私の履歴書 第十一回 香港赴任と家族での生活

昭和58年(1983)5月末、すでに盛夏となっている香港に到着した。

啓徳空港で待ち受けてくれていた前任者と車に乗り込み会社に向かう車窓から見る景色は日本とは全く違うものだった。
日本では見かけないような細長いノッポビルが折り重なるように並んでいる。

香港は世界でも最も人口密度の高い都市だ。
狭い所に当時500万以上の人口(2018年は730万人)を抱えているので自ずと建物は上へ上へと縦に伸びている。

旧市街に入ると唐楼と呼ばれる5階建てほどの古い建物が並び、その一階には豚の内臓や鶏の丸焼きなどが吊るされた焼味店や中国漢方薬の店が多く見られそれらが混ざった独特の匂いが伝わって来る。

上半身裸で荷物を運ぶ男達やせわしなく動き回る人々を見るとそこに上品さは欠けるがたくましく生きるエネルギー溢れた人々の生活が垣間見える。

日本では見られないそんな風景が私には新鮮だった。

香港は写真になる。

それが私の最初の印象だった。
その頃はまだ写真を撮る眼で風景を見ていたところがあった。


PEL(Seiko Precision Engineering Ltd)に着任し伊藤GMに挨拶を済ませしばらく雑談をした後その日は九龍半島の最南端にあるリージェントホテルのラウンジに連れていただき前任者を交えてあれこれ香港の話題を聞かせていただいた。

ラウンジから海超えに見える香港島に林立する高層ビルを眺めているといよいよこの国際都市香港で働くことになるのだと憧れと共に緊張感がこみあげてきた。

その時生まれて初めて飲んだあの塩をまぶしたカクテル“マルガリータ”が私のお気に入りとなり今でも来客で食事の後ホテルバーに行けば必ずこのマルガリータを注文する。

6月に入るとさらに蒸し暑さが加わり日本の感覚でネクタイに夏用ブレザーを着ていたらあせもが出来てしまった。
やはりここは地元の人たちのスタイルであるジーンズにTシャツが理にかなっている。

一か月後に家族が合流。

当時は日本人家族が赴任または帰国時にはPELの日本人家族が空港で送迎する習わしがあり妻と4歳、1歳の子供たちを総出で出迎えてくれた。

1980年代は円高が激しく進行、金融、証券以外にも日本の製造会社が香港に製造拠点を移す一大ブームとなっていた。
日本では絶好調の景気が続いていてちょうどバブルが始まるころだった。

当時日系企業はみな飛ぶ鳥を落とす勢いだったのでローカルや韓国の駐在者に日本人は金持ちだとうらやましがられる(実際はそうではなかったが)一方で成り金的な目立つ日本人を白い目で見る人たちもいた。

勢いのある日系企業の赴任者や帰任者が増え、大勢の日本人が啓徳空港の送迎に集まりゲート前で一斉に‘バンザーイ“とやって見送っていたものだからそのうちひんしゅくを買ったのか日本領事館から”ほどほどに自粛してね”という通達が出たことがある。

多くの日本人観光客が香港に訪れ九龍ペニンシュラホテルにあるルイビトンショップで日本人が行列をしていたのもこのころだ。

一か月近く尖沙咀(チムサーチュイ)のホテル住まいをしたのち家族が住むフラット(香港ではマンションをイギリス式に呼ぶ)は前任者が住んでいた九龍城近くの家具付きの部屋を居ぬきで使うことになった。
前任者が雇っていた香港人のアマ(お手伝いさん)もそのまま継続し掃除や子供の面倒を見てもらっていたが半年後には妻が自分でやると言って辞めてもらった。


当時の啓徳空港は市街からほど近くにあり交通便利な空港だったがこのフラットからも近い距離にあった。

飛行機がライオンロック(山)直前で右旋回しながら降下着陸するというパイロットにとっては世界で一番難しい魔の空港として知られていた。

しかもちょうどその下に位置する九龍城付近には多くの雑居ビルが立ち並んでいる。

私たちは赴任当時、近くの九龍城市場に野菜などを買いに行くたびに経験しているが飛行機が降りてくる直下にいるとほんの10メートル上を飛んでいるかのようなすれすれの高さで機体が見えた。

その迫力と騒音の高さは想像を絶するほどでその間会話ができないのだが住人は慣れたものでその一瞬当然のように沈黙する。

一方飛行機に乗っている側から見ると右旋回降下してまもなく、眼下にすれすれのビルが見えるので操縦を誤っているのではないかと内心穏やかでない。

そんな空港はおそらく世界のどこにもないので初めて香港に降り立った人は肝を冷やす人が多かった。

スリル満点の何ともすさまじい空港ではあったが一方で航空ファンにとってはこんな面白い空港はなく、写真愛好家にとっては絶好の被写体であった。

ライオンロックをバックに飛行機が旋回して着陸するまでの様が眺められる小高い岩山が私たちの住んでいたフラットの近くにあったのでたまに子供たちとそこに上り眺めたこともある。

何かと話題の多い空港だったが乗降客の伸びに空港の処理能力が追い付かず返還後の1998年にランタオ島の新空港に移った。

今でも返還以前の香港を懐かしむ人が多いが当時の啓徳空港はいかにも何でもありの香港を象徴しているようで私自身とても懐かしい。


着任早々猛烈な台風も経験した。

香港には台風の強さに応じて弱いものからシグナル1、3,5(今はない),8,9,10という段階で表し、3以上になると幼稚園や小学校が休みになる。

フラットに入居して間もないころ台風に遭遇、猛烈な風雨の中でフラットの古い窓枠の隙間から激しく水漏れし床がジャブ濡れになるのを一晩中タオルで防ぎながら悪戦苦闘した思い出がある。

後で聞いたらシグナル10(ハリケーン)になったそうでなんと10年に一回あるかないかの台風を着任早々経験した。
今ではほぼアルミサッシになっていると思うがその頃の古いビルはまだ鉄の窓だった。


PELは第二精工舎の香港現地法人で新界地区の葵涌(クワイチュン)という工業地区にあった。
10階建ての工業ビルを5フロアほど(1フロア1000㎡位だったか)間借りした大きなスペースを持つ工場だった。

当時は自動巻き時計(Cal.70)の販売が好調で月産20万個ぐらいの組立をしていた。
それに伴う時計技術や製品検査部門、外装部品の現地調達、検査部門そして社内にはメッキ工場も保有していた。

時計はHOL(旧服部セイコーの香港販社)経由で中東など海外に輸出していた。

多角化として進めていた電子部品の海外販売チームも含めると総勢400名ぐらいの規模だったと思う。

日本人赴任者はトップの伊藤GM(General Manager)以下13名ぐらいでそれぞれ各部署の責任者として配置されていた。

私の前任者は外装設計担当だったが数か月後には外装技術担当の赴任者が帰任し私が兼任することになった。

面白いことにPEL内の日本人とローカルスタッフとの言語はムーブ、組立部門は代々広東語で、それ以外の総務や外装関係は英語での会話が主だった。
もともとPELは時計組立から始まっているので当初はワーカーとの英語が通じず広東語での指導になったのだろう。そのせいかムーブ担当の赴任者は代々広東語のうまい人が多かった。

ローカルのリーダークラスはほぼ英語ができるので意思の疎通に問題はなかった。
社内には時計専門用語を網羅した日本語、広東語、英語での一覧表がありそれを使って説明することもあった。

外装設計と外装技術のローカルスタッフが合わせて10名ほど、それと外装部品検査工場を含めて総勢80名ほどが私の管轄であった。

日本にいた時よりも仕事のスパンが広がり部下が増え権限と責任が大きくなる。
一技術者としての立場から管理者としての役割も要求された。

外装部では香港内の10を超えるケースメーカーから購買をしていたが外装技術の責任者として品質管理の責任とQCD評価によるケースメーカー選定にも目を配る必要があった。


当時は急激な円高の進行で国内での時計製造が困難になり製造の香港シフトが加速していた。
私が赴任したころは1香港ドルが35円程度だったがその後も継続して円高が進行した。

その頃はまだ香港の労働コストが(日本と比較して)相対的に安くまた時計の販売も好調だったので香港法人は利益を生んでいた。

その多くを本社に還元しながらも赴任者の待遇にも余裕があったようだ。

住居費は当然としても幼稚園や日本人学校など子弟の教育費や保険、所得税も会社持ちで日本人クラブのほかにスポーツクラブの会員も一部の赴任者に供与された。

当時はまだ泥棒や強盗など香港の治安に不安もあり安全面の事情も考慮して会社にはドライバー付き専用車が5台ほどあり行き帰りとも1台で数人の日本人を拾って通勤していた。

その頃日本人一人にかかる総費用はローカル従業員100人分と言われていた時代でまだローカルとの差が大きかったがそれでもまだ日本人を必要としていた時代だった。


私が赴任した1983年は香港返還を決めた中英共同声明が発表される前年にあたるのでちょうどそのころはイギリスのマーガレットサッチャー首相と中国の鄧小平がギリギリの交渉を続けていたころだ。


ここで、香港というところはどんな歴史と背景があるのか。
さらに深く理解するためにその歴史を簡単に振り返ってみたい。


香港はもともと中国華南にある広東省の小さな一漁村だったがその成り立ちは清朝時代に始まる。

香港島と九龍(大陸側)を隔てている海峡は大きな船が往来できる天然の良港だった。
イギリスはアヘンを中国に輸出する貿易基地として利用していたが1839年イギリスと清朝アヘン戦争によってイギリスが香港島を占領。

その後1842年の南京条約でイギリスに永久割譲された。
(狭義での香港はこの香港島を指す)

アロー戦争後、1860年の北京条約で九龍半島の界限街(ガイハンガイ)以南も割譲される。

さらにその後の清朝の弱体化(1884年清仏戦争、1898年日清戦争)の中でイギリスは1898年7月九龍 界限街以北から深圳(シェンチェン)河以南の新界地域の租借に成功した。

租借期限は99年間とされ1997年7月1日が返還日となった。

その後イギリス植民地(イギリス下の政庁)として19世紀から20世紀にかけ華南貿易基地として発展する。

1865年にはイギリス資本の香港上海銀行が創設、1877年香港西医書院〈のちの香港大学〉が創立されここで学んだ孫文らが決起、何度も清朝の軍に負けながらもついに革命に成功(辛亥革命)、1912年に清朝が滅亡し国民政府(中華民国)が樹立される。

戦前の香港はイギリス植民地下のもとで中国大陸と諸外国の中継貿易基地として発展、香港政庁はレッセフェール(自由放任政策)に徹していた。


1941年の太平洋戦争で日本陸軍が侵攻を開始しイギリス軍が降伏。

1945年終戦までの3年8か月間、日本(軍)が統治した時期がある。
この時期には貿易も止まり経済が悪化し160万の人口が60万人まで減少、
この時日本軍が乱発した軍票は敗戦で無価値になり今もその補償要求があるという。

その後中国の国共内戦により中国共産党中華人民共和国を成立(1949年)すると共産主義に反発する多くの中国人が香港に逃れた。

上海にあるイギリス資本(スワイヤー、ジャーディンマセソンなど)が香港に拠点を移し香港の経済発展に大きく寄与した。

中國の一党独裁を嫌った難民が大量に香港に流入、それが安価な労働力となり繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が大きく発展し後に香港最大の財閥となる李嘉誠のような起業家が出てくる。

その後旅客機の大型化で輸送量が増え香港は東南アジアにおける流通のハブとなりシンガポール、台湾、韓国と並ぶアジアの4小龍と呼ばれるようになった。

1970年代に入ると香港返還問題で中英のやり取りが活発化、イギリスのサッチャー首相は強硬に引き続き植民地支配を求めていたが中国は「港人治港」を要求、鄧小平は一歩も引かなかった。

私が赴任した1983年はほぼ返還が決まるころであったと思うが毎日この返還に関わるニュースがテレビに流れ、世界中がこの成り行きに注目を集めていた。


1984年12月中英共同声明発表、1997年7月1日に中国に主権委譲し「特別行政区」となることが正式に決まった。

鄧小平が提案した「一国両制」政策〈のちの香港基本法のベースとなる〉をもとに50年間は現状を維持し社会主義政策を実施しないことを約束した。

しかしこの発表後、中国共産党を嫌う多くの香港人がカナダ、オーストラリアへの一大移住ブームとなる。

1980年代は鄧小平による中国の改革開放政策が加速し香港の製造業は国境を越えて中国側に進出、香港はしだいに金融、商業、観光都市化していく。


こうした歴史的背景もあって香港に住む人たちは返還後の今でも中国に根強い疑心暗鬼を持っている人が多い。

私は歴史に翻弄される香港で長い間イギリスの植民地として経済発展してきた時代から共産主義の中国に返還されるという世界に例のない歴史的な大事件の渦中に香港にいたことになる。

ついでだが

返還が決まったころ日本でも返還後の香港がどうなるのかしきりに話題になった。

もう香港は終わりだという説が多かったと記憶しているが中でも経済評論家の長谷川慶太郎は”香港はゴーストタウン化する”とその著書に書いていた。しかもこの人はいつも”間違いない”と付け加える。

それに対して邱永漢は”返還後の香港は中国の窓口として栄える”と主張した。

”香港が中国化するのでなく中国が香港化する”のだと。

邱さんの見方はこうだった。

第一に
1997年までは10年以上の時間がありその間に指導者が変わるので毛沢東時代の再来は考えられない。どんな指導者でも新しい時代の風潮には勝てない。

第二に
香港を傘下に収めた中国の指導者に「12億人の生活を改善しなければそもそも自分たち(共産党)の地位を守れない」という認識があれば限りなく資本主義に近い形で経済の発展をせざるを得なくなる。
そのためには香港をお手本にして経済の発展を進めることになるからむしろ「中国大陸の香港化」が大きな流れになる可能性が大きい。

と1980年代当時の著書に書いている。

次の時代がアジアになるとして香港はそのおへその位置にあるからアジアに置かれた香港は他の追随を許さないものがあると付け加えている。

当時まだ改革開放前で何やら得体の知れない中国の将来の変化を予測できる人が何人いただろうか。


多くの情報を集め、分析予測する長谷川慶太郎に対し自分の足で現場を知り中国語で多くの人と交流しビジネスをしている邱永漢との違いがはっきり出た。

私はその後、それまで同じく先を見る意味で興味をもって読んでいた長谷川氏の著書”次(の時代)はこうなる”シリーズをいっさい読まなくなった。


ちなみに邱さんは1992年に目黒区の住民を辞めてアジアが見え世界の動きがよく良く分かるという理由で香港に居を移した。




返還後20年が過ぎた今も香港の活力と経済的発展は変わらずに続いてはいるがここ2〜3年の動きを見ると中国の政治的圧力はますます強くなり植民地時代に比べると自由な発言がかなり規制されてきた感は歪めない。




次回は赴任中の仕事や香港での生活の中で感じたことを記してみたい。



1980年代の香港


ライオンロックを背に降下する飛行機



九龍城付近の雑居ビル上をすれすれで降下する機体