私の履歴書 第十五回 香港でスタート、悪戦苦闘のすえ業績を出す

 

平成元年(1989)5月19日 再び香港に戻り陳君と二人だけの会社を起動した。

 

荃湾(チェンワン)駅に直結した南豊中心の小さなオフィスはいくつかの机と電話、FAXがあるだけ。

6年前のセイコーの赴任時とは180度転換、会社のバックアップもなければ仕事もなく得意先もない、その上資金に余裕もない背水の陣だ。

文字通りゼロからのスタートであった。

今思えば世間知らず、怖いもの知らずの発進だったがその時は夢と情熱が不安を上回っていた。

 

私の着任前から陳君が知り合いのケースメーカー相手に日本製の刃具や治工具などを細々と販売し始めていた。

着任後は日本の知り合いで不要になった時計用の機械などの仲介をしたり、二光光学からサファイヤクリスタルを仕入れ香港に販売、売り上げの糧にしたが時計の商売はまだ先の話になる。

 

20日は朝からシグナル8の強い台風に見舞われた。

ちょうど万世工業社長一行がアジア視察で台湾から入り翌日マレーシアに発つ予定だったが台風で一日延長したためその夜は尖沙咀(チムサチュイ)の日航ホテルで社長と食事を共にする機会を得た。

万世工業は香港での私の活動に強い期待感を持ってくれていた。

 

22日には当時日本のバブルに乗って時計の販売を伸ばしていた三友舎の須藤社長が日本から来社、25日には藤沼ガラスの専務が来社し夕食を共にした。

 少しずつコンタクト先が増えていたが目前の現実はまだ売り上げも乏しく収入がほとんどない中で毎月の固定費だけが無常に出ていく。

しだいに手持ち金が減っていく不安な日々が続いた。

 いざ会社が始まると現実の厳しさを前にさすがにいつまでも楽観的ではいられなくなった。

オフィスに一人遅くまで残りこれからの方策を考える日々を過ごした。

 

さまざまな不安が頭をよぎり眠れない夜もあったがそういう時は“何とかなるさ”と自分に言い聞かせるようにした。

しばらくはそんな繰り返しが続いた。

 

幸い宿泊は精美の李さん宅にお世話になり当面の住居費は浮いたがいつまでも居候しているわけにもいかない。

早く売り上げを作らないことにはいずれ行き詰る。

 

出費も減らさなければならないが減らす余地はどこにもない。

サラリーマン時代にはたいして気にもとめていなかったが会社を始めたとたんコストを切り詰める大事さも身に染みた。

収入(売上)と経費(コスト)という経営の基本がいやが上にも叩き込まれた。

 

6月に入り日本に出張、万世工業への訪問で時計ビジネスの商談が具体的に進展、ようやく時計のOEM製作がスタートできる道筋が見えてきた。

 

その矢先、6月4日、私が日本に戻っている時に北京での天安門事件のニュースがテレビで流れた。

軍による制圧で多くの死者が出たらしい。

 

その少し前の5月には香港でも連日のように学生たちの集会がニュースになっていた。

それがさらにエスカレートしついに中国共産党(鄧小平)がしびれを切らして軍による力の行使に出たのだ。

 

少し本題からそれるがこの天安門事件はちょうど今の香港での民主化運動と重なるので若干説明を加えたい。

 

「1989年、中国の改革を進めていた胡耀邦総書記が4月になくなり学生らの追悼集会が開かれたがこれがしだいにヒートアップし中国独裁体制を否定し民主化への移行を求めるデモへと発展していった。

これは胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味合いも含んでいた。

この動きは北京だけでなく西安や南京にも広がったが中国共産党は、戒厳令を布き、デモの鎮圧のために軍隊を動員、無差別に発砲し、強引に鎮圧した。

天安門事件の死者数は中国共産党の発表では学生や軍を合わせて319人だが実際には3000人を超えると言われている。

天安門事件というと民主化デモの弾圧に目が行きがちだが、中国共産党内の政権闘争という側面もあった。

事件当時、中国共産党内で趙紫陽は総書記だったが、実権を握っていたのは鄧小平だった。

当時の共産党内には、共産主義保守の鄧小平率いる長老派の存在があり、天安門事件を利用して改革派趙紫陽の排除を狙ったものともいわれる。

共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立て、若者から人気のあった趙は、伝統的な共産主義を維持したい長老派からは厄介な存在に見られていたようだ。

天安門事件の発端となるデモが起こった時も、趙は平和的な解決を模索し、積極的な話し合いをしていたが学生のなかには過激な意見を持つものもいて、話し合いは決裂していた。

鄧はこのデモを反社会的行動(動乱)と決めつけ、軍隊によるデモの強制解散を指示。

趙は武力弾圧に反対したが、鄧は趙の役職をすべて解任して軟禁状態にし、弾圧が実行された。

以降、中国共産党はこの天安門事件を完全に密封、正当化し30年たった今も民主化の兆候は見られない。」

(以上要約)

 

当時その陣頭指揮をとったのが先日(2019.7.22)亡くなった李鵬元首相だった。くしくもあれから30年たった今年2019年、香港で再び民主化の動きがエスカレートしその様相があのときに似てきている。

返還後22年が過ぎ香港政府の急速な中国接近に若者が一国両制の不満と香港の将来に不安を生んでいることが根にある。イギリス植民地下で自由を謳歌してきた多くの香港市民にとっても同じ思いがある。

中国中央(共産党)がますます過激になっている香港の運動をいつまで傍観しているか。

しびれを切らし香港駐留の中国軍を動かして香港の国際的信用を大きく失うことにならないよう祈るばかりである。

 

話を戻そう。

89年の天安門事件直後の6月9日、私は香港に戻った。

空港には李さんと陳君が迎えに来てくれておりその足で李さんの自宅まで車で送ってもらったが香港はいつも通りで特に変わった様子はなかった。

私はその後李さんの家のテレビで戦車が学生のバリケードを強行突破するあのシーンを何度も見た。

 

事件後の6月16日、李さんの中国開平(カイピン)ケース工場に赴いたが中国の入国審査は特に普段と変わらず開平の工場もいつもと変わらぬ様子で動いていた。

 

6月24日、荃湾のオフィスに向かう李さんの車(ベンツ)の中で日本の美空ひばり死亡のニュースを聞いた。

その2年前に石原裕次郎が逝き、昭和を代表するスターが相次いで亡くなった。小さいころからテレビやラジオで聞いていたので懐かしい旋律が今も残っている。

この年は鉄腕アトム火の鳥など数々の名作を残し日本の漫画界をリードした手塚治虫パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げ経営の神様と言われた松下幸之助が亡くなっている。

 

7月に入ると5,6月の取引の収入が入りだしようやくオフィス代と陳君のサラリーが出せるようになってきた。 ‥が自分のサラリーまではまだ回らない。

 

一つの会社を起こすと役所がらみほか何かと事務処理が多い。

そうした事務処理から雑用まで二人でこなしていたがどうにも時間が足りなくなってきた。

さすがにクラーク一人採用が必要なので自分の給料も当分お預けになる。

 

7月17日、日本から大口時計社長とLトレーディング林氏が来港しオフィスを見学、創業のお祝い金までいただいた。

19日に中国深圳のASINO組立工場を案内、20日からは林氏と台湾に出張し時計ビジネス開始に向けて日系の台湾昭工初め遠東、亜州、中興、東方など当時の台湾の名だたるケースとダイアルのメーカーを訪問してきた。

そのころはまだ台湾にも時計部品を造るメーカーが残っていた。

 

深圳にあるASINO組立工場はもとEPH(EPSON HK)の時計組立技術を担当していた現地のベテラン社員数人が独立し労務費の安い中国深圳(経済第一特区)に始めた時計の組立工場でEPHの下請け仕事などで100人ほどのワーカーを抱えていた。

我々はこのASINOへ時計の外装組み立てを後日依頼するようになる。

 

8月に入ると李さんの息子さんがアメリカ留学から一時帰国することになり部屋を開けることになった。

ちょうどPEL時代の同僚だった友人のレイモンド林が新界地区の沙田第一城に小さなフラットを持っていたのでそこの間借りを頼み8月5日、手ぶらで引っ越した。

 

李さん宅にしばらくお世話になりお互い気を使うところもあったので精神的に少し解放されたが部屋にはエアコンだけで冷蔵庫もテレビもなくベッドもなかった。

さしあたり寝るために必要な簡易ベッドだけ購入し何にもない生活が始まった。

(会社も個人も金の出どころは同じなので)出費を抑えるために自身の生活を切り詰めた。

 

引き続き日本からの来客がひっきりなしに入ってくる忙しい日々が続いた。

日本に戻っても客先をあちこち動き回り夜も遅く家に帰るので子供たちとの時間も取れなかった。

オーバーワーク気味で気持ちに余裕がなかったがこのころ妻とのFAXのやり取りが気分を和らげてくれた。

 

三か月が過ぎ仕事が順調に増えてきていた矢先、パートナーとしてスタートした陳君が突然辞めたいと言ってきた。

「このまま続けても先が見えない」と彼はいつしか弱気になっていた。

 

この先この香港で自分一人ではどうにもならない。

何とかしなければと私はその日彼を尖沙咀日本食に誘い、軽く酒を飲みながら顔を突き合わせて必死に説得を試みた。

「会社は順調に来ており今の流れで行けばもうすぐ結果が出てくる、将来必ずいい会社にする自信があるから信用して就いてきてくれ」と真剣に説明した。

実のところ先は読めなかったが「何としてでもモノにする」気迫はあった。

 

幸い彼の気持ちは収まり引き続き頑張る約束をしてくれた。

そのころの陳君は若さもありまだ雇われの身から経営者への意識転換には至っていなかった。

 

その年9月10日から香港インターナショナルウォッチフェアが始まった。

日本から二光光学の押野社長やLトレの林氏、万世工業千倉部長らが来港、私は通訳兼ねて香港ブースを廻りその足で中国のケースメーカーやASINO組立工場も案内した。

フェア後も林時計の林社長(現会長)ら一行、EPSON系の時計針メーカーみくに工業の古田部長と藤森氏らが続きASINOに案内した。

 

中国は1980年代から始めた改革開放政策で外資に対して税を優遇した経済特区をいくつかの都市で試験的に始めたがなかでも香港と隣接している深圳特区には香港の会社が続々と工場を移していた。

このころは深圳(第一経済特区)からさらにその裏の東莞(トンクン)、恵州(ワイジャウ)などの第二経済特区へと工業地区が急ピッチで拡大、大規模な工業地帯へと発展していた。

当時は高速道路も整備されておらずでこぼこ道ばかりで至る所工事中、日本のおさがりで床に穴が開いて地面が見えるタクシーで2時間以上もかけて現地までたどり着くような状況だったが邱さんがかつて予言していた“中国は世界の工場になる”が急速に現実化していた。

 

世界の注目を浴びていたこの経済特区の実態を視察するのが日本のビジネスマンの定番コースになっていたので来客のたびに私は陳君を同行して案内することが日常になっていた。

 

手帳を見ると10月になってようやく冷蔵庫を購入した記録が残っている。

このころフラットは寝に帰るだけ、家でくつろぐこともほとんどなかった。

ある朝目覚めたときに「あれ?何でこんなところに一人でいるんだろう」と不思議な感覚になったことがある。

セイコーの赴任時代とはあまりにも打って変わった生活に自分の現実を疑ったりもした。

 

香港には私よりも一足早く時計会社を経営していた日本人がいた。

10月27日、そのScatの町野氏から声を掛けられて夕食に誘われた。

どこから聞きつけたのか私の香港での起業を知り時計の技術者が欲しいと入社を誘われた。

自分はまだ会社を始めたばかりでこの先まだ続けたいのでとお断りした。

 

このころになると万世工業の時計ビジネスが順調に増え会社の数字が伸びてきていたが10月28日の妻へのFAXでこう記している。

「売り上げは伸びてきたがまだ予断を許さない状況。

先の見通しが立たない中で精神的にきつい。創業の一年はいかにサバイバルするかの戦いだ。

金がないとつい弱気になるが長期戦覚悟でケチケチ生活を続けている」

 

11月に入りHOL(Hattori Overseas)小針氏が来社、初めてALBAビジネスの商談が動き出す。

11月8日、万世工業後藤社長一行が台湾から来港、ホリデイインホテルで待ち合わせ、時計バンドの仕事を香港でやられていた池田氏を交えて夕食、翌9日は日帰りで深圳ASINOに行きかつての日本でやっていたようなライン(流れ作業)での時計組立風景を見てもらった。

 

このころ香港のケースメーカーから集めたサンプルをロールに巻きそれを数巻入れた重い荷物をキャリーで持ち歩き日本の客先を廻っていた。

当時は香港のケースメーカーが保有する在型モデル(ケース)でも時計が売れる時代でまだオリジナルデザインを起こす必要性もうすかった。

 

半年が過ぎ12月になると万世向け時計売り上げ寄与で11月締めP/Lでの数字が大きく伸びやっと安堵の気持ちが出てきた。

ようやく自分の給料が取れるかと思うとうれしかった。

24年前、第二精工舎で初めて給料をもらう時の気持ちがよみがえった。

 

このころ李さんに中国ケース工場(精美)のマネージメントの仕事を期待されていたのでお世話になったお礼と、自身の安定した収入を得ることがケンテックスの発展にもつながると思い引き受けた。

ますます香港、中国の仕事にどっぷりつかることになるが邱さんの“野心家の時間割”という本にあった「収入は時間活用の密度に比例する、野心家なら多忙であれ」という言葉にも影響された。

 

このころ妻とのFAXのやり取りが頻繁にあったが時折Goodニュースを届けてくれた。

 

次男(直樹8歳)が消防のポスターで鎌ヶ谷市長賞をもらったり、千葉県の縄跳び大会(小2以下の部)で2位になったこと、また長男(心哉)の作文が毎日新聞に載ったことなどこまめに報告してくれて私の疲れた心を癒してくれた。

 

この年89年は東欧の民主化が進み11月には東ドイツベルリンの壁が崩壊。

任天堂ゲームボーイが発売され、千代の富士国民栄誉賞を受賞した。

 戦争みたいだった89年も終わり、暮れに帰国し日本で正月を迎えた。

 

 1990年早々、日本の家でも金欠状態になっていた。

退社後の収入はなく香港からの送金もままならないなかで住民税を払い続けなければならずこの時期が一番きつかったらしい。

帰港後わずかばかりを送金、入金確認後ストーブを買ったので今夜から温かいですというFAXが入った。

 

90年1月、このころ邱永漢“アジアの風“を読んで香港の未来に強い自信を持った。自分の行動が裏付けられたようでうれしかった。

このときさらに地に足をつけるつもりで自分の住む拠点(フラット)を借金してでも買うべきだと考えるようになった。

 

2月16日、日本に住民票を置いたままだと税金が重いので香港に移すことにした。

妻が89年の5月19日にバックデイトして香港への転出届を提出、受理された。

以降、海外の所得については日本の税務署の管轄外となる。

 

このころ三友舎のケース注文が殺到、うれしい悲鳴だが仕事が急増しどうにも回らなくなる。

その間にも入れ替わり立ち代わり日本からの客が後を絶たずアテンドをしながら仕事を消化する日々が続き二人で10人分ぐらい走り回ったか。

 

前年(89)末に東証株価が史上最高値を記録し日本ではまだバブルの勢いが続いていた。

国内での時計販売は絶好調、作れば売れる時代で一回の注文数が1000個から3000個と仕事の流れが波に乗ってきた。

 

2月に新人女性一名が入ったがあまりの忙しさに恐れをなしたのか翌日から来なかった。

 2月23日 忙しさが極に達して集中力が大幅ダウン。

いつ倒れるか分からない状況だと妻に伝えようと思ったら妻が38度の熱で先を越していた。

 

2月26日にようやく女性1名(キャロル)、3月1日から男性1名(ビリー)を採用。

キャロルはアカウンティングとシッピングを、ビリーは主に生産納期のフォローを担当。

この二人は忙しさにも負けず、良く働き戦力になり創業期の基礎を作ってくれた。

我々4人はオフィスの中を文字通り走りながら仕事をこなした。

会社の売り上げは急上昇し採算が目に見えて良くなってきた。

 

ようやく余裕が出てきたと思ったとき陳君が前から夢だった車が欲しいと言って来た。

まだそれを言う時期ではないだろうと思ったがこの忙しさの中でよく頑張ってきたご褒美とこれから先の期待も考慮して援助することにした。

頭金と、ガソリン代、パーキング代を会社で出しあとは彼自身でローン負担。

彼はうれしくなり私に感謝してくれたがまたも自分への見返りは後回しになった。

 

仕事はますます忙しくなってきた。

3月中も林時計一行、万世工業本川氏、二光光学社長夫妻、さらに天野、西沢氏と続けて来客。

22日にはセイコー電子時代の先輩、三田村さん、尾島製作所の畑山氏が来港、23日に精美を訪問した後、ちょうど同日に来港した家族と合流し陳君の車で屯門近くの海鮮料理へ行った。

 

久しぶりの飲茶、太空館、沙田のハト料理などを廻り子供たちも大喜び、つかぬ間のリラックスした日を過ごした。

家族は28日に帰国、子供たちはもっと香港にいたかったようだ。

 

このころ妻が派遣の仕事をスタート、12年ぶりの商社での仕事が面白いそうだ。

3月16日妻が熱を出してから3週間が過ぎたがよくならず、慶応病院へ行くとのこと。

 

4月2日 この日、林時計の山田さんが香港赴任した。

 当社オフィス内に机一つを置き林時計の香港支社として「KORIN」が産声を上げた。

山田さんはいつも明るい性格でオフィス内がにぎやかになった。

たまに日本人どうしでカラオケに行く相手ができ心の疲れが癒された。

 

5月2日、4兄(洋)への手紙でこの頃の気持ちをこう書いている。

「起業して1年、人生の10年を圧縮したような1年だった。

背水の陣にて全力を集中した結果、一番難しい最初の一年を通過出来た。

難題ばかりで並の神経では難しいことを身をもって感じている。

現在スタッフ含めて4名、売り上げは月1000万円を超えたが固定費も100万円を超えた。

車のエンジン同様会社も強くふかさないと動き出さないが加速がつくまでにはさらに時間がかかりそう。

会社が水車のように回るにはあと一年はかかるだろうがそうなれば左右のハンドルさばきで行けると思う。」

 

だが、一年が過ぎたころにはさすがにエネルギー放出の連続で心身ともに疲れていた。

6月14日、帰国前日の妻へのFAXで弱音を吐いている。

「業績はスタート時よりはるかに良くなっているのにストレスはむしろ大きくなっている。

休みの日は疲れて一日中家にいるのでストレスの解放が出来ていない。

この状態が続くと少し危険、気分転換をしたいのでどこか子供たちと車で一泊旅行に行きたい。」

 

6月15日に帰国、家で少しリラックスしたが、結局は相変わらず客を回るスケジュールに終始して香港に戻った。

 

7月 妻が銀座の新しい就職口に派遣社員として勤務。

三井物産の社員が退職独立して水産物の輸入販売を手掛けている会社で、経理のほかにサーモンの輸入やいわしの輸出を担当し気持ちよくできていることのこと。早くケンテックスの仕事をしたいと言ってくれたのでいずれ日本にKENTEXの支社を作るのでそこでやってもらう約束をした。

 

7月11日、再び日本から「金送れ」のSOSが来た。

まだ送金が十分でなく、車検、自動車保険、子供の塾、国民年金、生活費で支出が収入を上回る状況が続いていた。

 

会社は順調に伸びていた。

香港服部セイコーとのALBAビジネスも始まりこの時期数字上はすでに1000万円近い利益が出ていた。

しかし急増した三友舎の売り上げ約5000万円が(変則的に国内向け)手形ビジネスでやっていたので回収が極めて遅くキャッシュフローがかなりきつくなっていた。

日本ではまだ手形が流通していたがその怖さもよく知らずに仕事を引き受けていた。

 

8月8日帰国し久しぶりに家族で伊豆へドライブ旅行。

この時は子供たちとペンションの露天風呂につかりおいしい料理を食べ一緒に時間を過ごしてずいぶん気分転換することが出来た。

 

9月19日、都南金属の加藤氏が赴任。

林時計同様、当社オフィスに机一台を置きマルマングループの香港拠点としてスタートした。

小さいオフィスに日本人が3名になった。

以前ケースメーカーのセールスで旧知の哈(ハー)さんが加藤さんのところに加わりいっそうにぎやかになった。

 

1990年10月になると邱さんの教えでもある“不動産は借金してでも買え”を実践に移した。

 香港のフラット購入を進めるために日本の東海銀行と相談し金利8%で500万円の融資可能を取り付けた。

自己資金約400万円、4兄(洋)から200万円を借金、残り500万を香港の銀行担保ローンで黄哺の小さなフラットを香港80万ドルで購入した。(当時のレートで約1500万円)

香港の銀行金利は12%だったがフラット購入後も香港のインフレは続きこの決断は後々大いに正解だった。

簡単な改装工事をして翌年1月早々に引っ越した。

 

90年末になると前年末に付けた東京市場の最高値39000円が2万円を割り込みそろそろバブルの終焉が予感された。

11月8日オリエント時計の久江氏来社 このころからオリエントとのコンタクトが始まる。

 

91年になりさらに仕事は増えていたが相変わらず三友舎の長い手形に泣かされていた。

この手形は地域限定の信用組合発行のため大手銀行での割引ができず結局満期日まで待った。

400万や500万円の手形の満期日が来るまで気が気ではなかった。

小さい会社と取引する危うさをこの時学んだ。

 

3月15日にKORIN山田さんがスタッフの採用に合わせ自前のオフィスに移っていった。

 前年(90年)2月に入社し活躍してくれたキャロルが出産で退社することになりこの時点でスタッフを二名募集することにした。

91年4月に6人のインタビューをしてそのなかから2人を採用した。

アカウンティングにはケースメーカー泰興で経理を3年経験し大人しいが聡明な感じのジョイス王(ウォン)ともう一人は英語が達者でアクティブな雰囲気のタニーをシッピングとして採用。ジョイスはとても丁寧できれいな字を書くので感心したのを覚えている。

二人とも期待に応えてくれたがタニーは数年後に退社、ジョイスは仕事に前向きで責任感も強くその後も長く会社に留まり中核人材として大きく貢献してくれることになる。

 

91年4月末、南豊中心のオフィス契約が切れるのでMTR荔枝角(ライチ―コク)駅すぐ近くの億利工業中心6階のオフィスを2年契約した。

月約22000ドルと経費も増えるが仕事も荷物もだいぶ増えていた。

ネットで約120㎡(35坪程度)とずいぶん広くなり倉庫スペースも取れる。

主なレイアウトを自分で設計しマレーシア出身の工務屋さんに内装工事を依頼した。

 

 起業してちょうど2年が経過し会社の業績はめざましく伸びていた。

小ぶりながら会社の体制もできいよいよ次のステップに入ろうとする段階にきた。

 

だがそれに反比例するかのように私自身の疲労と精神的ストレスも蓄積していた。

3月22日から学校の休みで家族が来港、帰国するまでの2週間近くの間久しぶりに4人一緒の香港生活をしてあらためて家族の大事さありがたみに気づいた。

 

1991年4月、妻への長い手紙で当時の思いを綴っている

 「今日、体調を崩し仕事に集中できないので半日で家に戻ってきた。

香港でスタートして2年、長い道のりだったがあっという間だった。

会社は順調だが相変わらず気は許せない。

3月度は万世だけで3000万円もの売り上げを記録、同時に経費も大きくなっている。

会社経営は社長にとって緊張の連続、社長は楽観的でなければ務まらないといわれる理由がよくわかる。

やっと軌道に乗ってきた今、自分のなかで何かが欠けている気がしている。

それがどうやら心の安らぎを得る家族がいないことだと先日みんなと過ごして気がついた。

これまで情熱と意地っ張りが自分を何とか支えてきたが今自分はいったい何のために戦っているのかという気分だ。

妻が言うように今は4人で生活するのが一番自然でベストと思う。

今のこの生活はどこかに無理がありいずれ限界が来る。

日本に会社をつくり半分を日本の生活にしたいが今は無理。

そこで家族を香港に呼び自分の精神的安定を得ながらさらに基盤づくりをしてその後に次の日本展開を考えるのがいいのではないか。」

 

独身時代とは違い一度家族を持った者が家族と離れて生活するのは経験した者にしか分からないつらさがある。しかも海外で働くとなると想像以上にきつい。

 普段は仕事に追われて感じないが休日一人になると話し相手もなく心の隙間にぽっかりと穴が空いていたのだと思う。

 

まだ40代で体力はあったが目まぐるしい日々の連続と精神的な疲労で体の免疫力が相当落ちていたに違いない。

 6月に入りいよいよ体の不調が限界にきた。

後頭部の偏頭痛、首筋の凝りに始まり関節の痛み、さらには目の色が黄色いと言われ尿の色まで茶色になってきていた。

さすがに驚いて香港サイドにいる日本語の話せるドクターに駆けこんだ。

 

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1989年 南豊中心オフィスで

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90年 精美の李さん(一番左)来客との食事

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90年3月に家族が来港、海鮮料理へ

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90年夏 家族で伊豆旅行 露天風呂で

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90年11月 ケンテックススタッフと都南が揃ってバーベキュー

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加藤さん(中央)赴任後に山田さん(左から二番目)ハーさん、陳君(後ろ)揃ってパーティ