私の履歴書 第四回 体操に明け暮れた中学時代

昭和34年(1959)、皇太子(今上天皇)と美智子様のご成婚の年に鹿沼市立東中学校に入学、あこがれの体操部に入部した。

放課後になると校内にある体育館でほぼ毎日のように練習した。

入部してしばらくは体の柔軟訓練をやらされた。
マットの上で開脚し先輩から思い切り背中を押されると新人はみんな痛くて悲鳴を上げる。
翌日は体があちこち痛いうちにまた放課後同じことをやるような日々が続く。

三か月もすると体が徐々に慣れてきて開脚でマットに腹をつけられるまで柔らくなった。
毎日体操ができるのが楽しく休みの日も学校で練習する日々が続いた。
毎日へとへとになるまで練習しても翌日になると疲れが残っていない。
10代の体はまさしくエネルギーの塊だ。

当時中学での男子体操競技は団体徒手体操と個人競技で行うマット運動、跳馬、鉄棒の三種目だった。

もともと小さい方で身が軽い割には腕の力が強かったので上達は早かった。
2年生になると部内のエース級になったが同級生に野々宮君という選手がいてここでも一番にはなれなかった。

彼は成績も優秀、文武両面でかなわなかったが三年になると父親の転勤で宇都宮へ転校した。
その後何年か後に東京教育大(現筑波大)の体操部に入ったという話を聞いた。
オリンピックで金メダルを何度も取った加藤沢男選手(元筑波大教授)とは大学時代の同期で一緒に練習したらしい。
世の中には上には上がいるものでさすがの野々宮君も加藤選手にはかなわなかっただろう。

野々宮君が転向した後に学級委員の補欠選挙があり私が僅差で選ばれた。
挨拶をということで「自分が級長になっても特に何も変わらないと思う」と本音を言ったらみんなに大笑いされた。

当時体操部を指導する女性の先生が熱心で生徒も練習をまじめにやったこともあり中学2年の時に地区(郡)で団体優勝し栃木県大会に出場した思い出がある。

日頃は体操に夢中になっていたが中学に入ってからは成績も気にするようになり期末試験の時期になるとまじめに勉強するようになった。

ほぼ一夜漬けに近いがそれでも試験の一週間ぐらい前から集中して勉強し成績は上位10%に入るようになっていた。
体操部に所属していたので体育だけはいつも5をもらえた。

ある日中学の美術の曽我先生(女性)から職員室に呼ばれた。
当時の鹿沼市内では絵の世界で名の知られた先生だった。

何事かと思って恐る恐る先生の前に行くと嬉しそうに「100点満点を取ったのは全学年で君だけだ」と褒められた。

団塊の世代で当時7クラスぐらいあったので同学年が300人以上はいたと思う。
どんなテスト内容だったかは覚えていないが美術史の問題の他に自分の手をデッサンする課題があったと記憶している。

なぜ一人だけ満点をくれたのか。
絵を描くのは嫌いではなかったが特別絵がうまかったわけでもないし絵で表彰された覚えもない。

その時はそれで終わってしまったがその頃はまだ普通の中学生でアートという観念すら知らなかったし自分に芸術的探究やクリエイティブの芽があることすら自分でも気が付かなかった。

振り返ってみれば、今の自分も美術品や工芸品などのアートに興味があるし、暇ができたので水彩画も始めている。
今にして思えば自分は美術の道に進むのが向いていたのではないかと思うことがある。


思い起こせば中学時代からカメラに関心があった。
こんなエピソードもあった。

兄たちからもらった小遣いをためてある日市内の写真屋さんで安いカメラを買って近所の風景を何枚か撮影した。
その後、カメラの中がどうなっているのか好奇心いっぱいになり家に帰ってカメラの蓋をあけて中を覗いてみた。
中にはコマ送りされたフィルムがあったが見たところ何の変化もない。
写真屋に持ち込み数日後に期待いっぱいで取りに行ったら「お客さん全部真っ黒ですよ、光が入っている」
フィルムを開けたら露光でダメになることをその時まで知らなかった。

これが私の写真の始まりだ。




中学時代にはテレビの民放局も増えて面白い番組がどんどん出てきた。

NHKの「夢で逢いましょう」「若い季節」、民放の「ザヒットパレード」「シャボン玉ホリデイ」「七人の刑事」「ローハイド」「ララミー牧場」など。

若い頃のクレージーキャッツが演じるショートコント「大人の漫画」は学校でも話題になった。
ちなみにあの脚本を手掛けたのは後に東京都知事を務めた青島幸男だ。

特に思い出のあるテレビ番組の一つに「兼高かおる世界の旅」があり毎週日曜日朝の放映を見るのが楽しみだった。

放送開始が昭和34年(1959)なのでちょうど中学に入った年だ。
テーマ曲は「80日間世界一周」。
知的な美人ジャーナリストの兼高かおるが世界各地を取材する番組でアメリカやヨーロッパのありきたりの観光地ではなく普通の人が行かないようなところにも行き現地の人と交流していた。

その姿がまだ海外どころか日本すらよく知らない世間知らずの自分をとても刺激した。
それまでそんな番組はなかった。

当時は日本人の海外渡航自体に制限があり一般人にとって海外はなじみが薄くまだ夢の世界だった。
(海外旅行が自由化されたのは1964年)

この番組で知る海外という未知の世界がとても新鮮で魅力的、私の中でいつしか海外に往ってみたいと思う気持ちが少しずつ育っていった。



中学三年生となり高校受験の時期になる。
このころは成績も各科目とも5が並ぶようになっていたので担任の先生から栃木県の有名校の受験を勧められた。

当時は公立校が優位で、一部のお金持ちか公立に入れない成績の悪い生徒が私立校に流れる時代だった。

鹿沼市には普通高校と実業高校の二つの公立高校があり市内の高校に進学するのが普通のコースだった。

すぐ上の兄たち二人は私と違っていつも机に向かっているタイプで優秀な成績だった。
中学時代は全校で3番だとか4番とか言いあっていたがそれぞれ市内の鹿沼農商高校商業科を出ている。

三兄(英男)はすでに日本電電公社(現NTT)に就職し、四兄(洋)は高三で野村證券への内定が出ていて母は喜んでいた。
母は私にも安定した大企業に入ることを望んでいた。

私は商業コースに行くことに何となく違和感があり工業コースのほうが自分にあっているような気がしていた。

隣の宇都宮市(県庁所在地)に男子校として県下の有名公立高校が二つあった。
県下一の宇都宮高校とそれに次ぐ宇都宮工業高校だが前者は大学に行くのが前提の進学校

母親はすでに50台の半ばとなり当時は次兄(徹)の電気工事店での収入が家を支えていた。
(その頃長男は東京や宇都宮の洋品店の住み込みで働いていてほとんど家にはいなかった)
高校を出てさらにその先4年間も次兄の世話になるわけにはいかない。

母親を早く安心させたい気持ちもあり自分の中に大学という選択肢はなかった。
迷わず就職に有利な工業高校の道を選んだ。

その時、次兄が「大学に行きたければ行ってもいいぞ」と言ってくれたことを今でも覚えている。
兄弟で一人ぐらいは大学に行ってもいいと思ったようだ。
ただし家から通える宇都宮大学(国立)が条件となる。

私はそのころテレビなどで知る文化の発信地、東京にあこがれがあった。
早く東京に出て都会の生活をしたいという思いも後押しして県立宇都宮工業高校を受験した。


中学二年の時、団体地区優勝
二列目左から野々宮君、私。 全列右から三人目が指導の先生


昭和37年(1962)中学卒業の謝恩会で
2列目一番右私 、前列中央 川田順先生

私の履歴書 第三回 小学校へ

昭和28年(1953)鹿沼市立北小学校に入学。

当時はまだ食糧事情が悪く栄養が行き届かない時代だったので貧弱な子が多く体の大きい肥満児が健康優良児として表彰される時代だった。
私は体が小さいうえに早生まれなものだからクラスでも席はいつも前のほうだったが体は丈夫でほとんど学校を休んだことがなかった。

世の中はまだ衛生状態が悪くノミ、シラミがはやっていた。
低学年の頃だったと思うが全校児童が校庭に集められて一人づつ順番にDDTを頭と背中に吹きかけられて全身真っ白けになった記憶がある。

給食で出されたアメリカから配給の脱脂粉乳はそこそこの味だったが、あの独特の嫌な臭いの「虫下し」を鼻をつまんで飲んだのは今でも覚えている。
飲み切らないと先生が帰してくれないので泣きながら無理して飲んで吐いてしまった女の子もいた。

当時は人糞を農家の肥やしに使っていたので野菜についた寄生虫の卵から回虫などを体に持つ人が少なくなかった。
昭和20年代の農村に住む人の回虫保有率は50%を超えていたようだ。
汲み取り屋さんがいてタンクのついた車で定期的に一軒一軒各家庭の便所から大きなホースで汲み取りに来る。

当時まだこの辺りではガス、水道が引かれてなく水洗トイレができるのはずっと後のことだ。

家でお風呂を沸かすのは私の役目だったが薪に火をつけるまでが一苦労。
新聞紙に火をつけ煙にむせかえりながら真鍮でできた長い吹き矢みたいなもので息を吹き込むとさっと燃え上がった。

我が家の風呂は鉄釜だったがぬるい時には薪で追い炊きするので風呂の中でこの釜に触れると熱かった。
五右衛門風呂と言われた風呂桶の下に鉄窯がありそこに板を浮かせた風呂が母の実家(栃木県那須郡)にあって一度だけおそるおそる入った記憶がある。


小学低学年の頃は気が小さくて引っ込み思案だった。
父親がいなくて家が貧乏だったので子供心に引け目を感じていた。
そのうえ早生まれで同級生より一回りも体が小さいこともありまるで劣等感の塊だった。
学校の成績も2が多く下から数えた方が早い劣等生であった。

本人はぜんぜん成績を気にしていなかったが母は心配し兄たちに勉強を教えるように言っていた。

一方で運動神経はいい方だった。

小さい割に足は早い方で運動会ではだいたい背の順に分けて走るのでほとんど1着だった。
跳び箱や縄跳びも得意で全校生徒の縄跳び大会で最後まで残ったことがある。
体の割に腕の力があったので教わったわけでもないのに鉄棒が得意だった。
小五のころに一人校庭の鉄棒で見よう見まねでやった大振りが難なくできてしまった、
気をよくしてそのあと蹴上がりも何回かの挑戦でできるようになった。

しかし鉄棒の握り方も知らないで遊んでいるうちに手が離れ思い切り背中から落ちてしまったことがある。
息ができずに死ぬかと思ったがしばらくして元に戻った。

体育の授業で懸垂は小五の時に18回できたのを記憶している。
しかしそれを上回る23回というすごいのがいて私は全校で2番だった。

(ちなみに今は一回もできない)

そんな折、兄の中学の運動会でお昼の休憩時のアトラクションで体操の演技を見る機会があった。
鉄棒の車輪やマット上でのバック転を見てかっこいいと思い中学の体操部にあこがれた。
運動会では母のつくるノリでくるんだおにぎりやゆで栗、卵焼きが楽しみだった。

当時小学校では家庭科という授業があり男の子でも裁縫をやる時間があった。
毛糸を編んだり縫いものをやらされたりしたが学校で作ったものを家に持ち帰ると母が褒めてくれてケンジは器用だから裁縫師になれとまたいわれた。
母は昔の人なので着物を自分で作ることができた。


小学も高学年になったころはこれと言って勉強した記憶はないが成績はなんとなく上位の方になっていた。

世の中はようやく街頭テレビが普及し始めた時代。
鹿沼の市役所に大勢の人が集まって力道山のプロレスを見るのが人気だった。
白黒テレビだが色のついたガラスが掛けられて一見カラーテレビ風に見える。
100人ぐらいはいただろうか、大人が多く子供の背丈ではよく見えなかったが後ろの方から背伸びして見た記憶がある。
得意の空手チョップで外人レスラーを吹っ飛ばすとみんなの歓声が飛んだ。

このころの年表を見ると昭和28年(1953)にNHKが放送開始、昭和29年に防衛庁自衛隊が発足している。
昭和30年に東京通信工業(現ソニー)が世界初のトランジスタラジオ発売。
昭和31年(1956)にもはや戦後ではないと宣言され日本は高度成長に突入し家電製品がブームになるほど豊かになってきた。

しかしまだ世の中は無いものだらけで欲しいものだらけの時代。

当時三種の神器と呼ばれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及してきた時代である。
(それまでは電気を使わない洗濯機や冷蔵庫が普及していた)
昭和34年(1959)当時の大卒初任給15000円の時代に白黒テレビ14型が67500円とある。

この年、尺貫法が廃止されメートル法がスタート、貫からキログラムへ、匁(もんめ)からグラムへ店の表示が突然変更され小学生の自分も近くの駄菓子屋で飴を買うのに頭の中でグラムを匁に換算したものだ。(100匁=375グラム)


政治の世界では昭和30年(1955)に保守の自民、革新の社会という55年体制ができた。
昭和35年(1960)60年安保が成立し岸内閣から池田内閣にバトンタッチされ池田勇人所得倍増計画を打ち上げた。
たまたま鹿沼に来た岸信介首相の演説を子供の時に見た記憶がある。

池田首相の有名な”所得倍増”ほか”貧乏人は麦を食え““私はうそを申しません“などの数々の名言キャッチフレーズは世間を騒がせ流行語になったが堺屋太一はその著書「日本を創った12人」のなかで聖徳太子徳川家康マッカーサー松下幸之助などとともに戦後の日本を経済大国に導いた最大の功績者として唯一政治家として池田勇人を挙げている。

昭和20年代はまだ貧しさが残る時代だったが昭和30年代に入ると日本はまさに高度経済成長に突入した時代だった。


10歳のころ
母、次兄、4兄と

 第二回 出生、父の面影なし

昭和22年(1947年)3月、私は栃木県鹿沼市で父清作、母フキの五男として生まれた。

五人兄弟は当時としてはめずらしくないが男子ばかりというのは少ないだろう。
昭和22年5月に今の新憲法が施行されたので憲治という名前の由来となったようだ。

戦争というと今の平和な日本では遠い昔の話に感じられるが太平洋戦争の終結が昭和20年8月だから私が生まれる直前まで戦争のさなかであった。

戦争が終わり昭和22年から24年にかけてベビーブームが起こり、後の団塊の世代堺屋太一氏小説)と呼ばれる子供たちがいっせいに生まれた。
私はその団塊の走りだ。

戦争で日本は消耗し徹底的に破壊されたのでとにかく日本中全体が貧しかった時代だ。

私が生まれた頃はまだ戦後の混乱期で食料が足りずに国から米、砂糖などの配給があったが人々は配給だけでは生きていけずに闇市ヤミ米を買って空腹をしのいだ。
昭和22年の史実を見ると配給だけの生活を守った山口という東京の判事が栄養失調で亡くなったという記録がある。
裁判官として死んでもルールを守った正義感の強い人だったのだろう。

今の飽食の時代には想像もつかないがたとえ違法でもヤミ米を買わない限り生きられなかったという当時の現実が伺える事件である。
私自身はまだ小さすぎて何も分からなかったが人々は生きるだけで精いっぱいの時代だったのだろう。

子供のころには兄たちから毎日芋ばっかり食わされたとか学校に行っても農作物を作るため毎日畑仕事をやらされた話など戦争中の体験談もよく耳にした。

鹿沼という田舎町にもまだ白い服を着た傷痍軍人アコーディオンを弾き、物乞いに立つ姿をかすかに記憶している。

昭和20年代後半になるとずいぶん状況もよくなってきたのだろうがまだ復興期で食べ物も充分でなく家も貧しかったので小さいころは腹を空かすことが多かった。
小さい頃は米粒一つも残さずに食べるよう教えられた。

ごはんも麦飯が多かったがサンマは安くてよく食べた。
豚肉はたまに食えたが牛肉はほとんど口にした記憶はない。
当時は卵が高くて一個15円(今の価値で300円ぐらいか)もするごちそうだった。
たまに入ると卵一個で三杯のご飯が食べられた。

そんな昔の記憶があるので私は今でも食べ物を無駄にして捨てることに抵抗がある。



両親は共に明治の生まれで母は明治のほぼ最後に生まれている。
今となってははるか遠い時代であるが当時はまだ明治生まれが普通にいた。

昭和のいつだったか最後の江戸時代生まれの人が亡くなったというニュースを聞いたのを覚えている。
(後述;文久3年(1863)生まれの河本にわさんが昭和51年(1976)に没,113歳)

子供のころには関東大震災(大正)や戦争の話も母から聞かされた。

鹿沼市はこれといった特徴のない街であるが山に囲まれた盆地で鹿沼土や皐月、松などの盆栽が昔から知られている。
近所にも盆栽好きのおじいさんが結構いてたくさんの盆栽を育てていた。
近くの山で鹿沼土が取れるので子供のころにバケツとシャベルを持ってよく取りに行った。
山肌を削ると鹿沼土が出てくるのでバケツ一杯自転車で持ち帰った。


父は私が二歳の時に亡くなってしまったので父の面影や思い出は残念ながら全くない。
残された数少ない父の写真だけが私の唯一の父の手がかりである。

父は体が丈夫でなかったらしく乙種合格とかで戦争に出る機会は免れたが若い時に背中を打ったのが原因の病気で亡くなったと母から聞かされた。
ちゃんとした病名は分からずおそらく今なら治っただろう病で44歳という若さで逝ってしまった。
5人の子供を残し病の床でさぞや心残りであったろう。
一方、母は90歳まで長生きし天寿を全うしてくれた。


父は栃木県の林産物(林業)に関わった地方の公務員だった。

仕事の中身については分からないが会社の中でも字がたいへん上手だったということをよく母から聞いた。

さいころ家にはまだ分厚い本が書棚に残っていたのを覚えている。
写真をやり、バイオリンを弾くこともあったと聞いている。
私が小さい時に箪笥の引き出しから昔のガラス製の写真乾板を見つけた事がある。
昔としては趣味人だったところがある。

もう少し生きていてくれればいろいろと教えてもらえたこともあっただろう。
私の人生も少しは違っていたに違いない。
小さい時にはなぜ父親がいないのかと子供心に寂しい思いもした時もあったが物心ついた時にはもういなかったので逆に別れのつらい思いもしていない。


鹿沼は昔から材木と木工の街でもあった。

地名にも上材木町、下材木町などが残っていて大工や建具師も多い。

鹿沼からほど近い日光東照宮にある木彫りの「眠り猫」や「見ざる言わざる聞かざる」は有名だが江戸の昔に東照宮の大工たちの子孫が鹿沼に留まり木工が盛んになったといういわれがある。

毎年秋に催される鹿沼の彫刻屋台祭りが有名になっているが豪華な木彫りで覆われた何台もの屋台がそれぞれの町内の蔵から引き出され市中を子供たちが曳き回す。
私も子供のころ母親に化粧してもらい、はっぴを着て上田町(かみたまち)の屋台を曳いた思い出がある。

昔は地方のこじんまりした祭りだったように思うが、今では国指定重要無形文化財、最近ではユネスコ無形文化遺産登録決定となったこともあって有名になり派手になってきている様子である。


ちなみに私の祖父寅蔵は大工だった。

私が生まれるずっと前に亡くなっているが家の縁側の片隅にまだ大工道具が残っていた。
小学生のころどういうわけかこの大工道具に興味がありノコギリだけでなくカンナやノミまで使って木工(いじり)をやるのが好きだった。

市中には材木屋さんが結構あり小学生のころ学校の行き来で大工さんがカンナを使っている作業をよく目にした。
3mはあろう材木を上から下までするすると動かし薄っぺらいカンナくずが小気味よく舞い上がるさまを見て子供心にかっこいいなと思い自分もやってみたくなった。

私が大工のまねごとをしているのを見て母から”ケンジは器用だから大工になったらいい”と言われたのを覚えている。



少し遡るが
母親は父の死後、女手一つで子供たちを食わせなければならないので日中ずっと働きとおしだった。
当然末っ子の私の面倒を見るゆとりはない。
そのため私は保育所に行かされたのだがなじめずに近所の友達と遊ぶ方が楽しく兄の自転車で保育所まで送られるとその足ですぐに戻ってきてしまう日々を過ごした。

保育所にいた記憶はあまりないのだが昭和28年のお別れ会の写真にはちゃんと納まっている。

近所の子らは同じ(団塊の)年頃の子がぞくぞくといたものだから遊び相手には事欠かない。
外に出れば必ず誰かがいてビー玉やベーゴマをはじめメンコ、缶蹴りなどいろんな遊びがあった。

みんな貧しかったが毎日遊びに熱中して楽しかった。


夏になると近くの川で水浴び(まだ泳ぎになってない)やちょっと遠出して田んぼの畦での魚とりもよくやった。
竹で作った籠を畔の下の方に置き30mぐらい上から足で追っていくと籠にいろんな生き物が入っている。
鮒が獲れると持ち帰ったがドジョウやメダカは当時たくさんいたのでその場で捨てた。

夏も終わりの頃か夕方までランニングひとつで遊びほうけていたら家に帰ってきた母にこっぴどく叱られたことがある。
風邪をひくのを心配したのだろう。

市外にある岩山(今ではロッククライミングの場所)にのぼり、秋になると山のアケビや栗取り、木を削ってトンボや木刀を作りチャンバラごっこもした。

まだテレビもなくおもちゃも買ってもらえなかったので遊び道具も自分で作り、外で遊ぶのが当たり前の時代だった。

ものは不足していたがその分自然と親しむことができた。

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父方の祖父母


生前の父 昭和20年頃


 保育所の卒園 昭和28年 前列の一番右側


6歳のころか 母、すぐ上の兄と

(私の時計造り人生記)私の履歴書 第一回 人生を振り返る

私の部屋には最近撮った二枚の写真が飾られている。

一つは今年三月香港で私の古希の食事会をした時の現地スタッフに囲まれた写真。
もう一つは長く仕事を共にしてきた日本のベテランスタッフと私を精神的にサポートしてくれた兄夫婦たちとの写真だ。

香港にkentex Timeを立ち上げたのが平成元年(1989年)、その後日本にケンテックスジャパンを設立したのが平成6年(1994年)になる。
香港での起業からかれこれ30年近くなろうとしている。
過ぎてみれば時が過ぎ去るのは本当に早い。
時計のOEMでスタートしKENTEXという独自のブランドを立ち上げてここまで来た。
その間、人の入れ替りも少なくなかったが長く会社に貢献してくれたスタッフも多い。

私はつくづくスタッフに恵まれ助けられてここまで来たと思う。
当然のことだが一人の力だけで会社を続けることができたわけではない。


栃木県の鹿沼市という山に囲まれた片田舎に生まれ育った私は全く世間知らずの少年だった。
栃木の田舎もんが東京に出て社会人となり経験を積み、仕事で成長し、縁あって香港に赴任したことがきっかけとなりビジネスに目覚め、香港に自分の会社を立ち上げた。

あらためて振り返るとよく無茶やったものだと自分でも思うが若さとはそういうものなのだろう。
私の場合、失敗したときをあれこれ考えるよりも沸き立つ夢にチャレンジする気持ちのほうが強かった。
未熟ではあっても情熱があった。

若い時は要領が悪く何を考えているのか分からないようなノンポリだったが一度やりたいことが見つかると脇目も振らずにそれに集中してしまう癖があった。
周りが見えなくなるのである。
普段はボーッとしているが本当にやりたいことが見つかるとそれにのめりこむタイプである。


私は中学まで市内に通学し高校は県庁所在地にある宇都宮工業高校に電車通学した。

私が二歳の時に父が他界した。
そのとき16歳の長男を頭に末っ子の私まで兄弟五人を抱えた母は大変な苦労をした(はずである)。
上二人は中学を出て仕事に就いた。
下三人はなんとか高校へは行かせてもらった。
私が高校を卒業するころはだいぶ手が離れていたのだがとても大学進学を口に出せる状況ではなかった。

昭和40年、高校卒業と同時にあこがれの東京に出て当時東京亀戸にある第二精工舎(現セイコーインスツル)に就職した。

上京の翌年、日本大学理工学部機械工学科二部に入学し仕事をしながら4年間通った。
途中大学紛争に見舞われたのでたいした勉強はしていない。
もっとも正直に言えば勉強したくて入ったのではなく“大学のキャンパス“という響きにあこがれて入った。
しかし東京のど真ん中に緑のキャンパスなどなく仕事の後に大学に着くと気の合う仲間と講義中に抜け出し近くのお茶の水界隈や新宿まで繰り出すのが楽しかった。
当然親のサポートはないので学費は自分の給料で何とかした。

第二精工舎はその昔、クロックを造る(錦糸町にあった)精工舎から分離された腕時計を専門に造る会社だった。
そこで時計外装部門に配属され時計側(時計外装)を製造する側工場という現場からスタート、その後時計外装部内の製造技術、外装開発、外装設計などの技術畑を歴任した。

昭和57年(1982)に転機が訪れる。

会社は1970年代から香港に時計の製造拠点を持っていたが円高の進行とともに香港の重要性が増していた。
外装設計課の時に上司から香港赴任の打診があり私は何のためらいもなく諸手を挙げた。
もともと子供のころから海外に関心があり世界をみたいという夢があった。
赴任されていた先輩から香港の話なども聞いていておもしろそうな街だなと感じていた。
家族も4歳の長男と生まれて間もない次男で特に障害はない。

しかしこれが私の人生の大きな転機となることはその時知る由もない。

1983年(昭和58年)6月に香港に赴任、そこは日本と違い完全に真夏だった。
ガンガンに照る太陽の下で真っ白の制服を着た高校生の姿が印象的だったのを覚えている。

香港での仕事は時計外装の技術者として現地での時計ケース生産および調達の技術面でのサポートである。
当時香港には何十階という古いノッポビルの中に時計ケースを製造するメーカーが数多くあった。
かつての日本のようにプレス成型をメインとした製法でなく切削を中心とした造り方のためビルの中でも製造が可能なのだ。
日本で設計した図面をもとに香港のメーカーにケース製造を委託していた。
私の役目はメーカー選択や技術的なトラブルシューティング、品質管理、検査部門の責任者だった。

香港の工業地帯は日本と違い背の高いビルがいくつもありその中に数知れぬ多くの会社が入っている。
メーカーを訪問するときはどの会社が何階にあるかを覚えるのが大変だったがメーカーとの直接のやり取りは主に現地スタッフ(香港人)が担当した。

1980年代は円高が激しく進行し銀行、証券などのほかにも多くの日本の製造会社が香港に製造拠点を移していた時代で日本人赴任者も多かった。
当時は日本でもちょうどバブルが始まるころで好景気が続いていた。
香港でも日本人が1万人を超えそれに伴い日本人学校も一気に生徒数が増えた頃だ。
今もそうだが香港はまさしくエネルギーと活気に満ち溢れた都市だった。

1988年に帰国するまで都合5年間の家族帯同での赴任経験は私を大きく変えた。

日本にいた時よりも仕事のスパンが広がり部下が増え権限と責任が大きくなる。
日本本社に比べて会社のサイズも(工場含めて300人ぐらいだったか)小さいので会社全体がよく見える。

それまで小さな一歯車として大企業の一部しか知らなかった自分がまるで中小企業の幹部になったような気分で小規模の会社の面白さや醍醐味を垣間見たような気がしたのである。

香港は1997年までイギリスの植民地で早くから国際的な金融都市であり現地にはイギリス人のほかにもインド人、フィリピン人など多種多様な外国人も多く西洋と東洋が混然とした独特な文化がある。
私にはそれがとても新鮮だった。

現地の人たちは広東語が母国語だが英語がかなり通じ公用語にもなっている。
経済観念が発達している人が多くお金儲けに敏感である。

アマさん〈日本でいうお手伝いさん)までが日常的にゴールドを売買する文化だ。
お金に執着している人が多いがよく言えばみんなビジネス感覚が鋭い。

植民地化して独自の経済文化が発展したがもともと中国の一部で広州などの中国華南と同じ血である。
分かりやすく言えば職人的気質の日本人に対して商人気質の血なのである。

仕事以外でも現地の人と触れあう機会も多かったが文化の違いやビジネスの考え方に感化されることが多く私にとってはすべてが新鮮で学ぶことが多かった。

海外で生活するとおのずと日本を外からみることになる。
「日本の常識は世界の非常識」とよく言われることだがそれを肌で感じるようになる。
ひとつの例が水と安全が只同然と思っているのは日本ぐらいである。

それ一つをとっても分かるように日本という国は世界の平均とはかなり違う異質の世界だということが一歩外に出るとよくわかる。

生意気にもいっぱしの国際人になったような気がした。


思えば技術一辺倒だった私にとってビジネス(商売)の魅力というものを目覚めさせた街だった。

5年間の香港での海外生活は間違いなく私を変えた。
それまで考えもしなかった香港での起業という大それたテーマが私の中で少しずつ芽生え育っていった。

1988年に帰国後本社の外装生産技術課長に昇進、そのまま会社にいれば安定した生活と将来の昇進もあっただろう。
しかし一年後の1989年(平成元年)香港に戻りKentex Time Co,Ltdを設立した。
香港のパートナーとわずか二人でのスタートだった。
安定したサラリーマンよりも自分の夢に挑戦する気持ちのほうが強かった。

そのころの自分の手帳を見ると“人生は一回きり、自分のやりたいことをやらないと一生後悔する“と記している。
自分の人生において20年以上サラリーマンを経験したので、後半は自分の力でビジネスをやってみたかった。

この時私は42歳、決して若くないスタートである。

時計技術者としての知識と経験を積み、世界を見る目も備わってきたのでそれなりに仕事はできる自負はあった。

しかし現実にはビジネスの種もなく商売の相手もない。
これまで本当の意味での営業やビジネスの経験もないなかで自分の思いだけで会社を飛び出してしまったのも事実である。

しかし世間の常識を知れば知るほど思い留まることになるのだろう。

思えば起業にとって何よりも大切な“意志”と”情熱”は強く持っていた。

そして、平成元年(1989年)5月、家族に見送られて一人成田を出発した。

恵まれた大企業の海外赴任とは180度転換した生活環境の中で香港を舞台に数々の悪戦苦闘のドラマがそこから始まる。


はしけんブログの復活  ”私の履歴書“スタート

しばらくのご無沙汰でした。
2016年のご挨拶いらい止まっていましたがまた“はしけんブログ”を復活します。

一昨年いらい会社組織の見直し変更や人の移動がありました。
それに伴って昨年ホームページの内容も刷新、その時点でしばらく“はしけんブログ”の中断となっていました。

ケンテックスは今、組織の若返りで生まれ変わり新たな第二の創業の時代に入っています。

二代目ブログにありますように会社のリーダーはエネルギーのある二代目(息子になります)にバトンタッチし私は会長として引き続きケンテックスの後見役として見守りを行っていきます。

今後は会長としての比較的自由な立場で再び皆さんにあれこれと私の声をお届けしていきたいと思います。

思えばKENTEXというブランドを立ち上げたのが1998年ですのでかれこれ20年になります。
スタート時はヨチヨチ歩きのマイナーなものでしたが“いいものをリーズナブルに”という理念のもとに元来の職人気質の根性も加わって“より完成度の高い本物”をめざしたモノづくりを続けてきた結果、おかげさまで最近では業界や一般の方からもいいものを作っている会社という評判も頂けるようになりました。

何事も続けることが大事ですがかろうじて20年間にわたり続け通したことで内外で少しは知られたブランドになってきました。

陸、海、空というスポーツモデルに始まり自衛隊時計の製作、ESPYやコンフィデンスなどのクラシックモデルそしてそれらの機能をすべて集結させた究極の実用ウォッチCraftsmanへと私の時計づくりは日をたつごとにエスカレートしてきたように思います。


私にはこれまで作ってきた数々のモデル一つ一つに思い出があります。
どのモデルにも自分の魂を入れまさに自分の子供のような思い入れがあります。

そして時計をつくるごとにさらに欲が出て、より上を目指した時計造りへと昇華してきました。

私の時計造りの人生でそのほぼ最終ステージに生まれたのがCRAFTSMAN(S526MおよびS526X)です。
ここにそれまでの技術とデザインを結集したまさにケンテックスらしいマスターピースが出来上がったように思います。

また同じく最後に手掛けたS706Mマリンマンもこれまでの時計作りの技術やセンスが凝集された完成度の高いモデルとなりおかげさまで時計のプロからも高い評価を得ており引き続き多くの時計ファンの支持を得ております。

このマリンマンは今後もケンテックスの代表的なダイバーモデルとしてさらに多くの人に評価され愛用されていくように私たちもさらなる本格ダイバーへとブラッシュアップしていくことを考えています。

本格的なダイバーズウォッチというのは高い技術力が必要なのはもちろんですが時間と費用も通常モデルに比べて大きくなり製作へのエネルギーが必要になります。
初期ステージで“いいモデルを作りたい!”という強い意志がないとなかなか結果としていいモデルは出来ません。

現在次期モデルとして本格的な500M以上の高圧潜水防水の企画に向けて開発が始まったところです。
まだ時間はかかりますが市場には希少な本格潜水ダイバーモデルの登場となりますのでダイバーウォッチファンはぜひ注目のうえ期待してください。


さて私はすでに一線を引き会長という立場になりましたので自分の時間はずいぶん自由になりました。
会長というと聞こえはいいですが分かりやすくいうと窓際族で大した仕事はしてません。

これまでの時間に追われる生活から一転して時間に余裕が出てきました。
しばらくは健康に留意しながら会社の後見役と自分のやりたいこととのバランスを見つけていくことかと自覚しています。

第一線から一歩引き寂しいと感じる面もありますが、ま、自由な時間が増えてきたのだからありがたいと考えるようにしています。

ただ元来がアート好きのメカ屋で職人気質なためケンテックスの新モデル開発だけは目が離せません。

今後もケンテックスの名を落とすことのないようそしてさらにレベルアップしていくよう時計の出来栄えには目を光らせていくつもりです。
ケンテックスを購入された方々やケンテックスファンをがっかりさせることはしたくないですから。
(調子に乗ってあまり出過ぎてもいけませんが)

私は今年3月の誕生日で古希を迎えました。
年を言うといつもびっくりされるのですが実は若いころはいつも年少(ガキ)にみられることが多くそれが劣等感になりどちらかというと年を言うのを控えていました。
ところが50を過ぎたころからは若く見られるのも案外悪くないなと思うようになりました。

今はあえて隠してもしょうがないので聞かれれば正直に応えますがそのたびにびっくりされるのは正直面倒であまり好きではないんです。


今こうして第一線から離れKENTEXという会社に距離を置いてみる機会を得てこのへんで私の50年の時計人生を振り返ってみたいと考えるようになりました。

私がなぜ時計の仕事に入ることになったのか。
なぜ自分のブランドを立ち上げたのか。
どんなふうにケンテックスモデルを作ってきたか。
その思いやモデルづくりの苦労話など。

子供のころの思い出なども含めてこのブログを借りてこの機会に自分の歴史を振り返ってみたいと思っています。

私が毎日購読している日経新聞に”私の履歴書“という欄がありますが生い立ちと人となりを記したその文章をいつも興味深く拝見しています。
ほとんどの方が名を知られた有名人ですが出生から生い立ち、出身学校の思い出、そして仕事人生の記述など読んでいてすごいなと思うところがたくさんあります。
非凡な方が多いですがみなさんそれぞれの人生を歩んでこられています。

私のような凡人には功成り名を遂げた方たちのすばらしい歴史にはとてもかなわないし自分の過去を暴露するのも少々気が引けるのですがそれでもケンテックスファンやこのブログを読んでいただける方には少しばかり関心を持っていただけるかもしれません。
プライベートな内容も含まれてくるかと思いますがそこはご容赦ください。

私はたまたま時計という時を扱うモノに人生の大半を関わってきました。

機械式から始まり、クオーツへと進化しソーラー、電波、GPS、そして今はやりのスマートウォッチへと時代は変わりました。
時代はアナログからデジタルへと進化しました。
しかしそれらとは一線を画した機械式時計はまるで生き物のようにいつまでも愛着の持てる男の道具ではないでしょうか。

人にドラマがあるように時計もまたそれを持つ人とともにストーリーを積み重ねていきます。
ケンテックスはその人の歴史とともに寄り添っていけるような、親から子へと時代を超えて引き継げる愛着の持てる時計を作り続けていきたいと考えます。

このブログでは以前のようにケンテックスや時計のテーマでまた進めて行きたいと思いますがそのメインは二代目ブログのほうに任せてはしけんブログでは次回からケンテックス版創業者の“私の履歴書”、副題“私の時計造り人生記”を語っていきたいと思います。

しばらくの間、お付き合いいただければ幸いです。

2016新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
新年にあたりまして皆様のご健康とご発展をお祈り申し上げます。

今年は60年ぶりの丙申(ひのえさる)にあたるようです。
丙申の年は形が明らかになって実が固まっていく、つまりこれまで頑張ってきた人の努力が形になっていく年です。

皆様にとりましてもこれまでの努力が結果となって出てくるよう願っております。

昨年はイスラム国のテロや中東の不和などの世界の不安が増幅した年でした。
そして中国経済の減速、年明け早々の株の暴落、欧州の低迷など世界経済は今一つ元気がありません。

日本経済は徐々に回復している様子ですが専門家によれば2015年は期待ほどではなかったという見方もあるようです。

われわれ一般の人間にはまだあまり景気回復の実感はないですが2016年も景気の緩やかな持ち直しは続く見通しなので一刻も早く実感できるようになることを願っています。

さて昨年はケンテックス内部でも大きな改革と組織の見直しを行いました。

組織の若返りと人心の一新で2016年は新たなスタートを切る年になります。

新しい体制とエネルギーでケンテックスがさらに積極的にグローバルに活動しケンテックスのファンはもちろん時計ファンの期待にもっと応えられるようブランドの強化をしたいと思います。

ケンテックスブランドの理念である“いいものをリーズナブルに”をさらに一歩進め具現化していきます。

時計を単なる時刻を見る道具としてではなく、思い出のある大切なものとして親から子につなぐような、そこにドラマが生まれる時計づくりをこれからも続けていきたいと思います。

Time Crafted to Perfection.

人に感動され、永く愛されるいい時計を作りたい、その思いを形にするのが私たちの仕事です。

ケンテックスは時計の数を売ることを至上とするのではなくケンテックスのモノづくりに共感してくれるロイヤルファンを大切にしたいと思います。


それをより具現化するためのステップとして今年こそケンテックスがずっと持ち続けてきた念願の直営ギャラリー(ショップ)を実現する年にしたいと考えています。

新製品や限定品など実物を見たいという声はこれまでにもたくさん寄せられていました。

ケンテックスのコンセプトをより皆様に伝え、すべての時計がいつでも見られるようにするのが私たちの使命です。
クラフツマンやトウールビヨンなど値段が張るものになればやはり現物を手に取って触れてみないとなかなかその質感や良さが伝わりません。

できれば時計ファンの声を聞き、ファンとの交流を深めるコミュニティーの場にもしていければ最高ですね。

これからも皆様に愛される時計づくりを続けていきます。
今後ともケンテックスのご支援をよろしくお願いします。

最後になりましたが
皆様にとって今年一年が良い年になることをお祈りいたします。

橋本憲治

機械式時計の魅力

機械式腕時計の魅力
(ETAムーブ搭載ビンテージモデルの紹介)

ケンテックスは今、機械式腕時計に力を入れているブランドですがそもそも機械式の魅力って何でしょうか?
あらためて機械式時計の魅力を探ってみたいと思います。

時を刻む小さな宇宙。

これはケンテックスのブランドコンセプトでもうたっている言葉ですが
手に入るほどの大きさにこれほどたくさんの小さな精密部品が組み込まれている工業製品は他に見当たりません。
ミクロン単位の部品の工作精度とそれを組み立てる職人の技術がこの小さな宇宙を作っています。

今、市場にある多くの時計は水晶振動子を発振源としたクオーツ時計が主流となっています。
クオーツは電池を動力としていますが機械式は電池を使わずゼンマイを動力としているので自然にやさしいクリーンエネルギーです。
クオーツは電子部品で構成され中身が見えずに勝手に動きますが機械式は自分の手で動かすことで愛着も生まれ、テンプなどの精密部品の動きが実際に目で確認できて男心の興味をそそられます。
正確で便利だけど使い捨て感覚のクオーツに比べて機械式には生き物のような温かみと長く付き合える相棒のような感覚が生まれます。

もともと男性は本質的に動くものに関心があるそうで子供のころは昆虫や乗り物が大好きで大人になるとバイクや車などに関心を持つ男性が多いようです。
その延長で精密機械の世界である機械式時計にはまる人も多いですが時計は男のステイタスでもあり本格的な高級品時計に魅力を感じる男性も少なくないです。

腕時計の歴史を振り返ると、もともと200年前のブレゲの時代から機械式が主流でした。

それが1970年代にクオーツ時計が開発され機械式の“精度を高める職人の技能”がクオーツの登場によって一気にその存在価値が失われた時代がありました。
まさに1970年代から80年代にかけてはクオーツを開発した日本の時計業界が世界を席巻した黄金時代でしたがその一方でスイスは多くの時計メーカーが減少し倒産の憂き目にあいました。
この時期日本の時計産業は世界中のクオーツ販売の勢いに乗って大増産と低価格化の時代に突入、一方でそれまで培った機械式の技術ノウハウを失ってしまった時代でもありました。

当時はスイスの時計業界の中では生き残りに向けた数々の議論とたいへんな努力があったものと思いますが80年代後半に再びスイスの機械式が見事に復活しました。

スイス勢の巧みな戦略がそこにはあったと思いますがクオーツの普及品に対し機械式の高級品という世界観が出来上がり現在は世界の有名ブランドの多くはスイスブランドの機械式腕時計が主流といってもいいぐらいです。

日本人として、また時計産業に従事してきた人間としては悔しい部分もありますが時計はスイスが一番という常識が世界に定着するようになってしまいました。

スイスの時計業界でもその中心的な存在となっているのがスウォッチグループですがなかでもETAのムーブ製造は歴史もありその品質の高さはよく知られています。

2824【三針デイト】や7750【クロノグラフ】は時計ファンの間でも人気があり傑作ムーブと言われていますが私どもの時計製造の経験上からも非常に品質が安定しており信頼性の高いムーブです。

ケンテックスは1998年よりKENTEXブランドを始めていますが当初は自動巻きモデルにはこのETAムーブを主に搭載していました。

ETA2824を搭載したモデルを2000年頃から開発販売しその後ETA7750(バルジュー)をいくつかのモデルに搭載してきました。

2824モデル;(S122M-CONFIDENCE、S294M-LANDMAN、S349-ESPYなど)
7750モデル;(S294X-LANDMAN、S349M-ESPY,S368M-SKYMANなど)

KENTEXファンの方ならご存知ですね。

特にS122Mコンフィデンスは少数限定で製作、発売開始後一か月で販売完了してしまうぐらいの人気でした。
このシリーズはその後2005年あたりまで毎年限定シリーズをごく少数製作し時計ファンに支持されました。

このモデルは36ミリ径と小ぶりで今日ではボーイサイズになるサイズですが改めてみるとベーシックで流行に左右されないクラシックデザインなのでとても品が良く今でも全く違和感のないしっとりとしたいいモデルです。
小ぶりなので腕に付けても邪魔にならずビジネスシーンにもピッタリはまる時計です。

ダイアルは毎年の限定シリーズでMOPやダイヤモンドをちらしたもの、白と黒のラップ研磨仕上げなどこだわりのある仕様になっています。

その人気のコンフィデンスですが僅かながら工場で保管していたものがあったので年末の特別企画としてこの機会にKENTEX時計ファンの方にご紹介します。


ETAムーブは時計ファンならご存じのようにすでにスイスブランド以外には放出しないようになったので現在は入手困難です。
仮に入手できたとしてもムーブ価格の上昇で新たに製作した場合の時計の価格は当時の値段をかなり上回る価格になってしまいます。
その意味でETA2824搭載モデルは希少価値があるお宝ビンテージ時計といえます。

本来時計の価値はむしろ上がっていると思いますがオークションではないのでファンの方に限りこの際当時の価格よりも下げて提供します。

2824を搭載したモデルは今後ともKENTEXでは出てくる可能性は少ないと思いますのでファンの方には希少なKENTEXビンテージモデルです。

希少なモデルですので時計好きな方、当時買いそびれた方は早めにアクションを取ってください。

商品の購入はKentex Directサイトからとなります。
http://kentex-shop.com/

数量は各モデルともほんの僅かですのでなくなり次第終了となりますのであしからずご了承ください。