私の履歴書 第十二回 香港生活をエンジョイ

100万ドルの夜景と言われた香港島の山頂から見る夜景は現在ではさらに高層ビルとネオンが増えていっそう煌びやかになっている。

1997年の返還後からすでに20年が過ぎた今(2018)、街も人も当時とは大きく変わったが返還前の香港を懐かしむ人は多い。

赴任した1983年、香港はまだイギリス植民地の時代である。

植民地時代の香港政庁の幹部は香港総督(26代総督サー・エドワード・ユード)が指名する権限を持っていて政府の上層部にはイギリス人が多数占めていた。

街には貿易、金融ビジネスに関わる欧米人のほかに小さな店舗を経営しているインド人やアマとして働くフィリピン人などの外国人が多く目についた。

中環(セントラル)を中心とする香港島側には50階を超える高層ビルが林立し国際金融、商業の中心として先進的な街だった。
その一角にある蘭桂坊(ランカイフォン)は香港の欧米式ナイトライフを開拓した草分け的存在で欧米人が集まるカフェ&バーが並んでいた。

九龍側は当時市街に空港のあった関係でビルの高さ制限があり(1998年の空港移転後に廃止)どちらかというと工業ビルが多く製造関係の会社が多かった。

空港に近い觀塘(クントン)やPELのあった葵涌(クワイチュン)などは代表的な工業地区で繊維関係や時計、玩具、日用品など軽工業を中心とした種々の会社が雑居する20階建てほどの工業ビルが折り重なるように並んでいた。

九龍半島の先端にある尖沙咀(チムサーチョイ)は当時から九龍の中心地として数多くのレストラン、商店街、ブランドショップがあり海外からの観光客が集まる街だった。
そのころ香港の物価は安く世界中から人が集まる買い物天国でもあった。

インターナショナルなホテルも多くペニンシュラやリージェントなどの高級ホテルの豪華なロビーでゆったりとお茶をするのもリッチな気分になれるひと時だった。

香港の生活に家族も慣れてきたころ、上の子は九龍塘(ガウロントン)にあるインターナショナル幼稚園に通うことになった。
入園には親の英語での面接があったが無事入園することが出来た。

下の子は2歳のころ、幼稚園に入る前の子供たちを集めたプレイグループに行くことにした。
初めての日は母親から離れられず、預けて去ろうとすると大泣きしたという。
それでも翌日からは普通に通うようになった。

両方ともインターなので地元のほかに西洋人、インド人、日本人の子供たちが混じっていて先生も英語でのコミュニケーションだった。

私自身も英会話に磨きをかけようと尖沙咀にあった英会話教室にしばらく通った。
その後、British Counsel (英国文化協会)が開講している英語クラスにも入りレベルアップに努めた。

そのせいもあってか、PELと長く付き合いのあるケースメーカーの人からこれまでの赴任者で一番うまいとお世辞を言われたこともあった。

アメリカ人に教わったのでそのころは米式発音に近い英語をしゃべっていたように思う。
普通の香港人は香港独特の英語をしゃべる人が多いがTVで見る政府の高官などはクイーンズイングリッシュの格調の高い英語をしゃべる人が多かった。

一方で広東語はあまり好きになれずまじめに勉強しようとする気持ちが湧かなかった。
濁音が多く、大声で話す人が多いので初めに耳障りな印象を受けた。
言葉の末尾にガーとかゲーがつくことが多く、日本人にはどことなく品悪く聞こえる。
ところが英語に変わるととたんに丁寧に感じるのがおかしかった。

香港人の母国語である広東語をもっと勉強しないといけないと思うのだが、どちらかというと英語での会話の方が気分がいいので、今でも広東語は日常会話程度の域を出ない。

地下鉄車両の中で端の方にいる人たちの話し声が大きくて隣で話している日本人の声が聞こえないことが一度ならずあった。

最近は以前に比べると香港人の話す声が小さくなったように感じるが、代わりに中国からの観光客の声が大きく騒がしいので香港人たちからあいつらは品がないと嫌われている。

「声の大きさは文化(教養)のレベルと反比例している」ように感じる。
ヨーロッパに行くと車内で、大声でしゃべる人はほとんど見かけない。


赴任後まもなく、たまたま私の部下に梁君というテニスのうまいスタッフがいた。
私は赴任前、日本で毎週のように地元のクラブに通っていたので香港でもテニスをしたくて休みの日に彼とよくプレイした。

PELの日本人の中には生活レベルが違うのであまりローカルと近づき過ぎるのはよくないと忠告する人もいたが、私はむしろ他のローカルスタッフとも食事に行ったりして地元の人たちとのコミュニケーションをとるように心掛けた。

立場や文化が違っても触れ合うことでお互いの気脈も通じるし仕事にもいい影響が出るというのが私の信条だった。

当時香港に出ていたセイコーグループ三社(EPSON,、服部セイコー、第二精工舎)が年一回、合同で行うゴルフコンペがあったが、たまたまその年はテニス親睦大会となり私ともう一名が組んだPELのペアがダブルスで優勝したことがあった。


PELの伊藤GMはお酒好きな人で就業時間中に時々お誘いの電話が来た。
会社も安定して、いい時代だったので大きなGM室にひとりポツンといるのが寂しかったのか。

「今日行く?」「行きますか」、私も嫌いじゃないのですぐにまとまる。

そのころ香港には日本の居酒屋風な店は皆無だったが食事をしてホテルのBARで飲んだり、たまにカラオケにも行った。
当時はまだ今のようなカラオケはなく客に合わせて生伴奏をするところが多かった。
自分のキーに合わせてくれるので気分よく歌えた。


話は変わるが

香港は狭い所に多くの人間が住んでいるので住居費はかなり高く、一般庶民にとって居住環境は悪い。

2000平方フィート(約186平方米)以上の豪華マンションに住む金持ちもたくさんいるが、300平方フィート(約28平方米)に家族5人で暮らす家族も多い。

日本から派遣されている一般的な日本人家族の場合、香港では中の上レベルのフラットに住むケースが多い。
私が赴任した当時でも家族帯同の場合でだいたい30万円以上はした。
日本なら豪華マンションだが香港では普通の広さでもこのくらいは覚悟しなければならない。

現在ではさらに高騰し赴任者の住居費では香港が世界一となり、家族で住む広さを確保するのがますます難しくなってきている。

派遣する会社にとっても厳しいがそれだけビジネスチャンスの多い都市ともいえるのだろう。
さすがに近年では香港を飛ばして中国深圳に赴任するケースが増えている。



香港には「鴛鴦(インヨン)」という飲み物がある。

昔からの軽食店である茶餐廳(チャーチャンティン)に行くと紅茶とコーヒーを混ぜた飲み物に出会える。
これこそが東西が混じりあい、何でもありの香港文化を象徴するように思えてならない。

香港は100年以上にわたるイギリス植民地のもとで中国(華南)の文化に西洋の文化が程よく入り交じった独特の文化が育っている。

東京の半分(札幌市と同じ面積)にビジネス街、ショッピング街そして至る所にある便利店、数々の食いもの屋まで、何から何までが凝縮している。
チョットした買い物もすぐ近くで用が済み便利さこの上ない。

一歩郊外に出ると小一時間程度でけっこう山や海の自然もある。
新界の西貢(サイクン)や香港島の南側に抜けるとレパレス湾などの海水浴のできる海岸もある。

ハイキングやサイクリングコースもあり休みの日は郊外に出て楽しむ人も多い。
釣り人にとっては香港にも名所があるらしい。
私も小舟に乗って小ぶりのガルーパ(日本のはた)を釣ったことがある。

先に声の大きさは文化に反比例していると記したがマナーも同様で、経済が発展し豊かになり、それに合わせて文化レベルも上がるとマナーもよくなる。

昔に比べると香港人のマナーは格段に良くなった。

赴任したころ目撃したが、地下鉄の車両から降りようとする西洋人が、我先に乗りこもうとする人たちに出口をふさがれ真っ赤になって怒っているシーンを目撃したことがある。

人口密度が高いと、生存競争の中で人を押しのけでも生き残る、そんな強さも身につけなければならない。

日本人から見ると香港の人はせわしなくせっかちに見えるが、裏返してみれば「スピードと効率を優先する」文化なのだということに気がつく。

街が騒がしく雑然としている面もあるのでいっぺん嫌いになるとどうにも居られなくなるような所だが、良い所に目を向ければ、これほど自由でそして人間的な街はない。

一方で優秀な人も多く香港は世界の学生数学コンテストで世界一を取っている。
教育レベルも高くなり、香港のいくつかの大学は世界大学ランキングでも上の方で香港大学は東大より上位に位置している。


香港人の健康意識はかなり高い。

ここでは中国の医食同源の考え方が根付いており総じて飲食に気を遣う人が多い。

一日に飲む水の量も多く自分用の保温機能のある大きいポットをもってこまめに水を飲む。
水はぬるま湯で飲むことが多く日本のように氷水を飲む習慣はない。
体を冷やさないという考えが徹底している。

香港の医療費は高いがおそらく世界でも日本についで高い医療レベルにある。
ロイヤル(英国王室)認定の西洋医もいれば中医東洋医学)も多い。

日本と比べて飲酒、喫煙者が少なく、また伝統的な漢方系の健康食品も数多い。

中国茶をはじめ亀ゼリーや、暑い夏に「熱さまし」として飲む「涼茶〈りょんちゃ〉」を売っている店が至る所にある。
薬草を煎じたものでいくつかの種類がありその人の体質や症状に合わせて飲む。

これらの伝統的食文化が功を奏しているのか香港はすでに日本を抜いて男女とも世界一の長寿国である。

日本がある意味、先進医療技術で生かされている事実を考えると香港の実力は本物といえるのではないだろうか。



日本にいると遠いアジアだが香港ではアジアの国が身近に感じる。

台湾は一時間、バンコクやマレーシアでも数時間圏内にある。

香港赴任中は深圳でのライチ狩りのほか、中国、台湾、バンコクシンガポール、マレーシアなどアジアの観光地にも足を延ばした。

狭い香港に住んでいる人にとって海外旅行は息抜きであり、しょっちゅう外に出ている人が多い。
香港はおそらく世界でも海外旅行の比率が一番高いに違いない。


香港自体も外に開かれており海外からの人の出入りも多い。

フィリピン人はじめインドネシア人などすでに20万人以上のアマ(amah)が働いている。
結果として共働きのできる家庭が増え、女性の社会進出がかなり進んでいる。

日本も高齢化社会が現実になり海外から人を入れる規制を緩くする動きが出てきているがまだ動きが遅く規模が小さすぎる。

このままいけば日本全体が老人国になり(すでにそうだが)、仮にお金があっても介護する人がいない現実が来ている。

一刻も早く規制を軽くして香港のように海外からアマさんや若い人材を入れるべきだろう。
特にフィリピン人は英語も話し、明るくて介護に向いている。

国全体のエネルギーも活性化し、内からの国際化も進む。

治安や文化の問題など理由をつけて壁を作っていては世界の時代の流れに取り残される。
日本も思い切った開国をする時期に来ている。


最後にまた蛇足をひとつ。

地元の英会話教室に通っていた時の失敗談がある。

テキストなしで一時間だべるだけという気軽な個人レッスンで教師は世界を旅しながら周っている外国人が多かった。
その日はたまたま英国から来た女性だった。

話の流れで馬の話題になったついでに日本では馬を食べる習慣があると説明した。
そこまでは良かったが、余計なことに馬の刺身がおいしいなどと言ったものだから途端にその女性の顔が固くなりその目が軽蔑のまなざしに変わった。
まずいと思ったが、時すでに遅し。

あとで知ったがイギリス人にとって馬は特別な存在で日本以上に社会に溶け込み大切にする文化がある。
一緒に仕事をする仲間であり友達であってそれを食べるなどとはなんと野蛮な、さぞかし日本人が猫を食べるように思われたのだろう。

その後、その先生から個人レッスンを受ける機会はなかった。

日本人の当たり前が決して外国人にも当たり前ではない。

理屈では分かる…が、

これは私が海外にいて体験し学んだ教訓の一つだ。


九龍と香港島をつなぐフェリー

ネイザンロードの看板

茶店

1985年 シンガポール旅行

1986年 香港九龍公園にて