私の履歴書 第八回 時計外装部で技術を研鑽

昭和45年(1970)大学を卒業した年に大阪万博が開催され大阪まで見に行った。
どちらかというと写真を撮るのが目的だった。
が、その時見たはずのパビリオンの記憶がなぜかほとんどない。
たぶん行列が長くて実際あまり見てなかったのではないかと思う。
芸術家、岡本太郎がデザインした太陽の塔だけが印象に残っている。

このころ世の中は高度成長の結果みんな豊かになりモーレツからビューティフルへ時代は移り9割以上が「自分の生活程度は中流」と答えた。
一億総中流時代と言われた。

女性の解放を求めるウーマンリブ運動も盛んになりこのころから女性の社会進出が叫ばれキャリアウーマンも増えてきた。
もともと男女の能力に差はないはずだが男子優先の封建的な日本固有の社会制度が男社会を造ってきた。
今も女性の活用、社会進出という点でこの国はまだ世界に遅れている。

この年には三島由紀夫楯の会メンバー4人と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み自衛隊員に演説後、割腹自殺を図るという衝撃的な事件があった。

当時三島は楯の会を立ち上げ週刊誌やマスコミにもよく登場し目立っていた。
作家でありながら剣道で鍛えた筋骨たくましい体だった。

11月25日午後、会社で仕事をしているときにこのニュースが飛び込んできた。
号外が出て日本中が大騒ぎになった。

三島といえば川端康成ノーベル文学賞を競い合った国際的にも知名度が高い作家である。
その知性ある人間が自衛隊基地に乗り込み当時のトップ益田総監を縛り上げバルコニーに出て大勢の自衛官を前に憲法改正の決起を促す演説をぶちあげたのち切腹するという事件を起こした。
三島の介錯をした楯の会の幹部森田(学生)もその場で他のメンバーに自分の介錯を指示し切腹した。

三島の武士道の精神、美学は私のような凡人には及ばないものがあるが明治維新もとうに過ぎ、大戦後25年がたった平和な世の中でこのような事件が起き人々は驚いた。

三島の演説は戦後の平和な中でサラリーマン化した自衛隊員には受け入れられずその場はヤジと怒号で非難されたが後になってみると三島の命を懸けた行動に徐々に傾倒するものが多くなってきたという。
いま憲法改正論議が起こっているが三島は50年近く前に体を張ってこの議論を投げかけた。
この時の衝撃は私の中に今も残っている。


話を会社に戻したい。

この年以降から香港に赴任する昭和58年(1983)までの約13年間、私は時計外装部内でケース製造金型、外装技術、外装開発そして外装設計と移動する中で周辺の技術知識を習得することができた。

ここから先はやや専門的になるが自分のキャリアとして記しておきたい。


昭和45年(23歳)から三年間は側製造課という時計ケースを製造する工場(自分がもといた職場)の管理統括部門に所属した。

製造現場はケースの金型からプレス、切削、研磨、ロー付けなどの工程があったが外装試作部門が途中で合流して総勢100名近い規模だった。

ここで18K金無垢のケース(クレドール)も作っていたので金無垢材についても詳しくなった。

金の検定マークを取るためにケースの半完成品を当時巣鴨にある大蔵省(現財務省造幣局まで持ち込む仕事もした。
造幣局ではそれを抜き取りで検査し問題なければすべての裏蓋に日本の国旗の入った検定マークが打刻される。

金無垢の加工をする場所では加工で出る切粉や研磨カスなどをすべて回収するようにしていた。

工場の管理なのでさまざまな仕事をしたがケース原型を作るプレス成形金型や工具の設計がメインの仕事だった。

同じ課にいた早稲田の理工学部出身で大野工場の型工具部門から外装部に移ってきた三田村さんに指導を受けた。
大学時代はコーラス部所属、優しく紳士的な人でいまでも時々カラオケなどお付き合いをいただいている。


ステンレスの冷間鍛造(常温での塑性加工)はケース原型を作る主流といえるが一発ではケース形状にならない。
スムースな肉(材料)の流れを考慮した段階的に形状(と寸法)を変えながら成形する金型の設計が必要となる。
工数が多ければ時間と費用がかさむがを型数を減らして無理な塑性加工をすれば型の割れや製品のクラックが発生するのでそのへんの兼ね合いが型設計のノウハウとなる。

冷間鍛造は精度と精細なカーブ曲面を出すこともできるので型製作に手間はかかるがデザインの自由度も高く高級ケースの生産に向いている。

その分高い金型技術が必要となるがそこは日本のお家芸だ。
その後香港にケース製作がシフト後もこの技術がそのまま移行することはなかった。

現在ではケース製造が香港から中国にシフトしているが日本に近い精密鍛造ブランク(香港では精杯(チェンプイ)と呼ぶ)と荒削りな祖杯(チョープイ)との中間的なブランクをプレス成形しその後二次加工して完成するのが一般的となっている。


当時大野工場内にあったプラスチック成形部門で研修する機会も得てプラスチック成形金型の設計も経験した。

当時まだ出始めのNC(数値制御)ミーリングのプログラミングを先輩に教わりながら卓上計算器で座標計算しテープ(プログラム)出しも担当した。
作業者が休みのときには自分でNCミーリングを操作したこともある。
このころはどちらかというと金型技術屋に近かった。

昭和48年(1973)に石油ショックが発生。

第四次中東戦争の影響で原油が高騰し物価が急上昇、狂乱物価となる。
スーパーではトイレットペーパーの買いだめパニックが起こり品切れが続出した。

1974年に入ると、石油危機によるモノ不足と異常なインフレが消費者を直撃した。
戦後初のマイナス成長となり日本は厳しい状況のなかで省エネ対策が急務となり合理化と技術革新を進めるようになる。

会社ではこの時期節電の通達が出され人がいないところは電気を消すようになった。
銀座のネオンも一時期消された。

この年長嶋茂雄が現役を引退し「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残した。
堀江謙一が小型ヨットで単独無寄港世界一周を達成したのもこの年だ。


このころから時計外装部内の外装技術職に移動し本来の時計外装技術の核心に携わることになる。

第二精工舎は時計製造の歴史もあり大会社なので優秀な先輩技術者がたくさんいた。

先にも述べたように外装はムーブ理論とは違い経験値から来るノウハウが貴重だがそれらをまとめた各種の技術標準書が整備されており後輩がそれを現状のレベルに合わせて逐次改訂していく。

技術標準というのはメーカー(人)によって違ったやり方、結果にならないように過去の蓄積された正しい知識、ノウハウを統一化し標準化したものである。

初心者であっても分からない時にはこれを調べることで手短に知識を得ることが出来た。
会社にとっての技術的財産である。

一例をあげれば時計用ステンレス材料の種類と使用規則、ガラスの種類別特質と硬化処理、メッキ(表面処理)の種類と規則など技術要素別に技術解説と使用範囲などを細かく網羅規定していた。

時計ケースほか外装部品は外注なので実際の製造は外部のメーカー(国内)になるが第二精工舎(購入者側)としてこれらの技術標準や品質基準を規定しておくことでバラツキを抑えた安定した品質のケース、外装部品を生産することが出来る。

製造ノウハウはメーカーが持っていても製品の体系的品質基準は第二精工舎が持つ。
外装の技術者としては当然これらの知識を持たなければならない。

外装部品検査工場という部門がありすべての受け入れ部品を検査していたがここでは各部品の検査基準と検査規格に則って検査員が抜き取り検査を実施する。

その検査にも検査作業標準というのが決められていて検査環境、器具、検査のステップ等が具体的に細かく規定されている。


同じく外装設計課には種類別の外装構造基準や各部品の設計標準があり強度を確保するための材質別最低肉厚、裏蓋防水性確保の設計、ガラス固定の設計基準など、
さらには時計の針の一時モーメント、二次モーメントの計算法など各種の外装部品設計のための基準が設定されていた。

これらは長く時計を作ってきて来た会社のノウハウで先輩から受け継がれてきた。

昭和50年(1975)、ベトナム戦争終結エリザベス女王夫妻が来日、昭和天皇が戦後初めてアメリカ訪問で話題になった。
翌年はロッキード事件に日本が揺れた。
ロッキード社の航空機売り込み事件に絡む戦後最大の疑獄事件で元首相の田中角栄が逮捕された。


このころ業務二課という新部門が出来そこに配属された。

それまで第二精工舎はSEIKOブランドの生産が主体だったが下位価格帯の新ブランドの立ち上げでアメリカや国内での二次マーケットを開拓するのが目的だった。

商品企画、デザイン、技術、設計部門から選ばれたスタッフが集まった寄り合い所帯で当初は総勢20名ほどの課だったが一つの独立した小さな会社のような存在だった。

ここでアメリカとイギリス市場を狙ったPULSAR、LORUS、国内の二次市場を狙ったALBAが新ブランドとしてスタートした。

売り上げが大いに伸びのちに課が部に昇格した。

この当時設計業務が集中し夜遅くまで残業を続けることが増え終電で帰ることも度々あった。
50時間以上の残業をすると組合の方から注意勧告の名簿が出されたが多い時で70時間ぐらいだったか、中には100時間を超えるものもいた。

ここで私はSEIKOとの品質基準の違いを明確にするために第二ブランドの外装品質基準を立案作成した。
SEIKOとの差別化をするための第二ブランドだったが時計ショップではSEIKO ALBAと書かれて売られた。
セイコーにとっては計算外だったがALBAの売り上げは成功した。

その後外装開発課という部門が新設されそこに配属される。

ここでは外装の新要素(新技術)を開発することが課題で総勢20名ほどの技術屋集団だった。

新しいデザインを起こすには新しい技術要素が必要になることが多い。
逆に新技術要素が開発されればそれまでにない斬新な顔を持つデザインを市場に出すことができる。

イデアを出すために本社から離れた保養所に一日こもり電話のないところで缶詰めになりブレインストーミングでアイデア会議をやった。
会議と言っても自由にアイデアを出し合うのだがルールにのっとり「そんなのできないよ」という否定はご法度。
自由な発想で誰かがヒントを出すとそれに乗っかり次々とアイデアが出てくる。

思いつきやひらめきが大事で「こんなのあったらいいな」から始まるとよい。

イデアが出てきたら次はそれを文章化して(こじつけを加えながら)実用新案(構造、デザイン)や特許(製法含む)の申請書に自分で記入していく。
初めは簡単には書けなかったがパターンがあり要領を覚えると書けるようになった。

その時の私のアイデアがいくつか会社の実用新案や特許となっている。

頭を柔らくしないといいアイデアは生まれないと(上司の了解のもとに)アルコールを入れてやったこともある。
実際、少し酒が入ると発想が自由になり頭の奥の潜在脳(右脳?)が活発になる。


私はコンピューターに強い担当者と組んでケース設計からケース製造までをつなげる自動化のテーマに取り組んだ。
CAD/CAM(Computer Aided Design and Manufacturing)の走りだ。

これを社内外装部の技術発表会で服部一郎社長(故人)の目の前で発表したことがあった。

この時期は生産に関わる納期や品質問題とは無縁だったので時間に余裕があり研究開発者のような境遇で関連技術知識を学ぶ機会に恵まれた。

当時は会社の業績も良かったので今考えれば恵まれた環境だった。
会社にとって開発投資は常に重要で必要だが今の厳しい時計ビジネス環境の中ではなかなかそこまでの余裕がない。

当時同じ課に第二精工舎独自の新型バンド開発を担当した鎌田さんがいた。
鎌田さんは東北生まれ東北大出身の温厚な人で後にセイコーインスツルの社長となった。
私が香港で独立した後もたびたびバーゼルフェアのブースに立ち寄ってくれた。

昭和55年(33歳)だったか外装設計課に移ったころ世界一薄いデジタル(クオーツ)時計を造るプロジェクトが上がりこの外装設計を担当した。

総厚2ミリを切るデジタル時計が至上命令で外装構造はいたってシンプルだが各部品の厚みを極限まで薄くしなければならない。

構想設計をするとガラス部分の厚みは0.3ミリしか取れない。
そこで当時サファイアを製造していた関連工場の栃木硬石に0.25ミリ厚から試作品を作り強度を調べたところ想像以上に強く0.3ミリ厚サンプルの1m落下テストで問題なく、手でも簡単に折れない強さがあることが分かった。
結果1.98ミリという厚さの時計が完成したがもともと世界一が目的で数量も少なく市場でのクレームはなかった。

その後香港赴任するまでの3年間は外装設計に籍を置いた。

外装設計の仕事は決定したモデルのスケッチを裏づけのある構造設計とする作業になる。

搭載キャリバー(ムーブメント)を想定した外装組立図を作成し、それを展開した各部品図を作り部品仕様一覧表をつけてモデルごとの一式外装図面とする。
部品メーカーはこれをもとに製造する。
私の時代はドラフターでの手書き図面だったが次第にAuto Cad(コンピューター)で描くようになった。

また新キャリバー(ムーブメント)を立ち上げる時には外装部がそのプロジェクトに参加し外装の構造設計をしてそのキャリバーの構想図(標準寸法図)を作成する。
この構想図を基にデザインすれば寸度的に裏付けのあるスケッチとなる。

新キャリバー立ち上げは何年かに一回の大きなプロジェクトだが全社総力を挙げてこれを推進した。

外装設計という仕事は企画デザインとケース製造の橋渡しだがここでミスすると製造段階でとんでもないことになりかねない重要な仕事である。

品質は設計で決まるとよく言われるが高いレベルのノウハウを設計に落とし込むことでよりいいものができるがここでのミスは致命的になる。

設計課には検図というルールがあった。

設計者本人が事前に自己検図するのはもちろんだが作成した本人では実際ミスに気がつかないことが多い。第三者がチェックすることでミスは見つかりやすい。
そこで同僚どうしで検図をすることが義務付けられていた。

検図は集中して一点一点間違いがないかすべて丁寧にマークチェックし間違いは赤字で指摘して設計者に戻す。

人間がやることなのでほとんどといっていいくらいミスは見つかる。
訂正後に再度チェックしたうえで検図者のハンコを押してから上長に提出する。
新たなミスが見つかればまた差し戻す。

いったんハンコを押したらその責任は検図者になると言われていた。
だから検図者も真剣になる。

そのくらいしてやっとミスは最小限にできるがそれでもたくさんのモデルを作っていたころは製造現場でやばいことになった例は少なからずある。
設計者にとっては「あーやってしまった!」となる。
責任は重い。

だから検図で間違いを指摘してくれると「見つけてくれてありがとう」だ。
検図という行為は極めて重要だということを知った。

ものを造るということはなかなか大変で簡単ではない。

いいものをきちんと作るには一つ一つ丁寧に確認しながら進めていくことが大事だという日本的QC(品質管理)の考え方を叩き込んだ。


側製造課時代 昭和46年(1971)ごろ
右から二番目の三田村さんに型技術を教えていただいた。


業務二課時代 昭和50年(1975)ごろ
企画、デザイン、技術、設計の寄り合い所帯だったが自由な雰囲気で仕事ができた。
愉しい宴会のあと。



外装開発課時代 昭和52年(1977)ごろ
左端が課長、私(後列右から4番目)の左が鎌田さん
みんな自分の得意分野を持った技術者だった。


外装設計二課時代 昭和昭和56年(1981)ごろ
設計品質について外注協力メーカーとのパネル討論会
右から二番目の上司野沢課長にはいろいろ指導いただいた。