(私の時計造り人生記)私の履歴書 第一回 人生を振り返る

私の部屋には最近撮った二枚の写真が飾られている。

一つは今年三月香港で私の古希の食事会をした時の現地スタッフに囲まれた写真。
もう一つは長く仕事を共にしてきた日本のベテランスタッフと私を精神的にサポートしてくれた兄夫婦たちとの写真だ。

香港にkentex Timeを立ち上げたのが平成元年(1989年)、その後日本にケンテックスジャパンを設立したのが平成6年(1994年)になる。
香港での起業からかれこれ30年近くなろうとしている。
過ぎてみれば時が過ぎ去るのは本当に早い。
時計のOEMでスタートしKENTEXという独自のブランドを立ち上げてここまで来た。
その間、人の入れ替りも少なくなかったが長く会社に貢献してくれたスタッフも多い。

私はつくづくスタッフに恵まれ助けられてここまで来たと思う。
当然のことだが一人の力だけで会社を続けることができたわけではない。


栃木県の鹿沼市という山に囲まれた片田舎に生まれ育った私は全く世間知らずの少年だった。
栃木の田舎もんが東京に出て社会人となり経験を積み、仕事で成長し、縁あって香港に赴任したことがきっかけとなりビジネスに目覚め、香港に自分の会社を立ち上げた。

あらためて振り返るとよく無茶やったものだと自分でも思うが若さとはそういうものなのだろう。
私の場合、失敗したときをあれこれ考えるよりも沸き立つ夢にチャレンジする気持ちのほうが強かった。
未熟ではあっても情熱があった。

若い時は要領が悪く何を考えているのか分からないようなノンポリだったが一度やりたいことが見つかると脇目も振らずにそれに集中してしまう癖があった。
周りが見えなくなるのである。
普段はボーッとしているが本当にやりたいことが見つかるとそれにのめりこむタイプである。


私は中学まで市内に通学し高校は県庁所在地にある宇都宮工業高校に電車通学した。

私が二歳の時に父が他界した。
そのとき16歳の長男を頭に末っ子の私まで兄弟五人を抱えた母は大変な苦労をした(はずである)。
上二人は中学を出て仕事に就いた。
下三人はなんとか高校へは行かせてもらった。
私が高校を卒業するころはだいぶ手が離れていたのだがとても大学進学を口に出せる状況ではなかった。

昭和40年、高校卒業と同時にあこがれの東京に出て当時東京亀戸にある第二精工舎(現セイコーインスツル)に就職した。

上京の翌年、日本大学理工学部機械工学科二部に入学し仕事をしながら4年間通った。
途中大学紛争に見舞われたのでたいした勉強はしていない。
もっとも正直に言えば勉強したくて入ったのではなく“大学のキャンパス“という響きにあこがれて入った。
しかし東京のど真ん中に緑のキャンパスなどなく仕事の後に大学に着くと気の合う仲間と講義中に抜け出し近くのお茶の水界隈や新宿まで繰り出すのが楽しかった。
当然親のサポートはないので学費は自分の給料で何とかした。

第二精工舎はその昔、クロックを造る(錦糸町にあった)精工舎から分離された腕時計を専門に造る会社だった。
そこで時計外装部門に配属され時計側(時計外装)を製造する側工場という現場からスタート、その後時計外装部内の製造技術、外装開発、外装設計などの技術畑を歴任した。

昭和57年(1982)に転機が訪れる。

会社は1970年代から香港に時計の製造拠点を持っていたが円高の進行とともに香港の重要性が増していた。
外装設計課の時に上司から香港赴任の打診があり私は何のためらいもなく諸手を挙げた。
もともと子供のころから海外に関心があり世界をみたいという夢があった。
赴任されていた先輩から香港の話なども聞いていておもしろそうな街だなと感じていた。
家族も4歳の長男と生まれて間もない次男で特に障害はない。

しかしこれが私の人生の大きな転機となることはその時知る由もない。

1983年(昭和58年)6月に香港に赴任、そこは日本と違い完全に真夏だった。
ガンガンに照る太陽の下で真っ白の制服を着た高校生の姿が印象的だったのを覚えている。

香港での仕事は時計外装の技術者として現地での時計ケース生産および調達の技術面でのサポートである。
当時香港には何十階という古いノッポビルの中に時計ケースを製造するメーカーが数多くあった。
かつての日本のようにプレス成型をメインとした製法でなく切削を中心とした造り方のためビルの中でも製造が可能なのだ。
日本で設計した図面をもとに香港のメーカーにケース製造を委託していた。
私の役目はメーカー選択や技術的なトラブルシューティング、品質管理、検査部門の責任者だった。

香港の工業地帯は日本と違い背の高いビルがいくつもありその中に数知れぬ多くの会社が入っている。
メーカーを訪問するときはどの会社が何階にあるかを覚えるのが大変だったがメーカーとの直接のやり取りは主に現地スタッフ(香港人)が担当した。

1980年代は円高が激しく進行し銀行、証券などのほかにも多くの日本の製造会社が香港に製造拠点を移していた時代で日本人赴任者も多かった。
当時は日本でもちょうどバブルが始まるころで好景気が続いていた。
香港でも日本人が1万人を超えそれに伴い日本人学校も一気に生徒数が増えた頃だ。
今もそうだが香港はまさしくエネルギーと活気に満ち溢れた都市だった。

1988年に帰国するまで都合5年間の家族帯同での赴任経験は私を大きく変えた。

日本にいた時よりも仕事のスパンが広がり部下が増え権限と責任が大きくなる。
日本本社に比べて会社のサイズも(工場含めて300人ぐらいだったか)小さいので会社全体がよく見える。

それまで小さな一歯車として大企業の一部しか知らなかった自分がまるで中小企業の幹部になったような気分で小規模の会社の面白さや醍醐味を垣間見たような気がしたのである。

香港は1997年までイギリスの植民地で早くから国際的な金融都市であり現地にはイギリス人のほかにもインド人、フィリピン人など多種多様な外国人も多く西洋と東洋が混然とした独特な文化がある。
私にはそれがとても新鮮だった。

現地の人たちは広東語が母国語だが英語がかなり通じ公用語にもなっている。
経済観念が発達している人が多くお金儲けに敏感である。

アマさん〈日本でいうお手伝いさん)までが日常的にゴールドを売買する文化だ。
お金に執着している人が多いがよく言えばみんなビジネス感覚が鋭い。

植民地化して独自の経済文化が発展したがもともと中国の一部で広州などの中国華南と同じ血である。
分かりやすく言えば職人的気質の日本人に対して商人気質の血なのである。

仕事以外でも現地の人と触れあう機会も多かったが文化の違いやビジネスの考え方に感化されることが多く私にとってはすべてが新鮮で学ぶことが多かった。

海外で生活するとおのずと日本を外からみることになる。
「日本の常識は世界の非常識」とよく言われることだがそれを肌で感じるようになる。
ひとつの例が水と安全が只同然と思っているのは日本ぐらいである。

それ一つをとっても分かるように日本という国は世界の平均とはかなり違う異質の世界だということが一歩外に出るとよくわかる。

生意気にもいっぱしの国際人になったような気がした。


思えば技術一辺倒だった私にとってビジネス(商売)の魅力というものを目覚めさせた街だった。

5年間の香港での海外生活は間違いなく私を変えた。
それまで考えもしなかった香港での起業という大それたテーマが私の中で少しずつ芽生え育っていった。

1988年に帰国後本社の外装生産技術課長に昇進、そのまま会社にいれば安定した生活と将来の昇進もあっただろう。
しかし一年後の1989年(平成元年)香港に戻りKentex Time Co,Ltdを設立した。
香港のパートナーとわずか二人でのスタートだった。
安定したサラリーマンよりも自分の夢に挑戦する気持ちのほうが強かった。

そのころの自分の手帳を見ると“人生は一回きり、自分のやりたいことをやらないと一生後悔する“と記している。
自分の人生において20年以上サラリーマンを経験したので、後半は自分の力でビジネスをやってみたかった。

この時私は42歳、決して若くないスタートである。

時計技術者としての知識と経験を積み、世界を見る目も備わってきたのでそれなりに仕事はできる自負はあった。

しかし現実にはビジネスの種もなく商売の相手もない。
これまで本当の意味での営業やビジネスの経験もないなかで自分の思いだけで会社を飛び出してしまったのも事実である。

しかし世間の常識を知れば知るほど思い留まることになるのだろう。

思えば起業にとって何よりも大切な“意志”と”情熱”は強く持っていた。

そして、平成元年(1989年)5月、家族に見送られて一人成田を出発した。

恵まれた大企業の海外赴任とは180度転換した生活環境の中で香港を舞台に数々の悪戦苦闘のドラマがそこから始まる。