私の履歴書 第十七回 時計OEMビジネスの拡大と日本オフィス設立


平成4年(92)5月、元気を取り戻し,家族との香港での生活が復活して心身ともに充実、香港でのビジネス活動を本格的に再開した。

 

このころ日本ではバブルが弾け株価低迷と地価下落の複合不況に突入した。

 

日経平均株価は平成元年(89年)末の最高値38,915円をピークに暴落に転じ平成5年(93)末には、株式価値総額が89年末株価の59%にまで減少した。

全国の地価は下落し始め、93年には全国商業地平均で前年比10%以上の値下がりを記録した。

 

本格的な不景気突入を背景に世の中は低価格指向に動き出す。

 

当時その最先端を走っていたダイエー創業者の中内功氏は(それまでモノの値段はおよそメーカーが決めていたが)「これからはストアが価格を決める」と主張、消費者優先の理念で「良い品をどんどん安く」という価格破壊志向が世間に歓迎され市場はさらなる低価格化に動いていた。

 

93年には一着1900円のスーツや、スーパーのプライベートブランド商品などの激安ブームが起きそれが時計市場にも波及、5000円以下の時計が店頭に増えてきた。

 

サンキュッパ(3980円)、ニッキュッパ(2980円)、イチキュッパ(1980円)という時計が多く出回るようになり数量ベースでは量販店での販売が主流となってきた。

店先で吊るして売る「吊るし商品」が増え1000円を切る安物時計も出回るようになる。

 

時計がなぜそこまで行ったのか。

ここで私なりに解説を加えたい。

 

近年の時計の歴史を振り返ってみると

1969年世界で初めてクオーツ腕時計(諏訪精工舎デジタル時計アストロン)が開発されそれまでの機械式時計に比べて高い精度が話題を呼び人気となった。

発売当初は35万円もしたクオーツ時計が70年代から下がり始めると爆発的に拡大、80年代に入ると世界で拡大、さらなる大量生産による低価格化が加速した。

 

スイス勢も遅ればせながらクオーツ開発に参入、メーカー間の競争が激しくなる。

セイコーシチズンも必死に合理化によるコストダウンに努めた。

80年代にはカシオの時計参入でさらに競争が激化、デジタル時計をはじめ時計の低価格化が一気に進んだ。

 

カシオの参入は精密機械独自の文化だった時計業界に「大量生産で安く」する電子メーカーの論理が吹き込まれるものだった。

 

クオーツムーブメント(駆動体)、特にデジタルは電子部品なので歯車やぜんまいなど製作が難しい精密機械部品を必要とせず電子メーカーの参入しやすくなる。

必然的に大量生産による時計の低価格化が加速した。

 

私が子供の頃、腕時計は贅沢品で持っている人は少なかったように思うが気がついたら巷にあふれ玩具と似たような扱いになってしまった。

 

一方で70年代のクオーツショックで壊滅状態となったスイスの時計産業はスウォッチグループが中心となった機械式時計のラグジュアリー路線が功を奏し80年代半ば以降に奇跡の復活をとげた。

オメガ、ブレゲロンジン、ブランパンなどスイスの名門時計ブランドは高級品のマーケティング戦略で息を吹き返し売り上げが急増、80年代後半にはスイスの時計輸出額は再び日本のそれを抜いた。

 

クオーツやソーラーなどの技術や低価格路線を追求していた日本の時計産業は円高の影響もあり皮肉にもこの時期から衰退につながる。

 

この教訓は後に私がケンテックスブランドを初めてからのブランディングの考え方にも影響を及ぼしている。            

 

話を戻すと

 

この90年代初め、低価格指向が加速し時計がどんどん値下がり、数量が増える中で私は香港を拠点に時計のOEM生産活動に従事した。

 

 

二国間にまたがる貿易において為替の変動はビジネスを大きく左右する。

追い風になるときもあれば強い逆風になるときもある。

これは私が長く海外でビジネスをしてきた強い実感だ。

 

90年から再び円高トレンドが続き94年6月には戦後初の100円突破になった。

 

当時の円と香港ドルの為替を見てみると90年の1香港ドル18.6円から95年の12.2円までの5年間で52%円も上昇している(年間平均レート)。

これは年率10%のコストダウンを5年間続けたのと同じことになる。

 

私が香港で創業の理念とした「日本品質を香港価格で提供する」という戦略は日本市場の低価格指向と円高のダブル追い風にのって大いに歓迎された。

 

 

時計の大量生産と低価格化進行で搭載するムーブメントも下がり、同様に外装部品の低価格化需要も強まった。

このころ日本の顧客を回るとあちこちで量販点向けの安い時計ケースを要望された。

 

安くできるのはプラスティックと亜鉛合金でどちらも市場で急増した。

 

プラは軽さと見た目で高級感はないが亜鉛合金は金属なので比較的高級感を出し易く、ダイカスト(射出成型)加工で価格も下げ易い。

一方で品質が不安定なデメリットもあり腐食などの経時品質劣化がおきやすくそれを防ぐ製造ノウハウが必要とされた。

 

私はセイコー時代、亜鉛合金ケース開発の経験からその品質的危うさを知っていたので香港のメーカーを慎重に選び92年ごろから品質テストを進めた上で万世工業(マルマン向け)の要望で投入を開始、その後数年にわたり大量の数を生産した。

 

しかし、一方で低品質の亜鉛合金ケース時計が香港他社メーカーから大量に輸出され品質問題が多発、その後市場での亜鉛ケースの信頼性をなくした経緯がある。

 

当時マルマングループの国内での時計販売が拡大、時計製造を受け持つ万世工業とのビジネスは増大し低価格から中級品までORCA(20気圧SSダイバー)、Bivourc(10気圧)、Rayard(ドレス系)、Fem(レディス)など相当な数の時計を生産した。

 

マルマン時計ビジネスがスタートしたころ、92年4月に量販店大手などのマルマンの得意先一行を招待したスイスバーゼルフェア視察旅行に同行する機会があった。

引率リーダーは当時マルマンの時計販売を引っ張っていた時計企画本部長の高橋さん。

 

セイコー時代にバーゼル出張者の視察レポートを見ていた私にとってそこはあこがれの場だった。

初めてのヨーロッパ、初めてのスイスバーゼル視察そして宿泊地ドイツの別荘地バーデンワイラーはとても印象に残り今でも鮮明に覚えている。

バーゼルフェアの後、顧客一行のパリ観光があったが言葉ができる人がいないという理由で下手な通訳兼という役で同行させてもらったがその時私が撮った写真がマルマンの得意先に配れて助かったと後日高橋さんから感謝のお手紙をいただいた。

高橋さんの人脈を大切にする人柄を感じた。

 

 

当時香港にあるHOL(Hattori Overseas Ltd.)は当社のメイン顧客でALBA-Xと呼んでいた東南アジア向けALBAの生産を請け負った。

東南アジア市場の販路拡大のため企画から出荷までを一貫して香港で遂行するプロジェクトだがスタート当初の年70万個から100万個を超す勢いに成長していた。

時計製造はSEIKOグループ内のEPH、SIHの2社に香港ローカルの時計製造会社7社ほどが参加、当社も初期の頃から参加する機会を得た。

年に3回の企画でカテゴリー別コンセプトが示された後各社のスケッチ提示で始まり他社との比較競争の中で決まるためこの仕事を取るにはデザイン力が必要不可欠だった。

 

このころから提案力を強化するためにデザイナーを増員、常時3名の時計デザイナーを擁するようになった。

当社は日本顧客向けの仕事をやっていたこともあり香港7社の中でも洗練されたスケッチ提案が出てくると評価されるようになった。

ALBA-Xのコスト対応はかなりきつく利益率は低かったが1モデル3000個以上と数量規模がありビジネスの大きさに魅力があったので必死に食らいつくことで会社としてのコスト競争力がつくと判断し前向きに対応した。

 

 数が大きいとターゲットコストがめっぽう厳しくなるのはどこの世界も同じで世の中おいしい仕事はそう簡単に転がってない。

きついながらも頑張ってセイコーの仕事を続けたことが会社の信用となり日本はじめ海外の新規顧客獲得につながった部分は大きいと思う。

 

92年夏、HOLの小針さんとタイ、チェンマイの日系時計バンドメーカーを訪問した。

89年に設立、日本人数名、タイ人250名の2シフトで述べ500名で月産7万本のバンドを製作、社長から中国に比べ人の定着率がいいと説明があった。

中国以外にもタイなどに進出している日本の会社は少なくなかった。

 

小針さんと仕事をご一緒する中でセイコー独自の時計企画の進め方、例えば縦軸にDressyとSporty、横軸にAntiqueとModernをとったマップでのブランドの位置づけや顧客ターゲットを明確にする手法など仕事を通じて勉強になった。

 

KENTEX TIMEは香港を拠点に91年から毎年継続して香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアに出展した。

年を追うごとに会社の名前も浸透し日本以外にも欧州、中近東、アメリカなどの客先が徐々に広がり生産数も拡大、93年4月ごろ外装部品の調達拡大に備えてケースやバンドの新規メーカー開拓を始めた。

 

永漢(バンド)、実豊パワー(ケース)、信徳(ケース)佳時(ケース)平山(ケース)新生(ケース)興発(ダイアル)、景福、恒勝、Easy依時(いずれもケース)などセイコー時代の旧知のメーカーを訪問。

中国内にシフトした工場だがオーナーはほとんど香港人、旧知のボスも多かった。

 

各メーカーとも世界市場の拡大と強い需要に対応するためにマシニングセンターやプレス機械などの設備投資を積極的に進め生産キャパを増強していた。

200人から500人規模の中国人ワーカーを抱えケース生産数は月20万個から多い所で40万個という規模のところもあった。

中国人ワーカーの給与はマネージャーレベルを除くと日本円で1万円にも満たない安い労働力を得られていた。

 

当時はアメリカ向けなどの低価格品が多くケースの材料はBs(真鍮)や亜鉛合金が中心、高級品向けのステンレスケースはまだ3割以下だった。

 

 92年10月に香港千葉銀行の大工原さんが訪問され口座を開設、その後千葉県人会を紹介され年末の県人会に出席した。

香港千葉県人会は千葉県ゆかりの人の年一回の集まりで現在も千葉銀行HKさんが事務局で継続、私は初期の頃から参加している古株のため数年前から県人会の会長を仰せつかっている。

 大工原さんからHKTDCを紹介され運営するデザインギャラリーのほか香港内のチェーン店シティチェーンや西武などの日系デパートでの小売りを勧められたがそのころまだ自社ブランドがなく前に進められなかった。

 

香港政府管掌であるHKTDC(香港貿易発展局)は香港の産業と貿易拡大のための積極的なバックアップをしていた。

毎年9月に開催される香港インターナショナルウォッチ&クロックフェアの主催を初め、春にスイスで開催される世界最大の時計宝飾見本市であるバーゼルフェア出展も賛助していた。

香港のウォッチ、クロックそしてジュエリーメーカーからなる一大デレゲーションが毎年大挙してバーゼルに出展し時計輸出は年ごとに増大、香港時計産業の拡大に大きく貢献していた。

(ちなみに日本にも日本貿易振興機構ジェトロ)があるが日本の時計産業特に中小企業にバーゼル出展を推進援助する動きは見られない)

 

 

93年1月、ビジネスも順調に伸びていたので香港のインフレ継続を考慮して賃貸していたライチコクのオフィスビル(億利工業中心)内の7Fの一室をローンで購入した。

香港340万ドル(日本円で5000万程度)だったか、グロスで2100平方フィートとさらに広くなり改装後の4月に6Fから引っ越した。

 

93年半ば頃には日本マーケットの拡大に向けて日本オフィスの設立を模索した。

 

香港で創業して4年が経過し時計製造会社としての体制が整い次の飛躍のステップとして国内市場を拡大するため日本での橋頭保が必要と考えた。

 

そのころ以前面識のあった元ケースメーカーの山田龍雄さんが万世工業マレーシア赴任から帰国し退社したということで私にコンタクトがあった。

 

会って話をするうちに今の日本市場にあふれている時計はメーカーの高級ブランド品か香港から大量に流れている粗悪品の両極端に偏っていて「適正価格で良質の時計」が日本市場では今求められているという意見で一致、日本人が香港に拠点を持っている会社にチャンスがあるということで二人で日本の会社設立構想を進めることにした。

 

93年11月に日本法人設立のプラン「ケンテックスジャパン事業計画書」を作成。

設立の動機背景、会社の構想、事業内容、売り上げ計画、中期構想、ブランド戦略、商流物流ルートについてできるだけ具体的にした。

ちなみにそれを見ると自社ブランドビジネスを将来50%以上にすることや中国、東南アジアマーケット開拓のために上海オフィス、バンコクオフィスを構想、ブランド戦略はケンテックス以外にカテゴリー別市場別に第二、第三ブランドを考えていた。

 

このころ山田さんの紹介でドウシシャの長島さんと商談する機会がありドウシシャとの時計OEMビジネスの話を進める。

ドウシシャの社内説得資料として香港の時計製作の標準日程表やQAシステムなどを提出、94年に入りケンテックスへの発注が示唆された。

 

ちょうどこのころ山田さんから万世マレーシア工場から帰任する矢野という人材がいるという話があり期待して会ってみた。

矢野さんは早稲田の哲学科卒ながらバンドメーカー(都南精密)に入社というちょっと変わり種で当時34歳で私より一回り若かった。

マレーシアに赴任していたので英語も使える。

ギャンブルが好きだが仕事はまじめに何でもやると聞いていた。

会ってみると確かに麻雀競馬の話をすると止まらない人だがその分カンも良く頭の回転も速い。本好きで知識も豊富、仕事にも前向きな姿勢を感じた。

日本法人の事業計画案など私の考え、構想に魅力を感じてくれたのか経営者の一人として出資することにも同意、香港勤務も厭わないということでケンテックスの仲間として参加することになった。

私にとってはラッキーな出会いだったと感謝している。

 

94年春、ドウシシャと具体的な商談が進みBsバンドシリーズの注文が決定、ただしFOB(香港出荷)でなく国内納入が条件ということでここからケンテックスジャパンの使命と歴史が始まることになる。

4月にドウシシャ大阪訪問、東端常務ほか小早川部長など上層部に挨拶し仕事が正式にスタートした。

 

平成8年(94)5月に株式会社ケンテックスジャパンを法人登記し東京茅場町のマンションの一室でスタートした。

資本金1300万円、うち700万円を香港kentex Timeが出資した。

電話番号はNTTに元勤務していた兄の計らいで03-5846-0811(時計はいい!?)を取ってもらった。

 

その少し前の94年3月、子供たちは香港の中学と小学を卒業しそれぞれ日本の高校、中学に進学することが決まり妻と共に家族三人が帰国した。

妻は帰国後子供たちの学校処理で忙しい中ケンテックスジャパンの設立に加わりその後は山田さんと共にジャパンオフィスの運営に携わる。

 

矢野さんはジャパンの法人登記に尽力、設立後しばらくドウシシャOEM時計入荷品の検査ほか管理等の仕事をしてからこの年香港に赴任した。

 

ケンテックスジャパン設立後作成した手作りの会社案内に私は次のように記している。

 「現在香港は世界一の時計生産国となっています。しかしながらいまだに安かろう悪かろうの商品がメジャーであることは残念なことです。

アジアの小龍香港はインフラが整い国際自由貿易都市でありながら背後に労働コストの低い中国を控える事から時計の生産拠点として最適の立地と言えます。

私はこの地において日本の生産技術と管理手法を取り入れて真に日本に受け入れられる優れた品質のものを安く製造し提供することに挑戦しております。

コピーではなくオリジナルを、安物ではなく良いものを造ることが今後の香港の課題であり日本人が現地に赴く意味があるものと考えます。

私どもはこれからもさらに良いものをプレゼンテーションし続けていきます。」

 

 

このころ多くの会社が香港に時計や外装部品の調達を求めて来社されたが日本に拠点を持ったことでより香港との接点が広がりビジネスに繋がったと思う。

 

当時,OEMの顧客は香港のHOL(SEIKO)と日本の万世工業(マルマン)の二社が大きかったが円高の継続でさらに日本のOEM顧客が増え95年度にはそれまでの最高の売り上げ5400万香港ドルを記録した。

 

94年4月には日本からオリエント時計の幹部が香港に来社。

上原部長、秋葉部長、浅川国内販売担当課長、HKオリエント船引社長9いずれも当時)らがオフィスに来られて香港オペレーション拡大をしたいとの話があった。

その後企画担当者や設計者らが来港されて具体的に新型の検討を進め正式に95年6月発売のSS10気圧モデル男女各2Kをスタートした。

 

 

この時期、日本では時計が良く売れていたので国内ではライセンスや自社PBで時計を製作販売する会社が増えクレファを始め多くの会社のオリジナル時計を製作した。

名前を上げるとUSC、オーク、寺沢製作所、ホッタインター、ベアフルト、日本プレシャス、マルチタイム、三協、フォート、白井製作所、大和エンター、フレンドリー、エスポワールシンワなどなどお世話になった会社は多い。

 

それぞれ会社ごとに市場、店舗が違うのでカテゴリーの違う数多いOEMの仕事を請け負った。

それらのいろんなジャンルの時計を作っていく中で時計製造に関わる幅広いノウハウと技術力が会社に蓄積されていった。

またOEM客先との商談のなかで私自身の市場の勉強や商売感覚も磨くことが出来た。

今思えばこの経験と知識の積み上げが後に自社ブランドスタートの礎になったと言える。

 

 

このころの世相を見てみよう。

 

93.5 サッカーの日本プロリーグ(Jリーグ)が開設される。

93.6.皇太子さま(現天皇)と雅子さんがご結婚

93. 不況による激安ブーム、ポケベルが普及

93.8. 連立内閣、自民党が分裂、日本新党新党さきがけ新生党などが連立し細川内閣が誕生。

94.6 松本サリン事件で7人が死亡。

94.6. 東京外為市場で円が99円台となり戦後初の100円突破を記録した。

オリックスイチローが史上初の年間200安打を達成。

95.1.阪神淡路大震災;神戸市で観測史上初の震度7を記録。死者は6400人超。

95.3.オウム事件;地下鉄で猛毒サリンがまかれ13人が死亡、5月に施設の一斉捜索で教祖らを逮捕。

東京大阪の知事選で青島幸男横山ノックが当選。

大相撲九州場所若乃花貴乃花の兄弟対決、兄の勝利。

野茂英雄、米大リーグに入団新人王になりトルネード投法が話題に。

 

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92.8. 香港Kentex Timeのスタッフと

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92.4.バーゼル視察 EGANAパーティでマルマン高橋部長と

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92.4.パリ凱旋門 マルマン得意先一行と(右端が私)

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92.9.香港ウォッチフェア マルマン、万世との食事

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93.11.日本法人の事業計画案を作成

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94.12.KTオフィス内でX,masパーティ

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95.3.KTオフィス 私のBirthdayで花束をもらう

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94.日本法人設立後に作成した会社案内文