私の履歴書 第十回 家族、登用試験、邱永漢先生との出会い

結婚後は江戸川区小岩にあった社宅の入寮申請が通り、そこに移り住むことになった。
18歳で親元を離れてから都内のアパートを転々とした一人暮らしが長かったので二人での新生活にとても幸福感を感じた。
家に帰れば話し相手がいるし食事も作ってくれる。

当分この生活を満喫したいと思っていたが昭和53年(1978)7月に長男を授かった。

と同時に生活は一変。
この年は何年ぶりかの猛暑だったが社宅にはあいにくクーラーがなく夕方になるとこらえきれずに生まれたばかりの赤ん坊を外でずっと抱えていたと家に帰った私に彼女はこぼしていた。
当時の社宅には風呂もなかったので私も時おり慣れない手つきで近くの銭湯に連れていった。

命名の本を買っていろいろ考えたが迷った末にその著者に手紙を書いたところいくつかの候補を書いた丁寧な返事をいただいた。
その中にあった「心哉」という名前が話し方教室で学んだ“心”と私の中で結びつきそれを選ばせてもらった。

この年私には第二精工舎(現セイコーインスツル)の主任登用試験の挑戦があった。

第二精工舎には二段階の登用試験制度がある。

一つ目は高卒入社後5年で受けられる係補試験(大卒入社はこの試験を免除)
これを通過すると7年後に上級幹部職への登竜門である「主任試験」を受ける資格ができる。

将来会社の幹部に行くためには必須の門だがかなり狭き門であった。
大卒であってもこの主任試験を通るのは簡単ではなかった。
(ちなみに弁護士や公認会計士の資格を持っている人は免除されていた)

私は昭和45年(1970)23歳の時に係補試験を一回でパスしていたので1977に主任試験の資格ができ受験したが通らずこの年(1978)は二度目の挑戦だった。

試験内容は一次試験が一般常識(社内常識含む)、専門知識それに論文と実務評価点が加わる。
それぞれ60点以上が条件でその一つでもクリアできないと失格となる。
二次試験は専門論文で70点以上取らなければならない。

会社にいる以上ここは重要な局面となる。
当然ながらこの先もらえる給与も大きく変わってくるのでこの時ばかりは真剣に勉強した。
普段はボーっとしているがここぞというときは集中力を発揮するタイプだ。

寒い時期となり暖房のない部屋で生後間もない長男を膝にあんか代わりに勉強したこともある。

専門知識と論文は事前の準備で何とかなる自信はあったが一般常識は何が出るか予測がつかず的の絞り込みが難しかった。
前年の経験から合否の境目はこの常識だった。

大学入試よろしく国語から社会、政治経済まで幅広くやり直した。
新聞を読む習慣はこのころからできた。

論文は自分の専門領域を中心に自分がどう会社に貢献していくべきかを主眼に書いたものを上司の野沢課長や一足先に主任試験を通っていた鎌田さん(後に社長)に見てもらい
ダメ出しをもらいながら何度も書き直しを繰り返した。

この年11月の試験を受け運よく難関を突破することが出来た。
受験者総数287名で一次合格者は48名。


さらに翌年2月に二次試験の専門論文(その場で与えられたテーマを3時間内に仕上げる)も無事通過し最終的には部長級3名の面接を経て私は合格となった。

この年時計外装部で主任試験を通ったのは4名。

大卒,院卒の多い中で高卒もちらほら混ざっていた。
高卒の同期入社が全社で約80人いたがこの年の合格者は私を含めて二人だけだった。

この時私は31歳、これで会社の登竜門をくぐれたと思うとこみあげるものがあった。

大卒者にとっても厳しいこの試験を通ったことで私はこのころ自信がついたように思う。

いったん会社に入れば実務面ではあまり学歴の違いは分からない。
むしろその人の知識レベルや仕事の姿勢で差は出てくるもので私自身大卒者と比べて仕事上で引け目を感じることはほとんどなかった。

ただそうはいってもやはり見えない学歴の差別が人事に出てくることは実際にありえる。
私は自力で大学(二部)は卒業したが会社では高卒入社の資格のままだった。

しかしこの試験を通過すればそこから先は同じスタートラインから進むことになる。
このあたりから自分はできるという思いを持つようになりその自信がさらにプラス思考で上をめざす原動力になった。

思えばこの時期広く勉強したことはその後大きく役立っている。

知識の幅を広げることで飛躍できる土台(ジャンプ台)ができるのだと思う。
知識を身につけることは生きるための武器を持つことにつながる。
逆に十分な知識を持たないと社会の底辺に甘んずることになりかねない。



私の人生の師といえる邱永漢先生(故人)の本に出会ったのはこの頃だった。

結婚し子供も出来たのでそろそろ家が欲しいと不動産に関する本を探していたころ
本屋で立ち読みをしていたらたまたま邱さんの本が目に留まった。


その時の本のタイトルまでは記憶していないが軽く立ち読みをしたら中味が面白く引き込まれた。
これまで読んでいた本とは何かが違っていた。
平易で読みやすい文章だが内容は示唆に富んでいてすぐにでも役立つような知恵が詰まっていた。
書かれていることにいちいち納得し感心する。

こんな人がいたのかとそれ以降何冊か邱さんの本を続けて読んでいるうちにすっかりファンになった。

邱さんは世の中の観察が鋭く発想や考え方が普通の日本人と少し違っていた。
台湾出の秀才で東大を卒業、もともとずば抜けた頭の持ち主だが普通の人と違うのは世の中の動きを感知する天才ではないかと思うその能力と同時に先見力の優れた稀有な人だ。

生前300冊ぐらいの本を書いているのでそのすべてを読破してはいないが本と出会った1980年頃以降からはその多くを読んでいる。

私は邱さんの本から商売の考え方や金銭哲学、さらに処世術まで含めて多くの知識と知恵を得てその影響を大きく受けた。

結果として邱さんは私が起業家として独立する芽(きっかけ)を作ってくれた人であり自分の生き方にも指針を与えてくれた私の師と仰いでいる。

今後もこのブログで時折登場していただくことになると思うのでその人となりを今少し紹介しておきたい。

邱永漢は1924年、日本統治下時代の台湾(台南)生まれ。
台湾人の父と日本人の母を持ち台湾随一の秀才校である台北高校から東大経済学部に入り卒業して台湾に戻った後、中国から入ってきた国民党政府の悪政に反旗を翻して香港に亡命。
香港に6年ほど住んで香港の女性と結婚したのち作家をめざし東京に戻った。
1955年直木賞(このとき石原慎太郎芥川賞)を取り作家としての活動を始めたが本来の持ち味である経済や金銭感覚の鋭さを活かして書いた本が多くのファンを得るようになった。(私もその一人)

作家でありながら実業家でもある。
始めてわずか一年の株で大成功、金儲けの神様ともいわれた。
先見の明がありいつも人よりも一歩どころかずっと先10年、20年先を見る人だったので私はいつも邱さんの新刊が出るたびに追っかけて読んでいた。

私のような凡人には逆さになってもそんな先が見えないので邱さんが今世の中をどう見て、これから時代がどう変化すると見ているのかそれを知りたかった。

邱さんはアイデアを思いつくと自分が真っ先にビジネスをやってみるのだが失敗してしまうことも多くその何年か後に他の人が成功すると書いていた。

先を見過ぎて先走りしてしまう傾向があって時代が後からついてくると自戒していた。
日本でビジネスホテルを始めたのも、コインランドリーも邱さんが最初に始めている。


当時1980年代から「これからはアジアの時代」といくつもの本に持説を論じていた。

日本人の感覚と同時に華人の商売感覚を持ち合わせた人で中国や台湾、香港の事情に詳しく日本を外から客観的な視点で見られる人だった。

2012年に88歳で亡くなられる直前まで筆まめな方で邱さんのブログ「もしもしQさんQさんよ」(もともとは日刊イトイ新聞内にあった)に毎日書いておられた。
私は最後まで邱さんの世の中の観察を参考にさせていただいた。



話は戻るが昭和56年、34歳の時に私は初めての自分の家を持った。

船橋駅から東武野田線で三つ目の馬込沢駅鎌ヶ谷市道野辺)というところに小さな庭付きの中古で1800万円ぐらいだったか、3割の頭金、残りは会社の住宅ローン制度を利用、
金利は5%だったが当時の銀行ローンと比べると低利で借りられた。

木造のベランダがかなり痛んでいたのでそこは業者に依頼して新しくしてもらったがそれ以外は初めてのマイホームということではりきって屋根のペンキ塗りから玄関前のタイル張替え、部屋の塗り替えなど(進藤君の手も借りながら)すべて自分たちでやった。
また小さな一坪ぐらいのスペースに畑を作り野菜も作ったりした。

家の前のおばあさんがそれを見ていて「若いのによくやるねえ」と声をかけてくれた。
自分の息子は何もしないでいつもごろごろしているとこぼしていた。
このおばあさんは家ではめっぽう口うるさい人でよくヒステリックな声が聞こえてきたが近くの畑を借りて毎日自分の野菜づくりに精を出している人でなぜか私には優しく話してくれた。

引っ越しをして間もなく昭和57年(1982)2月、家内が臨月となりもうそろそろというところで3歳の長男と妻の実家で控えていたら「無事男の子が生まれましたよ」と妻のお母さんから伝えられた。

正直次は女子がいいなと期待を込めていたこともあって女子の名前ばかりいろいろと考えていたのだが、実は男子の名前はもともと以前から密かに暖めていた名前があった。
そのころから学者や役者の中にも時折見かける”直樹“という名前が自分なりに気に入っていた。
そのため長男に比べると意外にあっさり決めることが出来た。
私は画数などあまり気にしないほうでどちらかというと語感と響きを大事にした。

数日後だったか無事生まれてほっとしていた矢先に病院にいる妻から会社に電話があった。
先生(女医さん)から「もしかしてダウン症の疑いがあります」と宣告されたという。
「念のためDNA検査で確認します」ということだった。
結果が出るまでに一か月かかるという。

理由は手相であった。

普通は知能線(頭脳線)と感情線はくっついてないで離れているが“ますかけ線”と呼ばれる横一文字のまっすぐ伸びる線になっていて顔も確かにそれっぽい顔をしていると先生に言われたらしい。

「お父さんは普通の生活をしていますか?」と聞かれて「普通だと思いますが」と答えたそうである。

医者というのはこういうセンシティブな内容を事もなげにしゃべれるのだなと思った。


実は私自身が両手とも“ますかけ線”の手相でこれは“猿手”ともいわれ片手でもめずらしいそうだが両手共はめったになく一万人に一人の手相だそうだ。

改めてネットで調べてみたら実際ダウン症によく見られるようだが一方でこの線を持つ人は強運に恵まれ大成功を収める手相といわれるらしい。
性格は頑固で意地っ張り、こうと決めたら自分の意見はめったに変えない芯の強い人とも書いてある。
(うん、確かにそうかも)

歴史上では織田信長豊臣秀吉徳川家康の三人ともますかけ線だったという。
近年では石原慎太郎小泉純一郎松下幸之助手塚治虫小沢征爾とそうそうたる人たち。
そして福山雅治志村けん明石家さんまさんたちも名を連ねている。

しかしそれらの人に比べると私の成功はかなり小粒だが。

いや、確かに自分の人生を振り返ると私は運に恵まれていたとつくづく思う。
幼いうちに父親には逝かれてしまったが母や兄たちに守られ、就職した会社では先輩に恵まれ起業してからもスタッフに恵まれた。

しかし私自身この年になるまでほとんど手相というのを見てもらった記憶がない。

そんなに特別な手相ならどんな未来があったのか若い時に見てもらうべきだったとも思うが私は「自分の未来は自分が決める」という考えだったのであえて他人に自分の未来を言われることが好きでなかった。

もしこの年になって今、手相師に見てもらったら何と言ってくれるのだろう。

70を超えた人間に「あなたは将来出世しますよ」と言ってくれる人もいないだろうからどんな答えが返ってくるのかそれはそれで興味がある。
逆に「この手相ならもっと出世していいはずですけどね」と言われても困るが、手相見に年齢制限はあるのだろうか。


いづれにしてもダウン症か天下を取るかの違いは天と地の違いなので結果が出るまでの一か月は長かった。

多少のマイナスは受け入れるのでとにかく普通の人であってほしいと私は心から神様にお願いした。
(私には都合の悪い時だけ神様にお願いする都合のいい癖があった)

心配になり会社の図書室にこもってダウン症について調べたものだがようやく結果が出てそうではなかったと聞いて目の前がパッと明るくなったのを覚えている。



その年(1982)の10月、外装設計二課時代に当時の野沢課長から香港出張の指示があった。
第二精工舎の香港工場PEL(Precision Engineering Ltd.)の設計者との情報交換だという。

JAL成田発、5泊6日でちょうど香港ウォッチ&クロックフェアと合わせてPEL内部や当時はまだ香港内にあった時計ケース工場を視察する機会を得た。
初日にはアバディーンタイガーバーム、ビクトリアピークなど定番の観光地を会社の車で案内してもらった。

後で分かったのだが実は私の香港赴任を前提に計画されたもので香港に赴任していた外装設計者の後任として私が指名されていたのだった。

そうとは知らず食事をごちそうになったりいろいろと香港内を案内してもらっていい気分になり「香港っていい所だね」などと言っていたものだからその後難なく私に赴任の話が回ってきた。

事実、私にとって香港の印象は良かった。

中華料理のレベルは高くおいしいしイギリスの植民地下で英語を公用語とした国際都市香港は東洋の真珠ともいわれていた。
同じアジア圏で欧米と比べても日本との文化のギャップも小さく生活がしやすい。


私には初めての海外旅行であったがこの時いい意味でカルチャーショックがあった。

それは英語が生活で使われている現場を初めて体感したこと。

香港は広東語が母国語だがイギリスの植民地だったのでかなり英語も使われていた。

多少の英会話を趣味程度でやっていたがその世界を見て本当に英語って使えるんだというのが(当たり前の話だが)その時の正直な感想だった。
遅ればせながら30過ぎてそれ(活きた英語)を実感したのだった。

そしてある韓国料理店に入ったらそこの女主人が韓国人なのに広東語はもちろん英語も日本語も話す。さらに京都弁まで使い分けられると聞いてびっくりした。
後になって分かるのだが香港にはそういう人が特別めずらしくもなく普通にいることを知る。

世の中にはこんな人もいるのかとショックを受けた。
それに比べ自分も含めて日本人はいかに言葉の武器を持っていないか身をもって実感した。

これがきっかけとなって私は英語ぐらいしっかりやろうとその時決心したのである。


私自身は前から海外赴任にあこがれていた方で、以前にも先輩たちから香港の話を聞き海外生活という未知の世界に興味を持っていた。

妻も大手商社にいて身近に海外勤務を見ていたので何の抵抗もなかった。
子供たちもまだ小さくこれと言って支障はなくすんなりと了承した。

12月には正式に赴任が決まりその後は英会話の勉強に集中した。

会社指定で市ヶ谷にあるバークレーハウスランゲージセンターというところで個人授業を受けた。
アメリカ人教師で2時間レッスンを週4回、赴任までの期間が比較的あったので130時間を超えるレッスンでずいぶん話せるレベルになった。

「もう香港に行っても全然問題ないよ」と言ってくれた私の担当教師であったアメリカ人の若い先生とも仲良くなり彼のガールフレンド(同じ英語教師)と一緒に鎌ヶ谷の家まで招待したことがあった。

その時のちょっとした思い出がある。

二人が玄関に用意しておいたスリッパを履かないで入ってきたのでどうぞと言って履いてもらったら今度はそのまま畳の部屋に上がってきた。
ここはスリッパを脱いでと言ったので今度はあわてて脱いだのだがあとで考えてみるとこんな狭い家でスリッパを履かせたり脱がせたりさせるほうが間違いだったことに気がついた。
とんだ迷惑だったに違いない。

ついでにこれも余談だがスリッパを脱いだ靴下に大きな穴が開いていた。
英語教師も実態は厳しいんだなと思った。

その日は家内の手作りの日本料理を慣れない箸を使いながら「ディリーシャス!」と言って喜んで食べて帰ってくれた。
二人にとっても思い出に残るささやかな日本の家庭体験だったかと思う。



香港行きが決まり私の兄弟やその家族が集まって私の歓送会をやってくれた。
確かその席だったと思うのだが三兄がなんとにわか覚えの広東語の歌を唄ってくれたことにびっくりした。

昭和58年(1983)5月いよいよ赴任の日が来た。

家族を置いて私一人が先行で成田を飛び立った。
36歳の旅立ちだった。



●このころの世相を見ると

昭和52年(1977)円高不況で企業倒産件数が過去最高に。
       大卒男子の初任給が10万円を突破。

巨人の王貞治が756号の世界新記録を達成し国民栄誉賞第一号に。
カラオケが盛り場に登場、一曲ごとの料金制が多かった。

昭和53年(1978)キャンディーズが解散、ピンクレディが人気絶頂。
新宿や六本木でディスコフィーバー、昼はホコ天竹の子族出現。
     この年成田空港が開港した。

昭和54年(1979)ウォークマンソニーから登場
このころ日本には勢いがあった。自信を失ったアメリカ人に「日本に学べ」と伝えた“ジャパンアズナンバーワン“が日本でベストセラーに。
 インベーダーゲームが流行

昭和55年(1980)ジョンレノンがニューヨークの自宅前で射殺される。
山口百恵が芸能界引退 黒澤明監督の影武者がカンヌ映画祭でグランプリ獲得

昭和56年(1981)チャールズ皇太子がダイアナと結婚
          千代の富士横綱昇進

NHK朝の連ドラ「おしん」が60%を超える視聴率となりおシンドロームと言われた。
      任天堂ファミコンが新発売。

昭和58年(1983)東京ディズニーランド浦安市に開園




昭和54年(1979)主任登用試験合格


邱永漢先生


私の手相
両手とも”ますかけ線”といわれる横につながった一直線になっている。