆発のニュースしきり。

香港の西貢で人がサメに襲われたとのニュース、何年かおきにあるらしい。

 

17日(月)、6時半採血 10時半Dr. 来診

なんとGPT490まで下がった。黄疸指数3.8

三日前から一気に700も下がったので次回上がる可能性を指摘される。

尿はほとんど普通の色に戻ってきており、驚くほど白かった便も黄色みを帯びてきた。

 

3時過ぎ、日本から来てくれた妻が病室に到着。久しぶりなので気持ちが落ち着く。

病状も悪くなく顔色もまあまあなので妻はひとまず安心。

あれこれ気を利かせて身の回りの世話をしてくれる妻がこの上なくありがたい。

 

18日、6時に目が覚める。血圧脈拍体温異常なし。

昨夜妻は病室のソファで仮眠を取り昼食後に私のマンションの清掃、消毒、洗濯を済ませ夕食を用意してくれた。

 

夜11時過ぎた頃、大泣きする老婆らしい声が病室のドア越しに延々と聞こえた。

病院という場所は近親者の死亡という悲しい場面が日常的にあるのだろう。

結局1時過ぎに睡眠薬を要求することになった。

 

19日、妻の作ったおにぎり、肉じゃがで朝食を一緒に取る。

午後6時半回診でGPTが316まで下がった。入院からちょうど2週間。

ここまでくればもう上がることはないとのこと。この調子でいけば回復は早そう、ただし慢性肝炎になりたくなかったら6か月間はアルコール厳禁。

 

 20日,6時半起床7時点滴注射交換。

7時半に妻が作ったおにぎりとスープをとる。

妻がスーパーに買い物に行っている間に点滴を外しシャワーを浴びる。

早めの昼食を二人でとり妻は帰国の途に就いた。

 

来てくれて本当にありがたかった。

手作りの美味いものも食べられ気持ちも休まった。心から感謝の気持ちが湧く。

2年間の単身生活で無理をしていたがやはり妻や家族と暮らすのが一番なのだと感じた。

 

この日、夜の点滴で注射針がうまく血管に入らない。

両腕から両足と点滴の場所を8か所移動したが2週間もすると静脈でなく皮下毛細血管に入って腫れてしまい打つ場所がなくなってきた。

 

 21日6時半採血、10時Dr.回診。

また“おめでとう”が出た。GPTがなんと216まで下がった。

昨日から点滴をやめ今日から3種類の飲み薬に切り替える。

この一週間の下がり方が早かったのでDr.もびっくり。

あと一週間以内に退院できそうだと言ってくれた。

 

22日、11時前にDr.回診、一週間以内に正常値に戻ると判断。

慢性化を予防するために正常値に戻ってからの退院を勧められる。

抗原がゼロになりその後抗体ができるまでは2,3か月かかるとのこと。

ここまでくれば一安心、あとは焦らずゆったりと充電のチャンスとしよう。

 

23日、この日はセイコー電子時代の同僚が香港出張の折りに見舞いに来てくれた。

一時間雑談、仕事抜きで話せる仲だ。

入院期間中は多くの香港の人が見舞いに来てくれた。

 

24日、6時採血。10時半DR.回診、GPT146、黄疸指数2.4

飲み薬の効果も出ているようで順調に下がっている。

今週末退院しようかとDr.の口から出た。

60台まで下がれば退院してもOKとのこと。ただしその後の生活は慎重に。

 

26日,10時Dr.回診 GPT129 思ったより下がらずがっかり。

また点滴をしてもらうよう医師に頼んだ。

27日,精美の李夫妻がポットに入れた特製人参スープを持って見舞いに来てくれた。

今月はずっと中国工場にかかりきりとのこと。

 

28日(金)6時採血 7時点滴投入

10時半Dr.回診 GPT93 やっと100を切った。

このまま点滴続ければ金曜には平常値に下がるだろうと予測。

7月3日を退院予定日とする。

 

この日、日本の林時計社長(現会長)から見舞いの電話がある。

はやる気持ちは分かるが焦らず無理をしないよう一年間はのんびりやりなさいと温かいアドバイスをいただいた。

林社長も40代に急性肝炎をやったとのこと。

 

7月1日,  6時採血11時回診。GPT90.

 またも予想に反して横ばいでがっかり。

午後3時、東京海上火災保険の青木氏が来院。

香港での起業後、日本人向けの海外傷害保険に加入していたが180日間(6か月)の治療費が保障されると聞きほっとする。

診断書を発行してもらえば日本での通院費も補償される。

健康に自信があったので保険嫌いだったがあらためて保険の有難さを知った。

 

 

7月3日(水) ようやく退院の日が来た。入院からちょうど4週間。

6時半採血10時半回診 退院の日にGPT80まで下がった。

 

1か月ぶりでベッドから出たのでどことなく足がふらついた。

取引していたバンドメーカーWinlandの譚(Tam)さんが車を用意してくれ陳君とマンションまで送ってくれた。

一か月、部屋に閉じ込められていたので車中から見える街の景色が新鮮でまぶしかった。

「娑婆に出る」とはこんな気持ちなのかなあとふと思った。

 

 

人生初のしかも香港での入院生活を終えて日本に戻った。

その後は鎌ヶ谷の自宅近くの病院に通院し2週間後にはGPTがほぼ正常値に近い40まで下がりHBS抗原がマイナスになった。

その時の医師によればB型の場合普通はこれほど早く陰性化しないので本当にB型だったのかどうも怪しいということでA型とC型の再検査をした。

結果はそれぞれ陰性、あらためてB型肝炎の完治と診断された。

 

これで慢性化の心配もなくなり再発の可能性もなくなった。

私は香港でのDr. Chaoの治療に感謝し自分の運の良さを感謝した。

 

ほぼ2か月間にわたる療養で心身ともに元気を回復して7月28日再び香港に戻った。

直後の30日に私のケアもあって家族が香港に入り3週間ほど一緒に過ごした。

その後も定期的な検査を続け10月にはGPT20を切る完全な健康体に戻ることができた。

 

 

この体験は私に健康の大事さを痛いほど教えてくれた。

そして「普通でいられること」のありがたさを知った。

 

世の中には体の不自由な人も大勢いる。

「ものを見る、音を聞く、手足が自由に使える」

 

これまで当たり前と思っていたことがどれだけありがたいことなのか、

病気をして初めて気づいた。

 

その後は自分の健康に対する意識が変わったように思う。

無理をすることを避け自分のペースを守るようになった。

 

この年以降、毎年一回人間ドックを受けるようにした。

またそのころ出会った本で免疫力を高めるというニンジン(+リンゴ)ジュースは私の健康法として今も続けている。

 

 

仕事に復帰した91年8月にアメリカを本部とする時計会社FossilのHKオフィスとコンタクトしOEM製作の商談を進めた。

当時のFossilはまだ創業間もなく急成長してすでに知名度は高かったがまだ世界を制覇するメジャーレベルではなかった。

そのころはまだBsケース中心、100%皮ベルトモデルで平均価格帯はUS12ドルと安く80%がアメリカ市場での販売だった。

 

Fossilといえばちょっとした思い出がある。

 91年9月香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアで当社は初めて小さなブースを持った。

期間中のある日、背の高い若者が突然数人の若い女性を引き連れてブースに入ってきた。

彼女たちのバッグを一人で担いでいた彼はいきなり「あー疲れた」とゴロッと床に寝転んでみんなを笑わせていたひょうきんな若者だった。

あとになって創業者のTom本人だと知ったがたぶん香港でのヴェンダー(取引先)を一つ一つ回っていたのだろう。

その時一緒にいた女性の一人が商品開発担当で後に奥さんになる人だった。

その後香港Fossilオフィスでのスケッチ提案会議に参加する機会があった。

各vendor(時計OEMメーカー)が決められた時間内でスケッチの提案をするのだがその場でスケッチの評価と採用を決める責任者が彼女だった。

当社もある期間Fossil時計をOEM製作していたがその頃はStyle(見た目)重視でメッキの耐久性など品質や技術にはけっこう無頓着だった。

 

 

健康を取り戻し再び香港での仕事に復帰してしばらくするとやはり家族のいない単身生活ではオンとオフの切り替えが難しく心身共に疲れやすいことが分かった。

 

この際、家族を香港に呼んで一緒に暮らすのが自分にも、また子供たちにとっても父親が身近にいることが大事と考え91年10月妻に手紙を書いた。

 

今後の香港でのさらなるビジネス展開にはやはり家族が身近にいて心身共に拠点となることで仕事へのエネルギーも湧いてくる。

起業時は無理だったが今は会社に余裕が出て来てきているので経済的に障害はないこと。

父親として(KEN塾を作り)身近に子供たちにいろんなことを教えたい。

長男が高校に入るまで、次男が中学に入るまでの2年間、香港生活をみんなで有意義に過ごそうと提案した。

 

しかし妻によると次男は香港行きを望んでいるが中一になった長男がかたくなに拒んでいる。

何とか納得してもらいたいと思い切々と10枚にわたる手紙を長男に書いた。

 

長男が生まれた時から始まり次男が生まれ家族が四人になったこと。

父親がもともと海外に興味を持ち、そのチャンスがあって海外赴任したこと。

香港赴任で幼稚園に馴染んでくれるか心配したがそれも稀有に終わったこと。

赴任中に起業の決意をし、帰国後思い切って行動に出たこと。

その間は家族に迷惑をかけたので必ず成功させようと心に決めたこと。

起業後は必至で事業を発展させたが単身生活での無理が続き2年経ったところで過労とストレスで大病をしてしまったこと。

今の父親には精神面で支えとなる家族が必要であること。

子供たちが成長し親から離れる前に今一度同じ屋根で生活したいこと。

香港にはまだビジネスチャンスがあり会社を強化するのにあと2年かかること。

父親がとった行動は何だったのか父親の生きざまを身近で見ておいてもらいたいこと。

香港は活気があり魅力的な国際都市でいろいろ未知の体験ができること。

 

など、要約すると以上のような内容で高校に入るまでの2年間香港で一緒に生活しようと呼びかけた。

 

だが返事がなく、残念ながら理解してもらえず彼の気持ちを変えることはできなかった。

しかたなく妻に説得を頼んでいたがようやく長男の手紙一枚が同封された妻の手紙が届いた。

しぶしぶ香港行きに同意するもので「11枚の手紙を見ていくしかないと思った。お父さんのために行くんだから学校の近くに住みたい、毎朝バスに揺られて何時間もバスに乗るのは2度といやだ」とあった。

 

以前の5年間の香港赴任中に子供なりにいろんな事情があり思いがあったのだろう。

私はこれからの香港での家族生活をみんながハッピーで有意義なものにしたいと思った。

 

11月に入り家族VISAの申請など家族の香港居住のための準備を始める。

 

92.1妻から次男(直樹)が発熱と咳で肺炎か気管支炎の疑いありとのFAXが入った。

ただ、直樹(小4)の鉛筆書きで

「僕は死にそうです。いま、めしを食ってます。ぼくは病気です」

とあり

マントと得意のウンコの絵がついていたのでこれは大丈夫だなと思った。

病院の結果では肺に異常はなくアレルギー性の喘息だった。

 

92年2月1日東京で大雪となり20cmまで積もる

2月8日 香港行きの前に直樹が楽しみにしていた家族での日光霧降高原スキーに行く。

あとで知ったがこの時の父親のスキーがカッコよかったらしく後に大学でスキークラブに入るきっかけになったらしい。

 

 2月ごろ、香港島側にあるマンション彩天閣を賃貸契約。

長男の希望通り日本人学校の通学に便利で日本人家族が多く住む香港島の太古城(タイクーシン)に決めた。3ベッドルーム60平米ぐらいで家族4人が済むには十分な広さだ。

 

92.2香港日本人学校に転入の確認。

3月、日本から船便を発送。25日に荷物の搬入

 

こうして準備が整い92年4月、家族四人での生活が香港で復活した。

心身ともに充実したところで本格的なビジネス活動を再開することになる。

 

 

このころの世相を見ると

91(平成3年)日本では長崎の雲仙普賢岳火砕流が発生、横綱千代の富士が引退し若貴、曙の時代へ。

ディスコジュリアナが東京にオープン、お立ち台で踊る姿がバブル末期の象徴となった。

牛肉とオレンジの輸入自由化

12月にソ連が消滅、ゴルバチョフ大統領が辞任しロシアやウクライナなどの共和国に分かれた。

 

92(平成4年)には株価低迷と地価下落の複合不況が起こる。

もつ鍋ブーム。若者のカリスマ尾崎豊が急死。 

毛利衛が日本人として初めてスペースシャトルで宇宙へ。

国公立の小中高で週5日制が始まったのもこの年だ。

 

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入院(1991.6.5)からのGPT値をグラフ化した。

 

私の履歴書 第十五回 香港で創業、悪戦苦闘のすえ業績を出す

 

平成元年(1989)5月19日 再び香港に戻り陳君と二人だけの会社を起動した。

 

荃湾(チェンワン)駅に直結した南豊中心の小さなオフィスはいくつかの机と電話、FAXがあるだけ。

6年前のセイコーの赴任時とは180度転換、会社のバックアップもなければ仕事もなく得意先もない、その上資金に余裕もない背水の陣だ。

文字通りゼロからのスタートであった。

今思えば世間知らず、怖いもの知らずの発進だったがその時は夢と情熱が不安を上回っていた。

 

私の着任前から陳君が知り合いのケースメーカー相手に日本製の刃具や治工具などを細々と販売し始めていた。

着任後は日本の知り合いで不要になった時計用の機械などの仲介をしたり、二光光学からサファイヤクリスタルを仕入れ香港に販売、売り上げの糧にしたが時計の商売はまだ先の話になる。

 

20日は朝からシグナル8の強い台風に見舞われた。

ちょうど万世工業社長一行がアジア視察で台湾から入り翌日マレーシアに発つ予定だったが台風で一日延長したためその夜は尖沙咀(チムサチュイ)の日航ホテルで社長と食事を共にする機会を得た。

万世工業は香港での私の活動に強い期待感を持ってくれていた。

 

22日には当時日本のバブルに乗って時計の販売を伸ばしていた三友舎の須藤社長が日本から来社、25日には藤沼ガラスの専務が来社し夕食を共にした。

 少しずつコンタクト先が増えていたが目前の現実はまだ売り上げも乏しく収入がほとんどない中で毎月の固定費だけが無常に出ていく。

しだいに手持ち金が減っていく不安な日々が続いた。

 いざ会社が始まると現実の厳しさを前にさすがにいつまでも楽観的ではいられなくなった。

オフィスに一人遅くまで残りこれからの方策を考える日々を過ごした。

 

さまざまな不安が頭をよぎり眠れない夜もあったがそういう時は“何とかなるさ”と自分に言い聞かせるようにした。

しばらくはそんな繰り返しが続いた。

 

幸い宿泊は精美の李さん宅にお世話になり当面の住居費は浮いたがいつまでも居候しているわけにもいかない。

早く売り上げを作らないことにはいずれ行き詰る。

 

出費も減らさなければならないが減らす余地はどこにもない。

サラリーマン時代にはたいして気にもとめていなかったが会社を始めたとたんコストを切り詰める大事さも身に染みた。

収入(売上)と経費(コスト)という経営の基本がいやが上にも叩き込まれた。

 

6月に入り日本に出張、万世工業への訪問で時計ビジネスの商談が具体的に進展、ようやく時計のOEM製作がスタートできる道筋が見えてきた。

 

その矢先、6月4日、私が日本に戻っている時に北京での天安門事件のニュースがテレビで流れた。

軍による制圧で多くの死者が出たらしい。

 

その少し前の5月には香港でも連日のように学生たちの集会がニュースになっていた。

それがさらにエスカレートしついに中国共産党(鄧小平)がしびれを切らして軍による力の行使に出たのだ。

 

少し本題からそれるがこの天安門事件はちょうど今の香港での民主化運動と重なるので若干説明を加えたい。

 

「1989年、中国の改革を進めていた胡耀邦総書記が4月になくなり学生らの追悼集会が開かれたがこれがしだいにヒートアップし中国独裁体制を否定し民主化への移行を求めるデモへと発展していった。

これは胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味合いも含んでいた。

この動きは北京だけでなく西安や南京にも広がったが中国共産党は、戒厳令を布き、デモの鎮圧のために軍隊を動員、無差別に発砲し、強引に鎮圧した。

天安門事件の死者数は中国共産党の発表では学生や軍を合わせて319人だが実際には3000人を超えると言われている。

天安門事件というと民主化デモの弾圧に目が行きがちだが、中国共産党内の政権闘争という側面もあった。

事件当時、中国共産党内で趙紫陽は総書記だったが、実権を握っていたのは鄧小平だった。

当時の共産党内には、共産主義保守の鄧小平率いる長老派の存在があり、天安門事件を利用して改革派趙紫陽の排除を狙ったものともいわれる。

共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立て、若者から人気のあった趙は、伝統的な共産主義を維持したい長老派からは厄介な存在に見られていたようだ。

天安門事件の発端となるデモが起こった時も、趙は平和的な解決を模索し、積極的な話し合いをしていたが学生のなかには過激な意見を持つものもいて、話し合いは決裂していた。

鄧はこのデモを反社会的行動(動乱)と決めつけ、軍隊によるデモの強制解散を指示。

趙は武力弾圧に反対したが、鄧は趙の役職をすべて解任して軟禁状態にし、弾圧が実行された。

以降、中国共産党はこの天安門事件を完全に密封、正当化し30年たった今も民主化の兆候は見られない。」

(以上要約)

 

当時その陣頭指揮をとったのが先日(2019.7.22)亡くなった李鵬元首相だった。くしくもあれから30年たった今年2019年、香港で再び民主化の動きがエスカレートしその様相があのときに似てきている。

返還後22年が過ぎ香港政府の急速な中国接近に若者が一国両制の不満と香港の将来に不安を生んでいることが根にある。イギリス植民地下で自由を謳歌してきた多くの香港市民にとっても同じ思いがある。

中国中央(共産党)がますます過激になっている香港の運動をいつまで傍観しているか。

しびれを切らし香港駐留の中国軍を動かして香港の国際的信用を大きく失うことにならないよう祈るばかりである。

 

話を戻そう。

89年の天安門事件直後の6月9日、私は香港に戻った。

空港には李さんと陳君が迎えに来てくれておりその足で李さんの自宅まで車で送ってもらったが香港はいつも通りで特に変わった様子はなかった。

私はその後李さんの家のテレビで戦車が学生のバリケードを強行突破するあのシーンを何度も見た。

 

事件後の6月16日、李さんの中国開平(カイピン)ケース工場に赴いたが中国の入国審査は特に普段と変わらず開平の工場もいつもと変わらぬ様子で動いていた。

 

6月24日、荃湾のオフィスに向かう李さんの車(ベンツ)の中で日本の美空ひばり死亡のニュースを聞いた。

その2年前に石原裕次郎が逝き、昭和を代表するスターが相次いで亡くなった。小さいころからテレビやラジオで聞いていたので懐かしい旋律が今も残っている。

この年は鉄腕アトム火の鳥など数々の名作を残し日本の漫画界をリードした手塚治虫パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げ経営の神様と言われた松下幸之助が亡くなっている。

 

7月に入ると5,6月の取引の収入が入りだしようやくオフィス代と陳君のサラリーが出せるようになってきた。 ‥が自分のサラリーまではまだ回らない。

 

一つの会社を起こすと役所がらみほか何かと事務処理が多い。

そうした事務処理から雑用まで二人でこなしていたがどうにも時間が足りなくなってきた。

さすがにクラーク一人採用が必要なので自分の給料も当分お預けになる。

 

7月17日、日本から大口時計社長とLトレーディング林氏が来港しオフィスを見学、創業のお祝い金までいただいた。

19日に中国深圳のASINO組立工場を案内、20日からは林氏と台湾に出張し時計ビジネス開始に向けて日系の台湾昭工初め遠東、亜州、中興、東方など当時の台湾の名だたるケースとダイアルのメーカーを訪問してきた。

そのころはまだ台湾にも時計部品を造るメーカーが残っていた。

 

深圳にあるASINO組立工場はもとEPH(EPSON HK)の時計組立技術を担当していた現地のベテラン社員数人が独立し労務費の安い中国深圳(経済第一特区)に始めた時計の組立工場でEPHの下請け仕事などで100人ほどのワーカーを抱えていた。

我々はこのASINOへ時計の外装組み立てを後日依頼するようになる。

 

8月に入ると李さんの息子さんがアメリカ留学から一時帰国することになり部屋を開けることになった。

ちょうどPEL時代の同僚だった友人のレイモンド林が新界地区の沙田第一城に小さなフラットを持っていたのでそこの間借りを頼み8月5日、手ぶらで引っ越した。

 

李さん宅にしばらくお世話になりお互い気を使うところもあったので精神的に少し解放されたが部屋にはエアコンだけで冷蔵庫もテレビもなくベッドもなかった。

さしあたり寝るために必要な簡易ベッドだけ購入し何にもない生活が始まった。

(会社も個人も金の出どころは同じなので)出費を抑えるために自身の生活を切り詰めた。

 

引き続き日本からの来客がひっきりなしに入ってくる忙しい日々が続いた。

日本に戻っても客先をあちこち動き回り夜も遅く家に帰るので子供たちとの時間も取れなかった。

オーバーワーク気味で気持ちに余裕がなかったがこのころ妻とのFAXのやり取りが気分を和らげてくれた。

 

三か月が過ぎ仕事が順調に増えてきていた矢先、パートナーとしてスタートした陳君が突然辞めたいと言ってきた。

「このまま続けても先が見えない」と彼はいつしか弱気になっていた。

 

この先この香港で自分一人ではどうにもならない。

何とかしなければと私はその日彼を尖沙咀日本食に誘い、軽く酒を飲みながら顔を突き合わせて必死に説得を試みた。

「会社は順調に来ており今の流れで行けばもうすぐ結果が出てくる、将来必ずいい会社にする自信があるから信用して就いてきてくれ」と真剣に説明した。

実のところ先は読めなかったが「何としてでもモノにする」気迫はあった。

 

幸い彼の気持ちは収まり引き続き頑張る約束をしてくれた。

そのころの陳君は若さもありまだ雇われの身から経営者への意識転換には至っていなかった。

 

その年9月10日から香港インターナショナルウォッチフェアが始まった。

日本から二光光学の押野社長やLトレの林氏、万世工業千倉部長らが来港、私は通訳兼ねて香港ブースを廻りその足で中国のケースメーカーやASINO組立工場も案内した。

フェア後も林時計の林社長(現会長)ら一行、EPSON系の時計針メーカーみくに工業の古田部長と藤森氏らが続きASINOに案内した。

 

中国は1980年代から始めた改革開放政策で外資に対して税を優遇した経済特区をいくつかの都市で試験的に始めたがなかでも香港と隣接している深圳特区には香港の会社が続々と工場を移していた。

このころは深圳(第一経済特区)からさらにその裏の東莞(トンクン)、恵州(ワイジャウ)などの第二経済特区へと工業地区が急ピッチで拡大、大規模な工業地帯へと発展していた。

当時は高速道路も整備されておらずでこぼこ道ばかりで至る所工事中、日本のおさがりで床に穴が開いて地面が見えるタクシーで2時間以上もかけて現地までたどり着くような状況だったが邱さんがかつて予言していた“中国は世界の工場になる”が急速に現実化していた。

 

世界の注目を浴びていたこの経済特区の実態を視察するのが日本のビジネスマンの定番コースになっていたので来客のたびに私は陳君を同行して案内することが日常になっていた。

 

手帳を見ると10月になってようやく冷蔵庫を購入した記録が残っている。

このころフラットは寝に帰るだけ、家でくつろぐこともほとんどなかった。

ある朝目覚めたときに「あれ?何でこんなところに一人でいるんだろう」と不思議な感覚になったことがある。

セイコーの赴任時代とはあまりにも打って変わった生活に自分の現実を疑ったりもした。

 

香港には私よりも一足早く時計会社を経営していた日本人がいた。

10月27日、そのScatの町野氏から声を掛けられて夕食に誘われた。

どこから聞きつけたのか私の香港での起業を知り時計の技術者が欲しいと入社を誘われた。

自分はまだ会社を始めたばかりでこの先まだ続けたいのでとお断りした。

 

このころになると万世工業の時計ビジネスが順調に増え会社の数字が伸びてきていたが10月28日の妻へのFAXでこう記している。

「売り上げは伸びてきたがまだ予断を許さない状況。

先の見通しが立たない中で精神的にきつい。創業の一年はいかにサバイバルするかの戦いだ。

金がないとつい弱気になるが長期戦覚悟でケチケチ生活を続けている」

 

11月に入りHOL(Hattori Overseas)小針氏が来社、初めてALBAビジネスの商談が動き出す。

11月8日、万世工業後藤社長一行が台湾から来港、ホリデイインホテルで待ち合わせ、時計バンドの仕事を香港でやられていた池田氏を交えて夕食、翌9日は日帰りで深圳ASINOに行きかつての日本でやっていたようなライン(流れ作業)での時計組立風景を見てもらった。

 

このころ香港のケースメーカーから集めたサンプルをロールに巻きそれを数巻入れた重い荷物をキャリーで持ち歩き日本の客先を廻っていた。

当時は香港のケースメーカーが保有する在型モデル(ケース)でも時計が売れる時代でまだオリジナルデザインを起こす必要性もうすかった。

 

半年が過ぎ12月になると万世向け時計売り上げ寄与で11月締めP/Lでの数字が大きく伸びやっと安堵の気持ちが出てきた。

ようやく自分の給料が取れるかと思うとうれしかった。

24年前、第二精工舎で初めて給料をもらう時の気持ちがよみがえった。

 

このころ李さんに中国ケース工場(精美)のマネージメントの仕事を期待されていたのでお世話になったお礼と、自身の安定した収入を得ることがケンテックスの発展にもつながると思い引き受けた。

ますます香港、中国の仕事にどっぷりつかることになるが邱さんの“野心家の時間割”という本にあった「収入は時間活用の密度に比例する、野心家なら多忙であれ」という言葉にも影響された。

 

このころ妻とのFAXのやり取りが頻繁にあったが時折Goodニュースを届けてくれた。

 

次男(直樹8歳)が消防のポスターで鎌ヶ谷市長賞をもらったり、千葉県の縄跳び大会(小2以下の部)で2位になったこと、また長男(心哉)の作文が毎日新聞に載ったことなどこまめに報告してくれて私の疲れた心を癒してくれた。

 

この年89年は東欧の民主化が進み11月には東ドイツベルリンの壁が崩壊。

任天堂ゲームボーイが発売され、千代の富士国民栄誉賞を受賞した。

 戦争みたいだった89年も終わり、暮れに帰国し日本で正月を迎えた。

 

 1990年早々、日本の家でも金欠状態になっていた。

退社後の収入はなく香港からの送金もままならないなかで住民税を払い続けなければならずこの時期が一番きつかったらしい。

帰港後わずかばかりを送金、入金確認後ストーブを買ったので今夜から温かいですというFAXが入った。

 

90年1月、このころ邱永漢“アジアの風“を読んで香港の未来に強い自信を持った。自分の行動が裏付けられたようでうれしかった。

このときさらに地に足をつけるつもりで自分の住む拠点(フラット)を借金してでも買うべきだと考えるようになった。

 

2月16日、日本に住民票を置いたままだと税金が重いので香港に移すことにした。

妻が89年の5月19日にバックデイトして香港への転出届を提出、受理された。

以降、海外の所得については日本の税務署の管轄外となる。

 

このころ三友舎のケース注文が殺到、うれしい悲鳴だが仕事が急増しどうにも回らなくなる。

その間にも入れ替わり立ち代わり日本からの客が後を絶たずアテンドをしながら仕事を消化する日々が続き二人で10人分ぐらい走り回ったか。

 

前年(89)末に東証株価が史上最高値を記録し日本ではまだバブルの勢いが続いていた。

国内での時計販売は絶好調、作れば売れる時代で一回の注文数が1000個から3000個と仕事の流れが波に乗ってきた。

 

2月に新人女性一名が入ったがあまりの忙しさに恐れをなしたのか翌日から来なかった。

 2月23日 忙しさが極に達して集中力が大幅ダウン。

いつ倒れるか分からない状況だと妻に伝えようと思ったら妻が38度の熱で先を越していた。

 

2月26日にようやく女性1名(キャロル)、3月1日から男性1名(ビリー)を採用。

キャロルはアカウンティングとシッピングを、ビリーは主に生産納期のフォローを担当。

この二人は忙しさにも負けず、良く働き戦力になり創業期の基礎を作ってくれた。

我々4人はオフィスの中を文字通り走りながら仕事をこなした。

会社の売り上げは急上昇し採算が目に見えて良くなってきた。

 

ようやく余裕が出てきたと思ったとき陳君が前から夢だった車が欲しいと言って来た。

まだそれを言う時期ではないだろうと思ったがこの忙しさの中でよく頑張ってきたご褒美とこれから先の期待も考慮して援助することにした。

頭金と、ガソリン代、パーキング代を会社で出しあとは彼自身でローン負担。

彼はうれしくなり私に感謝してくれたがまたも自分への見返りは後回しになった。

 

仕事はますます忙しくなってきた。

3月中も林時計一行、万世工業本川氏、二光光学社長夫妻、さらに天野、西沢氏と続けて来客。

22日にはセイコー電子時代の先輩、三田村さん、尾島製作所の畑山氏が来港、23日に精美を訪問した後、ちょうど同日に来港した家族と合流し陳君の車で屯門近くの海鮮料理へ行った。

 

久しぶりの飲茶、太空館、沙田のハト料理などを廻り子供たちも大喜び、つかぬ間のリラックスした日を過ごした。

家族は28日に帰国、子供たちはもっと香港にいたかったようだ。

 

このころ妻が派遣の仕事をスタート、12年ぶりの商社での仕事が面白いそうだ。

3月16日妻が熱を出してから3週間が過ぎたがよくならず、慶応病院へ行くとのこと。

 

4月2日 この日、林時計の山田さんが香港赴任した。

 当社オフィス内に机一つを置き林時計の香港支社として「KORIN」が産声を上げた。

山田さんはいつも明るい性格でオフィス内がにぎやかになった。

たまに日本人どうしでカラオケに行く相手ができ心の疲れが癒された。

 

5月2日、4兄(洋)への手紙でこの頃の気持ちをこう書いている。

「起業して1年、人生の10年を圧縮したような1年だった。

背水の陣にて全力を集中した結果、一番難しい最初の一年を通過出来た。

難題ばかりで並の神経では難しいことを身をもって感じている。

現在スタッフ含めて4名、売り上げは月1000万円を超えたが固定費も100万円を超えた。

車のエンジン同様会社も強くふかさないと動き出さないが加速がつくまでにはさらに時間がかかりそう。

会社が水車のように回るにはあと一年はかかるだろうがそうなれば左右のハンドルさばきで行けると思う。」

 

だが、一年が過ぎたころにはさすがにエネルギー放出の連続で心身ともに疲れていた。

6月14日、帰国前日の妻へのFAXで弱音を吐いている。

「業績はスタート時よりはるかに良くなっているのにストレスはむしろ大きくなっている。

休みの日は疲れて一日中家にいるのでストレスの解放が出来ていない。

この状態が続くと少し危険、気分転換をしたいのでどこか子供たちと車で一泊旅行に行きたい。」

 

6月15日に帰国、家で少しリラックスしたが、結局は相変わらず客を回るスケジュールに終始して香港に戻った。

 

7月 妻が銀座の新しい就職口に派遣社員として勤務。

三井物産の社員が退職独立して水産物の輸入販売を手掛けている会社で、経理のほかにサーモンの輸入やいわしの輸出を担当し気持ちよくできていることのこと。早くケンテックスの仕事をしたいと言ってくれたのでいずれ日本にKENTEXの支社を作るのでそこでやってもらう約束をした。

 

7月11日、再び日本から「金送れ」のSOSが来た。

まだ送金が十分でなく、車検、自動車保険、子供の塾、国民年金、生活費で支出が収入を上回る状況が続いていた。

 

会社は順調に伸びていた。

香港服部セイコーとのALBAビジネスも始まりこの時期数字上はすでに1000万円近い利益が出ていた。

しかし急増した三友舎の売り上げ約5000万円が(変則的に国内向け)手形ビジネスでやっていたので回収が極めて遅くキャッシュフローがかなりきつくなっていた。

日本ではまだ手形が流通していたがその怖さもよく知らずに仕事を引き受けていた。

 

8月8日帰国し久しぶりに家族で伊豆へドライブ旅行。

この時は子供たちとペンションの露天風呂につかりおいしい料理を食べ一緒に時間を過ごしてずいぶん気分転換することが出来た。

 

9月19日、都南金属の加藤氏が赴任。

林時計同様、当社オフィスに机一台を置きマルマングループの香港拠点としてスタートした。

小さいオフィスに日本人が3名になった。

以前ケースメーカーのセールスで旧知の哈(ハー)さんが加藤さんのところに加わりいっそうにぎやかになった。

 

1990年10月になると邱さんの教えでもある“不動産は借金してでも買え”を実践に移した。

 香港のフラット購入を進めるために日本の東海銀行と相談し金利8%で500万円の融資可能を取り付けた。

自己資金約400万円、4兄(洋)から200万円を借金、残り500万を香港の銀行担保ローンで黄哺の小さなフラットを香港80万ドルで購入した。(当時のレートで約1500万円)

香港の銀行金利は12%だったがフラット購入後も香港のインフレは続きこの決断は後々大いに正解だった。

簡単な改装工事をして翌年1月早々に引っ越した。

 

90年末になると前年末に付けた東京市場の最高値39000円が2万円を割り込みそろそろバブルの終焉が予感された。

11月8日オリエント時計の久江氏来社 このころからオリエントとのコンタクトが始まる。

 

91年になりさらに仕事は増えていたが相変わらず三友舎の長い手形に泣かされていた。

この手形は地域限定の信用組合発行のため大手銀行での割引ができず結局満期日まで待った。

400万や500万円の手形の満期日が来るまで気が気ではなかった。

小さい会社と取引する危うさをこの時学んだ。

 

3月15日にKORIN山田さんがスタッフの採用に合わせ自前のオフィスに移っていった。

 前年(90年)2月に入社し活躍してくれたキャロルが出産で退社することになりこの時点でスタッフを二名募集することにした。

91年4月に6人のインタビューをしてそのなかから2人を採用した。

アカウンティングにはケースメーカー泰興で経理を3年経験し大人しいが聡明な感じのジョイス王(ウォン), もう一人は英語が達者でアクティブな雰囲気のタニーをシッピングとして採用。ジョイスはとても丁寧できれいな字を書くので感心したのを覚えている。

二人とも期待に応えてくれたがタニーは数年後に退社、ジョイスは仕事に前向きで責任感も強くその後も長く会社に留まり中核人材として大きく貢献してくれることになる。

 

91年4月末、南豊中心のオフィス契約が切れるのでMTR荔枝角(ライチ―コク)駅すぐ近くの億利工業中心6階のオフィスを2年契約した。

月約22000ドルと経費も増えるが仕事も荷物もだいぶ増えていた。

ネットで約120㎡(35坪程度)とずいぶん広くなり倉庫スペースも取れる。

主なレイアウトを自分で設計しマレーシア出身の工務屋さんに内装工事を依頼した。

 

 起業してちょうど2年が経過し会社の業績はめざましく伸びていた。

小ぶりながら会社の体制もできいよいよ次のステップに入ろうとする段階にきた。

 

だがそれに反比例するかのように私自身の疲労と精神的ストレスも蓄積していた。

3月22日から学校の休みで家族が来港、帰国するまでの2週間近くの間久しぶりに4人一緒の香港生活をしてあらためて家族の大事さありがたみに気づいた。

 

1991年4月、妻への長い手紙で当時の思いを綴っている

 「今日、体調を崩し仕事に集中できないので半日で家に戻ってきた。

香港でスタートして2年、長い道のりだったがあっという間だった。

会社は順調だが相変わらず気は許せない。

3月度は万世だけで3000万円もの売り上げを記録、同時に経費も大きくなっている。

会社経営は社長にとって緊張の連続、社長は楽観的でなければ務まらないといわれる理由がよくわかる。

やっと軌道に乗ってきた今、自分のなかで何かが欠けている気がしている。

それがどうやら心の安らぎを得る家族がいないことだと先日みんなと過ごして気がついた。

これまで情熱と意地っ張りが自分を何とか支えてきたが今自分はいったい何のために戦っているのかという気分だ。

妻が言うように今は4人で生活するのが一番自然でベストと思う。

今のこの生活はどこかに無理がありいずれ限界が来る。

日本に会社をつくり半分を日本の生活にしたいが今は無理。

そこで家族を香港に呼び自分の精神的安定を得ながらさらに基盤づくりをしてその後に次の日本展開を考えるのがいいのではないか。」

 

独身時代とは違い一度家族を持った者が家族と離れて生活するのは経験した者にしか分からないつらさがある。しかも海外で働くとなると想像以上にきつい。

 普段は仕事に追われて感じないが休日一人になると話し相手もなく心の隙間にぽっかりと穴が空いていたのだと思う。

 

まだ40代で体力はあったが目まぐるしい日々の連続と精神的な疲労で体の免疫力が相当落ちていたに違いない。

 6月に入りいよいよ体の不調が限界にきた。

後頭部の偏頭痛、首筋の凝りに始まり関節の痛み、さらには目の色が黄色いと言われ尿の色まで茶色になってきていた。

さすがに驚いて香港サイドにいる日本語の話せるドクターに駆けこんだ。

 

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1989年 南豊中心オフィスで

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90年 精美の李さん(一番左)来客との食事

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90年3月に家族が来港、海鮮料理へ

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90年夏 家族で伊豆旅行 露天風呂で

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90年11月 ケンテックススタッフと都南が揃ってバーベキュー

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加藤さん(中央)赴任後に山田さん(左から二番目)ハーさん、陳君(後ろ)揃ってパーティ