私の履歴書 第十四回 課長昇任も退社、香港会社を設立
1988年(昭和63年)5月に帰任。
久しぶりに千葉県鎌ヶ谷の我が家に戻り5年ぶりの日本の生活が始まった。
不在の間、親戚の甥に住んでもらっていたが庭もだいぶ荒れていたので趣味の庭いじりをまた始めた。
少々笑い話になるが帰国早々子供たちが親を驚かすことがあった。
長男が一人でお風呂に入った後風呂の湯をすっかり抜いてしまった事件。
次男が公園の鳩をみて“ハトが食べたい”と漏らした事。
香港は気温が高いのでお風呂の文化はなくシャワーがメインだが我が家では日本式にバスタブに湯をためて体を洗った後、湯を流していた。
鳩は日本では平和のシンボルだが香港では養殖した小鳩(乳鴿)料理があり美味しく次男は大好物だった。
子供たちは5年の間にすっかり香港の文化が身についていたようだ。
会社では時計外装部外装調達課に配属された。
私は5年にわたる香港勤務を総括するレポートを作成し社内で帰国報告会を行った。
香港の一般動向から時計業界と外装メーカーの動向、そして時計外装調達の現状と将来予測について価格、技術要素、デザイン面に渡って5枚のレポートにまとめ“最近の香港事情“として外装部内で説明会を行った。
このレポートで私は今後数年以内に香港のケースは技術、品質面で日本と同等レベルになると予測し、今後の外装調達戦略として“海外調達の拡大を加速させる”ことを提案した。
一方で今後拡大が期待される反面、需要の伸びに供給能力が追い付かず需給ギャップの問題がいづれ表面化するのでその解決が課題であることを指摘した。
そして安定した供給ソースを確保するためにはセイコーグループとして自前のケース工場を中国に設立することを提言した。
そのうえで国内のメーカーについてはその性格付けをはっきりさせると共に整理を進める必要があると付け加えた。
当時、円高の進行によって製造の海外シフトの流れはすでに世の中の趨勢となっていたが実際に現地にいた赴任者が作成したレポートは説得力があったようで社内の反響があった。
ちなみに私が退社して数年後にセイコー自前のケース工場が中国広州にあった黄哺工場内にスタートした。
数か月して外装部内の組織変更があり以前外装開発課時代に一緒だった鎌田さんが外装部の部長となり私は新設された外装生産技術課の課長に任命された。
国内での時計外装生産技術を高めるという使命で15名ほどのスタッフが用意された。
さらに金無垢の高級品クレドールの外装ケースを製造している60名ほどからなる製造職場が私の組織下に置かれた。
円高下で生産の海外シフトを推進した人間に国内回帰とも言える生産技術開発の使命である。
私自身はこの円高の潮の流れに乗って香港の労務費が日本の十分の一以下(中国は十五分の一ぐらいだったか)というコストの安い生産拠点を活用するのが会社にとって得策という認識だったのでこの使命に少々矛盾を感じた。
自身の計画では帰国して数か月後には退社し10月ごろには香港でのスタートを考えていたのだが任命された以上すぐに無責任に辞めるわけにもいかなくなった。
考えた結果まず自分ができるところまでやり、課員の教育と方向づけをしたうえで後任の人にバトンタッチしようと考えた。
課内のメンバーは外装製造の工場から上がってきた人間や技術員で生産技術開発のプロではなかった。
新設なのでまだルーチンもなくまず課題を作る所から始めなければならなかったがとりあえず課員の再教育から始めた。
一方で昇進したからと言って起業の夢を諦めることはなかった。
6月ごろから徐々に自身の計画を親しい友人や一部の関連メーカーの人にも徐々に打ち明け始めた。
日本の外装メーカーにとっても当時海外に出ることは生き残るための選択肢でもあったので彼ら自身が香港進出を検討しており私の計画に強い関心を示す所も出てきた。
セイコー系列のケースメーカーだった尾島製作所は私に香港でのコーディネーターとしての役割を期待していたが何度か会ううちに私の計画する香港新会社への出資も希望された。
また国内のケースブランク(プレス上がりのケース素材)製作では日本でもトップレベルだった東新精工とはすでに香港で何度かお会いしていたが彼ら自身も中国に自前の工場を作る計画を進めていた。
両角社長(現会長)は私の計画に賛同しその後香港でスタートしてからも経営面や心理面でも味方になってくれた。
同じころエプソン系列のサファイアガラスメーカーだった二光光学の社長が東京に来られ香港進出を考えているがぜひ協力をお願いしたいという話も出てきた。
そんな感じで私の計画は国内ビジネスが縮小し香港とのビジネスを模索している日本の会社にとっては香港にいる日本人が日本とのコーディネーター役を担ってくれることは願ってもない事だった。
香港に拠点を持ちたい会社は多かったが小さい会社ではなかなか赴任する人材がいないのが現実だった。
当時日本語のできる香港人が日本とのコーディネートをしている人はいたが現地に根を下ろしていた日本人は時計関連ではほとんどいなかったと思う。
この年、私の組織下にあった外装職場の一部を福島県にある須賀川工場へ移管するプロジェクトが持ち上がり一連の仕事を年末にかけて行い、一段落した後で鎌田部長に退社の意志表示をした。
鎌田さんは東北出身の温厚篤実な信頼できる上司で一緒に仕事をしたい人だったが自分のやりたいことを実行に移したいと計画を打ち明け了解をいただいた。
辞表を提出した後で鎌田部長からある提案があった。
“会社(セイコー電子)の資本で新会社をやってみないか“という話だった。
“ありがたいがそれでは自分が独立することにならないし自分の考えで自由にやってみたい” とお断りした。
仮に受け入れたらどうなっていただろうか。
収入も担保されその後の立ち上げではずいぶん精神的に楽だったかなと思う。
が、おそらくいつまでもサラリーマン根性が抜けない自分がいたに違いない。
たとえ苦しくても自分の力でやってみたいという気持ちが強かった。
時間が少し戻るが88年前半、香港から帰任する前に現地に設立する会社の名前やパートナー選びをできるだけ具体化しておきたかった。
知り合いの香港人の中から営業経験を重視して選んだ数名と何度か話し合いを進め、並行して日本のケースメーカーとも話をした。
起業に興味を示す者が全部で5パーティぐらいありそれぞれが10%~20%前後のシェアを持つような具合で話を進めていたがそのうち「シェアは持ちたいが汗は流したくない」という本音が次第に透けて見えてきた。
彼らの営業の経験がその面での私の経験不足を補ってくれるだろうという読みだったのだがもともと人の案に乗っかる相手に汗水流せと要求する方が間違っていたのだろう。
一方、ある先輩からはパートナーはできるだけ少ないほうがいいというアドバイスももらっていた。
その後3者に絞り話を続けたが、最後は自分が中心となり補佐の人材一人がいればいいという考えに落ち着きそれまで全く想定もしていなかったPEL当時の部下だった陳志強君に声をかけてみた。
彼は私と同じ技術系でビジネスパートナーとしての不安はあったがPELの若手の中でも優秀で仕事に前向きに行動するタイプだった。
日本で半年間の研修を経験していて日本語もかなりうまくなっていた。
当時まだ30歳前、妻子がいて戸惑いがあったがPELにいてもトップは日本人で固められ将来の夢が見えないとの思いから私の起業計画に掛けることを決断してくれた。
サラリーは今より上回ることを私は約束した。
この時点で新会社は私と現地香港人の二人でスタートすることが決まった。
その後は具体的な計画を私が練り日本から指示を出しながら前に進めた。
社名については自分の名前からKENを取り技術出身であることからTecnique(テクニック)をもじってTEXを加えてKENTEXとした。
日本語でも英語でも発音し易いことを意識し、最後にXとしたのは音感と響きの安定感を感じたからだ。
その頃はそれが将来ブランド名になるとは予想もしなかった。
正式社名をKentex Time Co.Ltd.として香港での会社登録を香港の李さんにお願いした。
Co.Ltd. は日本でいう株式会社にあたる。
香港では漢字名での登録が合わせて必要なので李さんにお願いし広東語の発音に近い「景徳(キンダッツ)錶業有限公司」とつけてくれた。
資本金は10万香港ドル、当時のレートでわずか170万円程度だ。
陳君は余裕がないと当初出資に消極的だったが私は彼にこれからは経営者の一人としてやってほしいと資金援助して20%のシェアを持ってもらった。
ここで初めてKentex Time Co.Ltd.が香港で設立された。
明けて昭和64年(1989)私は厄年となり正月は川崎大師の厄除けと鎌ヶ谷の八幡宮に自身と家族の健康と起業の成功を合わせて祈願した。
身が引き締まる思いがあった。
史上最長62年の在位もすごいが大正天皇が病弱だったため若い時から摂政もしている。
在位中に二回の大戦を経験し戦後は一転して象徴として国民に寄り添われた。
日本全国を廻り特に沖縄など戦争の被害の大きかったところに度々慰問されていた。
私が子供の頃の昭和天皇は生物学者としての顔がよくテレビで紹介されていた。
昭和が終わりを告げ平成元年となる。
正式退社は4月だが休暇を消化するため会社にいるのは3月半ばごろまでとなる。
本格的に起業の準備に動き出した。
手元にある1989年の手帳を見るとこの時期目まぐるしく多くの人と会っている。
少しでもビジネスの種になるチャンスを探ろうと必死だった。
人生を振り返ってみるとこの年は人生のターニングポイントであり最も密度が濃かったように思う。
体が熱く燃えていたような感じだった。
ある朝、武者震いらしきものを初めて経験した。
ベッドから起きたときにブルブルっと震えが来た。
風邪をひいたときのそれとは違うこれまで経験したことのないものだった。
体から湧き上がる一瞬の感覚。
この感覚を武者震いと言うのだろうかとあとで思った。
89年の手帳にはその頃の行動を例年になく細かくメモしている。
振り返ってみると一つ一つ当時の記憶が蘇ってくる。
出発までの数か月間、退職と香港起業の挨拶回りであちこち回る。
当時クロックビジネスを立ち上げて成功していたノア精密を訪問、ビジネスの先輩である庄司社長から“セイコーの看板を捨てて裸でぶつかれ、それと自分に厳しくすること、これができないと成功はない“とアドバイスをいただく。
2月15日~23日に香港出張
前半はホテルに、後半はケース工場の社長李さん宅に4泊させてもらいこれからのビジネスについて話し合った。
李さんは自分のケース工場の技術品質管理の指導や日本とのコーディネイトを私に期待。
3月13日は先輩でもあり私の後任を引き受けてくださった三田村課長に業務の引き継ぎ。
14日に二光光学の社長と会いサファイヤガラスの香港販売に向けて橋本のオフィスに彼らのHK拠点をスタートすることを決める。
3月後半には当時マルマン時計の製造を担当していた万世工業を訪問。
万世工業は香港調達を拡大しようとする計画の中でちょうど時計ケース技術者のプロを探していた最中とのことで私の香港起業に強い関心を示した。
これがのちの時計OEMビジネスの拡大につながる。
3月下旬、家族帯同での香港出張
家族はホテル泊の後二泊ほど荃湾から車で10分ほどのところにあった李さん宅にステイし先に帰国した。
李さん宅はケースビジネスで成功したのか香港ではめずらしく庭のある一軒家だった。
この時次男は7歳だったが李さんの大きな家に大型犬がいたのを覚えているという。
3月30日 TM(タイムモジュール)のGM(ジェネラルマネージャー)汪(ウオン)さんと夕食。
SEIKOムーブ購入についてサポートの約束を得る。
汪さんはもともとEPH(EPSONセイコーの香港現地会社)のローカルのトップをしていた人で日本語はほとんどネイティブ、英語も北京語も流暢な人だった。
諏訪精工(当時)に技術研修のおり知り合ったという日本人の奥さんで日本の文化にも精通していた。私の起業後も応援してくれた一人だった。
この時汪さんからは香港のオフィスはこの先ずっと上がるから毎月の賃料を払うよりできるだけ買ったほうがいいとアドバイスを受ける。
その時は頭金もなくただ話を聞くだけだったがこの教えは後になって実感することになる。
4月1日オフィス探し。
5,6件の物件を見て荃湾(チェンワン)駅から直結しているオフィスビル「南豊中心」に決める。
広さは600sf. (GROSS)だが実質40㎡もない。
机4つか5つ置けばいっぱいになる広さで月8700HK(当時のレートで15万円弱)。
この日夕方ハイヤットホテルロビーで林時計社長(現会長)と会う。
林時計はセイコー電子の協力時計組み立てメーカーであったが香港拠点をスタートしたいので私の香港オフィスを間借りしたいとの話があり私は快諾した。
その後はオフィスの契約で家賃二か月分とデポジットを払い、新会社のキャピタルの払い込みさらに中古のコピー機やファックスを購入。
さらに陳君のサラリーとして遡って五か月分を渡した後同日の午後の便で帰国した。
まだスタート前で一銭の収入もないのにどんどん金が先に出ていく。
すべて私一人の出金だ。
この先どうなるのか…
心の片隅に不安が覗く。
4月20日付けでセイコー電子を正式退社した。
あと一年で25年勤続の100%満額となるところ一年足りずに85%となり約1000万円弱の退職金を得た。
住宅借入金が約500万円強残っていたので実質入金は500万円に満たなかった。
私は十分な資金を持っていたわけでもないので少しでも助かればとの思いから職業安定所(現ハローワーク)に足を延ばした。
申請はしたものの支給スタートまで何か月間も毎月一回以上の出頭が義務付けられることを初めて知る。
さあどうするか。
支給されるまでこのまま半年以上日本で時間を無駄にするわけにいかない。
私は雇用保険をあきらめ一刻も早く香港で動き出すことを優先した。
5月に入りこれからお世話になりそうな会社に出国前最後の挨拶回りを行う。
1989年(平成元年)5月19日。
いよいよ家族三人に見送られ再び香港に向けて成田を飛び立った。
ここからKentexTimeの本格活動が始まる。
そして香港での一人暮らしが始まることになる。